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2018.11.17 Saturday

プロセスとしての信仰、決断としての信仰(2)

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    このシリーズの最初の記事では、キリストを信じた、といわせれば、あたかも一人前の完璧なキリスト者ができるのかどうなのか問題(個人的には、できない説。個人的にはプロセス志向型の信仰も大事だ、と思っているため、仮に完璧なキリスト者でなくても、キリスト者だと思っているという理解に立っていること、また、キリスト者の姿が多様であることを考えると、必ずしも完璧ではない状態であっていいと思っていること)について、また、元々はキリストを信じた、と言えばその瞬間から、完全なキリスト者がになるというような理解が多くの人々に共有されている状態に近い教派から、伝統教派に移り、プロセスを経て信仰を成熟させていくことを味わう経験をしていくなかで、日々感じていることについて、少し書いてみました。

     

    本日は、このある種の決断主義的なキリスト教が持ちやすいある種の問題について、少し触れてみたい、と思います。

     

    「生きている最後の瞬間に言えばよくね?」という素朴な疑問

    この決断主義的な信仰を強く言う場合、人生の大半はそれぞれの生き方をしていて、人生の終わりが近づいたときに、「私はイエス・キリストを信じます」といえばいいではないか、という素朴な疑問を持つ人々が出てくることも確かです。決断主義的な側面に重きを置くキリスト教の場合、荒っぽい議論をすれば、口で「イエスを信じます」といった瞬間に(ムスリムみたいに複数人の前での告白を必要としない、とする場合もありますので)罪が完全に帳消しになって、その瞬間に完全に罪が全部なくなり、神の子ができあがるタイプの救いとなりかねないわけです。もし、このようなものが罪からの解決をつけるための方策であるのなら、死ぬ前に一回誰知るともなく発言して、過去を帳消しにしまって終わりにすれば、良いことになりかねません。そうできるのだとすれば、キリストを信じた、と告白する前に、人生の大半を何に制約されることなく、好き勝手に生きて過ごし、人生をわが世の春と謳歌できることになります。その上で、死ぬ前に一言「信じます」といいさえすれば、キリスト教のあるグループの言う救いまで、挙句の果てに手に入るのですから、これほど、ありがたいことはないことになります。

     

    まさに、死ぬ直前に信仰告白すれば、No Problemoになりますね。w

     

     

    このような死ぬ前の告白の可能性というワンチャンスにかける生き方、あるいは考え方については、ある意味機会主義的な生き方、機会主義的な人生観ということができるように思うのですが、決断主義を究極まで極めていくと、実際にこうなりかねない危うさがあるように思います。つまり、決断主義的なキリスト教の論理構造の内部には、このような危うさが多少なりとも含まれているように思います。

     

    機会主義者に対する抵抗のために弄した詭弁

    そして、ある意味、現代の機会主義的な生き方をする人々は、自己の短期的利益の最大化がすなわち人生の利益の最大化につながると考えやすい傾向があるのではないでしょうか。自己の人生を、瞬間的な幸福についての時間的な総計で測ろうとするような人々の場合、瞬間瞬間、自己にとって都合のよいことを求めることで、自己の人生にわたる幸福の最大化を図ろうとする人々に対して、決断主義的信仰を持つ人々の聖書理解は、まさに、人生の最後に「イエスを受け入れた、イエスを信じた」といえば、それで問題がない、というようなものになりかねない側面をもっているように思います。このような機会主義的な立場に立つ人々に、早い段階でイエスを信じていきる意味を、決断主義的なキリスト教からは、ほとんど提示できないのではないか、と思うわけです。

     

    まぁ、色々、信仰者との交わりがあるとか、神からのこの地上での、金銭的な豊かさや、精神的な安定といった形での祝福が来るから、早い段階で信仰告白をした方がよろしいとか、おっしゃる方がおられますが、「いや、それ。言って、キリスト教的に大丈夫ですか」といいたくなるほどのかなり大胆な論理が展開される場合が多いように思います。

     

    まぁ、以前は、ミーちゃんはーちゃんも上で述べたような決断主義的な聖書理解に立つ教会に居りましたもので、この種の論理については、「うーん、このような論理構成はキリスト教としてはいかがなものか。かなりNGに近いのではないか」とは思いつつも、そのグループの中にいたという立場もあり、ある種の詭弁を弄しておりましたことは、この際、正直にお認めしたいと思います。まぁ、それでも、キリスト教の基本概念から、相当ずれた部分を持っているというものの、キリストを指し示そうとしている意味において、キリスト教だったとは思っていますし、現在そのようなお取り組みをしておられる方々も、キリスト者だとは、今なお、おもっておりますが。

     

