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2018.10.08 Monday

『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(2)

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    評価:
    価格: ¥ 1,080
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:読みやすいとは言わないが、中身は大変参考になる本だと思います。

     

     


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    前回は、この本の翻訳者の方が、この本に出合ったこと、そして、聖餐が重要であると感がるようになられたこと、この本を翻訳使用された動機についての部分を、「訳者あとがきにかえて」の部分からご紹介してきましたが、本日からは、本題のスヒレベークスさんの『ザ・ユーカリスト』からいよいよご紹介していきたいと思います。

     

    前回のあとがき部分をご紹介したFacebookの紹介記事には、プロテスタント派では、聖餐に用いる器具の扱いが粗雑、ファックスの神に紛れて埃(誇り)まみれになっているだの、病床洗礼している牧師さんが、アルツハイマー患者の方やがんの鎮痛剤で意識もうろうとしている方も聖餐にあずかると目に光を取り戻された経験があるとか、正教会の聖餐のスタイルや、伝統教派の聖餐のスタイルの話、ナウエンがスラム街で聖餐をしようとパンを持ち込んだら、パンがスラム街の人に持ち逃げされたことがあって、それを見たナウエンが「イエス様は彼らの中に行ってしまわれたのだから取り返す必要はない」とそのパンを取り戻そうとしたお連れの人に言った話とか、パットン将軍のプラモデルの話まで、まぁ、いろんなディスカッションがありまして、この本ご紹介した甲斐がありました。

     

    さて、このスヒレベークスさんの聖餐論は、本ブログでも時々取り上げるナウエンとその聖餐論にかなり影響を与えた、旧大陸のカトリックの神学者の人のようです。その本に出合った、カルヴァンだいすきな牧師先生であった翻訳者の方が結局カトリックに改宗(回宗)させるきっかけになった本のようですから、非常に重要な本なのだろう、と思います。

     

    13世紀に起きた聖餐理解の再検討

    さて、伝統的に行われてきた聖餐ですが、いろいろ紆余曲折はありながらも続けられてきたわけですが、13世紀ごろに、その意味の見直しが行われ始めます。そのあたりについて、スヒレベークスさんは次のように書いています。

     

    13世紀の「新神学」は斬新かつ近代主義的な響きを持っており、明らかにキリスト教信仰の核心部分をつき、我々のいる20世紀 ー すなわち出版その他の伝達手段を伴う社会開花の方法、とりわけ上から下、下から上へ、また近代の混合社会全体をつなぐ複数の伝達経路を持つ思想の流れが、常に流動する状態を持つ時代 ー においては、間違いなく大きな警報を鳴らしていたであろう。伝統的思想へのボナヴェントゥラの姿勢は特に刺激的であった。

     彼いわく「無思想の人々は全く危険なこの秘跡思想にたぶらかされてしまう」と。(『ザ・ユーカリスト』p.13)

     

    最初に上記の文章をこの本を読んだときに、「新神学」と呼ばれるものが、13世紀であるあたりである、というのを見たときに、ヨーロッパの歴史の深さを感じました。日本はキリスト教が伝来して、潜伏キリシタンまで戻っても(ネストリウス派のキリスト教とされる大秦景教が日本にキリスト教のままとして平安時代にすでに伝わっていた説はかなり無理があると思います)500年前後ですから、まぁ、歴史が浅いと言わざるをえません。さらに、いろいろ各派がご活躍中のプロテスタント派は、日本に到達して200年未満なわけですから、今の日本のキリスト教での、新神学は、「ウルトラスーパー超新神学」に違いないのだろうと思います。

     

    まぁ、13世紀の新神学は、おそらくは、伝統的な前期スコラ哲学的な神学以降の、やや近代的合理性への視線を含んだ様な神学だったのだろうと思います。ボナヴェントゥラの名前が出てきますが、最初にググると出てくるのは、以下のサッカー選手ですが、その人は13世紀とはほとんど無関係なので、たぶん、サッカー選手のことではないと思います。

     

    ボナベンチューラ(イタリアのサッカー選手)

    ボナヴェントゥラ

     

    しかし、上の文章でもわかるように、この本、訳文が硬くて、なんか複雑骨折していて、わかりにくくて閉口しました。まだ、これなんかは骨折の程度は軽いほうです。

     

    ミーちゃんはーちゃんは、この文章を読んで、読み替えをした時に、どう変換しなおしたかというと、こんな雰囲気に頭の中で変換しなおしました。

     

    (本文のミーちゃんはーちゃんによる再変換)

