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2013.02.11 Monday

ディスペンセイション説という終末論について

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     今日は、国民の祝日ということになっている日なので、それに合わせて、ここのところの連載を今回だけ飛ばして、ちょっと軽めの話題(どこがじゃー、というはなしはありますが・・・・)などを・・・


     歴史的な経緯をたどってみると、ディスペンセイション説(現在連載中)をはじめとした終末論が出てくる背景には、社会不安があるように思われる。クリスチャンは、否定するでしょうが、事実としては符合しているように思う。

     そもそも、ディスペンセイション説が出てきた背景には、1830年代のフランス革命、1840年代のイギリスの経済的失調などがあり、1860年代、イギリスと密接な関係のあるアメリカでの南北戦争などがあり、それこそ、戦争のうわさが現実のものであった時期にこの終末論の議論は非常に盛んになったことも記憶しておくべきかもしれません。

     1910年代以降、アメリカではやったのも、南北戦争が起き、社会不安が高まったところに、日本が中国に勝っちゃうは、さらに、日露戦争でロシアに日本が勝っちゃう(これは相当衝撃だったらしい。アジアは馬鹿にされていたので、一応、ロシアはヨーロッパ扱い)、さらにロシアで革命が起きるは、禁酒法時代にマフィアが暗躍するは、都市文化がアメリカで花開き、大恐慌は起きるし、都市に人が集まり始め、農村に人がいなくなり始めるし、ということがアメリカでこの議論がはやった背景としてあったように思う。

     日本における前回の終末論ブームが起きたのは、世界の経済機構が大変化したちょうどオイルショック・ニクソンショックを背景とた1970年代なのだなぁ。その後、バブル経済で、経済が膨らんだ時期には、前回の終末論ブームのときの予測が外れたこともあり、終末論ブームはどっかにいってしまったような感じを受ける。

     現在、自分たちは、キリスト集会であり、自分たちは教派ではない、とご主張になる人々の間で、終末論ブームがあるかといわれれば、まだ、ブームと言うほどのブームではないけれども、その兆しが全くないわけではない、と思う。関西の各集会の関係者やHPから情報収集している限りは弱くはあるが、その兆しはややないわけではないよなぁ、という部分がある、と思う。というのは、世界情勢を聖書から説く、という以前どこかで見たようなテーマが繰り返されているから。

     とはいえ、1970年代末から80年代初頭にかけてほどの勢いはなく、終末を語らねば伝道者にあらず、という雰囲気までにはなっていないように思う。実際に関西にいる信者のうち、火消しに回った人がいた、という情報をかなり確実な筋からつかんでもいるので。

     もちろん、聖書からも世界情勢は解ける(かなり陰謀論くさくなる香ばしい話題になりかねないけれども)し、そこからかなり無理して、福音と関連付けることも可能である。しかし、世界情勢に関する預言と呼ばれるものが、イエスの主要な主張か、といわれれば、否であると、個人的には答えるだろうなぁ、と思う。終末を語るべきでないとは言わないが・・・。

     世界情勢の予言についてもイエスは言及したか、といわれれば、答えは、その通り、言及はある。

     しかし、そのことで人々にわずかでも恐怖心や不安を抱かせ、そのことから神の国の福音をつたえよう、というのは、私自身は間違っていると思うし、私自身はそのようなことはしたくはないし、するつもりもない。

     特に現在のような経済環境が非常に厳しく、将来の展望が描きにくい若者が大量に増えている時代において。神の『福音』と聖書内における終末と、現在の経済状況や社会状況を関連付けて、危機感をあおるような形で、一部の方がなさるように福音を語るのは、イエスが語り、パウロやペテロが必死に語ろうとした『福音』ではないように思うのだが。