    死亡宣告が出る前に「信じた」と言わせたいご家族

    このような、告白主義に偏って立つ場合、何が問題になるかというと、病床にいる病人に向かって、お見舞いのたびに、善意からとはいえ、「もう信じたか」「早く信じないだめだ」とかいう人々や、「今信じないとと地獄が待っている」といったような、半ば脅し交じりの文言をいう人々が出てきてしまう可能性が無きにしも非ず、という部分があるようにも思います。

     

    素朴な信仰を持っていた家人は、小学生だったころ、まだ、信仰を持っていない家人のある程度高齢に達しておられた祖母に「おばあちゃんがイエスさまを信じないので、じごくにいってしまうので、かなしいです」と年賀状に書いて、家族内での一騒動を起したことがあるほど、素朴な信仰の持ち主(昔から、すねて、ひねくれているミーちゃんはーちゃんとは訳が違う家人ですが)であったようです。告白主義に立つ場合、素朴な人がこういう悲喜劇を、おこしかねない危うさをはらみかねないと思うのです。

     

    特に、重篤なご病気になられた人に対して、お見舞いと称して折伏活動なのか、釈福活動なのか、伝道活動なのか、宣教活動なのかは、見方や立場によって印象や呼び方は異なるでしょうが、「やれ信じろ」「それ信じろ」「さぁ信じろ」「はよ信じろ」とかやられたのでは、病人としてはたまったものではないのでは、と思うのは、私が告白主義による魂の救いとその実現にあまりにも熱心でないからなのかもしれません。

     

    病者への訪問

    個人的に病気の人に対するお見舞いを否定するわけではありません。確かに、病者へのお見舞いは、聖書の中にもイエスに出会うことであるとイエスの言葉として明記されています。

     

    【口語訳聖書】マタイによる福音書 25章
     31 人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。
     32 そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、
     33 羊を右に、やぎを左におくであろう。
     34 そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。
     35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
     36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
     37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
     38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
     39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
     40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。 

     

     

    病人によっていくイエス https://bloggerpriest.com/2011/02/23/anointing-of-the-sick/ より

     

    しかし、もし、そのお見舞いが、信仰者にさせるためのお見舞い、信仰告白を無理やりさせるためのお見舞いとか、何でもいいから、信仰告白させるためのお見舞いとか、そういうのはどうなんでしょう。病人を見舞うのは、信じた、と言わせるためって、おかしくないですかねぇ。痛む人とともに痛み、泣く人共に泣くために行くんじゃないですかねぇ。

     

    個人的に、以前いた決断主義的な教会にいた時分は、お見舞いに行くと、お見舞いの相手が、ノンクリスチャンの場合、決断を入院患者相手に迫らねばならない感じがどうもして、とても嫌な気持ちになっていました。

     

    判断力の鈍った人に「イエスを信じた」といわせる意味って?

    実際、ある高齢のやや痴呆になりかけ気味の80歳越えのかなりご高齢のご両親と同居しておられた方から、10年以上前、「我が家の両親のところに行って、伝道してもらえませんか?何でもいいから、イエス様信じたといってもらいたいんです」とお願いされたことがありました。こうお願いされた方は、どうも、ご自分がキリスト教徒なので、キリスト教式で葬儀をしてもらいたいという背景含みでのご依頼だったように記憶しています。

     

    「うーん、それは・・・」どうなんでしょう。まぁ、判断力が鈍った方に、うまく話を持っていって、確かに、「私はイエスを信じた」といわせることはできるかもと、一瞬、チラッと思いましたが、それって、弱り目につけ込むような機会主義的なやり口なので、個人的にはあまり気乗りせず、そのままにしているうちに、ご依頼された方が、割とお若く(60才前)して急病になられ、そのままご入院、そして、お亡くなりになられたので、沙汰やみになってしまいました。

     

    歴史家に「もし」は禁句だとは言いますが、伝道なのか、宣教なのかは知りませんが、語り手が、相手の方にうまくお話できたことで、判断力の鈍った方が、もし、「イエスを信じた」といわせることができたとすれば、どうなるのでしょう。説得のための、ありとあらゆる方法を駆使してまでも、半ば強制的に「わたしはイエスを信じる」と言わせてしまった、ということをどう考えるのか、ということをこのちょっと変わったご依頼は、私に突きつけました。そして、こういう判断力の鈍った方に半ば無理やり言わせた「イエスを信じた」というような告白、それは、信仰告白に値するのか、という問題です。

     

    この問題は、先の死ぬ直前に『とにかく「私はイエスを信じた」といえばいいんでしょ』的な機会主義的な行動パターンとよく似た問題でもあるように思います。要するに、残された遺族が安心するために無理やり言わせている、という側面はないでしょうか。あるいは、葬儀といういざという場合にキリスト教式で葬儀ができるように、その場面に間に合うように、という意味で、ある意味機会主義的な匂いがあるような雰囲気を、ちょっと感じてしまいます。

     

    めんどくさいことを回避するために「イエスを信じた」と言った人はどうなるのか?

