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2018.11.09 Friday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(16) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その4(完結)

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    今日は、松谷編集長の発言に基づきつつ、宣教と魅力的なキリスト者として生きること、について、少し思うところを述べてみたいと思います。

     

    松谷編集長のつぶやきから

    特に松谷編集長のツィートというか、Facebook上に残したコメントの最後の部分は、とても、大事なことだと思うのです。特に宣教にとって。その部分をまず紹介したいと思います。

     

    そして、見た目がどうとかじゃなく、内面や立ち居振る舞いも含めてクリスチャンが「魅力的な人」になれたら、自ずとキリスト教のイメージは良くなるはず。無論、その逆も然り。  (2018年10月1日)

    さて、これを読んで何を考えたか、についてお話してみたいと思います。

     

    しゃべってなんぼの、これまでの日本の

    かなりの部分のプロテスタント系キリスト教

    これまでの日本のキリスト教は、宣教師を通して、ことばを通して、そして口から出る表現を通して指し示されたキリストにより、多くの人々にキリストを伝えるということに慣れ過ぎてきてしまっていると思います。宣教とは、あるいは伝道とは、とにかく何をさておいても、しゃべることであり、宣教することであり、証(お証 これは気色悪い言葉なので、何とかならんかと思っていますが)にせよ、聖書公開にせよ、聖書の解説にせよ、とにもかくにも言葉を使って指し示すこと、もう少しいうと、ことばを使って指し示すこと以外にはない、という状態という傾向にあったわけです。

     

    特に、ドイツ・オランダを経由して、米国から入ってきたカルヴァン系教会・英国ないし北米大陸を経由して入ってきたメソディスト系の様々の教派やの教会群においては、この言葉による宣教が重きをなしてきた部分があります。言い過ぎを恐れずに言えば、ことばによる宣教のみを、宣教としてきた部分があります。特に、米国系の教会では、ウェスレーブラザーズやホィットフィールドといった天幕伝道、大衆伝道の系譜があり、それなりに多くの人々にキリストを指し示すことができた経験もあるので、日本でも、同じメソドロジー(このメソドロジーのもとになった、メソッドという言葉がメソディスト(元はあだ名)の名前の由来)がそのまま流用された部分があると思います。この伝統に載っている人物が、最近亡くなられたビリー・グラハム先輩です。

     

    ウェスレー・ブラザーズ(ジョンとチャールズ イオアンとカルロス)

    http://www.patrickcomerford.com/2013/03/with-saints-in-lent-19-john-and-charles.html

     

    ジョージ・ホィットフィールド http://www.pbs.org/godinamerica/people/george-whitefield.html

     

     

    両手の上げ方が、ホィットフィールド先輩そっくりなビリー・グラハム先輩の銅像

     

    こういう絵面を見てしまうと、聖人のイコンに香を振りかけるのと何がどう違うのかがよくわからなくなる…

    https://www.scmp.com/photos/today-photos/2134344/life-and-times-evangelist-billy-graham より

     

     

    その結果、宣教にせよ、証と呼ばれるキリストを指し示す行為も一種の言語的な行為、コミュニケーション行為に終始し、実践面は、まぁ、二の次、三の次であるかのように取り扱われ、「くらえ、御言葉攻撃」や相手に考える隙を与えないような説得の技術に満ち満ちた「言葉による、信じたといわせるための説得攻撃」が第1義的な伝道方法になってきた部分があります。

     

    でも、本当にそうでしょうか。本当に。… あるいは、それだけでいいのでしょうか。本当に?

     

    まぁ、その辺は、個人の方それぞれの信仰の形、最初に出会ったキリスト教徒の出会いですから、そのままとどまるのも一つ、また、聖霊の風を受けて沖に出てみるのまた一つ、教会から追い出されるようにして出さされるのもまた一つの在り方ですし、まぁ、いろいろなありようがあると思います。何せ、皆一人ひとり違って創造されている被造物なのであって、マクドナルドのハンバーガーや、量産されているカローラとはわけが違うのですから。

     

    ことばだけに依存しない部分も少なくない伝統教派

    元々、ガチ系のプロテスタント教会にいて、ガチ系の福音派の教会にいた人間だったわけですが、アメリカにいったころから、多様な教派的伝統の教会に触れ、そして、工藤信夫さんの主催する牧会事例研究会、関西凸凹神学会での、牧師さんや神学生の方々、様々の信徒さんとの交流をとおして、そして、過去の自派の教会の調べるうちに、様々な教派的な伝統を調べることになり、アングリカン(日本では聖公会)、カトリック、正教会までさかのぼってみると、伝統三教派と呼んでいる、正教会、カトリック、アングリカンなどでは、説教や言葉による宣教というよりは、神の国は力にある(口語訳聖書 コリントI  4:20 ”神の国は言葉ではなく、力である”)というタイプの宣教(もちろん、それには、植民地的な支配や宗教的支配による暴力といった、悪い面を過去含んだことも多々ありますが)や、儀式やイコン、教会堂という建物といった非言語的コミュニケーション(ノンバーバル・コミュニケーション)が多用されてきたことを知るようになりました。そして、多くの『神の国は力である』と示した信仰上の先輩たち(それを聖人ないし聖徒という)とその行為を象徴するブロマイドのようなイコンに込められた意味を知るにつれ、本当に、宣教は言葉主義でいいのかどうなのか問題が課題になってきた部分があります。