    13世紀の「新神学」は斬新かつ近代主義的な響きを持っており、明らかにキリスト教信仰の核心部分をついているものであった。我々のいる20世紀 ー この時代は、出版その他の伝達手段を伴う社会における技術が発展し、とりわけ上から下、下から上へといった様々な情報流が発生している社会なのだけれども、近代の社会全体をつなぐ複数の伝達経路の存在が生む様々なものがまじり合った思想の流れが、常にいろいろな形で流通することが可能になった時代 ー においては、間違いなく大きな警鐘を鳴らすことになっていたかもしれない。伝統的思想へのボナヴェントゥラの姿勢は特に刺激的なものであった。

     

    翻訳された書籍が困るのは、結局、原文に忠実に翻訳しようとしすぎると、わけわからなくなるところなので、ミーちゃんはーちゃんが翻訳書を読む際には、おそらく、このように訳されている部分には、この単語が使われているだろうし、英米人だとこの表現になるだろうから、こう書いてあったのではないか、と頭の中で英文に直してみて、その上で日本語に再変換してみるという迂遠な作業をすることになることが多いところです。じゃぁ、英文読めよ、の話にはなるのですが。

     

    さて、要するに、ここで、ボナヴェントゥラについて、スヒレベークスさんが言いたかったことは、このボナヴェントゥラの思想は画期的なもので、もしそれと同じことがメディアがいろいろ存在するような当時の西洋で起きたら、神学の世界では、とても大騒ぎなったほどのインパクトを持ったであろう、ということだとは思います。

     

    それで何が画期的だったか、というと、聖餐におけるキリストの現臨というか、聖餐におけるキリストがどうリアリティをもって存在すると考えるのか、ということについての解釈論が今風のことばでいうと、神学者と教会内の指導者的な人々の間で、バズったのではなかろうか、ということであったわけです。

     

    プロテスタント系の教会では、聖餐におけるキリストの現臨を象徴として理解するため、パンと杯にイエスが臨在することを願う部分(聖別、正教会では、成聖)が省略されていますが、正教会さんは、この部分は、イコノスタシスの後ろ側で行われるので見えませんが、カトリックと聖公会は教会によっては見ることができ、式文を唱えながら、物体としてのパンとぶどう酒に神の臨在があるものにしていくことを表現します。

     

    たとえば、

    Hear us, O Christ,
    and breathe your Spirit upon us
    and upon this bread and wine.
    May they become for us your body,
    vibrant with your life,
    healing, renewing and making us whole.
    And as the bread and the wine which we 
    now eat and drink are changed into us,
    may we be changed again into you;
    bone of your bone,
    fresh of your fresh,
    loving and caring in the world.
    Amen.
    というような表現です。(たまたま、昨日の式文)

     

     

     

    このあたりは、確かに、この式文の意味をあまり考えない「無思想の人々は全く危険なこの秘跡思想にたぶらかされてしまう」ということになりかねない部分を持っています。しかし、よくよく考え、それが何を意味するのか、式文の奥にある思想を考えるということをブレーキとして考えなければ、確かに、神秘主義に走り、わけわからない呪術の世界に行ってしまいかねない要素はあります(特にラテン語など、ほとんど普通の人とは関係ない言語で行われる場合)。式文がラテン語であっても、ある程度ラテン語を学び、意味を考えることができれば、その部分聖別とか成聖についても、そこで言われている表現が何を意味するのか、あるいは、ある意味を持たせていることを理解する、という逆アセンブルすることによる理解ができるはずだと思います。このプロセスをさぼると、それは、まさに呪術的、という感じになるかもしれません。

     

    神学と一般の乖離、でも一つでありえた時代

    それで、この13世紀の「新神学」が生まれた環境下で、では、一般の信徒さんはどうだったか、一般の信徒さんとこの新神学の世界の関係はどのようなものだったか、について、このように書かれています。

     

    例えば中世大学の一般教養学科に参加したり、あるいはパリ、ケルン、オックスフォードの神学部で学んだものは実際誰でも、一般教会員の信仰の「感覚的」経験とは全く異なった考えを持ったのである。この平均的信仰の経験は、偉大な修正者たち(彼ら自身初期スコラ主義の学びを続けた)にしたがって平穏な道をたどり ーまた根本的に純正なカトリックの意味合いとも和してー 今日にたどり着いたのである。これらの「新神学者」たちの「科学的信仰」の基本的意味は、直接的最終的分析においては、教会の一般に忠実な信徒たちのそれと等しかったのである。しかし信仰の表明の仕方においては、この二つの道は何という違いだったことであろう。(同書 p.15)

     

