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2018.09.24 Monday

教会の終活について・・・その4

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    本日はこれまでの3回に引き継いて、教会の終活について触れてみたいと思います。前々々回は、教会人口の自然減に直面しているために、そして、誰もいなくなったという状態が待っているという教会がまぢかに迫っていること、そして、かつて人口急増地であり、豊かな財政を誇った大都市周辺のベッドタウンでの高齢化とそれに伴う収入減が起きていることを、お話してきました。

     

    前々回は、教会はどこまで同じ教会と認識されるか問題と、教会の存続意義の変遷と社会と教会、そして、メディアの変遷と教会のあり方の違いについて、お話していきました。

     

    前回は、もう少し突っ込んで、近年の教会の閉鎖を含む教会の閉鎖(終活)と世界の弘道の教会(Holy catholic church)の現状、及び将来像について、これまでのモデルでの日本や西側先進諸国の教会は閉鎖(終活)を迎えるかもしれないけど、世界中では、そう簡単に閉鎖しそうもないことをお話して参りました。

     

     

    一応、今日で、本連載を終わることにしたい、と思っています。

     

    この問題の出発点

    今日は、この話題の出発点になった、あるプロテスタント教会(福音派に分類されるし、分類可能だと思っている)教会の牧師さんがあるところでお話してくださった、お話から出発したい、と思います。

     

    その牧師さんが、現在牧会中の教会や、その教会が属する団体全体でも、各個別教会の構成人数自体が減っているし、残存している構成員自体が年金生活者の比率が急増しており(当たり前であるとは思いますけれども。これまで意図的であるか、意図的でないかにせよ、若年信徒が減っている上に、若年信徒たちを寄せ付けない教会運営を信徒たちと牧師が続けてきたから、この状態というのはあるように思います。なお、この話題になった牧師さんがそうだとは言わないですけれども)、そして、牧師給与を出せない状態がまもなく迫りつつあるという危機感や、焦燥感から、この牧師先生、その牧会中の教会で、「このままだと、教会運営が厳しいんだけど、皆さんどのようにお考えですかねぇ」と役員会でお話されたら、「いやぁ、私どもの葬式だけあげて下さったら、それでいいんで・・・」とか、「困られるのは、なにより、牧師先生でしょう。私たちは、適当な教会見つけていきますから、そんなに困らない」と、見事に言い放たれてしまって、かなりショックを受けられた御様子とおなりあそばされたとお聞きしました。

     

     

    この話をお聞きしながら思ったことは、そら、結局説教中心で、キリストに出会う神秘も何もない教会だったら、どこ参加したって、神学の2/3から3/4はほぼおんなじ出し、讃美歌集の種類が違ったり、歌う賛美歌が多少違うのと、説教における強調点が多少変わるくらい標準化が福音派内部では進んでいるから、よほど説教者の説教の語り口がちがうとか、信徒対応の仕方というか、手触りというか肌触りが違うということがある場合は別ですが、これらのマイナーな点はあるかもしれないけれども、キリスト者が礼拝を行う教会として行われている内容の大勢に変化がないということは、そのとおりか、と思います。それは、現在の聖公会のチャペルに漂着するように定着する2年半前までの経験と、ここ10年くらいの各地の教会めぐりと牧師先生方とのお付き合いの中でやってきた経験からも、そんなに差がなさそうだ、というのは確信を持って言えたりします。

     

