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2018.10.17 Wednesday

『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(6)完結編

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    さて、ここまで長らく連載してきましたが、この本のご紹介も本日でおしまいになります。教派結論部分で大事なことが書かれていたので、その重要なポイントをある程度コンパクトにご紹介して、この連載シリーズを閉じたいと思います。

     

    神の贈与の象徴としてのキリスト

    これまでの近代経済学の世界では、いわゆるゼロサムゲーム的な社会が前提とされる研究を進めてきました。つまり、万人の万人に対する経済的な争奪戦の中をサバイブしようとするような社会を想定し、その中の人間は、より良いものを追求するグリーディな(貪欲な)世界観に支配されているとして研究を進めてきた部分が皆無ではないように思います。そのような社会の中での合理的な経済人は、自己の利益を最大化するという概念に支配されている、ということを前提に組み立てていくのが、近代経済学的なミクロ経済学の世界の基本的なお作法であったと言えるように思いますが、それだけでは説明がつかない現象が社会の中にはあるわけです。一見、自己の利益の最大化という視点から、非合理的ととも思える、利他主義(altruism)と呼ばれる現象をどう考えるのか、という問題が議論の対象になり、いろいろと工夫がなされてきました。

     

    近代経済学の中で、贈与経済のような経済概念が生まれうるのではないか、という研究が、10年くらい前まではやったように思うのですが、まぁ、従来型の近代経済学的なゼロサムゲームでの合理的個人を前提とする世界観の中に閉じこもっている限り、あるいは閉じ込められている限り、どうも贈与型経済モデルというのは出てこない、ような印象があります。まぁ、市場でやり取りされない、その行為に関係する人々の中で利益が発生する現象(外部性)がいろいろ発生するとか、個人の幸福度を定義する効用関数を中心としてモデルに工夫をこらし、それらしい均衡解を求めることは可能ではあるようには思うのですが、どうも決定打になるようなモデルを考えるのは、ちょっと困難なような気がします。

     

    しかし、キリストは、ご自身をまさに贈与として、人間に与え、これは、あなた方に永遠のいのちを与えたまい、そして、その上で、聖餐のパンを、これは、あなたに永遠のいのちを与えることを示す私の肉である、取りて食べよ、と言い給うたのである。そのような視点から、聖餐にキリストご自身のいのちの贈与がどのように現れているかということに関して、著者のスヒレベークスさんが書いた部分をご紹介すると次のようになっています。

     

     

    全ユーカリスト的出来事の基礎は仲間への、またこの枠内において父へのキリスト自らの人格的贈与である。これは単純に彼の本質である。―「人であるキリストイエスは一つの自らの贈与である」(ホ・ドウス・ヘアウトン( I テモテ 2:6))。地上での彼の歴史の永遠の確かさはここに宿る。既に私が語ったように天のキリストへの人格的関係は同時に彼の歴史的死の「想起」なのである。ユーカリストとはこの出来事の秘跡的携帯であり、父と人間たちへのキリストの自己贈与なので会うr。記念の食事でもあり、そこではパンとワインの世俗の重要性が引き出され、これらはキリストの自己贈与の運搬人となるのである―「とって食べよ、これは私の身体である」。(『ザ・ユーカリスト』p.136)

     

    この部分をミーちゃんハーちゃんがどう受け取ったか、というと、ユーカリストの出来事は、イエスが弟子たちに、これを受け取って食べよ、あなた方に永遠の命を与える私自身の存在なのである、と言って、弟子たちに渡されたものであり、イエスと弟子たちとの関係は、単に物質的なものの贈与と授与という関係を超えた、人間的な関係の中でのイエスの人格的存在が直接ともにいた人々、のちの日々にともにいようとする人々のために存在したということの象徴であり、それ故、神であるべきものが、人として、人と等しくなり、この地に下ってきた、という驚くべき出来事は、それこそ、神の立ち位置を人間に贈与するための行為であったと言えるのであり、そのことを食事の形を通して、記念する儀式でもあるということなわけです。そして、パンとワインは、人間にキリストが与えられた、すなわち、「撮って食べなさい、これは私のからだである」とイエス自身が言われた贈与の形を具体的に示すツールであると言えるのだ、と理解することができようか、と思います。

     