    これは、学問と現実と一般社会の関係によく起きることだと思います。例えば、経済学者は、その時代の経済について思いを巡らし、これまでの理論の不具合をなんとなく感じ、新しい経済理論を作り出そう、現実の現象がどのように理解でき、そう理解することで、どのようにより良い方向に社会が変えられるか、ということを考えますが、現実の生活は、不具合があっても現実に存在している通貨を使い、時代の経済を縛っている民法などの法律制度に従い、生きているわけです。それと同じように、13世紀の最先端の「新神学」という概念にいたり、それを学んだ人々も、聖餐論においては、同じ聖餐式のパンを食べ、ぶどう酒を口にしたし、「新神学者」だからと言って、それが象徴だと考えることもなく、「これは、イエスが私たちに与えたキリストの体そのものだ」としてパンを食べたし、これは、「イエスが私たちのために流したキリストの血そのものだ」として、ワインを飲んだのであるけれども、新神学の人たちは、その理解において、きわめて先鋭的で、その臨在、現臨のリアリティ論を突き詰めていた、ということのようです。

     

    まぁ、学問は、半分頭のおかしい、一般的でない人たちが、修道院なり、大学なりに閉じこめてさせておくに限る(一般に出てきてしゃべると極端なことを言いだしたり、ほとんど意味不明のことになる傾向が強いので)ので、学問に携わっている人の言葉を額面通り受け取らないほうがいいことは、たんに大学に行った人ではなく、大学に行かなくても、学問を本当に少しでもした人であれば、すぐわかることのようには思います。

     

    プロテスタント派とカトリックの聖餐理解の違い

    さて、今月末は、All Saints Day(万聖節)でもあり、ハロウィーンというよりは、教会の諸先輩方を覚える日でもあると同時に、このAll Saints Dayに大学の教会に保存されているお宝を見に近郷在所から集まってくる庶民向けに公開質問状を見えるようにルター先輩が大学のチャペルの扉に張り紙(今風に言えば、壁新聞の張り出し)をした日なのですね。

     

     

    「luther wall nailing」の画像検索結果

    https://www.stmuhistorymedia.org/martin-luther-and-the-95-theses/ しかし、この絵面だと、ザビエル君と張り合うくらい、ルター先輩小学生男子のアイドルになること間違いないと思うのだけれども…(小学生は、禿げ頭(トンスラ)だいすきw)。

     

    プロテスタント派が不満が社会に充満していたドイツやスイスで勢いを増す中、カトリックは危機意識を持ち始め、当初はプロテスタントとの対話というか、現実的対応をするためにトリエント公会議が開かれるわけですが、

     

     

    会議神学者及び付託された神父たちによるプロテスタント言説についての報告に照らせば、最初のカノン(ユーカリストにおけるキリストの現臨にかかわるもの、カノン1)は明らかにツィングリ、エコランパディウス、聖礼典主義者たちに抗するものであり、彼らは特別かつ特殊なユーカリストの存在の特徴を不正確に述べた者たちであったのだ。ルターもカルヴァンもこの関連においては言及されていない。トリエント公会議の神学者たちはユーカリスト的存在についてのルターの見解において、カトリックはどうであったかについて特別な感情を持っていた。一方でルターの総合的見解とカトリックの見解との根本的相違に気が付いていた − ルターはこの特殊な存在を、典礼、よってコミュニオンの間だけ(使用においてだけ)受け入れ、ローマ教会のサクラメントを「安置しておく」ことに強く反対した。これは少なくともユーカリストにおける現臨についての異論を導き出しうるものであり、パンは聖別の後は単にパンとして残るというルターの見解をあらわすように思われた。(同書 p.51)

     

    ここも、日本語を読んでも、頭の悪いミーちゃんはーちゃんには何が言いたいかわかりにくくてしょうがない、という感じでしたが、トリエント公会議においては、要するに、一部の13世紀の新神学の影響もうけて、それを発展させたツィングリをはじめとする宗教改革者たちの聖餐理解が象徴主義的であり過ぎ、伝統的な教派との理解の間に齟齬が生まれてきたというものの、ルター先輩もカルヴァン先輩の言説も、その伝統的なカトリックの聖餐理解とはそう乖離しなかったとは言うものの、聖餐理解においては、ルター先輩と当時のカトリックの考え方とも実は微妙に違っていて、ルターにとって、聖餐が終わった後のパンは、普通のパンになるという理解であったということが書かれているのではないかなぁ、と理解しました。

     

    「Oecolampadius」の画像検索結果

    エコランパディウス

     

