香山リカ著『迷える社会と迷えるわたし』を読んでみた(1)
今日からは、香山リカ著『迷える社会と迷えるわたし』からご紹介したいと思います。この本は、実は、前回までご紹介した近代及び現代の問題をグリューンとトゥルニエから紹介した工藤信夫著『暴力と人間』よりも、より現代的な話題を、精神科医の立場から語った本であるといってよいと思います。
香山リカ氏には、いろいろ批判もあるのは承知していますが、あえて、紹介するのは、この本が、現代における日本のキリスト教社会、キリスト教界の問題を非キリスト教的に外部から、他者の立ち位置から見ることができる、ということがあるからです。キリスト教徒であれば、すべからく役に立つかというと、役に立たないのも事実であるので(というのは、このミーちゃんはーちゃんという存在がそれを如実に物語っていることくらい知ってはいるので)、キリスト教外の人の視線もまた、有益なものは参考にしたらいいのではないかなぁ、とは思っています。ただ、こんなことを書くと、悪霊に取りつかれているだの、悪魔の手先だの、とお叱りを受けるかもしれませんが、個人的に自分が普段乗っている自転車や、そのタイヤの設計者や、組み立てをした方はキリスト教徒ではおそらくないでしょうし、我が家の扇風機もマレーシア製なので、おそらくムスリムの人が組み立てたものだと思っていますので、それと同じ話だ、位には思っています。あくまで、香山リカという個人の方を称揚しようとか、擁護しようとかも思ってもみないので、誤解をしないようにしていただけたら嬉しいです。
さて、前置きはこのくらいにして、本書の引用をしながら、くどく遊んでみたいと思います。誰かの書いた本を基に、基本的な知的なスポーツを楽しむというのが、このブログの持ち味だと思ってもらえたらうれしいです。こういう遊びがお嫌いなら、どうぞお好きなことをなさっていただけたら、と思います。
「教会と癒し − 精神科医として、個人としてキリスト教に求めること」雑誌『ミニストリー』創刊一周年セミナー講演(2010年7月の講演)の講演録の部分から拾ってみたいと思います。
居場所のない若者
今の学校や会社が、弱肉強食となっているということで、生きづらい人々をいることがあり、病気とは言えないけれども、かといって幸せさを感じない人々の存在が社会的な問題になりかけている現状が述べられた後、香山さんは次のようにご講演でお話になっておられます。
ここで「教会が受け皿になる」と言ってしまえばこれで話が終わってしまうんですが(笑)、そういう人たちが居場所を見つけようと試行錯誤しています。そういう中で、今若い人たちにとっては居場所の一つとして、インターネットの世界があると思うんです。そこだったら周りの人たちと直接顔が見えない。「しんどい」「今の学校じゃやっていけない」と正直に言える。そしてそれを見ている人たちも、「実は…」と言って、同じような悩みを持っている人が本音を話し合える。利害関係がないからこそ、遠慮なく言えるようには一応なっています。(『迷える社会と迷えるわたし』 p.17)
病気とは言えないけど、あんまり元気のない人たちに教会は受け皿になっているか、というと、あんまりなっていないような気がします。というのは、こういう元気のない人たちは、ヒッキーの皆さん方のように、おうちに引きこもったり、自宅警備員をしておられるので、出かけることが前提になっている教会は、そもそも「無理ゲー」と言われて終わりになっているところがあります。大学の中でも、居場所がないという、昔からしたら、非常にぜいたくな悩みを抱えた大学生の皆様がかなり増えてまいりまして、普通の国公立の上位の大学から中位の大学でも実は、結構保健室登校される学生さんがおられて、その対応に追われているということを一部の教員は抱えているというのが、実情だったりいたします。大学という所属組織があっても、そこになじめず、進路が違うと思って、どこかに青い鳥はないかと探しておられる学生さんは案外多く、そういう場合ですと、保健室で受け止められればいいほうで、マスプロ大教室型教育が実施されている、あるいは少人数教育のゼミとか等で、指導教員と合わないなどの理由から、そういう学生さんの存在を受け止め損ねると、登校せず、単位が不足、同級生がおらず相談相手がいなくなり履修情報が入らない、結果の学習意欲の衰退した挙げ句に、中途退学とか、除籍とかになる場合も結構な割合で存在します。具体的には1〜4パーセントくらいの比率で、学部の場合ですとある感じであろうと思います。