    動画で見る各派の礼拝の様子

    もちろん、カトリックの教会とか、ハリストス正教会とか、コプト正教会とかに参加となると、聖餐のパンが食べれなくなるとか、明らかな断絶を経験することになりますし、聖公会でも、儀式がかなりのウェイトが多くなるなどの違いがあり、多少の断絶は感じるでしょうが、福音派内で移動する部分には、神学的には、そんなに大きな差があるわけではないですし、多少差があるとしても、異言があるなしや、いやしの問題がどうのこうのとか、その程度の違いであるだけですので、そこさえ、静観あるいは達観できるだけの度量があれば、教派間の格差はほとんどないですし、いわゆる戦後大量にできた福音派の教会から、日本基督教団の教会でも、メソディスト系、ウェストミンスター信条大好き改革派系の教会もありますから、時々、どうしようもない、先週の牧師の行動を説教と称する習慣がある(週報に書けばいいだけじゃんねぇ、それより、聖書をしゃべってほしい、と思うことが多いですが)ところが案外多いという以外には、根本的にそう大きな差はありません。

     

    日本ハリストス正教会、京都教会での礼拝

     

    日本コプト正教会の聖餐式

     

    カトリック教会の聖餐式の様子(カトリック大田教会 概要を知るのには十分)

     

    日本聖公会の礼拝の様子(館山聖アンデレ教会 もっと長い)

     

    ルーテルの牧師Rocksの関野牧師さんの説教

    (内容はさておき、説教者は短くしないといけないといいつつ25分とかありえんやろ、と突っ込み)

     

    各派の中での蛸壺、都心のワンルームマンション状態のキリスト教

    ところで、ルーテル教会の関野さん関係でルーテルの名前が出たので、ちょっとルーテルについていいたいことが出てきてしまいましたので、お話しいたましょう。先日のKDK神学会に出ていて、主催者の方のご発言で、思い出したのですが、実は、福音派の司牧(牧師)間の理解のズレのほうが、特定の聖書理解の体系と、特定の神学校の卒業といったかたちでその教派のみに有効な特定の聖書理解の体系にコミットしているだけに、教派を超えていくことが難しい状態にあるようです。

     

    典型的には、昨年宗教改革500年で、ルター派が3グループのルター派(日本福音ルーテル教会・近畿福音ルーテル教会・西日本福音ルーテル教会)の中での初めての合同礼拝が大阪のルーテル教会であったのですが、それまで、相互の交流がかなりゆるくはあったらしいものの、合同礼拝のための壁が、同じルーテル派の教会の中であり、合同礼拝ができなかったらしく、去年が始めてだったらしいようです。ルーテルは荷は、西日本福音ルーテル教会にはお邪魔したことがありましたが、ほかの福音派と大して変わらなかったという印象でございました。聖餐式マニアにとっては、聖餐式を期待して言ったのですが、聖餐式はなかったです。でも、3グループのルター派共同の合同礼拝では、聖餐式がございまして、ありがたく、きっちり聖餐をいただきましたけど。

     

    なんと、重箱の中に、さらに、小分けの枠があって、さらにそこに壁があるという、まぁ、ものすごく蛸壺というか、都心のワンルームマンションのような状態に福音派でのキリスト教会の教派内グループの状態になっているという事実はあるように思います。残念な傾向ですが。カトリックとのエキュメニカルとか、準備も、神学的知識も蓄積せずにふざけたことを言う前に、自分たちの中での共通化を図ったほうがよろしいのでは、と信徒の分際ではございますが、今ももうちょっと、共通化というか、相互の話し合いをなされては、と強く思っております。まさに、以下の画像にありますように、都心でもない(郊外より以遠の)不便地にある築古のワンルーム型のプロテスタント教会集団をどうするか問題が、都心の築古ワンルームマンションより深刻な問題のように思います。

     

    まさに、郊外の築古プロテスタントワンルーム教会群をどうするか問題

    https://ft-academy.jp/2018/05/23/investment_simulation/ より

     

    困るのは牧師? でも、本当は困らないはずの牧師

    最初にご紹介したエピソードの牧師さんの役員会でのご発言ように、従来の教会運営(信徒からの献金システムで、教会堂という建物を維持し、信徒からの献金システムで牧師給を支払い、教会活動を維持するというかたちの教会運営)ができなくなる時期が、日本では、刻一刻と迫っておるのは確実かと存知ます。