     

    キプリアヌス先輩のイコン https://denzingerbergoglio.com/quien-juzga-a-francisco/san-cipriano-de-cartago/

     

    実際、下部で紹介するロドニー・スタークの『ローマ帝国とキリスト教』という本では、初期のローマ帝国からの度重なる圧迫あるいは迫害で抹殺されそうになったキリスト教が生存可能であったわけは、信者のコミュニティで、当時の弱肉強食の論理が支配したローマ帝国内で、打ち捨てられて、死んでいくのが当たり前であったような、病者、行き倒れ、社会から排除された人々の具体的ケアを行うことで、これらの人々が元気になり、力を取り戻し、奇跡のように社会復帰していくのを見た人々が、何らかの魔法、奇跡的なパワーがキリスト教にあると思って、自然に吸い寄せられてきた可能性を指摘しています。

     

    つまり、カトリック教会や、正教会などの伝統というか、これらの系譜に属する聖人たち、あるいは聖徒たちは、もちろん言葉による宣教もしたのではありますが、それと同時に、実際に人々に教会に力があり、本当の困難からの解放があることを示したのです。また、迫害の中でも存続していくことで、そこに何らかの価値があることを示し続け、そして、多数のキリストに倣った聖徒(聖人)を生み出していきました。そして、単なる概念や宗教的行為の体系に過ぎない、ということではないことをそれぞれの行動を通して、証というか、実証していったといえようか、と思います。その伝統とその理解は、これらの3教派には、かなり強く残っています。もちろん、ローマ帝国の宗教となることで、コンスタンティヌス型キリスト教として、支配者、支配する側の論理として機能した、という側面を忘れてはならないとは思いますが。

     

    つまり、ローマ帝国で何度も抹殺されそうになりながら、サバイブできたキリスト教は、内面的に、また、外面的に、多くの人々が、「これは何?」と思うようななかなか魅力的なものを持っていたと言えると思います。そして、なかなか魅力的だからこそ、スタークの本の副題にあるように、ローマの辺境のユダヤの、さらにその辺境のユダヤの片隅であるガリラヤで生まれた「小さなメシア運動が帝国に広がった」のだと思います。もちろん当代一流の修辞家としての側面を持ったパウロ先輩がいたとか、という側面がありますが、それ以外のキリスト者全員がレトリックに富んだ論理構成ができたわけでもなく、それでも広がったのは、多くの人々がキリスト教とキリスト教徒の集団を「なんか魅力的」と感じたからに他ならないように思います。

     

    今のキリスト教会は魅力的か?

    仲良くしていただいている海外に在住している日本人向けの伝道団体で奉仕しておられるZumZumさんという方がおられるのですが、その方とこの前、京都でご飯食べながら、そして、お茶しながら散々しゃべっていたのですが、海外に出た非キリスト者の方々が、教会に行って、その教会の美しさ、そして、そこにいる人たちの魅力に惹かれて、教会に行くようになる、というのです。

     

    もちろん、海外にいると、日本でその人たちが持っているような友人、家族という人間ネットワークがはぎとられ、その人が本来日本国内で持っていたはずのソーシャルキャピタルが完全に失われてしまうために教会に来る人々もいるのですが、ZumZumさんが言うには、自分たちは、困っているから教会に来るのではない、自分たちは困っているわけではなく教会に来たいのだ、ということを言う人々がいるそうなのです。教会とそこにいる人たちと、そこで行われていることが麗しく見えるからこそ、教会に来ているのだ、というのだそうです。

     

    ある面、これって、本来的な姿のような気がします。つまり、リアルな実際の姿による、生きていることを通しての、教会に集まっていることを通して何かが著わされていることによる宣教が行われている、ということなのではないか、と思います。

     

    N.T.ライトさんのある講演動画で、ライトさんが、ダラムのビショップだったころ、ロンドンで働いているの娘さんがそのお友達を連れてダラムのカテドラルに来て、内部を案内したところ、教会にもあまり言ったことのない金融機関かなんかで忙しく働いている女性の方がカテドラルの美しさに触れて、ボロボロ泣き出した、というエピソードを聞いたことがありますが、美しいこと、麗しいことが人の心を動かし、そして、そのことがキリストに目を向けさせることもあるのだというお話をしておられましたが、さて、日本の教会は、果たして多くの人たちに美しいものとして映っているのかどうか、魅力的なものとして映っているのかどうか、行きたくてたまらないものと映っているのか、観光地の一つとして考えられているのか、どうなんでしょうね。