     まぁ、ジョナサン・エドワーズの後継者のように罪の問題と罪への神の怒りの恐怖を語って人々に改心を迫る人々もいない訳ではない。ジョナサン・エドワーズの後継者とジョナサン・エドワーズ自身の語りっぷりはかなり違うようだが・・・。ミーちゃんはーちゃんの聖書理解は、ジョナサン・エドワーズ的なものではない。神の裁きを語ることが『福音』ではなく、人々を恐怖に落とし込むことが神の民がまず第1にすることではないように思うのだが・・・。このようなビリー・グラハム(2世 フランクリン・グラハムと呼ばれるウィリアム(ビリー)・フランクリン・グラハム3世の父)の態度に対して、バルト先生は、「脅迫です。」とおっしゃっておられたようである。ソースはこちら

     ヨハネの黙示は、黙示である。どのようにでも解釈できるし、これまでも様々に解釈されてきた。そこを細かく分析し、現在の世界情勢と比定しつつ分析してはならない、というつもりはない。どのように解釈することも自由である。言論の自由は保障されるべきであるし、その人々の考え方をミーちゃんはーちゃんは尊重したいと思うし、ディスって(ディスリスペクトして)終わり、では対話ということにはならないし。

     しかし、判断力のない人々に、ディスペンセイション説のみが正しいとし、恐怖感をあおりながら、神の『福音』として、このような考え(終末論)を伝えるメリットは、本当によいのだろうか。これからの将来のある子供たちが、空中携挙や、空中再臨といった、厳密に定義されていない業界用語を軽々しく遣うことは望ましくないと思う。彼らには、それより深い世界史とその見方を知って欲しいと思うし、それ以上に、聖書の世界、いや、イエスが語り、ペテロやパウロが必死で伝えようとした、宣言しよう(アンゲロー 宣言する、大声で会衆の前で声を出して伝える、という語。天使と関係の深い語の一つ)とした、『福音(イワンゲリオンアンゲリオン の部分が宣言する、大声で会衆に声を出して伝える、という意味)』を理解して欲しいと思う。そして、ホンモノの『福音』に自分から出会って欲しいと思う。

     受け売りの知識ではなく。

     神学についてもそうである。あまりに神学という言葉が定義されずにつかわれている気がする。ことばが上滑りをしていることの恐怖を感じる。

     そして、とりあえず神学というラベルを貼って、これは危険だから、触れないないように、という指導をしている人たちも、少なくないと聞く。それで良いのだろうか。聖書のことを考え始めた瞬間、そこに神学が始まるといってよいではないか?セオロジーの語源を調べれば明らかだと思う。

     神(theo)のことば(logos)を対象とする神の学問が神学である。聖書を読むことは、神学的行為以外の何者でもない。神学書を読むことを神学というのではない。手当たり次第に神学書を読むことは、やはり効率が悪い。自分で、やってみていてそう思う。ガイダンスがあるほうが確かに良いし、効率はかなり良い。

     日本でも、最近、マクグラス先生の翻訳書などが充実し始め、関連書籍さえそろえば、やってやれなくはなくなりつつある。とはいえ、日本と英語圏の文献の厚みというのか、アクセスにしやすさの違いは感じる。また、英文さえ読みこなす気さえあれば、かなりの本がそろえることは可能になり始めている。そこそこお金はかかるが、日本語でそろえるよりは安くてすむ。

     『福音』をきちんと語るためにも、そして、ディスペンセイション説に大きく依拠せずにパウロやペテロが語った『福音』を神のことばとして声を通して伝えるためにも、丁寧に会話していくこと、相手の言うことをきちんと押さえながら、丁寧な対話することの大切さを感じる。それは、人間相手だけでなく、聖書についてもである。自己の主張だけでなく。聞くことの大切さである。自分の主張を一方的に述べる、自分たちの考えのみが真理として、相手を強圧的に説得することが、『福音』を伝えることでもあるまい。

     そんなことを考えながら、イエスのことばを伝え発言することの大切さを思う。そして、純朴に、かつ、純粋に聖書を解釈しなおしていくことの大切さを感じる。


     ね、国民の祝日にふさわしい軽めの話題でしょ。lol
     

    評価:
    ジェイムズ バード
    教文館
    ¥ 1,890
    (2011-03)
    コメント:リバイバル型の源流の一つがかなり雰囲気が分かるかも。

