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2018.10.31 Wednesday

教会と宣教とIT(その4)最終回

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    これまで、教会とIT化、SNSの味わいの違い、情報流通、教会の内側を丁寧にきちんと、それでいて盛り過ぎず見せる工夫、動画の活用が下手すぎる教会が多いこと、日曜学校の視聴覚教材がプアなこと、話術の必要性、プッシュ型メディアとプル型メディア、インターネットのプル型メディア性、Googleの登場によって変わった情報利活用の姿、QRコードとその活用法などをお話してきました。

     

    今回は、教会が持っているコンテンツをきちんと出すことを宗教改革記念日に合わせて、ご紹介したいと思います。

     

    ツイッターのない時代にバズらせた事件

    宗教改革は意図的にハロウィーンの日を狙って起きた

    さて、本日は、宗教改革記念日でした。去年、宗教改革500年だったので、今年は、宗教改革501年となりますが、なぜ、この日が宗教改革記念日だったか、というと、この日が、万聖節(今はハローウィーンのほうが有名でコスプレパーティを街でする日になっている)だからです。

     

    このハローウィーンは、もともとケルトの土俗的信仰と結びついていて、亡くなった人がお盆みたいに地上に現れるというケルトの故俗の伝承が、パリピ(パーティ好きの人々、Party People)が多いアメリカにアイルランド人経由で持ち込まれ、子供場お化け(使者)の仮装して、収穫の秋に、おやつであるホームメイドクッキーやビスケットをねだって歩く行事に由来していますが、日本もいよいよ本格的に西欧化したのか、とうとう今年は暴動もどきが起きました。本家、アメリカの暴動は、車を燃やすところまで行きますが、今年の先週末の渋谷では、軽トラックがぼこぼこにされた程度で済んでよかったようです。まぁ、人が集まると集団ヒステリーが起きやすく、ろくでもないことが起きる、典型例のようなお話です。

     

    軽トラがひっくり返させられた渋谷のハロウィン仮装大会

     

    ハロウィーンの日(万聖節)は教会のコンテンツ見せびらかす日だった

    実は、ルター先輩が例の95か条の提題を張り付けたのは、まさに、その日に人が教会に集まって、バズる(人々の話題になる)可能性を見越してのことだったようです。今は、ツィートでバズりますが、インターネットやツィッター、インスタグラムのない社会でバズろうと思ったら、人が集まるところで、何か、話題になることをして、集まった人々にバズらせようと思ったように思うのです。

     

    実は、ルター先輩は、大学の掲示板(今も昔も、ほとんどだれもあまりじろじろ見ない)に95か条の提題を張り出したわけですが、それは、教会の扉でもあったわけです。そんな教会の扉をだれが見に来るか?って。それが来るんですよ。その日は、万聖節(All Saints Day)だったわけです。ハローウィンの仮装大会する日では、当時はありませんでした。その日は、教会にたくさん集められている聖人が残した何かである聖遺物を、教会が庶民に見せびらかす日だったのです。

     

    張り紙をするルター先輩 https://www.stmuhistorymedia.org/martin-luther-and-the-95-theses/ から

     

    聖人伝を巡る誤解と現代の聖人伝を生み出すプロテスタント教会

    プロテスタント教会の多くでは、聖人崇敬(そういえば、死人に祈ってどうする、とかこないだもちょっぴりバズってましたが)が失われてしまいましたが、正教会、カトリック、聖公会では、今なお聖人伝が残っているところがあります。聖人崇敬が一番きっちり残っている正教会さんの司祭様のお話によると、あれは、崇拝や、その人に祈るというよりは、その人の信仰深さ、信仰に根ざした生き方に倣いたい、という思いが出発点になっているのであって、その人に現れたキリストの良さを見習ってキリストともに生きる人になる、という概念なのだそうです。イコンを見るときに、その人がなしたキリストの良さの現れを思い起こすものなのだそうで、プロテスタントの多くの方が誤解しているように、亡くなった人を崇拝していたり、亡くなった人に祈っている、というのではなく、ああなりたいなぁ、と思って目標にしている感じ、まぁ、偉人伝を読んでいるのに近いのだそうです。

