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2018.11.12 Monday

『暴力と人間』の出版記念 対談会の模様がMinistryに掲載されます

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    先月、このブログでご案内いたしました工藤信夫さんの『暴力と人間』の出版記念 対談会が、宗教と暴力を扱った、次の11月20日発売(たぶん、首都圏では、連休中、地方部では、11月の最終週発売になりそう)のMinistyの記事(番外編)になります。

     

    どんな記事になっているか

    ご参加いただき、ご発言いただいた皆様、ありがとうございました。個人情報や個人が特定されかねない部分を除いた形で、お話し合いの概要が掲載されることになります。あの記念対談会のかなり突っ込んだ議論が、見事にエッセンスだけ抜き出された記事になっていました。本当に、ここまでしていただくのは大変だったと思いますが、ただ、ちょっと当日も強調し忘れたことがあったので、ここで、もう少し触れておこうか、と。

     

    というのは、オウム事件というのが、キリスト教と必ずしも無縁でない、ということでございます。いや、むしろ、オウムが抱えた特殊な終末観とオウム自身の組織的な構造が実は、キリスト教会でも見られうる、ということについてです。

     

    オウムの終末思想

    オウム真理教はある時点から、非常にキリスト教の影響をその教義の中に取り込んでいきます。そもそもは、インド風のヨガグループとして始まった「オウム神仙の会」がオウム真理教になり、真理党という政党まで結成し、国政選挙に打って出てたものの、全員泡まつ候補扱いを受け、惨敗し、その挙句の果てに、ポアと呼ばれる転生を善行とみなし、さらに、武装革命・暴力革命まで夢見るようになり、サリン事件やVX事件まで、引き起こしていったわけです。

     

    日本の新興宗教、新新宗教によくみられるように、これまでの既存宗教の教義を自分たちに都合よく取り込みつつ、その教義を形成しており、末期オウムの時期には、「キリストのイニシエーション」という表現や、「キリスト宣言」という本を出したり、武装革命を正当化するために、メギドの丘、というヘブライ語由来の黙示録中の表現「ハルマゲドン」まで言及するようになりました。

     

     

    オウム真理教が出したキリスト宣言

     

     

    オウム真理教の関係者が出したハルマゲドン

     

    1990年代という時代

    ちょうど、ミーちゃんはーちゃんは、大学生時代に世田谷道場がテレビで報道されていましたし、大学院にいたころには、ちょうどオウム真理教が真理党を結成したような時期がございました。その後、関西の学校に奉職して、しばらくしているうちに長野サリン事件、VX事件、そして、警視庁長官狙撃事件、上九一色村のサティアン一斉捜査がおき、なんだかきな臭い時代になったと思っていたら、みなと銀行の前身の金融機関や、木津信用金庫の経営破綻問題に端を発した、金融危機が起きたので、のんびりとこの問題を考えている暇がなくなり、都市銀行が、あれよあれよというまに、4行にまで減ってしまいました。

     

    まさに、2000年前後というのは、日本の金融機関にとって、ハルマゲドンか、終末キタ〜〜〜〜という感じであったわけです。その傷は、いまだに完全に癒えておらず、現在でも日本の商業銀行、間接金融機関の融資姿勢は、非常に(より正確に言うと、異様に)慎重な雰囲気があって、いくら日銀が空前絶後の金融政策で、実質上のマイナス金利で日銀券を市中銀行にばらまいても、一向に融資に回らずに、せっせと国債買いまくるという実に不健全な金融ビジネスが、都銀は、最近収まりつつあるものの、第2地方銀行協会加盟行ではいまだ有力な投資先になったまま、という状態になっているようです。詳しくは、こちら。

     

    オウム真理教とキリスト教会の構造の類似性

    オウム真理教とキリスト教会とは、似ても似つかぬ存在のように思えますが、教会内部を見ていると全く類似性がないか、というとそうでもないところがないわけでもないように思います。もちろん、カルト化したキリスト教会では類似しているのはある面当然なのですが、必ずしもカルト化しているとまで言えなくても、似ている部分があるように思うのです。

     

    それは、承認を人間である身近に存在する人間に過ぎない宗教指導者に求め、そして人間を神格化してしまう、という部分です。オウムの場合は、先にも紹介した画像で紹介いたしましたように、麻原彰晃を尊敬するあまりなのかどうなのかはわかりませんが、キリスト、救世主、メシア扱いしてしまっています。

     

    オウム真理教の場合、高弟たちの間で、麻原彰晃の寵愛というよりは麻原彰晃からの評価を求め、より過激な行動やプランを目指すことで、教団全体の行動が過激化した部分があったと思います。一種の集団ヒステリーと言いますか。より過激なアイディアや行動をすることで、指導者からの評価を受けるために目立とうとするという。

     

    これは、キリスト教会でも起きかねないことではないか、と思うのです。例えば、信徒が競い合うように奉仕し、その挙句の果てに、奉仕が過激化するとか、あるいは聖書を読む分量を競い合い、心にも、魂にも、頭脳にも何も残らないまま、どこまで聖書を読み進んだかを競ってみたり、そういうことが起きている教会もないわけではないと思います。もちろん、大半の教会は、そんなことは全く無関係にただ単に、キリストに生きていることを喜んでいる人の集まり、という側面のほうが強いのですが。

     

    一般社会でもある過剰適合

    とはいえ、似たような現象は日中戦争時に起きています。国家への忠誠をお互いに競い合うようになり、不埒だと思った市民に集団いじめまがいの行為に及んだり、現在のPTAでも、PTAへの関与がどんどん過剰化して、PTAの本来の目的が忘れられているかのような、PTA活動が目立つ組織もないわけではないようです。

     

    なぜ、これが起きるか、と言われれば、現代社会の中での過激化の場合、社会相互の中での相互評価、社会の中での承認要求の歪んだ表れが、このような結果を生むように思います。

     

    ではどうすれば?

    このような結果となるのは、多分、我々が人の目を過剰に意識しすぎ、神の目を過剰に意識していなさ過ぎている部分にあるように思うのです。その意味で、我々が、人の目を意識して何かをするという習慣を手放す必要があるように思うのです。その意味で、もう一度、キリスト者がどのような存在であるのか、ということを自分自身に問い直してみる、ということが必要なのではないか、ということを考える必要があるのかもしれません。その部分は、この雑誌の記事でも、きちんと拾ってくださっているので、ぜひ、その部分をお読みいただき、お考えいただければ、と思っております。

     

     

     

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