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2018.10.05 Friday

『ザ・ユーカリスト』という本を読んでみた(1)

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    本当は、『クリスチャンn世代の若者からのお願い』シリーズを続けてもいいかなぁ、と思ったのですが、今、松谷編集長のツィートがバズっているんで、もうちょっと沈静化してから、考察した結果を述べてみたいと思います。

     

    ということで(「どこが、ということでなのだ」というご意見があるのは承知していますが)、今日は、ヨベル社から出ている エドヴァルト・スヘレベークス著 時任美万子訳『ザ・ユーカリスト』からご紹介してみたい、と思います。個人的には、聖餐マニアなので、この本の存在が気になって仕方がなかったのでした。

     

    聖餐マニアだからかもだけど…

    3年ほど前に、1年をかけて多くのプロテスタント教会の教派を回ってみたのですが、それらのプロテスタント教会では聖餐回数がそもそも少なく、聖餐に与る経験が限られていて、なんだかなぁ、と思っていました。しかし、教会めぐりの途中でであった、現在普段、参加させてもらっているアングリカンの外人部落のチャペルや日本聖公会の教会で、週2回聖餐に与らせてもらっている中で、そして、宇治市にあるカルメル会の修道院付属の教会での聖餐式を見学させてもらっている中で、聖餐というのは、なんと美しくも、なんと尊いものか、ということを経験してきました。そんな中で、あまりにもプロテスタントの教会での聖餐が軽視されていると思うようになってきました。その意味で、それらの違いを確認するために、この本は読んでよかった、と思えた本でした。

     

     

    聖餐のパンと盃 

    https://www.westminster-abbey.org/worship-music/services-times/regular-services/holy-communion/ から

     

    「あとがき」から読みましょう

    この本は、まず、結構な分量で「訳者あとがきにかえて」という部分があります。多分、ここから、読むほうが、「なぜ、この本を訳者の方が翻訳しようと思われたのか」が明らかになっています。ところで、翻訳書は、大概の場合、この訳者あとがきに結構大事なことが書いてあるというのは、キリスト教書の翻訳書を読む人にとってはある程度、通念になっているように思います。

     

     

    まず、本文から紹介する前に、この「訳者あとがきにかえて」という部分から紹介したいと思います。

     

    その前に、この方は改革派系のプロテスタントの世界から、カトリックに転回した方のようです。そして、この本にであったときのことを以下のようにご紹介しておられます。

     

     私は邦訳『キリストー神との出会いの秘蹟』を牧師時代にある方からお借りして読んだのだが、北米ノートルダム大学購買で、カルヴァン研究会の折に見つけて購入した本書『ザ・ユーカリスト』とは別ということがわかった。何しろ英訳ではあるし、もともとは仏語なのかその他によるのかも知らず、ただただ「ユーカリスト」に特化した本を喜んで読んだのである。

     雪の日、暖かく広い購買部の書籍は私を慰めた。

     同時に極寒の中、キャンパスない聖堂の早朝ミサにぎっしりと集まる人々の熱心さはどこから来るのだろうと不思議だった。説教することは喜びであったが、お粗末ながら聖礼典への関心はほとんどなかったのである。(中略)私はもっと広くもっと深く正確に知らねばならないと痛切に思った。 (『ザ・ユーカリスト』 pp.164-165)

     

    元々、この本の翻訳者の方は、日本のカルヴァン派の牧師さんだった(今はカトリックに転会・改宗・回宗)ようなので、やはり、ことばによる宣教が中心で、お過ごしだったようです。上の記述に見られるように、本書の翻訳者のかたは、プロテスタントの牧師さん時代には、象徴による宣教へのご関心があまりなかったようです。

     

    この背景には、カルヴァンというよりは、日本の伝わった段階以降でのカルヴァン派が持っている精神性に強く影響されていたため、サクラメント(聖礼典)への関心が極めて薄かったのかもしれません。何を隠そう、ミーちゃんはーちゃんも、カルヴァン派的な影響を強く受けていた時期があるので、サクラメント(聖礼典)はほとんど無知、ガン無視状態だったのですが、最近は、伝統教派の教会(アングリカン・コミュニオン)に参加している中で、サクラメントがきちんと執行され、自分自身が養われるよう、次のようにお祈りをすることが増えました。

     

    It is right, and a good and joyful thing, always and everywhere to give thanks to You. Father Almighty, through Jesus Christ our Lord, who came not to be served, but to serve and to give his life a ransom for many. He calls His faithful servants to lead Your holy people in love, nourishing them by Your word and sacraments. Now with all creation we raise our voices to proclaim the glory of Your name.