     

    個人的に存じ上げる数少ない範囲でも、Amazonパートタイマー牧師だの、佐川急便地域スタッフ牧師だの、日本郵便地域配達係パートタイマー牧師だのが結構発生している状態でございます。神学校や聖書学校をお出になられて、専業牧師としてお勤めになられるという長らく続いた西洋型の物まね型の牧師制度はもうすぐ破綻します。多分。これを防ぐためには、豊かな高齢者の皆さんが、軒並み、「全財産をすべて現金化した上で、子孫には一切残さず、教会に全額寄付する」と遺言書をお書きになられて、公証人役場で公式なものにしない限り、各個教会や教会連合体や教団は破綻しますし、また、仮に、そのような神の奇跡のような出来事がこの日本で起きたとしても、数十年後には、その寄付額は少なくとも金融資産の運用をかなりきちんとしたとしても、資産損耗いたしますので、根本的な解決策にはなりません。

     

    これまでも書きましたように、もし、信徒お一人お一人が、使徒信条をまじめに信じていて、そのとおり告白して居られ、公同の教会をお信じになっておられるのでしたら、教会という建物や集団は、日本では激減するかもしれませんが、存在し続けますし、私たちは、仮に日本の教会がなくなっても、日本に福音派の教会活動を行っていた教会と呼ばれる建物が仮になくなっても、公同の教会の一員として、存在し続けることができますし、それは変わらない筈です。

     

    乞食をしながら、生活保護を受給しながらの伝道活動

    であるとするならば、牧師は中世の修道者の時代に戻って、乞食同然の地位にまで落ちても、キリストがこの地に来たという福音を、そして、使徒信条の中身を、まだこれがキリスト教のコア概念であることをご存じない皆さんに、愚直にお伝えすること(伝道)を覚悟すればよいだけでございます。あるいは、生活保護を受け取りながら、それでも、伝道すればよいだけです。教会も持たず、町から町へと放浪しながら。

     

    そのほうがよほど、社会の周辺、底辺をほっつき歩いたに近い、そして、人の子には枕するところもない、といったイエスに倣うことではないでしょうか。ウェスレー派の牧師は、米国ではそれをしておったはずであります。このようなことをFacebookで一度書きましたら、案外とウェスレヤンの牧師先生から反応があったのですが、ウェスレー派の以前は、もらってうれしいもの(福音)を汗まみれ、泥まみれになりながらもたらしてくれたクロネコヤマトの宅急便のお兄さん、お姉さんのような存在だったわけです。

     

    写真は以下の動画から

     

    メソディストの説教者 Peter Cartwrightの短めの伝記動画(United Methodist Church提供)

     

    キリスト者は、牧師に何を求めるのか

    それこそ、教会人は、イエスが、バプテスマのヨハネについて、民に語った次のことばの意味を考えるべきではないでしょうか。

     

    【口語訳聖書】マルコの福音書11章7-9節

    「あなたがたは、何を見に荒野に出てきたのか。風に揺らぐ葦であるか。 

     では、何を見に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、王の家にいる。

     では、なんのために出てきたのか。

    今風に言えば、こうなるでしょう。

     

    まさに、あなた方は何を身に教会に来たのか。崩壊した教会であるか。

    では、何を実に出てきたのか。柔らかい着物をまとった人か。柔らかい着物をまとった人々なら、国会議事堂にいる。

    では、何のために出てきたのか。

     

     

    廃墟マニアにはたまらないスコットランドの教会の廃墟 https://arts.st-andrews.ac.uk/corpusofscottishchurches/

     

    建物としては崩壊した教会 https://www.undiscoveredscotland.co.uk/auchterarder/oldchurch/index.html より

     

