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2018.11.07 Wednesday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(15) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その3

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    前回、近代社会は、一般化すること、とにかく何でもかんでも平均値で議論することをやりたがる、ということをちょっとお話してみましたが、その背景には、実は、近代社会においては、数量が問題であった時代でもあったという背景があるようにも思うわけです。それは、特に戦争の遂行と深くかかわっています。

     

    古代の軍事作戦と騎兵

    特に、近代戦では、従来の騎士と歩兵が活躍した時代と比べ、一斉行動による集団戦闘行為の成否が戦闘及び戦争の成否を決める時代でありました。もちろん、イスラエルの民とペリシテの民の戦争では、現代の戦争とは異なり、集団戦闘行為というよりは、騎士による一騎ごとの闘い、あるいは軍事行動ユニットごとの代表的な人間同士(例えば、ダビデとゴリアテのような)の戦闘が、戦闘の成否を決めたこともある時代でもありました。

     

     

    ヘブライ語のWikipediaのダビデとゴリアテ ツィツィアン作

    https://he.wikipedia.org/wiki/%D7%92%D7%95%D7%9C%D7%99%D7%99%D7%AA

     

     

     

    カラヴァッジョ ダビデとゴリアテ

    しかし、何でイタリア絵画はこうもグロい絵面が好きなのか…と正直思わないでもないですね。

     

    中世の戦闘でも、騎士の一騎打ちなどに診られるように、代表選手の戦闘が、戦争の雌雄を決するという側面が多少ありました。古代から中世の軍隊は、歩兵と騎兵を中心に構成され、特に騎兵は極めて機動力が高い戦闘集団であったために、会戦などの大規模戦闘行為においては、その利用の上手下手が戦争の行方を決するほど、非常に重要な役割をしたのでした。

     

    中世における騎兵 
    https://www.brushwiz.com/catalog/stanislaw-chlebowski-battle-of-varna-oil-painting-reproduction-17086/

     

    とはいえ、古代から中世における大軍事作戦はほぼ歩兵によるグループごとのグループ単位の戦闘の寄せ集め型の戦争であり、歩兵の大軍団と歩兵の大軍団の集団的衝突を逐次行うような大会戦型の戦闘が平原で行われることがありました。

     

    この当時の騎兵は、今の戦車部隊、あるいは、高速でかなり自由な移動ができるヘリ部隊のようなものなので、戦場への投入に備えて待機している歩兵部隊の陣形突破や敵軍の歩兵部隊の集団的軍事行動を撹乱するために用いられていました。この騎兵の扱いがうまくて有名だったのが、古代ではアレキサンダー大王や中国史では項羽だったりします。

     

    グラニコス川の戦い(アレキサンダーVSアケメネス朝ペルシャ)

     

    騎兵のことを、現代の英語で、cavalry といいますが、現代の騎兵部隊に相当する存在は、ヘリコプターに乗る部隊か、戦車にのる部隊のことを指すようです(なんか村上先生受けしそうなネタになってきた)。これで最も有名なのが、地獄の黙示録という映画で、ヴァルキューレを大音量で流しながら登場する航空機兵隊の姿かもしれません。

     

    現代のアメリカの航空機兵隊 Air Cavalry

     

    地獄の黙示録の航空機兵隊

     

    現代のアメリカ陸軍の装甲騎兵隊 

     

    装甲騎兵 ボトムス(騎兵つながりのおまけ)

     

     

    ちょっと話が別方向に行き過ぎてしまいましたが、第1次世界大戦以降の総力戦では、それまでの戦場への逐次投入に変わり、歩兵の数と大量の歩兵が一斉協調行動を取ることが何より重要だったのでした。まず、砲兵が砲弾を雨あられと敵陣にぶち込み、その着弾の硝煙の消えないところに歩兵が集団で突入することで、敵の不意をつくというのが、第1次世界大戦及び第2次世界大戦初期の戦闘方法でもあったわけです。このような攻撃スタイルはドイツ陸軍の得意とする戦闘スタイルだったようです。