自宅警備隊員の歌
宇宙戦艦ニート
今の大学の日常
大学への不登校や保健室登校が増える背景には、予備校とか、学校とかの入学模擬試験で受験校が変更された結果、不本意な大学に入学する学生が存在したり、とりあえず、大学でも行っておけ、あるいは名前だけは名門大学へ、という親の勧めに従う形であまり明確な目的意識なく大学に進学する学生(日本が豊かになった証左であると思いますが)が結構おられることや、一部の大学はレジャーランドと呼ばれるほど、私学文系などの大教室型の講義を中心としたマスプロ教育では、真剣な取り組みとしての学部教育ができていないこと(事実上不可能であること)がありますし、現在の経団連などの経営団体のお偉い皆様が大学に希望しておられるような専門技術職の職能をつける教育を一層進めていきますと、レジャーランドと呼ばれる大学でもこの状態なわけですから、専門技術者や高度職業人の職能教育を中心としますと、大学の教育内容や教育対応で不適合を起こす人(学校外に居場所を必要とする学生のみなさん)の割合はもっと増加するであろうと想像することは難くないと思います。
それで、そういう人がどこに流れているかというと、インターネットの世界であって、ツィッターとか、FacebookとかといったSNSはもはや古く、Lineとか、インスタグラムとか、次々とあぶくのように現れては消える、いろいろなメディアを消費しながら、次々と移行しているように思います。そして、どんどんそういうつながりを与えるものがそれらの人々の社会的活動のインフラとなり、さらにそれらの外に出る気力を失った人々の居場所になり、さらに引きこもりや自宅警備の強化につながっていく、という状態にあるのであろうと思います。
そんな外に出ることができない人たちの居場所がインターネットだけだからと言い、教会に居場所がある、居場所を用意するからいらっしゃい、と呼びかけられたとしても、教会も実際訳のわからない不登校の若者がこられてもどう対応したらよいのかわからないでしょうし、第一教会に同世代の大学生が殆どいない教会が大半ではないでしょうか。そんな状態で、教会には居場所があります、という建前をいったところで、まったくもって無意味ですし、そのような引きこもり系の皆さんを無理やり引きずり出して教会に連れてきたところで、恨まれることは山ほどあっても、感謝されるはずもなく…、というのが現状だと思うのです。
ヒッキー(引きこもり)の人たちにしても、先にご紹介した宇宙戦艦ニートの替え歌ではないですが、いつまでも引きこもっているわけにもいかないということは薄々気がついてはいますので、あとは、それをどうキリスト教の側で受け止める(対応するか)そのような気分の人たちにあまり厚かましく情熱たっぷりでない、「ぬるい」方法でどうアプローチをしていくのか、ということが課題になっているのだと思います。その意味で、上馬キリスト教会のツイッターの様なアプローチは、すべてではないにせよ、かなり有効な手段になっているように思います。
時間の構造化(教会暦と診療)
よく知られた実験に、建物の中で、うつ病とかの治療などで、光を周期的に転倒したり消灯したりすることで、患者の生活時間の構造化をするタイプの治療があります。人間は、ある一定の周期で同じことを安定的に行うことで精神の安定を得る部分があるように思います。そのために、歴訪が発展してきて、時期に応じたイベントを行うことで、人間の生活のリズムを与えることができるようになっている模様です。
