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2018.11.05 Monday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(14) 運行しずらいレールを引かないで・・・ その2

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    前回の記事では、松谷編集長のツィートから、考えたことをお話してきました。未信者と呼ばれる、非キリスト教徒あるいはノンクリスチャンとの結婚のこと、離婚の問題を扱わねばならない時代になってきたこと、結婚式にいろいろ教会関係者からも口出されて、めんどくさいことが結構起こること、重婚と不倫とはめんどくさいこと、クリスチャンであっても、DVをするようなおクズ様がおられること、それに耐えている女性たちが結構いること、そういうおクズ様であっても、いやおクズ様であるが故にキリストが必要であることなどを書いてみました。

     

    ツィッターではそれほどでもありませんでしたが、Facebookでは、クリスチャンのDV夫とか、その被害者を身近に見てこられた方があること、異なる宗教を信じている人々と結婚の継続しておられる方からのお話、などなどいろいろと、コメントが寄せられましたが、それはまた改めて、ご紹介してみたいと思います。

     

    今回はお約束どおり、結婚相手としてクリスチャンにこだわるという意味と、一般化して考えるワナ、あるいは問題について、少し考えてみたいと思います。

     

    結婚相手としてクリスチャンにこだわる意味

    日本に伝わってきたキリスト教は、西ヨーロッパ社会経由(プロテスタントの場合、ドイツ、スイス、連合王国、スカンディナビア諸国など、カトリックの場合、明治以降はフランス・スペインなど、正教会の場合は、ロシア経由)か西ヨーロッパから、さらにアメリカを経て、日本に到達したキリスト教が中心で、すでに、キリスト教社会が完全に定着し、キリスト教社会、いわゆる、クリステンドム、キリスト教社会が成立した社会を経由したキリスト教であったわけです。

     

    このようなキリスト教が主流を占めた社会では、ノンクリスチャンというか、非キリスト教徒は、イスラム教とか、ユダヤ人であったわけです。特に、欧州におけるイスラム教徒というのは、地中海周辺では、イスラム海賊のイメージか、ウィーンを何度か包囲したオスマントルコのイェニチェリ軍団のイメージであったわけです。つまり、憎むべき敵との結婚を意味する場合があったようです。

     

    イスラム海賊との戦闘シーン https://www.todoababor.es/historia/a-la-caza-del-pirata/ より

     

    イェニチェリ軍団

     

    トルコ軍楽隊のマーチ音楽を聞いてモーツアルトが作曲したとされるトルコ行進曲

     

    トルコ軍楽隊の伝統的な行進曲

     

     

     

    ヨーロッパ社会における異教徒との対立関係

    ヨーロッパ社会におけるノンクリスチャンの別グループ、あるいは別の異教徒として、当時の社会で排除され、だれも仕事にしたがらないような金融業といった業務を一手に引き受けざるを得なかったを背景としたユダヤ人が存在したわけです。このユダヤ人もまた、イエスを殺したという呪いをヨーロッパ社会全体からかけられたのがユダヤ人なのです。我らの愛すべき主イエスを殺して、その血の責任を我らが負うとまで言明した民族の末裔でもある、ユダヤ人との結婚ということになったわけです。

     

    ムスリム(イスラム教徒)にせよ、ユダヤ人にせよ、宗教的なルールとそれぞれの宗教への改宗とそれに伴う諸規定がかなり厳格な人々もいる信仰者群なので、キリスト教徒がムスリムやユダヤ人と結婚するとなると、キリスト教からこれらの結婚相手の宗教、イスラームないしユダヤ教への改宗を求められるわけです。

     

    現在のよく知られている改宗者の例で言えば、トランプ大統領の娘のイヴァンカさんは、ご主人がユダヤ系(おそらく改革派系の世俗化が進んだタイプのユダヤ教徒 ひげがない、髪の毛の鬢が伸びてないことで判定できる)なので、キリスト教からの改宗ユダヤ教徒になっているわけです。

     

    ムスリムの場合も、ユダヤ教徒の場合も、キリスト者と同じアブラハム、イサク(またはイシュマエル)、ヤコブの神を信じているとはいえ、イエスの扱いが(ムスリム及びユダヤ教徒)とキリスト教徒との間で相当に異なるために、儀式論において、そして聖書理解に置いて、聖典の定義において(ムスリム及びユダヤ教徒)とキリスト教徒との間に大きな落差があるわけです。

     

    イバンカと配偶者のクシュナー氏(キッパーと呼ばれるユダヤの帽子を被っている)

     

    世俗化とキリスト教離れが進んできているとはいえ

    世俗化が進んできた現代のアメリカやヨーロッパ社会の中に、スティーブ・ジョブスのようにインドの神秘思想や、Googleなどのように、カリフォルニア・禅(アメリカナイズ、またはカリフォルニアナイズされた禅思想)あるいはマインドフルネスに影響を受ける人々が増えてきていて、クリステンドム、あるいはキリスト教社会という側面が米国で弱まっているとはいえ、未だに市民宗教としてのキリスト教はアメリカでは根強く息づいているように思います。