     

    日本でもありますよね。大河ドラマ見て、急に西郷隆盛にかぶれるクリスチャン(下記の本を参照)とか、西郷隆盛は(聖書を読んでいた ⇒)クリスチャンだった説(読んだのは、多分、儒学の一種、朱子学と思って読んでいたと思われる)、とか、大河ドラマを見て、感動して急に坂本龍馬にかぶれる人々とか。まぁ、そんな感じに近いかもしれません。昔はテレビもないし、大河ドラマといった番組もないので、自分たちの信仰の先輩を大河ドラマ仕立てにしていって、その人が行った故事を記念に近いように思うのです。まぁ、それだけのことをした人々だったわけです。

     

    先週の火曜日は、聖ヤコブ(イエスの兄弟 英語ではなぜかSt James)の日でしたが、やはり、信徒を守るために殉教してまで、信仰の灯をともそうとした人々はいたわけで、それは、キリスト教的大河ドラマの一つや二つ、製作したくなるのは、人情だと思います。こういう大河ドラマって、そこに、ちょっと創作、そして、だいぶん創作、あるいはデフォルメが入り込む余地が多少はあって、ということになるわけです。

     

    本来、プロテスタント教会では、こういう聖人伝とか聖人信仰とかは本当はないことになっているはずですが、実は、イエス時代や、その後の現代までの時代の聖人ではないかもしれませんが、その教会に深くかかわった初代の宣教師や初代の牧師の伝承は継承され、全地公会議で承認されていない各地の教会での聖人伝、つまり各個別教会での聖人伝が残っていき、それが語られるうちに、びっくりするようなことが起きた(それは起きたんでしょう。多分)という現代の個別プロテスタント教会の聖人伝がある教会もあるようです。そういう現代(昭和40年以降に、その教会の設立にかかわった方)で、別に殉教したわけではないない方の聖人伝をあるプロテスタント系の教会で、延々30分にわたって、「誰や、それ」と思いながら拝聴させていただいた経験がございます。

     

    イエスの兄弟、聖ヤコブ https://www.pinterest.jp/pin/526569381417241065/ から

    イエスの兄弟 殉教者St James

     

    聖人伝と聖地巡礼

    ところが、人間は弱い者なので、偉人伝を読んでいるうちに、尊敬がすすみ、崇敬になり、それが信仰まがいのものとして形成されてしまう人たちも出てくるわけです。そして、ちょうどイエスの着物の房に触れた病気の女性がたちどころに治ったように(これは、ちゃんと福音書にも書いてあるので、一部リベラル系のキリスト者を除く、キリスト者の多くが認めるところのはず…)、聖人たちが触れたもの、身に着けていたもの、聖人たちが持ったかもしれない何か、あるいは、聖人たちの遺骨にでも触れられれば、神通力が宿って、聖人と同じようになれる、とかいうことを思いたくもなる人たちが出てくるわけで、実際出てきました。あるいは、イエスが歩いたガリラヤ、パレスティナ、エルサレムに行けば、イエスの奇跡の一端にでも振られれる気分になるわけです。たとえ、イエスが歩いた当時の時代と今はかなり違っていても。

     

    そして、このイエスが座ったかもしれない椅子、イエスの弟子たちや旧約聖書の偉人たちが歩いたかもしれない場所にあった何か(それを聖遺物と言いますが)や聖人の遺骨の断片といったものを古代から、中世にかけてのキリスト教会は集めまくったわけです。すると、神通力が宿ると思う人たちがおられ、そう思っておられるわけですから、それに触れると効能あらたかで、罪の何年分かが消えた、と思いたくなる人たちはおられたようです。