     

    一斉協調行動が重要だった時代と教育

    この敵の不意を衝くために、同じような兵隊からなる歩兵部隊が、一斉行動できるように訓練することが、第一次世界大戦以降の基本的な軍隊の基礎教育でしたし、そこでは、全員が同じ行動、一斉行動を問題なくできるようにすることが重要だったわけです。そのために、平均的な人間の能力や平均的な人間の行動パターンを計算し尽くし、全員が平均的に行動できることが望ましかったわけです。このあたりのことは、最下部の本の中のリスクという本の中に書いてあるので、よろしければ、どうぞ。

     

    そのために、国語教育、数学教育、軍事教練などが学校教育の一環として行われましたし、そのために社会統計という方法論ができたのです。そういう意味で、我が国での小学校や尋常学校での教育は良き兵士になるための軍隊のミニチュアとして始まりましたし、帝国陸軍は、おとなになるための一種の教育機関の役割を果たし、職業教育機関として機能した部分があったのです。

     

    そして、その社会的文化背景は、戦後の日本の経済成長を支えた産業戦士の世界に持ち込まれ、協調行動と一斉行動の基礎的訓練を求める事になり、それが、ミーちゃんハーちゃんの大嫌いなマスゲームや組体操の世界でもあるわけです。まぁ、朝鮮人民民主主義共和国では、これがまぁ、気持ち悪いくらいにできるのは、中華文化の影響なのか、アジア共通の文化なのかは、よくわかりません。

     

    朝鮮人民民主主義共和国のマスゲームを見る大韓民国の訪問団

     

    ところが人間は一人ひとり違うんで

    しかし、少し考えてみればわかりますが、実は人間は金太郎飴のような同質的な存在ではありません。金太郎飴だって、よくみれば、実は一つ一つ違ってはいます。一個一個の金太郎あめをよく見てみると、果たして同質と言えるかどうかは、かなり難しいかもしれません。

     

     

    「金太郎あめ」の画像検索結果

    金太郎飴

     

    金太郎あめ以上に、人間はひとつひとつ違います。教育も違えば、家庭環境も違うし、能力も違えば、性格も違うのではないでしょうか。味覚も違えば、音楽の趣味も違いますよね。日本では、割といわゆる”日本人”(何が日本人なのかは議論し始めると収束が付かなくなりがちですが、多くの人々がこれが日本人だと思っておられる人々の集団に属する人々)の割合が多いので、異なる人々(異人さん)と出会う機会は過去は、すくない状態にありました。そして、かなり均質性が高いと人々が思う社会ができていった訳です。しかし、この時期の京都に行けば、実に多様な国から来られた人々で満ち溢れていますし、大阪のなんばに行ったり、新宿に行っても、様々な人々に出会う時代になりました。

     

    さて、先にお話しましたように、一人ひとりは実体的にはかなり違うようにおもいます。とはいえ、軍事行動をする上では、みんながてんでばらばらに勝手に動き始めると、非常にまずいので、近代戦では一致行動、一斉行動させる必要がありましたし、さらに敵味方の判別を容易にするためにユニフォーム(いわゆる制服)が用いられていき、そこにその国の文化があらわれる、という構造がみられました。

     

    第1次世界大戦の塹壕戦の再現動画

     

    日本の学校でも会社でも、制服を着せることが多いですが、アメリカだと一般のメーカーの製造ラインの社員さんや銀行の受付のお姉さんが同じ服を着ている、ということはあまりなかったりしますが、日本では、レジのお姉さんから、ホテルのフロント、銀行の窓口に至るまで、制服の人ってものすごく多くって、同化圧力の強さを非常に強く感じてしまいます。

     

