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2018.10.12 Friday

『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(4)

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    さて、今日も引き続きザ・ユーカリストのご紹介をば、していこうか、とおもっております。前回は、近代時代における科学性がさまざまな世界で支配的になる中で、呪術的に見えかねなかったカトリックの聖餐の聖変化について、どう考えればよいのか、ということで、本書の著者が、象徴論や、認識論を援用しながら、キリストの臨在をどう考えることができるのか、近代科学の支配的な時代において、カトリックが保存してきた実体説をどう護教できるのか、ということについて述べた部分をもとに、解説を加えてまいりました。本日ご紹介する部分は、それを一層深化させ、人間と聖餐の理解で、どのように聖餐がキリストの臨在であるのかということを、考えることができるのかについて、述べた部分をご紹介していきたいと思います。

     

    対象との関係論における意味論的アプローチでの聖餐理解

    さて、まず最初に、本論部分で、とても印象的な部分から、ご紹介してまいりたい、と思います。それは、ヴェルデ、という人の聖餐と人間、キリストと人間との関係というある種の関係での認識論、意味論から、この議論を考えるようとした部分からです。

     

    J・ヴェルデはさらに十分な分析を施した。彼の立場は人格的霊的関係性は身体的物質的のそれよりもさらにリアルだというものであった。ゆえに彼はユーカリストのパンとワインをそれらの関係性の光の下で眺めた。存在、真実なるもの、そして善なるもの(意味を持つ者)は純正にトマス的見解から見て互換性がある。それら自身の存在においては、物事は誰かのために「何かに対して意味を持つ」ことなしに、あるものはそれ自身ではない。この超越的「何かに対して意味を持つこと」は特に具体的形において成る。(中略)

    ギリシア神殿はその建築者にとって、そこでの礼拝者にとって、現代の観光者にとって異なる。人間それ自身は本質的にこの関係性の中に巻き込まれるがしかし、完全にはそれに依存してはいない ー 物の存在そのものは関係性が変わるときに変化する。よって次のように言える。「神殿が「歴史的実態変化」を経た」と。(ザ・ユーカリスト p.110-111)

     

    この部分は、まだなんとなくは意味が取れるのですが、それでも意味が初見で読んだだけでわかるわけではありませんので、いつものように、翻訳された方には申し訳ないのですが、日本語から、ミーちゃんハーちゃんの頭の中で、逆アセンブルして、更にそれから再アセンブルしたものをお示ししてみよう、と思います。

     

     

    J・ヴェルデはより深い分析を行いました。ヴェルデの立場は人格的、そして、キリストの霊的関係性は、単に肉体を通しての身体的関係性や、物質と肉体との関係よりも、さらにより実際的なものがあるというものでした。ゆえに彼はユーカリストのパンとワインをそれらの関係性の中で再検討したのです。

     

    存在することや真実であるもの、そして善なるもの(それは、人間にとって意味を持つ者や事柄)は、純粋にトマス的なアプローチから見て相互に互換性がある、ということになります。存在すること、真実、全なるものといった存在そのもののや事柄といったものについては、誰かのために「何かに対して意味を持つ」ことがあって初めて、存在すると言えますし、真実である、善なるものであると言えるはずです。ある面で、超越的に「何かに対して意味を持つこと」は特に具体的形においてそのいみあることが起きると言えるのです。(中略)

    ギリシア神殿はその神殿を建築した建築家にとって、そこでの過去ギリシアの神々を礼拝した人々にとって、そして、現代の観光客にとって、そしてそれぞれの人々を考えるとき、神殿とそれぞれの人々との関係性は異なるものだと言えるでしょう。人間自身は、その存在のあり方からいって、ある対象(例えばギリシア神殿)との間の関係性の中に巻き込まれることになりますが、しかし、完全にその対象にのみ依存して関係性が決まってしまうわけではありません。もう少し言うならば、モノやコトの存在そのものは、人間とモノやコトとの関係性が変わるときに、人に対する意味が変化するのです。であるとすれば、「神殿が『歴史的にかつ実態変化』が生じている」と言えることになるのです。

     

    調べてみたのですが、J. ヴェルデなる方については、調査時間があまりなく調べがつきませんでした。しかしながら、実体説を実物とそれが指し示そうとしている象徴の本体と人間との関係の意味論で考えてみようとする試みは、非常に大事であるかもしれない、と思いました。まぁ、カトリックの方々の古くからある伝統的な理解とは合わず、受け入れられるには至らなかったようですが、しかしながら、キリストが与えたパンと盃とが再現されることで、キリストと当時の弟子たちと、キリストの現在の弟子たちである現代の信徒における意味においての同値的な関係が再現することで、過去の信徒にも、現在の信徒にも、このパンと盃が意味を持つという意味において、具体的なパンと盃という形を通して再現されることで、キリストとの関係性を意識させることで、パンと盃に人間が関与するという関係性から、聖餐(ユーカリスト)が「『歴史的にかつ実態変化』が生じている」と言えるのではないか、というご主張であったように思います。

     

    関連画像

     

    ある意味、聖餐の場で、人間が経験するパンと盃という物質的なものを解するとはいえ、それが象徴することと、そこで信者がともにパンと盃を口にする、そして、神である御子イエスを自己の中に受け止めるということの象徴的行為を介して、神秘的な神との出会うことこそが、「『歴史的にかつ実態変化」が発生している」ということでもある様に思いました。

     