     

    (以上は、ナイジェリアのアングリカン The Church of Nigelia の祈祷書 http://justus.anglican.org/resources/bcp/Nigeria/Nigeria_hc.htm から)

     

    説教中心のプロテスタント諸派

    確かに、今のカルヴァン派でも、聖餐をはじめとする聖礼典は大事にされていないわけではないのですが、ただ、その存在はかなり後ろに引っ込んでいて、どうしても、説教と呼ばれる、み言葉の聖餐が中心のような気がして、ちょっと残念に思います。さらに、同書では、次のように翻訳者の方は書いておられました。

     

    例に挙げるのもおこがましいが、マザーテレサの自己奉献の原動力が毎朝のミサにあったことを思えば納得できるのではないだろうか。もとよりカルヴァンにその希望がなかったわけではない。先人アンプロジウスの言葉、「この日々のパンは日々の弱さのための薬である」を彼が知らなかったはずかもしれない。無見識であるかもしれないが、カルヴァンの聖晩餐理解とカトリックの実体現臨理解両者にある喜びと希望について、私は大きな差を認めない。むしろ「(聖餐には)実体が結びついていなければなならない。さもなくば堅固にして確実なものはなくなってしまうではないか」(久米あつみ訳)とまで言うカルヴァンの多くの聖餐に関する言葉によって、カトリックミサに与る喜びは倍加したといってよい。実際そうであったし、与れる感謝は誰にも負けないとおもった。回宗時、ある方が「実態変化の世界へようこそ」と歓迎してくださった言葉は忘れ難く今でも印象に残っている(以下略)(同書 p.172)

     

    改革派系の教会にも何度か参加したことがありますが、その教会をご訪問した礼拝の時には聖餐式ではなかったのですが、巨大な聖餐卓(聖餐台だけど上に何も置いてない)が鎮座ましましていまして、その日の説教では、今ここには聖餐はないけれども、この食卓に招かれているということを底の牧師さんは強調されていましたが、しかし、さすがに実物としてのパンとブドウ酒による聖餐がないのは、寂しいと思いました。

     

    なお、この本では、実体をどう見るのか、科学的分析万能時代であった20世紀中葉において、聖餐の実体(リアリティ)をどう考えるのかを扱った本なのですが、それは、次回以降にご紹介したいと思います。

     

    食べることに含まれる救いのリアリティ

    その聖餐のリアリティをどう理解するかについて、料理家の人の言葉を引用しながら、次のように本書の翻訳者のかたは書いています。この部分を見ながら、うーんと思ってしまいました。その通りだと思ってしまったからです。

     

    元来食することへの理解は女性の方が感覚的に理解できるのではないだろうか?食べるとは生きることであり、料理家辰巳芳子は次のように述べている。

     

    「みんなが一番求めているのは理屈による救いではない。その救いを体験すること、救いを味わるために来ている。味わうことを助けるために理論理屈があるのであって、究極は体験こそが救いである。食というものに秘められているその大切さというものは、本当の救いを味わる大事な神との出会いの窓口になるのではないか。」(『食の位置づけ』 東京書籍、2008年)

                           (同書 p 173)

     

    辰巳芳子さん http://www.tatsumiyoshiko.com/

     

    さすがに、この辰巳芳子さんのように、『理屈じゃねぇ、体験だ』言われてしまうと、かなりの勢いでポストモダンに移行しつつあるミーちゃんはーちゃんとはいえ、いまだにモダンを引きずっているだけに、結構ドン引きしそうになりました。という側面はありますけれども、この辰巳さんのご主張には、本当に一理あるとは思うのです。というのは、死ぬまで、食べるということは残るし、通常の場合、食べられないことは死ぬことを意味しているからです。

     

    いまでこそ、流動食を流し込むとか、胃婁とか、点滴による栄養補給とか、まぁ、医療としてはいろいろ食べられなくなった人にも、医療的な延命策はあるのですが、本来、自分の力で食べられなくなったら終わりなわけです。それを考えますと、やはり、食べるということは、大事なわけです。

     

    正教会の松島司祭の書かれたウェブサイトに、大斎(レント)の意味についての記事がありますが、正教徒のかなりの部分の皆さまは、食事、食べるという基礎的な行為を通して、神を覚えるということをされているようです。今年の春に、私も、毎晩の晩課に参加しはしませんでしたが、体重管理のために、このレントのルールを守ってみると、確かに、このレント期間に、食事を制限することで、レントの意味と、その到達点としてのイースターの意味を、体を通して、まさに体験することになりました。イースターにいろいろ食べることでも、まさに復活とそれに繋がっている救いは、喜びである、ということを実際に体験することができました。もう少し、こういうことは実験的でも、レント期間限定で、多くのキリスト者の方も、取り組んでみられたほうがいいのではないか、とも思います。

     