    それは、教会でもかなり似通った構造を持っていて、礼拝の時の参加者の行動パターンでの高い同質性が追及されたり、同一行動、斉一行動をとることをよしとする文化が教会の中にも、あるのではないでしょうか。たとえば、アーメンの言い方であったり、聖書の読み方の独特の抑揚であったり、あるいは、祈りの時の相槌の打ち方、祈るとき手の組み方、もう、言い出したら数え切れません。単に、過去の誰かがある独自の行動パターンを始めて、その行動パターンがほかの信者さんに電波拡散して、その教会のなかで広まり、なぜ始まったのか、だれが始めたのか、なぜそうするのか、といった由来は忘れられても、スタイルだけが残り、過去そうであったから、今もそうであるべき的な過去のスタイルに現代の人を縛るような部分というのはないでしょうか。

     

    産業化時代の思想に閉じ込めないで

    これも、クリスチャン同士の結婚の問題でもいえるように思うのです。確かに、不信者と釣り合わぬくびきを負ってはならない、という言葉は確かに聖書にあります。それを根拠に、日本にキリスト教が持ち込まれた当時の西洋のスタンダードと同じ行動パターンをそのまま持ち込もうとした部分があったように思うのです。そして、みんなが同じ行動をとるのが良い、という産業時代の構造がそのままキリスト教界に無批判に持ち込まれ、信徒たるものすべからく結婚でも何でも、個別特殊性をベースに考えるのではなく、一般性、共通性の追求という形で考えられはしないでしょうか。

     

    不信者と釣り合わぬくびきというのなら、くびきはもともと複数の牛馬が繋がれて、仕事をなすために使うということを考えますと、結婚よりも、仕事を一緒にすることのほうが、フィットするように思うのです。実際中世のカトリック教会が支配的であり交易が少なかった頃のヨーロッパでは、その様な習慣があったようです。

     

    そうなると、不信者と釣り合わぬくびきを追うというのは、不信者と一緒に共通行動をとり、企業の生産行動に組み込まれるための社畜になることなんじゃないですかね、とも思いたくもなります。不信者と一緒に働くことというのは、不信者とくびきを負うことにどうしてならないのか、ということを考えてしまいます。

     

    「社畜」の画像検索結果

     

     

    たしかに、日本の伝統社会の非キリスト的な特異性というのはあり、前回お話しした日自覚的な日本の宗教感覚の中で生きている人達は、11月には七五三という宮参りをし、1月か、その直前の12月には、成人式(昔は藪入りといった)をして過ごしました。誰かが親族がなくなれば、仏教式で葬儀が行われ、一人一人が死者のために、お経を読むと長くなるので、亡くなった方が化けてでないように般若心経なりなんなりの仏教典を参列者一人一人が読み聞かせる代わりとして、お線香をあげることをこれまた強いられるのが、日本社会の現状でもあるわけです。

     

    そういう非キリスト教的な雰囲気が支配的であることと直面する回数が、確かに非自覚的な日本型の宗教感覚を持った配偶者との結婚で増えることは確かですし、その時に厳しい決断を迫られることは確かです。その意味で、かなりチャレンジングなことだからと言って、キリスト者でない人との結婚それ自体を、神に逆らう反逆行為であると、全知全能ではない一介の人間が判断することの適切さはどの程度あるかと言われると厳しいのではないかなぁ、と思います。

     

    「あなたと私は違うんです」発言は、偉大

    あなたとは違うんです、で有名になり、その発言を描いたTシャツまでできた政治家の方がおられまして、多くの方がこの政治家の方のように、自分自身を客観的に見ることができるかどうかはよくわかりませんが、この発言はある意味、すべからく人は同じであるという現代社会が暗黙に持っている前提に対する警鐘をお鳴らしあそばした非常に偉大なご発言だと思います。

     

    あなたとは違うんです とご発言になったそのシーン

    「あなたとは違うんです Tシャツ」の画像検索結果

    あなたとは違うんです Tシャツ

     

    そもそも、神がユニークに一人ひとり異なって関与しておられる以上、十羽ひとからげに、一律で取り扱うことに、そもそも無理があるのと同じように、人生にしても、結婚にしても、就職にしても、一人ひとり本来違う姿というか、それぞれの結婚生活のありようがあるはずなのですが、どうも、日本では、集団的同化圧力の関係からか、一律化の傾向を無理から方向づけるような圧力がかなり強くかかり、ごくごく一般化、単純化して考える傾向はないでしょうか。