     

    そして、中世の地中海航路で、ジェノバ、ピサ、ヴェネツィアが地中海交易の覇権争いをしていたころ、そして、旅客サービスに乗り出し、地中海航路開発に乗り出したのにほぼ同時期に、ちょうど今のジェット機による聖地巡礼行よろしく、ガレー船という当時の人力エンジン付きの高速船による聖地巡礼ブームが起き、かなり出所の怪しい聖遺物(イエスがかかった十字架の木を聖地巡礼者がかみちぎったもの、最後の晩餐の時イエスやペテロが座った椅子の一部を巡礼者がかみちぎって持って帰ったものとか…)が量産され、ヨーロッパじゅうそういう怪しげな聖遺物があふれかえることになった時期でもあります。

     

    そうすると、たとえ出所のかなり怪しい聖遺物であっても、それが真正の聖遺物だといわれると、そういう聖遺物を見て、宗教的感慨が内から沸き起こり、罪を犯さないようにしようと決心をする人々も出てき足りするわけです。そして、その感謝の気持ちとして、献金する人々が出てきたり、また、聖地巡礼に莫大な実際の費用と潜在的なリスクというか費用負担を覚悟して(多分、初期のころは海賊、山賊等が跋扈したりして生還できるかどうかも怪しい巡礼行で。かなり生命の危険も伴いましたし、ムスリムが支配してからの聖地巡礼行だと、イスラム海賊の捕虜になり、当時の習慣として、身代金を払えなければ、労働として身代金を払うために奴隷としてこき使われる危険性もあった)、聖地巡礼に出掛けて、宗教的感慨に触れる人々も出てくるわけです。たとえ、見に行く場所に置いてあるものが、Fakeやかなり怪しいものであっても。

     

    イスラム海賊(トルコの旗が掲げられている)とヨーロッパ海軍の戦い

     http://gatesofvienna.blogspot.com/2009/11/how-muslim-piracy-changed-world.htmlから なお、英語だがこの記事は面白い。

     

    ヨーロッパを席巻したトルコのイェニチェリ軍団

     

    なお、トルコは、過去トルコ海軍の軍船を和歌山の漁師さんが助けたことで、やたらと日本に対して好意的な国です。

    イラン・イラク戦争のときに、取り残された日本人を飛行機飛ばして助けてくれました

     

    実は、現在のヨーロッパ、とくにフランス、イタリア、スペインといった地中海諸国やその周辺のヨーロッパ諸国のイスラム嫌いには、このイスラム海賊とトルコのイェニチェリ軍団の影が今なお残っています。ドイツのメルケルさんは、そこまで難民融和的な政策をとっていたわけではないのですが、流入するムスリム系の難民の山を抱えざるをえなくなった結果、結局、人気を失って、党首の座から追い落とされてしまいましたが。長年ご苦労様でした。

     

    メルケル退陣予定を告げるニュース

     

     

    聖遺物信仰と贖宥状

    それが、時間的余裕がない、あるいは、仕事でどうしても母国から離れられないため、貧しさのために聖地巡礼に行きたくてもいけない人も出てくるわけで、そうなるとこういう聖遺物を見て、聖地巡礼にいった気になって宗教的感慨にふける人々も出てきて、そのお礼として、それ相当の献金をする人々が出てくるわけです。それが、ルター先輩が問題にした、贖宥状(いわゆる免罪符)の原形態としてあるわけです。そして、おカネとの交換で罪の赦しを売りつけるような不良業者は、どの世界でも出てくるので、そういう業者に怒り心頭になったルター先輩は、一体全体この概念は何だ、ということで、けんかをカトリック教会を相手に回して売りつけたのが、宗教改革であったわけです。

     

