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2018.11.14 Wednesday

プロセスとしての信仰、決断としての信仰(1)

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    先日公開した

     

     

    では、結婚を起点として配偶者が結婚に当たって信者であることが問われることについて、思うところをたらたらと述べてきましたが、Facebook上のミーちゃんはーちゃんのコメント欄では、さまざまな事例が報告されました。

     

    Facebook上のコメントから

    その中で、ミッション系の小学校に入学するために洗礼を受けて、その後、一切教会に顔を見せない事例とか、まぁ、さまざまな事例が紹介されました。こういうのは、キリスト教徒あるいはクリスチャンといえるのだろうかどうか、ということを問うものでした。

     

    まぁ、にわかで始まって、にわかで終わる人(種まきのたとえで言うと、道路の道端にまかれるタイプ?とか)、キャンプに行って信じた気になるものの、キャンプが終わった瞬間に元通り(ミーちゃんはーちゃんのかつての姿w)に戻るタイプ(茨の中にまかれたタイプとか)、本人の努力や意思とは全く関係なく、よき地にまかれてぐんぐん育つタイプとか、まぁ、一口にキリスト者もどき、クリスチャンもどきにも、色々あるわけでございます。さすが、イエスさまだけあってたとえが面白いなぁ、と思いました。

     

     

     

    まぁ、結婚するために信仰者になりたいといって、信仰を全うするタイプの方も見てきましたし、まじめな信仰者だと思っていたら、とんでもないDV夫とかもおられたりしますし、まぁ、世の中、色々なわけで、一般化する危険性も前回の一連の記事の中で触れました。

     

    今回は、ある時間断面できって、観測し、その時点の標準でのみ判断することの危険性を考えて見たいと思います。

     

    プロセスとして生きる中で日々告白する信仰者からの素朴な疑念

    個人的には、信仰というのはプロセスだと最近は思っています。一瞬のある時間軸で切断して、その時点でのみ観測される事実に基づき議論したら、まずい部分があるのではないか、と思うのです。

     

    特に、結婚相手の配偶者を選ぶときにある一時点で、信仰告白(その内実がどうであれ)「イエスを信じた」「イエスを救い主として信じた」と公に表明しているかどうかだけが問題になり、その内実を問わないような側面が決断主義にはあるように思います。実際に、ミーちゃんはーちゃんも永らくそのような決断主義的キリスト教を信徒説教者としての生き方を続けてきました。今となっては、ほとんど黒歴史みないな過去で思い出したくもないですが。

     

    この決断型の信仰告白は、アメリカ系のキリスト教によくみられるタイプのものです。このタイプのキリスト教(これもキリスト教だと思っています)の場合、イエスを信じたということを人前でいうことが何より重要視されている側面があります。このようなスタイルが生まれてきたのは、アメリカでの伝道、宣教と呼ばれる方法が、前回もご紹介したようなウェスレーブラザーズあたりからジョージ・ホィットフィールドを経て、そして、2世の砲のウィリアム・フランクリン・グラハム先輩にいたるまで連綿と続く、野外伝道集会と呼ばれるヨーロッパから新大陸に渡ってきた移民を中心とする非自覚的なキリスト教徒が再び奮起する(リバイバル)するような形で、キリストへの再回帰というか、大人としての明確な回心を表明させるという文化の中ではぐくまれてきたものだと思うのです。

     

    『イエスを信じたといわせたら、一丁上がり』というキリスト教

    KDK神学会という大阪の枚方(『まいかた』ではなく、『ひらかた』、と読みます)市で開かれている牧師信徒の研修会や工藤信夫さんの牧会事例研究会でお世話になっている牧師先生が、その研究会であるとき、こんな話をしてくださったこと(大意)があります。「私たちがやってきた伝道活動、あるいは宣教活動は、何がなんでも『イエスを信じた』と言わせるようなもので、『イエスを信じた』と言わせれば信仰者、クリスチャン一丁上りみたいなものであった」と。それこそ、ラーメン屋さんのラーメンや、あるいは豆腐屋さんの木綿豆腐なのか絹ごし豆腐でもあるかのように信仰者をとらえている側面が、示されるような表現であるようにも思います。

     

    この牧師先生は非常にまじめな方で、非常に良い方なのですが、ご自身の過去の伝道というよりは宣教の在り方を反省して、悩み、迷っておられるお姿を時々垣間見させてもらっています。その方が別の時におっしゃたことで印象的であったことがあるのですが、信徒の方から、「クリスチャンは神様がそばにおられるので、迷ってはいけない、悩む必要のない存在なのだから、先生がそんなに迷ったり悩んだりしないでください」と言われることがある、ともおっしゃっておられました。そんな一度「わたしはイエスを信じる」といったことぐらいで人間は変わったりはしないはずなのですが、どうも、アメリカ型のキリスト教の影響の強い信仰者の方々だと、イエスを信じるといった瞬間に一気に、不動心を持ち、何事にも動じない完璧なクリスチャンの出来上がり、あるいは、牧師は、そのようなキリスト者の範たるべし、というイメージをお持ちの方も少なくないようです。確かに、そういうことを思わせぶりな聖書箇所はあります。例えば以下のローマ人への手紙は、そういうニュアンスを感じさせるかもしれません。

     

    【口語訳聖書】ローマ人への手紙
    12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

     

    神には不可能はない、と書いてあるけれど…

    これって、本当に一瞬にして作り変えられるんでしょうか。確かに、聖書には、「神には不可能なことは何もない」と書いてはありますが、一瞬にして、人を変えてしまうことは本当に、神の方法なんでしょうか。そして、信仰告白した瞬間に、完璧な存在に作り替えられ、その造りかえられた完璧な人間が出来上がるのでしょうか。そして、悩むこともなく、迷うこともなく神の特攻隊のような感じで、様々な困難を強行突破できるタイプの人に代わるといえるのでしょうか。本当に?