    このイエスの贈与は、先ほど、ちらっと触れましたが、イエスの謙卑(へりくだり)とも深くつながっており、神の子であるイエスが人の子として、すなわち、無力な世話が必要な赤ん坊の形でこの地に下ってきたこと、そして、十字架の直前には、人々、ローマ兵の悪意の伴う手のなすがままの状態を受け入れ、そして、すべてを終えられたあと、また人の手での世話になるほど、他人の手にご自身を渡された、ということと同様に、我々の手にご自身の体をお与えになったことも象徴しているように思うのです。その意味で、イエスのからだを受け取るということは、我々がキリストでもあるイエスを好き勝手にした人々とも同じであることも意味しているように思うのです。まさに、我々の手にご自身を渡されたことを象徴しているように思うのです。

     

    神と人との相互関係が表現される場としての聖餐

    渡されたパンを自分の手で受け止める、ということは、キリストの弟子として、キリストにならう者として、キリストの生を引き受けることをも象徴しているように思うのです。こういうことを思っていると、この聖餐のパンを受け取る、ということはキリストの生を引き受けることにもなる、ということは本当にキリスト者として生きる、ということを考えさせるために重要だなぁ、と思うのです。そのようなことについて、スヒレベークスさんは次のように書いています。

     

    ユーカリストで我々に与えられるものはキリストご自身以上には何も無い。パンとワインの秘跡的形態が象徴するもの、活動時にリアルにするものは、それらにおいて与えるご自身であるキリストについて言及する贈り物ではなく、人格的存在を生きるキリスト、彼ご自身なのである。秘跡の象徴する機能(サクラメントゥム・エスト・イン・ゲネレ)はここで最高潮に達する。それは信仰のうちに我々が経験しうる純粋で意味深い存在の内なる生けるキリスト、そのご自身を存在せしめるのである。ユーカリストのパンとワインの現象的形態は、御自身を存在せしめるのである。ユーカリストのパンとワインの現象的形態は、ご自身についてのキリストの贈り物をリアルにする印以上の何物でもない。それはすべての信者を人格的にこの出来事に招く印を我らに対してリアルにすることにおいて、教会はこれに応答して応えるのだ。秘跡のパンとワインはゆえに我々にキリスト存在をリアルにする印だけでなく、教会の現臨(教会において、我らについてもまた)をキリストに対して持ち運ぶ印なのである。ユーカリストの食事はかくしてキリストのご自身の贈与と教会の応答的自己贈与を象徴し、それはキリストにおいて、かつキリストを通して与えるものを与えうるのである。秘跡的形態はかくして「現臨」の互恵主義を象徴する。救いの決定的共同体として教会はキリストから切断しえない。(同書 p.138−139)

     

    日本語があまり読みやすくはないので、ミーちゃんはーちゃんが理解したポイントについて解説すると、秘跡、あるいは、いくつか聖なる儀式とか、サクラメントと呼ばれる儀式はありますが(プロテスタントの教会は洗礼と年に数回の聖餐だけがサクラメントです。プロテスタントでは、結婚式は本来、聖なる儀式ではないことになるらしいのですけれども、なぜか、多くの日本人のノンクリスチャンの方は、教会でやりたがるのが意味不明ではないか、と思います。なお、プロテスタント教会の結婚式では、聖餐もついてこないという…)、やはり、毎週(少なくとも毎週、できれば毎日)一回執り行われる聖餐は、イエスと私達との関係を、イエスの臨在を象徴する儀式ではあるわけです。そして、聖餐を通して、自分たちの体と魂を神に帰し、神のものする、あるいは、自分自身のすべてを神に帰属させる儀式でもあるわけです。ユーカリストで用いられるパンとワインというものとしての確は、基本的に聖餐式に現実におられるイエスを指し示す記号、象徴、ポインターでしかないのだけれども、イエスが行った最後の晩餐、死と復活、エマオの途上の出来事がリアルであったと認識するための記号、象徴、ポインターであり、その聖餐式が行われる場でもある教会も、その聖餐を行うことで、信徒がキリストのものであるということを具体て行為を通して示し、キリストがこの地に今尚おられる、神の国はあなた方の中にただあるということを指し示すポインターであって、キリストからの取りて食べよ、という言葉に、信者が、そのパンと盃を受け取ることで、相互に応答し合い、響き合っている情景を表すのが、聖餐なのだ、ということを言いたいのではないかなぁ、と思いました。そして、その響き合っていることは、信徒と、教会と、キリストがその場にいて、相互関係(互恵主義と訳されているが、これはちょっと???だった)が存在していることを示しているのであって、イエスが完成した神と人間の関係の回復(これが救いということ)が地上で実現したことを示す共同体として、教会とキリストは一つであることを示しているという意味で、非常に重要な存在なのだと思う、ということをスヒレベークスさんは言いたかったのだろうと思います。