    とはいえ、確かに、現状の牧師の場合、独身制をとっていませんから、これは無理かもしれません。カトリックでは、自分がいつ神のために死んでもよい、自己保身を捨てるということのために、妻帯をいたしておられない司祭の方が大半(例外的に妻帯者の方とか、元妻帯者の方も居られますが)ですので、今後献身者には、パウロが書くように、この火急の時には、妻帯をやめるようまずお勧めしていただいて、というところから始めるべきかもしれません。とはいえ、その後、献身者での同性愛問題や児童性愛問題が発生しても、ミーちゃんはーちゃんの関知するところではありません。

     

    ここ100年のキリスト教会の前提を捨てたあり方を模索すべきかも

    今と同じように、教会堂の中に立てこもり、今日は神学に依拠して、伝道と称する演説会ないし講演会なのか、賛美歌大会つき講演会か、講演会つき賛美歌大会か、あるいは、説教つき賛美歌によるダンシングディスコ、ダンシングクラブなのかは知りませんが、そんなことをするのをやめればよいだけで、それこそ、使徒行伝の時代に戻って、誰も来ない河原やごみ収集施設で、あるいは墓場で礼拝すればよいだけの話です。だって、あれだけ、ダビデが神殿建設を思いついても、「そんなものを立てようとするのか、わしはイスラエルの民とともに天幕を住まいとする」とおっしゃった方なのですから。われらが礼拝している方は。

     

    【口語訳聖書 サムエル記 下 7章2節から7節】

     

    王は預言者ナタンに言った、「見よ、今わたしは、香柏の家に住んでいるが、神の箱はなお幕屋のうちにある」。 

    ナタンは王に言った、「主があなたと共におられますから、行って、すべてあなたの心にあるところを行いなさい」。 

    その夜、主の言葉がナタンに臨んで言った、 

    「行って、わたしのしもべダビデに言いなさい、『主はこう仰せられる。あなたはわたしの住む家を建てようとするのか。 

    わたしはイスラエルの人々をエジプトから導き出した日から今日まで、家に住まわず、天幕をすまいとして歩んできた。 

    わたしがイスラエルのすべての人々と共に歩んだすべての所で、わたしがわたしの民イスラエルを牧することを命じたイスラエルのさばきづかさのひとりに、ひと言でも「どうしてあなたがたはわたしのために香柏の家を建てないのか」と、言ったことがあるであろうか』。 

     

    こういうことを考えると、教会の終活時代は、これまでの建物に立てこもるタイプの教会運営のスタイルから離れられる絶好の機会かもしれませんし、少なくとも、現在の日本の教会活動を見直す時期に来ているように思います。若い人を小手先で集めて延命したり、教会の高齢者を、死後の裁きを言いつのって(これが、ルター先輩が文句を言った贖宥状問題、あるいは免罪符問題とも根はつながっている)、あおって、法的に無効な(無理やり書かせたものは、その有効性が問われる)あるいは、法的にかなりやばい側面を持つ大量の遺言状を書かせるようなことをしてまでも、延命措置を図るのではなく、信徒も牧師も、誰も来ない早朝の公園や、誰も来ない早朝か深夜の墓場で、あるいは高速道路や鉄道の高架下で、あるいは、家の教会みたいに個人の居宅のリビングとか、公営住宅のピロティか、市役所の入り口の雨除けがあるところで、説教共同体か、賛美歌ダンス共同体か、聖餐共同体かは知りませんが、以下の賛美歌のように、神の哀れみと愛のみを求め。神を賛美し、神を礼拝をすればいいだけの話です。

     

    神の哀れみと愛を求める賛美歌 Ola Gjeiloによる Ubi Caritas et Amor(神のあわれみと愛のあるところ)

     

     

    もう、その覚悟をする時期が来ているようにも思います。神学が違うとか、枝葉末節のことをいっている場合ではありませんし、JCE6で主張された内容ではありますが(言論の自由は保障されているので、いかなることでも主張するのは勝手です)、実際にはどう考えても無理な日本全国にコンビニの数や、郵便局の数以上の建物としての教会を造ることに熱意を燃やしている場合では、もうないように思います。