     

    でも、福音派界隈を徘徊しておりますと、そのような言説を時々お聞きすることがあります。そして、信仰さえあれば、不可能はない、というナポレオンの発言まがいのようなことをお聞きしたりします。確かに神には不可能はないと書いてありますが、人間に不可能はないのでしょうか。信仰告白したくらいで神と等しいものになるのでしょうか。むしろ、我らは、神の養子に過ぎない、神に受け入れていただいたものに過ぎない、という現実があるのではないでしょうか。

     

    個人的には、上にも書きましたように、キャンプの度に何度も信仰告白しなければならず、キャンプから帰ればすぐ元の木阿弥七日、元の姿に実に簡単に戻るふがいない信仰者だったこともあり、本当にそのような厳しい仮説というか、前提は成立するのかなぁ、と思います。

     

    決断主義の教会からプロセス志向の教会へ移って気が付いたこと

    元々いた決断主義的な教会の中で長らく過ごしてきたのですが、まぁ、その決断主義的な、あるいは断定的な聖書解釈のアプローチを持つ教会の中で、プロセス志向の信仰形態の話をし、さらに、あまり断定的な聖書解釈のアプローチをとらなかったことなどから、かなり、指導方針の対立に巻き込まれ、結局、陪餐停止を総会でご決議いただく、というありがたい目に合わせていただいて、アザゼルのヤギのように、荒野に放っていただき、流れ着くように、かなりプロセス志向の強い現在のアングリカンの教会にたどり着きました。

     

    【口語訳聖書】 レビ記
     16:7 アロンはまた二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、
     16:8 その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。
     16:9 そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。
     16:10 しかし、アザゼルのためのくじに当ったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがないをなし、これをアザゼルのために、荒野に送らなければならない。

     

    アザゼルのヤギのように荒野なのか、豊かな乳と蜜の流れる地であったのかは、わかりかねますが、教会を放浪するなかで、様々な伝統的教会の中に同一の信条を持ちながらも、様々な信条の告白スタイルを見ることになりました。

     

    その様々な教派的伝統の中で生きてみる中で、特に、アングリカンの教会で覚えたのは、様々な信仰告白を毎週、声に出していってみることで、自分自身の信仰をもう一度見直してみる機会を定期的持ち、自分自身の信仰のプロセスを見直してみる、何のために、自分が生きるように招かれているのか、ということです。


     

    正教会の信仰告白(ニカイア信仰告白)

     

    ラテン語による使徒信条

     

    アングリカンのチャントによる使徒信条

     

    アフリカ風の使徒信条(ナイジェリアのカトリック教会の放送局製作

     

    現代アメリカ風の使徒信条の内容を讃美歌にしたもの

     

    信条を言う中で、自分の信仰が何なのかを毎週問うというプロセスの経験

    ニケイア(ニケア)信仰告白や、使徒信条、バプテスマの際の告白、などなど、様々な告白を繰り返し繰り返し、季節の巡りに合わせて、教会暦に合わせて、同じ式文を繰り返し読むというプロセスの中に自ら身を置いてみて気が付いた、というよりは、わかったことは、この信仰告白、使徒信条等、毎週自分たちが何を信じているのか、ということを繰り返し、繰り返し言うことで、自分たちが何を信じているのか、ということを確認していく中で、同じ言葉を繰り返す中で、自分たちが何を信じているのかを思いめぐらすというプロセスを経る中で、信仰あるいは神との親交を深めている、ということを経験したのでした。

     

    とはいえ、クリスチャン、イッチョ上り型の信仰の場合でも、確かに受洗教室でキリスト教徒が信じていることを習いますし、また、ウェストミンスター小教理問答集、大教理問答集 アウグスブルグ信仰告白など、それぞれの教派が大事にしている伝統を学ぶが存在しますし、また、日々の説教の中で、キリスト者として信じていることを再確認するわけですが、しかし、「イエスを信じたといえば、イッチョ上り」型の場合、一度、『イエスを信じた』といわせてしまえば、問答無用に一瞬にして、その瞬間に、聖く正しく、完璧な存在になるというような発言をする方々も時にお見掛けしますので、本当にそうなのか、と思ってしまいます。

     

    もう一度、種まきのたとえをよく思い出してみると、植物の成長をメタファーにしているわけですから、そもそも、あのたとえ話自体、信仰そのものがプロセス志向であることを示しているように思います。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

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