    結局このあたりの物体と人間、概念と人間、歴史的事件と人間の関係は、意味論だけでもダメではあるし、認識論だけでもだめであるし、構造主義理解だけでもだめで、歴史的理解だけ、あるいは物理的理解だけでもだめで、また、ソシュールで提起されたシニフィアンとシニフィエという言語論的アプローチだけでもだめで、はたまた、人間関係論だけでもだめで、もっと総合的に考えるべきものであるような気がしているのですが、とはいえ、一人の人間で、ワンマンバンドみたいに、一人で全部の方向から考えることはできないので、様々なものごとの見方について、いろいろな人が考えてみることは大事なのだろうなぁ、と思います。

     

    イエスが定め給うた聖餐である、という意味

    聖餐は、これを覚えて行いなさい、とイエスが直接弟子たちに命じたことが明確に福音書に記載されており、聖書から直接跡づけることができる儀式、典礼、聖礼典のひとつです。その意味で重要だと思いますし、それを教会の伝承のみである、とするのには困難が伴う教会の重要時の一つだと思います。結婚、離婚は、プロテスタントでは典礼ではありませんし、葬儀も、典礼扱いはされていませんが、実際に多くの教会では、聖餐実施回数がそれほど行われているわけではなく、カトリックなど伝統教派では、基本は360回以上、ほぼ毎日行われており、少なくとも週に1回は行われています。プロテスタントでは、多くの場合月一回か、年に数回のところが多いようですし、聞いた範囲では、年に2回程度、というところもあるようです。そちらの教会では、牧師先生が、もうちょっと、聖餐を増やしてはどうかなぁ、と提案めかして、聞いてみたところ、信徒さんからは、あまり芳しくないお返事が帰ってきた、ということもお聞きしました。

     

    聖餐式の回数が聖餐の在り方の正しさを決めるわけではありませんが、いろいろな生産に関する神学理解があることも存じ上げてはおりますが、もう少し多くのプロテスタント教会で、もうちょっと、この聖餐を通して、自分たちが何者なのか、何のための教会なのか、を考えていただくといいのになぁ、とは、個人的には思っています。

     

    このあたりのキリストが定められた儀式であること、そして、キリストとの関係について、どの様に見えるのか、ということについてのスヒレベークスさんの文章を翻訳されている部分を、まず引用してみたいと思います。

    ユーカリストの場合においても、いかなる人間によらず、神の子によって新しい意味がパンとワインに与えられる。なぜならそれは、神の子によって起こった関係性は神聖であるから、絶対的な意味において拘束力があり、信徒のためにユーカリストの存在を決定する。信じないものは誰でも結果的にこの方法において見ず、彼自身を客観的に存在する現実の外に置く ー彼は存在の秩序の外にいる。ヴェルデはこの考えを作動する仮説として推し進めた。(同書 p.111)

     

     

     

    「Bread and Wine Holy Communion」の画像検索結果

    ユーカリストを表す絵柄のステンドグラス

     

     

    これまた、あまりわかりやすいとは言えないように思いますので、それをもう少し、読み解いたもの(一旦、日本語から英文を推測して、さらにミーちゃんハーちゃん風に日本語変換したものをご紹介したいと思います。

     

     

    ユーカリスト(聖餐)の場合についても、いかなる人間によらず、神の子によって新しい意味がパンとワインに与えられたと言えるでしょう。なぜならそれは、直接、神の子であるイエスによって始まった関係性だからです。つまり、イエスが始め、そして守るように命じられたことですので、神聖なものであるわけです。ですから、聖餐については、絶対的な意味において拘束力があり、信徒のためにユーカリストが存在しているのだ、ということが定めらているのです。イエスを神として認めない(信じない)ものは誰でも結果的に、イエスが人々に命じられたものとして、聖餐を見ていないことを意味します。つまり、イエスを信じない方は、その人自身で、神と人との関係という客観的に存在しているリアリティである関係の外側に置くことになるのです。もう少しいうと、イエスを信じない人は、神がこの地に存在するという、神の秩序の外側にいることになるのです。ヴェルデは、このような考え方を、とりあえず、分析するための作業用の仮説としておいた上で、考察を進めたと言えるでしょう。(同書 p.111)

     

    つまり、イエスが、神のところから来たものである自分がこの血において、人々の中で生きて、死んで、そして、復活したことを象徴する聖餐を命じた以上、聖餐を受けるということのためには、先ず、イエスが神であることと認める必要があるし、聖餐を自分のものとして与る、あるいは聖餐のパンと盃を受けることは、イエスの弟子であることの象徴ないし象徴的行為でもあること、そして、その弟子の象徴を受けない、象徴的行為に関与しないということは、神がこの地にリアリティとして存在していない、ということを意味しかねない、ということになるのではないか、その前提に立って、議論を進めたということを述べているわけです。そう考えてみると、結構、信徒として聖餐にあずかること、その象徴的意味は、単に聖餐を受け取っているということのみならず、神が存在することを信じ、そして、神の子であるイエスの死と復活をこれまでの使徒、あるいは過去の信仰者と同じ様に信じ、そして、死と復活が将来自分の身にも起きることを象徴している、ということになる、ということを考えると、この聖餐のの意味、というのは本当に大きいのだなぁ、と思います。

     

     

    「Holy Communion All in One」の画像検索結果

    アメリカのドライブインシアター型教会などで用いられる、パン(ホスティア)とぶどうジュースがパックされた

    コミュニオン・セット(ないよりマシだとはおもいますが、なんか味気ない…)

     

    次回へと続く。

     

     

     

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    コメント:内容が良いのに、日本語が不自由なのが残念。

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