    ルター先輩がなぜ、この万聖節(すべての聖人を覚える記念日)にカトリック教会に喧嘩(議論としての論争)を売ったかというと、この日には、ルター先輩が張り紙出した教会にやたらと聖遺物があったらしく、近郷在所から、司祭を含む善男善女が、この聖遺物に触れ、聖人の遺訓に触れて、自分の現実の姿を見直し、キリスト者としてよりよく生きる手掛かりを得るようとして、聖遺物を見るために、博物館と化した教会に集まるから、ちょうどバズってもらうには、ちょうどいいや、ということだったのだろうと思います。そら、皆さん、見ますもん。ちょうど、ジュリーのコンサートに参加しようとさいたまアリーナに集まってきたら、公演中止の張り紙されるようなもんですから。

     

    沢田研二さんのさいたまアリーナドタキャンの張り紙 https://tlclip.com/45376 から

     

     

    ルター先輩が張り出した、張り紙というか、95か条の提題そのものは、教会内での公式の議論となるための張り紙ですから、ドイツ語という世俗の言語ではなく、教会内での議論のための言語であるラテン語で書かれていたはずですから、素人衆は読めなくても、玄人衆である司祭たちは読めたはずですし、それが驚いているのを見て、世俗のことばであるドイツ語で何が書いてあるのかを庶民は司祭の皆さんに、興味津々に聴きまくるわけです。もうこうなったらしめたもので、噂にのって、町から、村へ、村から村へとうわさが拡散し、それこそバズったわけです。

     

    宗教改革の話が長くなったので、本来の教会のコンテンツのお話について戻しましょう。

     

    サザエさん以上のコンテンツの塊のキリスト教会

    よく考えてみれば、キリスト教会は、全国にある教会が、ほぼオリジナルコンテンツの説教というコンテンツを毎週一部の限られた人々向けとはいえ、出している組織なわけです。さらに、音楽もあり、賛美歌も毎週歌いますし、場所によっては、まぁ、目を見張るような儀式をしておられる教会もあります。そこまでいかなくても、毎週日曜日には、ほとんどの教会で行っている内容は、その表現方法は異なっても、それこそありえない死者からの復活を毎週告げ知らせている儀式としての礼拝をしておられるわけです。その意味で、教会は本来、コンテンツ満載、コンテンツの塊のような存在であるはずなのだと思います。

     

    ところで、サザエさんは全国ネットである面、どこの地域でも同じ番組が見られているという意味で、正教会の奉身礼のような感じ(説教は個別教会で違うけど、本当に10分程度で短い)ですが、説教中心の教会では、教会ごとに違うコンテンツを毎週それも、30分から50分、場合によっては、1時間半の帯番組以上の長さのコンテンツを教会内だけで、流しているわけです。賛美歌もあり、説教もあり、って考えようによっては、ものすごい魅力的で面白いコンテンツ満載なわけです。それを、教会に引き込むことができた人たちだけに、伝えてきたのが、これまでの教会であったわけです。イエスが、世界に出て行って、伝えよ、と言われたにもかかわらず、教会に引き込むことだけを中心に考えるようになってしまっているのではないか、と思うのです。

     

    しかし、これまでの日本の多くの教会は引き込み型メディアであったヨーロッパの教会、アメリカの教会のコピー(宣教師がもたらしたスタイルがそうであった)をしてきたので、宣教とは、出て行って伝える、自分自身の存在をさらして、まだ、イエスに出会ってない人にイエスを指し示すよりは、イエスが説教で指し示されてるはずの教会に引き込んだ上で、イエスの死と復活とそこにある希望を伝えることを宣教だと理解してきた傾向があったように思うわけです。

     

    確かに、目を見張るべき死者の復活の儀式(それが、礼拝であり、聖餐であるとは思いますが)は、一人ではできませんし、やっても意味はあまりないように思います。その意味から考えても、教会に人を引き込む必要があったのです。その意味で、教会はプル型のメディアであったといえましょうが、人を引き込むためには、これまではプッシュ型、押し込み型、押し売り型のメディアを使わざるを得ない状態であったわけです。