    『福音の再発見』という本の冒頭に、著者のスコット・マクナイトが若いときに爆発伝道という伝道方法のプログラムに関与している人の一人として、夕食の時間帯に他所のお家に訪問して、食事をしている人に「イエスを信じますか」としつこく聞き、食事をしている人があまりに面倒なので、早くマクナイトたちを帰らせるために「はいはい、信じました」と言ったので、一旦そのおうちを退去したことが書かれていました。そして、この本の著者のマクナイトさんのグループが教会に帰って訪問先のご家庭で信じたという人がおられたことを他のチームの人々に報告したら、教会の人々が大変喜んだ、というエピソードが記載されていますが、とにかく、めんどくさいことに巻き込まれることを回避し、食事に戻るために、他の人の前で「イエスを信じた」と言うという、また別の種類の機会主義的な人々の場合の信仰告白は、どうなるんでしょう。確かに、イエスを信じた、と告白はしているわけです。とにかく。動機はどうであれ。

     

    こんな感じで熱心に喋ったんでしょうかねぇ。夕ご飯時に他人の家で…

    http://www.skywriting.net/inspirational/humor/the_perfect_pastor.html から

     

    形式論理から言えば、間違いはありません。他人の前で、口で信じたと告白しているわけですから、このタイプの人は、信仰者である、ともいえるわけです。前回ご紹介したような、ミッションスクールに行くというメリットを目指して、信仰告白した人と、おいしい食事をフットボールの試合を見ながら、早く続けたいというメリットを取り戻すために、信仰告白した人は、そのメリットはだいぶん違いますが、結論だけ言えば、両者とも何らかのメリットを目指して、いわゆる『信仰告白』をしているわけですが、外形基準からは、信仰告白した人になるように思います。

     

    そういう意味で、ワンショットの時間断面、ある時間断面の状況のみで考える、ということはおかしいように思いますし、また、とりあえず、「私はイエスを『信じた』と言わせたら勝ち」というタイプの理解には、ちょっとおかしさが無いわけではないように思うのです。

     

    決断主義の問題『早く天国に行きた〜い』・『早く天国に行けるのだから、いいじゃない』

    決断主義信仰の一番の問題は、信じたあと、どう生きればいいのか、何を考えて生きればいいのか、キリスト者のこの地上での人生の目的が出てこない、という事ではないか、と思うのです。決心をして、「信じた」といえば、もう天国に行けるという最大のメリットが得られることが確定し、決断主義の信仰での最大目的の達成が約束されるわけで、この世で生きていく意味がかなり薄くなり、一日も早く天国と呼ばれる世界に行くこと、死ぬ日を迎えることが何よりの希望、期待になってしまいかねない危うさがあるわけです。生きていても、『早く天国に行きたい』と思い続けながらこの地上で生き続けなければならない、ということになるわけです。イエスが、『神の国があなた方のただ中にある』と言われているにしても。

     

    【口語訳聖書】ルカによる福音書
     17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
     17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

     

    前にもこのブログで書いたことがあると思うのですが、長らく独身で過ごされたある女性の信者さんががんで入院されたとき、その女性信徒さんが長らく過ごされた教会の方がそのがんで入院された方に向かって、「あなた、私より早く天国に行けるのだから、いいじゃない。私、あなたが羨ましいわ」と言い放ったということを、涙ながらに訴えられたことがあります。「私は生きたいだけなのに・・・」と。これも、決断主義的な信仰の問題かもしれません。

     

    プロセス志向の信仰の場合、この地上の生活、人生を神とともに生きることが重要になるので、多分、「天国に早く行けるからいいじゃない」というような発言は出てこないかもしれないように思うのです。その意味で、決断志向の信仰は、この地上の生活、この地上で生きる意味、ということの説明が難しくなるように思うのですが、どうなんでしょう。

     

    決断主義的な信仰と別離主義

    先ほど、極端な決断主義的な理解の場合、世間のことがどうでもよくなるとか、この世で生きる意味を見出しにくくなる、ということをお話ししましたが、この背景に、極端な決断主義の場合、ある面それまでの生き方と決別する、この地での普通の生き方との決別し、別の世界に移るというようなニュアンスで語られる傾向が多少なりとも現れる場合があるように思います。例えば、次の讃美歌の可視には、そのニュアンスがかなり感じられるように思います。

     

     

     

     

    極端な決別主義の場合、この地から離れることを、これまでの生き方から離れることに強調がありすぎ、その結果として、世間のことを一段劣ったものとして軽く見るような場面が出てきたり、その結果として、上から目線でものを言ったり、世間のことを極端に無視したり、極端に軽視したりすることも起きかねないようです。

     

    次回、このシリーズの最終回は、プロセス思考の信仰で人生をキリスト者として生きる意味について、ちょっこし考えてみたいと思います。次回へと続く。

     

     

     

     

     

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