    まぁ、宗教改革を経たプロテスタントの中でもルター派の神学者の皆さんとカトリックの神学者の皆さんが一致に向けた、和解に向けた対話をしておられるようですが、一番の違いは、聖餐理解の違いのようで、いろいろと対話をしてはおられるものの、結局聖餐理解の違いが大きく、いまだに一緒に聖餐ができない、という状況のようです。まぁ、最初の段階での理解の違いがいまだに尾を引いている感じは確かにします。

     

    ルター派以降の宗教改革の系譜にある教会群とは、(そもそも、誰と話していいかわからないくらい、混乱しているので)トップレベルでの対話も始まりすらできていませんが、まぁ、いろいろな場面で一般信徒は出会うわけなので、ディスリ合って、どちらが正統的だとかと言って、あの人たちは、カトリックだから、あの人たちはプロテスタントだから云々とつまらないラベルの張り合いをしたり、しょうもないことでドングリの背比べをして、いがみ合うのではなく、互いの違いを認めながら、それでも、同じ神を礼拝するものとして、互いに尊重しつつ、その多様性を喜ぶ位の根性があってもよいのではないか、と思います。

     

    ギリシア教父の聖餐理解のかかわりで

    個人的には、一番古い教会のスタイルと、最も古い伝承を保持しておられるのが正教会さんですので、正教会さんの勉強会などで勉強すると勉強になることが多いのですが、奉身礼だけ見ているときには、気を付けないと、古い伝承なのか、比較的新しい伝承なのに古く見えているだけなのかの区別が全くつかないことが多いことがあります。そして、このことでちょっと困ることはあります。とはいえ、あの正教会さんの皆さんがおられることで、ギリシア教父の伝統が保持されてもいるわけで、大変参考になるわけですが、ここでも、聖餐をどう考えるのか、について、ギリシア教父の皆さんのお考えと、それに対するカトリック理解との対応が書かれています。

     

    (ミハ氏補足 トリエント公会議で)ラテン教会が中世後期「実態変化」の用語を使用し始める以前にギリシア教父たちは「要素変化」あるいは、メタ ストケイオーシス(パンとワインのエレメントがキリストの身体と血に変わる)について語っていた。それならなぜラテン教会が「実態変化」について語ってはならないのかと、パリの博士ジョン コンスィリーは声を上げて主張した。会議においてはテルトリアヌス、アンブロシウス、ヒエロニムス、キプリアヌス、ニュッサのグレゴリウス、ナジアンゾスのグレゴリー、バジル、アウグスティヌス、イレナオス他に言及された。よって公会議の神父たちは次のように結論付けるに至った。「用語(実体変化)はより最近のものであるが、現実の信仰 real faith(信仰と物 fides et res)は言うまでもなく旧いものだ」と。(同書 p.67)

     

    この部分の表現を見ていると、実体変化という用語が誤解を生んでいるような気がしてなりません。要素変化なのか、実体変化なのか、という用語上の問題と、用語がさすものの微妙な違いにばかり目が行きがちで、その本質的な同質性があまりきちんと議論されないことは問題ではないか、と思います。

     

    とはいえ、一般の教会人同士の対話でも、福音主義神学会での討論でも時々起きていることですが、教会用語なのか業界用語なのかギョーカイ用語なのか、教”会用語なのか諸説はありますが、同じ用語があまりに安易に使われ過ぎていて、というよりか、用語の意味があまりにきちんと理解されずに言葉だけが独り歩きして使われていて、お互いに同じ語を意味するものが異なるものを指して用いられていたり、コンテキストが違う中で違う意味合いで使われていて、傍で見ていると対話がかみ合っていないどころか、対話が成立していない状況が結構見られたりします。

     

    その意味で、仏教用語禁止でやる法話のような、キリスト教用語使用禁止での対話の習慣を、もっとキリスト教会自体も試みたらいいのに、と思っていたら、今年のいのフェスでは、それ(お題説教×お題法話 ギョーカイ用語禁止編 お坊さんとのガチンコ対決)をやるのではないか、といううわさが流れています。ミーちゃんはーちゃんは世俗の仕事でどうしても参加できないのですが、ぜひとも聞きたいなあ、と思っている企画ではあります。

     

     

     

    今年のいのフェスのポスター

     

    こういう自分が普段あまり考えることもなく使っている、「救い」「天国」「神の国」「永遠のいのち」とかいう用語をどう普通の日本語に置き換えて語るか、ということを考えてみると、自己の聖書理解をきちんと見直すことになるし、聞いているほうの参考にもなるようには思うので、こういうのはいいなぁ、と思います。

     

    3年くらい前まで、説教をしているときに、こういうことをやっていたのですが、結構まどろっこしいとか、教会的でなくておかしいとか、いろいろ言われましたが、個人的には、非常に良い経験であった、と思っています。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

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