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2018.09.29 Saturday

クリスチャンn世代の若者からのお願い(10) 勝手に職質を教会でしないで・・・ その2

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    前回の記事では、小学生の教会に来た子供たちに親の職質をされると、連れてくる方も、つれてきた方も結構しんどい思いをすること、ポストインターネット時代での子供たちにとってみて、教会で提供される遊びや視聴覚補助教材が今一つ、なんと言いますか、昭和な感じ、でもあって、その意味で、教会に信徒家庭以外の友達を誘ってくるのが大変なのに、それでも教会にお友だちを連れてきたとして、職質まがいの取り調べのようなことをされたのでは、結構つらいよねぇ、という感じをお話してきました。今日は、もうちょっと年齢が上のティーネイジャーさんだったころの視点から、書いてみたいと思っています。

     

    ティーンネイジャ―と教会

    子供向けの日曜学校で、お友達を連れてくることを良しとされて育てられてきて、学校で肩身の狭い思いをしているキリスト者家庭の子供にも、人並みに思春期というホルモンバランスが崩れることにより妙なことを起こしがちな時期がやって来ます。この時期は、妙に多感な時期だったり、異性に異様な関心を持ち始めたり、同性の友人と群れて遊ぶのではなく、特定の異性とデートしたくなったりするという時期でもあります。

     

    そして、クラスメートで、○○さんと○○君が付き合っているというカップルがポコポコと散見され始めたり、気の早い子だと、15歳で出産(かつての身近な地元の中学校で本当にこういう事例があって、二十数年後に地元の市役所の窓口の職員さんとして勤務されている最中に、私の印鑑登録証の交付担当としてこられて、びっくりしたことがある)したりということも始まる時期ではあるようです。

     

    こういう思春期の若者たちにとって、教会に異性の友達を連れていく、ということを試みる場合があるかもしれません。素朴に、自分自身が恋している(一生かかって愛していく、という場合は多いということが少なくないようにおもいますので、愛しているとはいいがたいケースが多いようですけど)人にも、神と出会ってほしい、という思いから、教会にお連れしたり、あるいは、ティネイジャ―の多い教会だと、高校生会などの若者の会に誘ったりすることは多いのではないか、と思います。そこで、蛮勇をふるってという感じで教会にご案内した異性に、直接いろいろ根掘り葉掘り教会の大人が聞き始めたら、世慣れしてない若者にとっては、結構きつい経験をすることになるように思います

     

    大人ばかり(高齢者ばかりの教会)で育ちました

    若者向けの集団形成とケアがなされているような、若者が多い教会ですと、こういうケースも多数あるため、若者のリーダーや、牧師先生方は、そういう状況をぬるく見てくださることが多いようですが、私が、幼少のみぎりから高校までのころまで通った教会では、そういうサービスもなく、高校生のミーちゃんはーちゃん以外には大学生が一人いるだけ、という教会でしたので、若者向けの特別のグループなどはなく、まぁ、基本、個人対個人という感じ大人のかたからの指導はしていただきましたが、かといって、同級生の信徒さんや、信徒さんのお子さんもほとんどいない中で育ったので、教会内では非常に寂しい思いをしておりました。

     

     

    こういった自分以外に若者がいないという教会で、こういう恋愛がらみのことを教会の年配の信徒のかたに相談すると、勝手にうわさが広まっていく狭い世界となっているような印象を受けていました。そして、親に内緒にしてもらった上での相談なんてことはほとんど不可能でしたし、信徒相互牧会タイプの教会でしたので、相談事に関するプロフェッションとしての守秘義務あたりに関する感覚が緩いので、こういうタイプのセンシティブな情報漏れが非常に気軽に起きるような状況でした。そういうタイプの教会でしたので、色恋の悩みをおいそれと誰彼に気軽に相談もできない環境でした。

     