     

    しかし、前のパパ様(ベネディクト16世さま)のようにデジタル大陸に宣教に出ていく教皇様や、スズメ写真でTwitter宣教している片柳神父、面白キリスト教ツィートで伝道している上馬キリスト教会等、まぁ、いろいろデジタル大陸に自らの身をさらし宣教しておられる方々も、最近は出てきたわけです。

     

    「Pope App」の画像検索結果

    Pope App

     

    「片柳çžçˆ¶ スズメ 被り物」の画像検索結果

    ここまで(被り物)くれば、もう恐れ入りましたというしかない片柳司祭

     

    なお、これらの方々の宣教に共通するのは、自分のところの教会に人を引きずり込んで、完結させようとせず、言いっぱなし、放置っぱなしの宣教だということなのです。でも、よく考えてみれば、この宣教スタイルは、イエス様やパウロの宣教スタイルなのです。撒きっぱなし、あとは、神の手にゆだねて育つのを待つ。そんな信仰なのだと思います。

     

    【口語訳聖書】第一コリント人への手紙
     3:5 アポロは、いったい、何者か。また、パウロは何者か。あなたがたを信仰に導いた人にすぎない。しかもそれぞれ、主から与えられた分に応じて仕えているのである。
     3:6 わたしは植え、アポロは水をそそいだ。しかし成長させて下さるのは、神である。
     3:7 だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは、成長させて下さる神のみである。

     

    伝道や宣教の方法論で四の五のうじうじ言ってないで、やればいい、という風にイエスはおっしゃっているし、パウロ先輩もそう言っているように上の聖書箇所からは思うんですけどね。コンテンツは、皆さん、どの教会ももそれなりにお持ちなんですし、そのコンテンツは、最もすごいイエスの死と復活、死者の復活というありえない話、ある言い方をすれば、世にも奇妙な怪談を伝えるものだからです。それを外に出して、人々に触れさせない手はないのです。

     

    メディア環境が今と違った情報不足時代の、昔は、張り紙やポスター、トラクトといった紙に印刷しなければ、あるいは紙に印刷した新聞や雑誌、電話帳に取り上げてもらえ人々の目に触れることはありませんでした。しかし、今、ウェブにさえ上げとけば、検索エンジンがひっかけてくれるので、人々の目に触れる機会がある状態を確保できるのです。今、電話帳をめくって、どこかのお店をさがす人は、どのくらいおられるでしょうか。

     

    それを考えれば、とはいえ、如何に教会に豊かなコンテンツ、驚くべきコンテンツがあっても、検索エンジンに引っ掛けてもらえなければ、世の中に存在しないのと同じ、という状況になっています。とはいえ、検索エンジンは、ウェブに上がっているものしか拾ってきませんから、それを過信するのも、考え物ではありますが。その筋の関係者としては、それは思います。

     

    バズるためにツイッターのハブ的アカウントに絡め

    いろいろ、ツィッターを再開したお友達の方がいて、ツィッターのフォロワーが少ない、というコメントとか、こんなのして何の役に立つとか、そんなことしても教会には来ない、とかいろいろ意見がそのお友達の投稿のコメントで飛び交っているんですが、これ、正直、理解不足だと思います。

     

    そんなことを思って、ツイッターを見ていると、静岡県庁のあるアカウントが、神戸市の公式アカウントに絡んでいるツィートがあって面白かったのです。

     

     

    静岡県庁わかものがかり‏ @wakamono_gakari

     

    最近、神戸市さんと仲良くさせていただいてますが、これも、3月に「わかものがかり、フォロワー少ない」という新聞記事が出た時、フォロワーさんから「他の自治体と絡んでみたら?」というご意見をいただき、その時からずっと温めていたことです。

     