     

    まずは自問自答を…

    まずは、教会堂を捨てて、信徒とそれを取り巻く人々の集まりとしての教会として、自らが何をなすものであるのかを、それぞれの教会ごとで、牧師は何をするものなのか、その召命は何のためのものであると考えるのか、信徒は、どのような生き方をするものなのかを、それぞれの立場で、考えるべき時期に来ているように思います。それを考える際には、わかりやすいテンプレートとしての答えをくれる本ではありませんが、以下のリングマの本は、われわれキリスト者が何をする民なのか、これからの教会はどのような存在かということの補助線のいくつかをくれる本であります。

     

    ま、その意味で、少子高齢化を世間様や自治体より一足先に迎えた前衛としての教会としては、建物として、そしてこれまでの境界運営についての終活を神学的な整理を含め、われわれが何をするものなのか、ということの整理と過去の遺産なのか、負債なのかはよくわかりませんが、それらのものの整理にぼちぼち手をつけて、この時代に生きる教会、特に公同の教会とは何か、について他者をディスリ合戦をするための壁を構築するのではないタイプの神学を構築する時期をまもなく迎えることだけは間違いないように思います。

     

     

    以上で、この連載を終わります。

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 1,944
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:訳文は読みやすいし、内容はすばらしいが、この本を読んだだけでは、実際にどうするかは絶対に見つけ出せない本ではある。読み手の度量が問われる。

    コメント
    おはようございます

    牧師の務めは羊の世話をすることであり
    自分で屠って食らうことではないはずです
    また、証は自分の体験談に適当な聖句を添付するという
    ものでもないはずです
    まして説教ならば自分の成功体験など語らないほうがいい
    体験に基づいた説教は、信仰の弱い人を傷つけ
    信仰のない人には非難の口実を与えることになる
    そして、世が教会を批判するのは世が悪いからだ、と言い放つのです
    確かに、初代教会は御言葉が生きていました
    搾取される側に立っていたからです
    いまやキリスト教は搾取をする側なのです
    • デックチョップ
    • 2018.10.07 Sunday 08:45
    デックチョップ様

    コメントありがとうございました。

    ここのところ、取り込んでおりまして、お返事が大変遅くなりました。

    >牧師の務めは羊の世話をすることであり
    >自分で屠って食らうことではないはずです

    まったくそのとおりか、と思いますが、信徒を外注先のようにされる方も
    降りますので、困ります。そうなったら、逃げ出すに限るのではないか、と
    思います。

    >また、証は自分の体験談に適当な聖句を添付するという
    >ものでもないはずです

    しかしながら、尾明石と証するものの中には、かなり無理な接合も
    しているものもあったり、あるいは成句に合わせて体験捏造疑惑が
    あるものがあったりするものがありますから、かないません。

    >まして説教ならば自分の成功体験など語らないほうがいい
    >体験に基づいた説教は、信仰の弱い人を傷つけ
    >信仰のない人には非難の口実を与えることになる

    まさしくそのとおりか、と思います。特に牧師の劣り牧野皆さんなどが、
    失敗した方とか、不幸な目にお会いの方に対して、信仰が足らないとか、
    祈りが足らないとかめちゃを言うのを聞いていると心が張り裂けそうに
    なります。

    >確かに、初代教会は御言葉が生きていました
    >搾取される側に立っていたからです
    >いまやキリスト教は搾取をする側なのです

    そういう教会を見るたびに、心が痛くなります。私も、そういう教会に
    以前は降りましたが、今は能天気に基督者としていい加減に生きることも
    含め、容認してくださる教会に下りますので、本来の教会の姿、基本に
    すべての教会が立ち返ってくれれば、と思っております。

    ご清覧、コメント、ありがとうございました。お返事大変遅れましたこと、
    心から、お詫び申し上げます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2018.10.15 Monday 21:14
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