    大学生になったら、まさに農村の真ん中の荒廃樹林地にぽつねんとあるような大学に行った関係で、自派の最寄りの教会まで、片道バイクとか自動車で1時間弱(30km)の環境を通うことになりました。そこは、割と、20代の方が多かったこともあり、高校生の方もおられたりで、ある程度楽しい時間を過ごさせてもらったのは、うれしい経験でした。とはいえ、まぁ、大学では、タバコ臭い研究室が多い、同級生120人中女子学生十数名という工学部みたいなところにいたので、彼女なんかができるはずもなく、まぁ、それで過ごしたので、教会に彼女を連れていくとかいう贅沢などは望むらくはありませんでした。それはそれで、幸せな人生であったのであろうか、と思います。

     

    ティーネイジャ―にとっての逡巡

    教会の中に、同じくらいの年恰好のお若い人がいれば、それほど目立つことはないかもしれませんが、高齢化が進んだ60歳代が壮年会の主要メンバーであり、高齢社会の主要メンバーが80歳代という、地方の教会に、ティーネイジャーの若者が教会に来ていること自体、非常に珍しいことではないかと思います。

     

    一度、教会巡りしているころに、いちばん若い信徒さんが、子供さんを除けば、40代後半という教会にお伺いしたことがございました。その教会では、知っている讃美歌が多用されていたので、もともと声が通ることもあるのでしょうが割と元気に賛美歌を歌ったりしたら、「本日は、皆さん、賛美歌の元気がいいですねぇ」と奏楽担当者の方がご発言になったことがありました。それって普段の賛美ってどんな感じなの、よほど弛緩しきった賛美の在り方ではなかったのではなかろうかとは、思いましたけど、ちょうどそんな教会に、ティーンネイジャ―のような若い人が新たに来た、となれば、50代半ばのミーちゃんはーちゃんが参加するよりは「苦節何十年、祈り求め続けた若者が、ついにこの教会に来た」と教会の参加者が勝手に盛り上がってくださることは、おそらく確実ではないか、と思います。もちろん、教会に激震が走るとまでは言いませんが。

     

    若いキリスト者として高校生まで育った環境が、若者が来ると激震が走りかねないという状況が想像できる環境だっただけに、若くて感受性がまだ豊かだったころは、同性の友人でも、その友人を教会にご案内しようかどうか、逡巡したものでした。まぁ、盛り上がってくださるのはいいのですが、盛り上がりすぎて、いきなり新しい来会者に好奇の目とまでは言いませんが、深甚なる関心の目が注がれることはほぼ確実ではないか、と思います。

     

    こういうことを割りと敏感に感じてしまうほうなので、本当は居心地が悪くて、そっとしておいてほしいと、感じておられていそうだなぁという場合には、特に話かけたりしていない場合が多かったのですが、会えて、そのような態度をとっていても、周りがおぜん立てしてくださったり、「お交わり」と称することを誰かがすべきだというような話になって行く傾向がありました。個人的には、誰かがそっと消極的なかたちでそばについてくれればいいのにとは思っていたのですが、そういう時に限って、自分の意志ではなく、割と無理矢理に呼び寄せられたりして、新しく来られた方のそばにがっちりとそばにアテンドするような形でつけられてしまうことがあったりするわけです。そして、新しく来られた方に、「お困りのことがありましたら、どうぞお近くの信者さんに声をかけてくださいね」程度ではなく、なんか、福音と称するイエスの話だとか、聖書の話をしなければいけない雰囲気が教会内に出来上がってしまうことも、教会によってはないわけではなかったりするのではないか、と思っています。

     

    強いられる伝道の姿…

    個人的には、「新しく来られた方のご本人様がしたいようにさせてして差し上げればいいのに、誰かをアテンドさせる形で、無理矢理付き纏わせなくてもいいのに」とは思って過ごしてきたのですが、そういうゆるい態度でいると、教会の年長者からは、「もうちょっと熱心に伝道しないのか?」とあとで言われたりしました。個人的には、「そこまでせんでもいいやん。もっとぬるく見守ってあげたらいいのに、ただでさえ、知らない人だらけのところに来て、ガチガチに緊張しているはずなのに。かえって、逆効果ではないのかなぁ」とは思っていたことが多かったのですが、教会の伝統的な所謂教会ガチ勢の皆様で思い込みの激しい方には、こういうぬるい態度はどうも熱心さに欠けると思われるらしく、新しい方が来ても、また、ホームレスのような珍しい方が来ても、そっとしておくというオンデマンド型タイプの対応が許されず、ガチのアテンド型のご対応を教会からするような雰囲気が、教会では何度かあったことがございます。今は、そんなところから離れて、割と好きにオンデマンド型で、対応することでいいとされているところにいるので、大変助かっています。