     

    さて、弱まったとはいえ、西洋社会、ないし、アメリカ社会における異教徒(ノンクリスチャン)が、迫害対象ないし排斥対象となりやすく、改宗規定が相当に厳しいムスリム及びユダヤ教徒という状況を踏まえると、それは、おいそれとこれらの異教徒との結婚を問題がない、というのはかなり現実的には厳しいということがヨーロッパ社会及びアメリカ社会において社会背景として存在したことは、ご理解いただけようか、とは思います。

     

    ムスリム型異教徒と日本型異教徒としての非自覚的な信仰者

    日本に明治期以降、我が国において宣教してきた宣教師たちにとって、自分たちの文化的背景として抱えてきた異教徒(その大半は、ムスリムとユダヤ人)との付き合いの関係は、日本人の大半の直面する状況とはかなり違うものであったにもかかわらず、宣教師のみなさんが受け継いできたその文化的背景において、ノンクリスチャン=異教徒=キリスト教の敵=偶像崇拝者(個人的にはユダヤ教徒もムスリムも、アブラハム宗教なんで、そこまで言い切るのはかなり無理があるとは思うものの)という位置づけが無意識下に存在したように思うのです。

     

    日本の異教徒は、確かに神道関係者、仏教関係者、非自覚的な信仰形態である融合型日本宗教関係者も異教徒でもあるわけで、ムスリムやユダヤ教徒と同一視できない様に思います。多くの日本人に、その人の信仰は何か、ということを問うた場合、「特定の宗教を固く信奉していない」という意味で、「無宗教」と答える事が多いと思います。この無宗教発言の背景には、非自覚的な執行形態であると言った辺りに理由があると思います。決して、非宗教的な人ではないわけです。正月には初詣に行き、盆には盂蘭盆会の行事をするわけですから。ところが、この無宗教は、ムスリム達にとってみては、無神論者を意味するのです。そのために、イスラム社会のなかで、この様に自分は無宗教だ、と主張することは、自ら人間ではない、意図的な神への反逆者と自ら宣言するようなものなので、危ない目に合う可能性を増すのです。

     

    日本人が、当たり前のように、無宗教と自らを呼ぶような非自覚的な信仰形態を持つ人々であっても、キリスト教的な社会背景を持たない、という意味で自分たちと違っていたわけです。そのような意味では、異教徒であり、西洋型の異教徒(ユダヤ教徒及びムスリム)対策と同じ視点で、日本型非自覚的信仰者との関係を取ってきたように思うのです。それは、自分たちの文化背景では、異教徒への対応としては、対立型の対応が当然であり、当たり前のようにそうしてきたため、日本型の非自覚的な信仰者に対しても、敵対的な態度をとることになっていく精神性を海外から来た宣教師たちの一部は持っていた部分は皆無ではないのではないか、と思うのです。

     

    非自覚的なキリスト者が存在する米国社会

    とは言いつつも、この非自覚的な信仰形態の米国系キリスト教関係者も実は少なくありません。欧州は全く滞在経験がないので、なんとも言い難いところがありま戦士、米国でもカリフォルニアやワシントン州での経験からでしかなく、アメリカ全土の悉皆調査の事例からではないので、少し申し訳ないのですが、これらの2州で出会った人々の中には、「自分はアメリカ生まれのアメリカ人なので、クリスチャンであるが、君は日本人だから違うだろう」(おそらく、その方の頭の中では、アメリカ人のコーカシア系人種=プロテスタント系キリスト者ということを意味するらしい)と私にお話くださったありがたい方や、「我が家は代々カトリックだから自分はカトリックだ」と堂々とお話くださった、カリフォルニア原住民系(もともと、カリフォルニア州は、メキシコの一部であり、メキシコとつながりの深いご家庭の人々)の方もおられます。ある意味、カトリックは、プロテスタントの一部のように、個人的な決意や決断に基づく決断型あるいは選択型キリスト教の伝統が薄く、信仰共同体型地域地縁集団形成されていることが多いので、非自覚的なキリスト教の関係者が増えやすいという側面はあろうか、と思います。

     

    確かに幕府は迫害したし、殉教者は出たけれど

    たしかに、江戸幕府は自らの制度的安定性を確保するためにキリシタン大弾圧、日本社会からのキリシタン抹殺を計画しておられましたが、キリシタンの側はキリシタンの側で、かくれキリシタンになったり、潜伏キリシタンになったりして、存続を図ったわけです。その過程のなかで、信仰の内実の点でどこまでキリスト教なのか、という課題はありましたが、仏教でもないし、神道関係者でもないし、非自覚的な信仰形態である融合型のキリスト教的日本型宗教となっていったという意味で、ある意味、独自の土着化が成立した、と言えるように思うのです。とはいえ、地域やグループによる個別性の違いがあるために一般化することに伴う危険性はありますが、政治レベルでは対立軸はあったとは言うものの、一般の庶民の生活レベルではそこまで対立的でなかった可能性もないわけではないと思うのです。かくれきりしたん、潜伏キリシタンとなりながら、離島や周縁に避難することで、かろうじて、信仰を守り続けたわけですから。