    評価:
    森本 あんり
    新教出版社
    ¥ 1,785
    (2006-05)
    コメント:アメリカ経由のキリスト教の背景の外観ができます。ある意味で結構便利な本。

    コメント
     どうも、つい釣られて書いてしまいます。

     本文とは余り関連がありませんし、物の見方として斜めすぎるのですが、聖書記述者の筆の運びを見る限り、初期ユダヤ教ナザレ派の人々は、まさに一世代たたぬうちに(長くとも精々30年)千年王国なり終末再臨が起きると思っていたように考えられます。それが・・・いつまでたっても待ち人きたらずで・・・拡大した教団の統一と保存をはかる必要が出てきた。そこで書物として記録を行ない、内容の整理を始めたのだとおもいます。

     ですから、この宗派には根っこの部分に(萌芽した芽の内から)ディスペンセイション説を一つの希望としてみる考え方が残っている、いや、それが元々の始まりの芽だったのかも知れません。

     そんなことを改めて考えてみました・・・
    • ひかる
    • 2013.02.11 Monday 20:43
    管理者の承認待ちコメントです。
    • -
    • 2013.02.12 Tuesday 05:24
    ひかる様

    コメントありがとうございます。

    >まさに一世代たたぬうちに(長くとも精々30年)千年王国なり終末再臨が起きると思っていたように考えられます。それが・・・

    そうなんですよね。パウロの書いたものなんか見ていると、完璧にそうですよね。もう、来月には来る・・・みたいな感じをうけます。

    待ち人来たらずもそうなんですが、それ以上にライブでイエスを知っていた人が、世の中にいなくなる・・・で、どうやってイエスの行ったことを伝えていくのか?という残念な状況に直面せざるを得ない部分があったと思います。口伝は、繰り返していくうちに違うものが入ったり、抜け落ちたりしていますから。伝言ゲームをやれば明らかですね。

    キリスト集会の英国での出発点は研究しているのですが、その初期段階でいたのがJ.N.Darbyというおじさんで、彼が割と文書を書く人であったのに比べ、もう一方のGeorge Muller一派は、実践に重みがあったので、書物を書いた人たちが後世幅を利かせ、というのが実情だろうと見ています。

    元々の始まりは、多くの教派に分かれているキリスト者たちの素朴なキリスト者としての交流の機会の提供にあったようです。このあたりは、Coadが一番詳しいです。

    今回も、インスパイアリングなコメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.02.12 Tuesday 06:56
    U先生 拝承いたしました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.02.12 Tuesday 07:11
    最近「吉祥寺の森」でも、説教が紹介されているカトリックの晴佐久神父も、ブログ主の主張と同じようなことをおっしゃってました。

    いわゆる福音派が、終末論のみならず、「神の審判」「怒りの神」のイメージを使って信徒の恐怖心を煽る手法を取って来たということが現実にあるのではないかと思います。

    こんにち「福音派」に、かくも多くの不祥事が発現、報告されるようになった大きな原因の一つに、恐怖心を用いた信徒のコントロールにあるのではないかと思います。





    • 旅人
    • 2013.02.15 Friday 13:44
    旅人様

    コメントありがとうございました。

    晴佐久神父様は面識はございませんが、その説教集はすべて読ませていただき、感じるところは多々ございます。晴佐久神父様の2011年の聖トマス大学夏期講座でのご講演

    http://ricc.holyring.jp/?proc=japaneseslash2011sslash20110726

    でも同じようなことがふれられておりますし、このご講演にミーちゃんはーちゃんが影響を受けていることも確かです。

    >「神の審判」「怒りの神」のイメージを使って信徒の恐怖心を煽る手法を取って来た

    これは、北米のジョナサン・エドワーズに影響を受けた人々が(確か、米国の高校ではジョナサン・エドワーズの説教を文学として読ませていたはずです。まぁ、文学作品として、そして英語での修辞を学ぶにはよいテキストだと思います)おられます。これらの人々が、そののち、南北戦争、第1次世界大戦、大恐慌、第2次世界大戦を経て、戦争の恐怖やさまざまな恐怖を経て変質し、その変質したもの混ざった状態で、『福音』として日本に到着した、という部分はあろうかと思います。