     

    こういう対応が待っている教会で長らく過ごしたものですから、友達を教会に連れていくとか、知り合いを教会に連れて行くということは、深刻に考えないといけない課題の一つでもありました。要するに、教会でのやや暑苦しい、ある種の熱心な対応というある種のフォローについて、教会でのプログラムが終わり、建物としての教会を出てから、違う意味でのある種のアフターフォローをしないといけない、という現実が待っていたことが多かったように思います。

     

    これが、まだ20歳台後半まで、教会に友人や知り合いをお誘いする上での憂鬱な要因でした。つい数年前まで、私自身、子供のころのように単純に教会には誘えなくなっていました。まぁ、今のチャペルは、外人部落でそもそも海員向けチャペルなので、来た人に対してその場かぎりの対応することしかできない、という側面があり、余分なことは聞かないし、割とほっておいてほしい場合、気軽にスルーしてくれるので、大変助かっています。そういう背景もあり、なんでもかんでもがむしゃらに信徒を確保しようという体制ではないチャペルですので、ミーちゃんはーちゃんが行っているチャペルに来たいと言う方がいれば、ややこしい説明なしに、「どうぞ」と気楽に言える雰囲気がしています。

     

    私事化した宗教行為と地方での共同体化した宗教行為

    ところで、政教分離のフランス革命の影響を受けている日本社会では、他の西洋近代社会と同様に、比較的、宗教行為が私事化している傾向にありますので(それでも、初詣は国民的行事らしく、1月1日にはテレビでニュースのトップ項目になっていることが多いですし、それ以外の時期でも、時々、天皇制度とそれに付随する宗教行事等と掠るような行事も経験はします。そして、ちょっと田舎に行くと秋の神社の例大祭は地域行事なので、完全に地方部では私事化できているというわけではありませんが)、ある面でいうと、宗教的確信とか、信仰とかは、かなり個人の領域の世界に属することとされているように思います。その意味で、個人的には、世間さまでは、信仰とか宗教とかが、私事となっている以上、この種のことにはぬるく対応する方がよい、とは思っているのですが、熱心なキリスト教徒の方の中には、そうは思ってくださらないことが案外多いので、ここであったが百年目みたいなノリで、伝道しないとダメみたいに言われ続けてきた部分があって、それがどうにも合わなかったので、今のような教会では、きわめて楽に生きさせてもらっております。


     

     

     

     

     

     

    しかし、熱心な方々は、その方々の私事的な部分について、かなり踏み込んで宗教警察やイランの風紀警察よろしくご質問なさったり、いきなりその方の信仰にキリスト教のすばらしさを説いたり(そりゃ、キリスト教徒ですから、キリスト教とよばれるものは素晴らしいとは思っていますが、一方的に語るだけ野暮ではないか、その前に相手が話されたいことを聞いた方がいいのではないか、と思っております)、自分の基準がすべてであるかのごとく語られたり、ご自身の基準のみに基づいてダメだしされたりしておられるのを見ると、本当にそういうのはもうちょっとゆるゆるやってほしいなぁ、と思ったりはしています。以下の動画で紹介するイランの風紀警察見たいにではなく。

     

     

    イランの風紀警察(Morality Police)についての報道様(イスラム共和国でいらっしゃるけど、パハーレヴィ王朝時代に西欧化してる分だけに揉め事はあるようで…しかし、風紀警察官がどこにいうかノアプ位が出回って、それが禁止されるあたりが、イラン・イスラム共和国)

     

    イランの歴史とイランの宗教革命についての復習動画(英語のみ)

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

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