     

    教会で起きている神の国

    しかし、聖餐は、ここでもミーちゃんハーちゃんが書いたように、神から一方的に与えられた(贈与された)永遠のいのちがあることを示すだけではなく、パンとワインを受け取るという人間側の行為によって、神との交流、神との関係の回復を示す重要な儀式なのだと思います。まさに、神と人が一つであり、この地上に神の国が来たことを指し示している、神の国は、死んだあとにいくところではない、ということを示しているという意味で、非常に重要な儀式になのだ、と思います。神の国、天国、天の御国、なんと呼んでも良いとは思いますが、それが死後に起きるできごとではなく、この地においておきているのだ、ということを指し示す聖餐なのだとおもいます。踊る大捜査線の青島刑事の物言いではありませんが、「天国は、死後に起きるんじゃない。この教会という現場で、今、リアルに起きているんだ」ということなのではないか、と思います。

     

    踊る大捜査線で有名になったセリフ 「事件は会議室で起きているんじゃない」

     

    そのような意味で、次の表現は重要なのだ、と思います。

     

    ゆえにユーカリスト的存在は個々人の信仰によらないがしかし、秘跡的提供は教会共同体から離れては考えられない。つまり結局はキリストと彼の教会の現臨なのである。(同書 p.141)

     

    聖餐に象徴されているキリストの存在は、個々人の信仰とは無関係に存在しうるのだけれども、しかし、神の永遠のいのちと、イエスが与えようとする永遠のいのちが与えられようとしていることを象徴するパンとワインが人間に提供されるためには、受け取り手の存在が必ず必要で、その受け取り手である信仰共同体は、教会共同体でもあり、聖餐共同体、教会共同体と聖餐は切っても切れないものである、ということに集約される。その意味で、神の国は、死んだあと行くところではなく、この地において、教会で、今日も起きている、ということなのだろう、と思います。

     

    人間の理性を超えた神の出現と現象

    記号論をやるとよく分かるはずなのですが、現象というフェーズにおいて行われる出来事や、発言そのものは、ある種類の象徴性を担っていいるわけです。そして、人間はその記号を使ってコミュニケーションを行い、単なる物のやり取りではない、謝罪や感謝、感動、怒り、意味をモノに持たせたり、言葉や行為に持たせたりしているのです。もちろん、意味を解したり、出来事や言葉、音声や、楽譜や矢印などの記号に意味を付与したりするのは、感性の働きであるとともに、理性の働きでもあると思います。その意味で、この理性の働きがある面、聖餐についての様々な見方ができるようになる反面、人間の理性は限界があるため、象徴している実態というか現実を、言語や、絵画や、動画と言ったさまざまな手段を様々使おうがきちんと描ききれない部分があることは確かです。そのあたりについて、スヒレベークスさんは、次のように表現しています。

     

    人間のロゴス、人間自身の意味付与はかくしてリアリティの出現に際して一つの役割を負う。人間の知識の不適切性はリアリティと現象としての出現の間の、ある種の相違を告げる。この意味において現象学的なものはリアリティの印なのである―それはリアリティを象徴する。(pp.147-148)

     

    改革派の教会では、象徴的なもの、絵画や十字架ですら排除し、ひたすら排除の方向性をお持ちであられますが、伝統教派の教会に行くと、教会のあちこちに十字架の形をモチーフにした飾りがついていたり、三位一体を示す象徴や、イエス自身が存在すること、聖霊がこの地に、いまこの場におられることを象徴する記号に満ち溢れています。まさに、ここにキリストの現臨がある、ということをこれでもか、これでもか、というほど存在しています。まさに、教会にある様々なもの、色、形、形あるもの、形がないもの、人間の所作、と言ったすべてが、神の存在、神の現臨、神の性質を指し示そうとしているかのような印象を受ける教会もあります。

     

    しかし、建物よりも、建物に示されたデザインよりも、何よりも神の存在と現臨、神の性質を示すものが、リアルなパンとワインで行われる聖餐だと思います。

     

     

    「Inside Church」の画像検索結果

     

    コプト教会の説明をするわかりやすい子供向け動画

     