     

    「Durham Cathedral Inside」の画像検索結果

    ダラム大聖堂の内部

     

    「Durham Cathedral Inside」の画像検索結果

    ダラム大聖堂の天井(世界遺産らしい)https://www.durhamworldheritagesite.com/architecture/cathedral より

     

    その辺、これからのポストモダンの時代、ポストコロニアルの時代に向かっていく日本社会の中で、個別の教会が、そして、個別のキリスト者が、きちんと考えておくことは必要なような気がするのですけれども。

     

    誰だって、美しい、麗しいと思えばマネしたくなるわけです。美しいものは、レールを自分で引いてでも、そこに行きたくなるわけであって、本来行きたくないところにひかれたレール通り、過去の誰かがこれがキリスト教だと思うところに向かっての相当前にひいて、ずいぶんがたが来ていて、ガタゴトいう運行しずらいレールの上を半ば強制的に、無理矢理に走らせるのは、もう、皆さんおいやだと思っておられる方が多いからこそ、日本の教会に若い人がいつかない、という側面は本当にないんでしょうかねぇ。

     

    海外から帰国したキリスト者として日本の教会に来る若者が定着しきれない原因としては、日本の教会の信者さんとその信仰者としての姿がいかに美しくても、また、その教会の礼拝のスタイルがいかに美しいものであっても、日本の教会が自分たちの教会のやり方にこだわったり、信仰者としてのあり方や姿、礼拝のスタイルに拘ったりして自分たちが走ってきた大分時代遅れになっている運行しづらいレールの上を走れと言って、新しい世代の礼拝の姿を一顧だにしなかったり、そのような自分とは違う礼拝のスタイルを持つ人々を異物視したり、自分と違う信仰スタイルを持つ人々を受け止めてない部分はないでしょうか。

     

    教会の話ではないですが、アメリカの大学の環境科学の大学院で教えていたときのことです。ある自然保護団体にある日本語に問題がない日系アメリカ人が夏休みにその団体の活動に参加しようとしたら、その日本の環境保護団体から、「一見さんは困ります。自分たちのやり方を自分たちは続けたいし、他の文化的背景の人々を受け入れたくありません、自分たちの文化は変えたくないので、参加はお断りします」というお断りが来て、ご相談に乗らざるを得なかったことがありますが、それと同じようなことが日本の教会にはないでしょうか。

     

    ナウエンの書籍から

    この前の牧師さんとの研究会で、ナウエンとガフニーの『闇への道・光への道』とうい本の一部をご紹介したのですが、その中にこのような一文がありました。

     

    最大の関心は、利潤にあり、という社会では、高齢は一般的に名誉あるものとはされない。なぜなら、真の名誉とは何かを考え出したら、この社会を調子良く動かしている価値の序列が崩れ始めてしまうからである。(中略)こう考えると、時として、権力を握っている人々が差別という運命を逃れるため、それまで持っていた財産、権力、影響力をなんとしてでも保ち続けようとするわけがわかるであろう。抑圧される側でなく抑圧する側になろうとしているのだ、教会や国家で権力の座にある老人たちがしばしば必死で、時代遅れの観点やふるくなった習慣に固執して、真の成長や発展をさまたげているのを見て、「ほんとうのところ、権力と自己が一体化してしまったこの人々は、この業績第一主義の世界で自分に残されたたった一つの、どうにか通用する手段にしがみつくことで、自己の連続性を保とうとしているのではないか」と考えても、外れてはいないだろう。この人々も、社会的には運に恵まれなかった同世代の人々同様、老年の犠牲者と言えよう(ヘンリー・ナウエン ウォルター・J・ガフニー 『 闇への道 光への道 年齢(とし)をかさねること 』原みち子 訳 訳 p.31)

     

    日本の教会が全てそうだとは言いませんが、一部の教会では、業績第一主義に縛られ、教会という小さな社会集団内でのみ唯一通用する手段にしがみつくことで、自分とは違う価値観を持つ人々の犠牲の上に自己の連続性を保持しようとしておられないことを心から望みたいと思います。

     

    厳しくても、美しいと思えば、大変でも価値があると思えば、人はそれに積極的に関与していくのではないでしょうか。その価値の源泉を抜いて、これがレールであるからこの上を問答無用で走れ、というようなことを教会がしていないことを、心より願いつつ、この連載を終わりたい、と思います。松谷編集長のその逆もまたしかり、ということは、そういうことかもしれないなぁ、と思いました。

     

    ということで、一旦この4回で、この連載は終了します。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 3,456
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:数理社会学的な観点から、ローマ帝国下の初期キリスト教の存在を実証的に暑かった良書

    評価:
    ヘンリ・J.M. ナーウェン,ウォルター・J. ガフニー
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    (1991-12)
    コメント:いい本なので、再販されることを願いたい、と思います。

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