     

    隠れの人々の信仰告白 オラショ(音だけはかなり類似性があるらしい) 

     

     

    ラテン語による主の祈り

     

    とはいえ、いわゆる産業革命時代、ないし啓蒙時代のキリスト教は、対象の個別性に着目するよりも、過剰に一般化して考える傾向、あるいは普遍化する傾向を持っていたため、日本は、キリスト教弾圧の地として、ムスリムがスペインでなしたような抑圧と同じ様に考え、日本型信仰とキリスト教について、啓蒙的な姿勢で臨んだり、ある種の対立軸をおいて捉えた宣教師もいたのではないか、と思うのです。

     

    確かにスペインではレコンキスタなどを含め、ムスリム社会と対立関係にあったとはいえ、ギリシアやエジプトあたりの歴史を見ると、必ずしも、ヨーロッパ社会がそうであったように、キリスト教が社会の人数が多いという意味においての支配的な(ドミナント)存在になったとか、政治的にも支配的な(ドミナント)存在になったというわけではないわけですが、それなりにイスラム社会の一部として、キリスト教徒はムスリムと競合的な関係にありながらも、共存してきた歴史があるように思います。まぁ、被支配民族を全滅させると、自分たち同士のなかで、支配ー被支配(略奪ー被略奪)の関係を作り出さねばならないため、政治的に完全に被支配民族やその宗教者を殲滅するのは得策ではないという現実的な側面もあったとは思いますが。

     

     

    平均値と一般化 ひと纏めにする罠

    先にも少しだけ紹介しましたように、啓蒙思想や近代思想は、平均値で捉える思想といいますか、個別性よりも、一般性、普遍性に力点をおいたものの見方をしてきた部分があったように思います。もう少しいうと、対象をひとまとめとして捉えようとする弁証法的というか、二項対立型の思想で物事を考えてきた部分があったように思います。Aか非A(Non A)か、というBoolean型、0−1型、2値的、あるいはディジタル的なのものごとの捉え方をし、アナログ的なグラデーションで考える問事はしてこなかった部分があります。実体が、かなりアナログ的なヴァリエーションを持ったものであったとしてもです。

     

    Boolean型の論理構造の概念図 https://sru.libguides.com/c.php?g=531883&p=3898529

     

     

    それを音楽の事例で考えてみたいと思います。以下は、同じ、キリエ エレイソン(Kyrie Eleison)という神の憐れみを求める賛美歌ですが、同じ文言の音楽の表し方が、これだけ、異なるわけです。

     

    キリエ エレイソン(主よ、憐れみ給え)の賛美歌他

     

    ギリシア正教会の キリエ エレイソン

     

    現代英語でのキリエ エレイソン

     

    テゼのキリエ エレイソン

     

    現代英語風のキリエ エレイソン

     

    このように同じものでも異なる表現法があることを考えてみた場合、いかに、一律にものを捉えて考えることが無益か、ということがご理解されようと思います。

     

     

    この結果、対象を自分と同じか、自分と違うものか、という極めて単純化されたなものさしで見る、そして、そのものの見方(世界観と行ってもそう間違ってはいないと思います)の中に、自分たちは善である、ないし、優位なものであると同時に、他者は、悪である、ないし劣位というある種の中華思想が内在化する可能性があったわけです。そして、西洋由来のキリスト教には、その問題が意識されないまま内在しており、それがそのまま日本に持ち込まれた部分も皆無ではないように思います。

     

    ローマ帝国成立期前後の皇帝崇拝やローマの多神教的な宗教が支配的な頃の異教社会の中にあるキリスト教会のなかのキリスト教会とかなり類似性の高い環境に置かれている日本のキリスト教会と、キリスト教が支配的な社会を経た西洋型キリスト教とは、本来環境が異なります。その意味で、キリスト教以外をひとまとめにして、自分以外のものであるゆえに、誤ったもの、劣位にあるものとして取扱い、これまでの西欧型のキリスト教がとってきた異教徒への対応でもある、無意味に対立軸を置くような考え方が本当に適切であるのか、という問題はもう少し考えてみたほうがいいかもしれません。

     

    結婚相手に関して、日本でクリスチャン以外の人々との結婚相手を認めない、ということの背景にこの問題は潜んでいるように思えてなりません。

     

     

    次回、もう少しこの一般化の問題をもう少し考えてみたい、と思います。

     

     

     

     

     

     

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    コメント:なかなかよろしいか、と思います。入門的文献

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    コメント:これまた入門的な本

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