    要するにバズるためには、巨大デジタル大陸のハブ(車軸の中心、どこか行くためのどこでもドアの役割を果たすようなアカウント、みんなが見ているようなアカウント  自治体関係だと神戸市の公式ツィッターなど)やキリスト教業界だと、ヴァチカンとか、先の片柳司祭とか、ローマ教皇とか、上馬キリスト教会とか、いろいろおられるわけで、そういう人と絡んで、その人たちが持つハブとしての能力をちょっと借りるだけで、一気に拡散できたりするわけです。それなりに面白いことを言う必要ありますが。

     

    まず、そのためには、自分の面白さをあらわすオリジナルコンテンツ、ユーモアを含んだコンテンツがあったほうがいいわけです。要はやりようだ、ということと、メディアに対する割り切りを持つ、ということなのだと思います。


    コピーコンテンツはNGです オリジナルコンテンツを

    以前から、説教剽窃(いわゆるコピペ)疑惑が出てたり、それを巡った物語が造られたりしたけど、ついこないだ、どこぞの印刷メディアにほぼほかの牧師さんの説教を剽窃した説教原稿がそのまま出て、ちょっとした騒ぎになったことがありましたが、まぁ、長い説教をしなければいけない牧師さん方にとっては、説教の剽窃ということをしたくなる気持ちは、わからないではありません。

     

    よい評価をレポートで得たいという誘惑にかられる大学院生とか学部の学生の皆さんが、ウルトラショートカットして、誰ぞの論文とかを自分の研究のようにして発表するとか、どこかに落ちているパワポのスライドで、あたかも自分が発表のために制作したかのように発表するという剽窃を目にすることがあります。そこは、教員のほうは心得たもので、いくつか基本的な質問をすることで、その人が本当に分かっているかどうか、自分で、考えて作ったかどうかは、すぐわかったりするのですね。

     

    皆さん、剽窃はいけませんよぉ。単位が取り消しになるだけでなく、その期の単位が全部お召し上げになりますから。

     

    これを防ぐために、手書きでしか対応のできない、その場の勝負になる筆記試験にするのが一番楽、ということに気づいてから、レポートでの評価はできるだけ避けるようにしてきました。

     

    余談はさておき。

     

    本来、人はそれぞれ、神によってオリジナルに作られているわけです。ほぼ同じ時間と出来事のかなりの部分を共有している家族であってもものの見方は、異なるわけです。だとしたら、同じ聖書を読んでも、環境が違い、時間が違うと、如何にみすぼらしい者であっても、オリジナルのコンテンツがあるはずだとは思うのです。

     

    どうしても、オリジナルの説教が思いつかないとしたら、延々、聖書の朗読でもいいと思うのです。それこそ、聖書は究極のコンテンツですし、読み方は一人ひとり違うわけですからそれこそオリジナルのコンテンツになるように思うのですがねぇ。字で書いたら、この読み方という部分、人の息吹の部分が消えちゃうのが残念ですねぇ。やはり、教会は、神の息吹が満ち溢れるとともに、人の息吹を介して、礼拝という形で、神に霊を返して行く場所なので、文字だけの教会、ってのは、ちょっと味気ないかもですね。

     

    その意味で、やはり、リアルには格段に落ちるけど、動画っていうのは、強いコンテンツなのだと思います。その意味で、キリストがこの地に来た、ということを指し示すのが教会の目的だと思いますし、キリストがこの地に来て、それが生きているということを人々の間で、普通に生きることで不完全ながらも指し示すのが、キリスト者ですし、キリスト者の宣教だ、と思うのです。であるとすれば、生きていることを、いろんな方法で見せること、それがネット上であれ、リアルであれ、それが大事なのではないかなぁ、と思っています。

     

    以上、このシリーズ完結です。長い間、お付き合いいただき、ありがとうございました。

     

     

     

     

     

     

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    コメント:ま、信じるかどうかはその人次第。読んだとしても、朱子学の一種として読んだような気がします。

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