    そのことは、米国でも認識されており、近日中に日本語翻訳本が出る予定とお聞きしておりますThe King Jesus Gospel http://kingjesus.jugem.jp/ でも、この問題は触れられております。

    恐怖心をあおった奉仕の強要などに関しましては、端っ子さんが、
    http://christiannever.blog.so-net.ne.jp/2013-01-18
    で問題提起されておりますし、本ブログでも、
    http://voiceofwind.jugem.jp/?eid=403
    などの記事で問題提起いたしておるところでございます。

    それもこれも、日本のこの辺がキリスト教だよね、というクリスティアンドムが成立してないが故の不幸か、とも存じます。牧師の不祥事も問題ですが、信徒の健全な成長とその機会が毀損していることも問題を複雑にしているように思います。

    コメントありがとうございました。また、よろしければ遊びに来ていただければ、幸甚。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.02.15 Friday 15:36
    ご丁寧な応答ありがとうございました。

    「牧師の不祥事」と「信徒の健全な成長とその機会が毀損されていること」は実は同じコインの両面ではないかと思います。

    それは、「聖書の正しい解釈はただ一つであり、それを持っているのは神に立てられた牧師のみである」という、権威の異常な集中、力への誘惑ということに共通の原因があるのではないかと考えます。
    • 旅人
    • 2013.02.16 Saturday 12:31
    旅人様

    コメントありがとうございました。

    >「牧師の不祥事」と「信徒の健全な成長とその機会が毀損されていること」は実は同じコインの両面

    その通りの部分もあるかと思います。信徒の無知に付け込んだ自らの権威の集中、偶像崇拝はいけないと言いつつも、自らを信徒の偶像化する牧会者、自ら学習しようとするものに対して情報統制する牧会者たち、それに盲従する信徒、そして、仲間の信徒の異論を封殺する雰囲気などが、カルト化した教会とその被害者を生み出すのだろうと思います。

    このブログのリンク欄にリンクをつけておりますコアラさん http://rihabirikoara.jugem.jp/ のところにお伺いし、村上密先生 http://maranatha.exblog.jp/ の教会でカルト被害者の会に参加させていただいたときに感じたことではございますが、この共依存的な不健康な人間関係が、参加する信徒も、牧会者も相互に破壊していく(ただし責任は指導者でもある牧会者の方がはるかに重いと存じますが)ように思います。

    この前、カナダの神学部で学んでおられる方とお食事した時にお話ししていて思ったことなのですが、学校の教員にしても、牧師にしても、他者から学ぶことが非常に不得意で、何かというと『自分が考えるところの正解』を押し付ける傾向があるように思います。それは、そのような共同体の中で相互に考え、学びあう、という訓練が教員にしても、牧会者にしても、その生涯の中でないために、非常に難しく感じ、安易な解決策を出してお茶を濁すことが問題を生むように、その方とお話ししていて思いました。

    教えないことの大切さ、そして、忍耐をもって、待ち、見守ることの大切さを感じます。

    本日、上智大学の雨宮先生の知恵文学の公開講座をお聞きしてきたのですが、雨宮先生がその中でおっしゃっていたことで一番印象的だったのは、「安易に答えを出さない。しんどいかもしれないけれども、神に対して呼ぶのように神に対して疑問をぶつけ続ける。それこそ、神を恐れる、ということではないか」ということでした。

    本当にそのことを思います。自分自身を含めて。疑い、神にその疑問をぶつけていくことを。そして、平信徒も、安易に目の前にいる牧会者に頼らず、神の思いを求めていくことの大切さを伝えたい、と思いました。

    大変重要なことを指摘していただくコメントをいただき、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.02.16 Saturday 19:58
    当方の思いつきのようなコメントに対しても十倍以上の内容の貴重な応答をいただきありがとうございました。