    無意味な正統、非正統の議論と限界あるキリスト者

    プロテスタントは、戦闘民族と言われるほど、聖書理解、教理を巡って、そして、その妥当性、正当性、真正性、真実性を巡って、物理的な力によらない、論理や言葉を用いた死闘に近い争いをしてきた歴史があり、そして、その結果として、聖書理解の深さと確実性を広めようとしてきた側面がありますが、しかし、それは歴史的状況依存なものでもあったわけです。

     

    重商時代の王国がまだたくさん残っていたり、帝国主義的な思想が盛んなりし頃の19世紀と近代社会が生まれた時代の環境とその課題と、民族自立が言われ、民族固有の言語が見直されてきた20世紀の環境と課題は違いますし、モダンが賞味期限切れになりかけたポストモダンの時代の21世紀の課題は異なるわけです。

     

    その異なる環境や人間を取り巻く問題状況の中で、聖書という、文字としては固定されたテキストをもとにどう考えるか、どう生きるかが(それが神学ということだと思いますが)、現代人には求められているわけです。21世紀に生きる我々が、18世紀に編み出された神学を学ぶことに全く意味がないとは言いませんが、18世紀の神学に捕囚され続けていたり、自らをそこにロックインし続ける必要はないように思うわけです。

     

    18世紀の神学に捕囚されて生きることを、マクグラス先輩は、21世紀の時代の最先端が観測されるサン・フランシスコで、18世紀のドイツや、イングランドでの流行モードであった服を着て生きる人は、よほどの時代遅れの人ではないか、という趣旨のことをある本でおっしゃっていますが、しかし、翻って日本の神学的状況を一信徒の立場から考えてみますと、18世紀とは言いませんが、19世紀か20世紀前半のドイツや、アメリカの神学が未だに幅を利かせている状況があって、どこ国の服(神学)を着るのが正しいのか、正統なのか、ということの収集のつかない争いを言葉を使って、まさに死闘と呼ぶに近いバトルをしておられるように思います。

     

    そのあたりのことをスヒレベークスさんは、次のような表現で書いておられます。

     

    信仰に聞き、それがゆえに信仰において解釈しつつある人間は、もちろん歴史において彼自身であり、彼が聞いたことについてのその解釈は、とりもなおさず、その状況に彩られている。そしてこのことはけっして単独で、あるキリスト者仲間を「非正統的」と呼ぶ権利を与えない。私自身が自らの正統性について人間的なあるいは批評的確かを持ちえず、ただ神の恩恵のゆえにただ固く望むだけの時に、どうして他者の正統性をさばくことができよう?個々のキリスト者による信仰についての常に育ち行く解釈はいつも誤説と誤解にさらされるのである。(同書 p.159)

     

    要するに自分自身だって、どこまで正当なのか、正統なのか、ということに関して、批判的に考えた時にそんなに確実でもない(そもそも神ならぬ、鼻から神に息吹を入れていただいているが故に、生きているに過ぎない人間自体が不完全だし、不確実である)のだから、どうして、他人を裁けようぞ、どうして、自分以外の他者を「非正統的」と言えるのか、という議論を展開しておられます。我々は、イエスがこれを行え、と言われて、神の憐れみの故のみで、イエスから与えられた永遠のいのちを表す聖餐の前に、ただ、立ちつくし、ただ受け取るしかできないものなのに、他社の正統性を云々(云々をデンデンと読むというこの漢字に文字の読み方が最近は、流行っているらしいと聞いていますが、そのうちそれが正統的な読み方になるかもしれない…とも思います。言葉とは、その程度のものである)することは、そもそも論としてできないのではないか、人間は誤った判断をしやすいし、誤った議論をしやすいものなのだ、ということなのだろうなぁ、と思います。

     

    その時、唯一確実なものは何か、といえば、イエスがこれをなせ、これを行えと言明したまいし聖餐であり、イエスの永遠のいのちがこの地に来たことと、神と神の子、三位一体の神が現実に存在したし、現実に、いま、この地の存在するという約束と言ってもいいし、人間のうちに神の国が実現していることを象徴する記号としての聖餐なのだと思います。実際に物体として食べ、飲み、自分のうちにこれらの物を受け取るわけですから。

     

     

    ということで、本日で、この本からのご紹介はおしまいです。長きに渡って、お付き合いいただき、ありがとうございました。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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    コメント:中身は本当にいいけれども、文章はかなり読みにくいです。とはいえ、一読以上の価値はあると思います。

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