     

    つまり

     

    「クリスチャン同士の結婚が問題が少ない」

     ⇒ 「クリスチャン同士の結婚が望ましいことが多い」

     ⇒ 「クリスチャン同士の結婚がすべてであり、それ以外は認められない」

     

    という結婚を取り巻く、ちっと拡大解釈チックな論理が展開してしまっているように思うのですが、その背景には、どうも、この産業革命以降、近代の大量生産、大量消費が一般化した社会の通念というか、社会一般の論理構造の粗さがよく表れているように思えてなりません。

     

    人それぞれ、上の政治家の方のご発言にある通り、「あなたとは違うんです」ということができるのが、ポストモダンの時代の現代的な姿なのではないか、と思うのです。そして、他者の在り方や生き方について、かなり強引な一般化してブルドーザーで地面を踏み均してしまうような論理に異議を唱えることが可能になった時代かもしれません。

     

    次回、宣教と魅力的なキリスト者として生きること、について、少し思うところを述べてみたいと思います。

     

    最近茨城空港で、ガルパンがあちこちに転がっていたのを目の当たりにしたためか、なんか、今回は、ミリヲタまたはプラモヲタ向けの記事になってしまいました。

     

    Hajime Kawamukaiさんの写真

    痛車仕様のタラップカー

     

    Hajime Kawamukaiさんの写真

    茨城空港の出発ロビーの通路の展示コーナーで見たプラモ

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    ピーター バーンスタイン
    日本経済新聞社
    ¥ 771
    (2001-08-01)
    コメント:統計や確率の背景を記した一般向けの読み物

    コメント
    こんにちは。シリーズ続いてますね。
    ところで、「釣り合わぬ軛」の元ネタって『第2ロンドン信仰告白』というものみたいですね。第25章の3にこの言葉があるようです。
    書かれたのが1689年とのことなので、仕事に関しては家業を継いだりしてる人が多そうだし、当時は信仰が違う人と大勢で生産活動をするってことが考えられてなかったのではないかとも思います。

    あと、思い出したことがあるのですが、私はいわゆるロスジェネ世代で、就職先が決まらないまま学校を卒業してしまいました。その時、いくつか有名クリスチャン企業に問い合わせしてみたのですが、「弊社は新卒一括採用しか行なっておりません」とどこも断られました。
    そこはいまでも年功序列給与や終身雇用制なのでしょうか。
    欧米から来たキリスト教をベースとしているクリスチャン企業も、同一・斉一の日本的文化で動いているんだなあとガックリしてましたね。

    もう21世紀だし、高度成長期も終わってるので、いろいろとアップデートしてほしいと思います。
    • 片栗粉
    • 2018.11.07 Wednesday 15:32
    片栗粉さま

    ご清覧、コメントありがとうございます。
    おそらく、釣り合わぬくびき、は

    【口語訳】コリント人への手紙 第2
    6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
    6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。

    に依拠していて、ご指摘のものよりも、ヨーロッパの歴史では古い背景を持つと思います。

    例えば、ヴェネツィアは1198年にイノケンティウスIII世によって、サラセン人(イスラム教徒、ムスリム)と仕事をしたことで、破門扱いを受けています(ヴェネツィア人はほどんど気にもしなかったようですが)
    http://www.napavalley.edu/people/shutton/Documents/Readings/Pope%20Innocent%20III%20Permission%20to%20Trade%20With%20Muslims.pdf
    >1689年とのことなので、仕事に関しては家業を継いだりしてる人が多そうだし、当時は信仰が違う人と大勢で生産活動をするってことが考えられてなかった