    ブログ主様のような「対話力」が大切だと痛感します。

    そうして、そのような「対話力」がほとんど皆無だったことが今日の福音主義、福音派諸教会の根本的な問題ではないかと思います。

    ご紹介いただいた上智大学の雨宮神父の言葉にも大変感銘を受けました。

    根本主義、福音主義教会が、あまりにも安易に簡単に結論を出して来たこと、一人一人の人生の行程の中で、それぞれが一生をかけた神との対話を通じて「み旨」を知るということを余りにも軽んじて、出来合いの結論を一方的に押し付けては来なかっただろうかと。

    それは、ブログ主様のコメントにありますように、『自分が考えるところの正解』を押し付けることであり、対話の必要性というものをもともと考えもしなかったのではないかと。

    しかし、今や情報革命によって、あらゆる立場の人が、オープンな情報にアクセスできるようになりました。

    それによって、これまでは、一方的な『自分が考えるところの正解』を押し付け、押し付けられることで事を丸く収めてきた集団から、探究心と考える習慣を持つメンバーが離脱する、あるいはそういうメンバーの新規参入が皆無になるということが起きると思われます。

    その結果、その集団には、探究心がなく、全く自分では考えようとしないメンバーが残ることになります。
    そのような集団はやがて活力がなくなり、縮小再生産してゆく運命にあります。(または尖鋭化しカルト化する事によって一時的に集団の死を回避しようとするかもしれません。)

    安易に結論を出し、一方的に結論を押し付けてきた「対話不在」を反省しなければ、福音主義、根本主義教会の未来は暗いと思わざるを得ませんが、それが現実に出来るかというと悲観的にならざるを得ません。

    そもそも、救済論などの根本問題については「聖書に書いていないことは認められない、それらの異論に対しては一切対話の余地がございません」というのが根本主義、福音主義教会の存在理由であり、そこに対話を認めるやいなや、すなわち「リベラルへの転落」を意味してしまうからです。

    • 旅人
    • 2013.02.17 Sunday 18:46
    旅人様 コメントありがとうございます。

    >「対話力」がほとんど皆無だったことが今日の福音主義、福音派諸教会の根本的な問題ではないかと思います。
    >出来合いの結論を一方的に押し付けては来なかっただろうかと。

    まぁ、アメリカ由来の高圧的かつ脅迫的な方法論のキリスト教が幅を利かせたのはあったと思いますし、彼らが反省的に取り組まない部分はあったように思います。彼らはジョナサン・エドワーズの影響下にあるので、本来はよく考える人たちだったはずなのですが、後継者が、特にその後継者の末端はシステム化してしまって、パターン化した対応の提示しかできなかったようです。パターン以外の問いかけが出てくると、突然怒り始めたり、言論封殺的な言辞がみられることもないわけではないように思います。

    >その集団には、探究心がなく、全く自分では考えようとしないメンバーが残ることになります。
    >そのような集団はやがて活力がなくなり、縮小再生産してゆく運命にあります。

    まぁ、リーダーがお元気な間だけは盛り上がるでしょうが、継続的には、厳しいかもしれません。牧師の代替わりに伴う教会群崩壊の問題がここに生じるように存じます。

    >(または尖鋭化しカルト化する事によって一時的に集団の死を回避しようとするかもしれません。)

    ただ、こうなるともう長続きせず、孤立化の道に向かいますし。

    >根本問題については「聖書に書いていないことは認められない、それらの異論に対しては一切対話の余地がございません」というのが根本主義、福音主義教会の存在理由であり、そこに対話を認めるやいなや、すなわち「リベラルへの転落」を意味してしまうからです。

    いま、福音派ないしその近傍の皆さま方とも何人かお付き合いいただいておるのではございますが、私の身近では、かなり対話ができる方も覆うございますので、福音派では対話がお出来になる方が皆無、という訳では、かならずしもないように思います。

    しかし、いろいろとお話をお聞きしていると、対話ができる、そのための内実が充実している方は案外と少ないようでございます。

    なんとなく記事にしたいことが出てきました。大変参考になるコメント、ありがとうございました。

    感謝しつつ。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2013.02.18 Monday 12:51
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