    そして、伝統三教派では、病床聖餐を大事にしますし、さらに、死への旅立ち、光へ向かう旅立ちの前に、地上でも神と一つであること、神とつながっていることを覚えるために聖餐をしておられます。

     

    横浜のハリストス正教会にお伺いしたときに、水野司祭様に、至聖所の中にある金ぴかとか銀ピカのかっこいい入れ物、聖龕(せいがん 以下の図はめちゃくちゃ豪勢なもの)には、何が入っているのですか、とお聞きしたところ、ご臨終の間際に聖餐をするためのイースターの時のパンが焼き固められて入っているとのことでした。緊急の時には、ここから、焼き固めた聖餐のためのパンが持ち出され、臨終の際に聖餐をなさるのを聞いて、あぁ、なるほど、聖餐はまさに、神のしもべであることを聖餐を口にすることで最後まで証しするためのものなのだと、改めて、感じ入ってしまいました(こんなことを書くから、いつ異端者帰正式を受けて、いつ頃、ひげを伸ばし始めるのだ、と時に揶揄される始末)。

     

     

    モスクワにある聖龕https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E6%AB%83#/media/File:Zion_history_museum_moscow.jpg 

     

     

    宣教論の切り口としての食べること、聖餐

    誰も生きている限りは、食べるということをするということは、最後まで、いろいろな機能が失われたとしても残る人間としての基本機能であることを考えると、案外食べることをキーにした宣教というのは大事にしたほうがいいかもしれない、と思っています。在外邦人の若者に対する宣教をしているZumZumさんという知人がいらっしゃるのですが、以下の文章を読んだとき、その方の主張とも重なるように思いました。

     

    同時に宣教は、若年層のみならず、「いのちの苦」(スピリチュアル・ペイン)をややもすると抱え、「趣味や読書で埋まらない空白間(ミハ氏註 たぶん、感のミスタイプ)が苦痛でたまらず、もう死にたいという人もいる」老年層にも必要を感じる。「老いと死は怖いくらいにこの人生を問いかけてくる」のだ。だから、宗教免疫乏しい日本は、「神を見失っても、なかなか日本のような無邪気なEs【それ】(⇔)Du【あなた】」カテゴリーには踏み切れず、かえってその認めたくない神に対して、たびたび、一生を通じて激しい我と汝の戦いをし続ける」西洋よりも、宣教においては一層知恵を絞り、その切り口を試行錯誤する必要があるのではないだろうか?「自然」を説くことは、日本になじみやすい倫理と美学とともに、一つの手段になりうるかもしれない。(同書 p.177)」

     

    日本では、これまで、上記の文章にあるように、西洋型のキリスト教であるをそのまま移植して、「一生を通じて激しい我と汝の戦いをし続ける」タイプの、戦闘民族型のキリスト教がキリスト教であるとして、それを、西洋スタイルのまま移植しようとしてきたように思うのですが、ただ、それは限界が来ているようにも思います。

     

    先にご紹介したZumZumさんは、「ひらかなキリスト教」(ミーちゃんはーちゃん風にいえば 「やまとことばのキリスト教」か「やまとことばでのイエスのツレとしての無理のない生き方」になるのだけれども)をご主張であるけれども、まさに、ここでのこの本の翻訳者の時任さんのご主張は、それにつながるように思いました。

     

    特に、今、一方で、教会内の老年層にどう対応するか問題も、個人の関心事としてあるのですが、このことを考えるうえで、聖餐というのは、重要かもしれない、とは思います。

     

    ところで、今参加させてもらっている聖公会堂の外人部落のような教会では、母語が英語、ウェールズ語、タガログ語、ルワンダ語、ハウサ語、中国語、日本語の話者という、様々な言語背景を持つ人々がともに集まり、そして、式文と聖書朗読は英語で基準化されているとはいえ、様々な背景を持つ人々がともに一つに集まり、一つのパンである聖餐にあずかっているのですけれども、聖餐を食べるということには、国境と国籍も、言語も、文化の壁も突き抜けていくことを毎週体験しています。まさに、以下の讃美歌を地で行く経験をさせてもらっています。

     

    私たちは、多くあっても一つです という式文の一節を讃美歌にしたもの

     

     

     

    別に、英語が半分以上わからなくても、イエスを自らの内に取り込む聖餐、自らのうちに内在させることを象徴する聖餐はリアリティとして存在しうるという体験ができている幼に思います。それを考えると、実は食べるという共通の機能は極めて重要で、まさに、イエスの主張し、希望したことを実行するという意味で、「イエスのツレとしての生き方」をリアルにやってみるということなのではないか、と思ったりしています。

     

     

    次回へと続きます。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 1,080
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:お世辞にも翻訳部分は読みやすいとは言いにくいけれども、内容は重要なことが書いてある本。

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