    ですよね。当時のイングランドでは、異教徒がそもそも、奴隷以外にいなかったですし、奴隷は市民権がないので、人間以外という扱いであったと思われます。

    >私はいわゆるロスジェネ世代で、就職先が決まらないまま学校を卒業してしまいました。その時、いくつか有名クリスチャン企業に問い合わせしてみた

    それ、ご就職しなくてよかったかもしれませんよ。クリスチャン企業は、かえって、仕事と奉仕の区別の線が甘くなり、甘えが出て、給料の遅配、業務内容の一方的変更、結構無茶が横行する可能性が高いですから。働く方も、甘えてはる方も多いんで、お互い様、ってところがあります。

    >欧米から来たキリスト教をベースとしているクリスチャン企業も、同一・斉一の日本的文化で動いているんだなあとガックリしてましたね。

    結局、中の人は、ドライな欧米人ではなく、日本人ですし、日本の労働市場で、外国風の蹴球ベースの雇用刊行するのは、厳しい、と思います。それをやろうとしたのが、今の大学で、基本的に長期雇用が前提にされてきた社会で、任期制なんかを導入したもんだから、職場が殺伐とする部分もありまして、戸惑っておられる方々が家乞うおられます。そもそも、流動的な市場になってないのに、流動的な制度を導入したり、賛美たことが、ロスジェネ世代の問題を深刻にしているように思います。

    2000年以降は、アップデートに失敗した一つの悪い例のように思えてなりません。ここのところこの種の見切り発車が多いのがねぇ。

    いずれにしましても、ご清覧、コメント、ありがとうございました。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2018.11.08 Thursday 09:08
    片栗粉さま

    ご清覧、コメントありがとうございます。
    おそらく、釣り合わぬくびき、は

    【口語訳】コリント人への手紙 第2
    6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
    6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。

    に依拠していて、ご指摘のものよりも、ヨーロッパの歴史では古い背景を持つと思います。

    例えば、ヴェネツィアは1198年にイノケンティウスIII世によって、サラセン人(イスラム教徒、ムスリム)と仕事をしたことで、破門扱いを受けています(ヴェネツィア人はほどんど気にもしなかったようですが)
    http://www.napavalley.edu/people/shutton/Documents/Readings/Pope%20Innocent%20III%20Permission%20to%20Trade%20With%20Muslims.pdf
    >1689年とのことなので、仕事に関しては家業を継いだりしてる人が多そうだし、当時は信仰が違う人と大勢で生産活動をするってことが考えられてなかった

    ですよね。当時のイングランドでは、異教徒がそもそも、奴隷以外にいなかったですし、奴隷は市民権がないので、人間以外という扱いであったと思われます。

    >私はいわゆるロスジェネ世代で、就職先が決まらないまま学校を卒業してしまいました。その時、いくつか有名クリスチャン企業に問い合わせしてみた

    それ、ご就職しなくてよかったかもしれませんよ。クリスチャン企業は、かえって、仕事と奉仕の区別の線が甘くなり、甘えが出て、給料の遅配、業務内容の一方的変更、結構無茶が横行する可能性が高いですから。働く方も、甘えてはる方も多いんで、お互い様、ってところがあります。

    >欧米から来たキリスト教をベースとしているクリスチャン企業も、同一・斉一の日本的文化で動いているんだなあとガックリしてましたね。

    結局、中の人は、ドライな欧米人ではなく、日本人ですし、日本の労働市場で、外国風の蹴球ベースの雇用刊行するのは、厳しい、と思います。それをやろうとしたのが、今の大学で、基本的に長期雇用が前提にされてきた社会で、任期制なんかを導入したもんだから、職場が殺伐とする部分もありまして、戸惑っておられる方々が家乞うおられます。そもそも、流動的な市場になってないのに、流動的な制度を導入したり、賛美たことが、ロスジェネ世代の問題を深刻にしているように思います。

    2000年以降は、アップデートに失敗した一つの悪い例のように思えてなりません。ここのところこの種の見切り発車が多いのがねぇ。

    いずれにしましても、ご清覧、コメント、ありがとうございました。

    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2018.11.11 Sunday 08:12
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