実は、快適な空間には、その空間を固定するリズムや固有振動数というものがあります。その空間全体を支配するリズムが一定であることで人間は安心や快適性を感じたりできますし、そのリズムや流れを急変させれば、不安を感じるようです。音楽や建築学でも、その空間や時間を支配するリズムをあえて破ることで、緊張が生まれたり、緊張の緩和が生まれます。もっとも簡単な例として、大学の講義や講演会で、学生や来会者のような聴衆が授業や講演に集中していないことを感じたときには、意図的に言葉を1分近く止めることを時々やっています。これが、一番効果的なようです。チョークを投げるよりも、大きな声を上げるよりも、何よりも効果的なようです。つまり、意図的にその講義を支配しているリズムを止めてやることで緊張が生まれるのです。そして、再開することで、緊張を解いてやるという方法があります。あまりやりすぎると効果はなくなりますが、5から7回に一度数か月の間隔をあけるとかなり、緊張します。いつ無言を止めるかが難しく、話者と聴衆の我慢比べ(チキンゲーム)という面もあります。
この時間を支配するリズムを定期的な診療のためのアポイントメントが与えることを、香山さんは医師として書いておられますし、その定期的な時間のリズムを教会が、毎週の礼拝の周期性を通して与えてうる可能性があることについて、以下のように記述しておられます。
治療も構造化して定められた時間、定められた場所に毎週行くことで本人も心がしっかりと整理され、そこを中心として生活や心の中が立ち直っていくということがあるんです。私は、教会の礼拝に毎週日曜日の何時という時間に来る。そこに行けば礼拝が行われている、守られている。例えば調子が悪くて行けなかった、でも今やってるんだろうな、あるいは来週行けばまたやっている。患者さんもそうです。(同書 p.22)
伝統教派に行くまで、この周期性のもたらす意味は感じなかったし、その意味があまりピンとは来なかったのですが、伝統教派に行って、教会暦に従っていき、教会暦にしたがって、安定的に教会内が変わっていく感覚が持つ意味というものを感じるようになりました。クリスマスの前に、待降節があり、クリスマスがあり、エピファニーがあり、灰の水曜日があり、レントに入り、食事節制があり、自分のふがいなさを徹底的に味わう時期を通り越した後のイースターの祝祭があり、ふがいなさから解放され、わが身もまた、その復活につながるものであることを肉体的な経験、食事などのイースターの祝祭を通して覚え、バプテスマのヨハネの日があり、そのあと、長いペンテコステの時期があり、そして、また、待降節に入っていくというリズムを教会暦は、我々に与え、我々の生活にリズムを与え、日々の聖餐、週ごとの聖餐が祝祭であることを覚えつつ、教会暦を通して、そして、読まれる式文、司祭のチャリスの色の変化などを通して、示される季節の変化が、自分自身の信仰生活にリズムを与えることを体験することになりました。
ヨーロッパ社会では、人々に時間のリズムを与えてきたのが教会なのですが、ある面、教会がカレンダーを定めることで、人々の生活を支配してきた部分もあります。そのため、フランス革命のときには、カレンダー改革が起き、月の名前も、7曜で衆を数えることもやめていきました。とはいえ、ユダヤ社会やイスラム社会では、いまだに曜日は使わず、第1の日、第2の日という呼ばれ方がされ、最後に安息日が来て、また第1の日、第2の日、となっていき、7日で一サイクルというスタイルになっていますが。
フランス革命時に用いられた歴史性を無視した合理性を追求した暦
そういうことを考えてみますと、人間には、ある種時間のリズムが非常に重要な側面があるように思います。そして、それが、人間に安心と落ち着きを与えるのだろうと思います。その意味で、創世記記述にある「夕があり、朝があった」というリズムは、非常に大事なのだろうと思います。
教会を中心とした社会、教会を周辺とする社会
キリスト教系大学の中で、その見学の理念の出発点となったチャペルの位置が軽くなっているということについて、立教大学の教職員である香山さんは、次のように書きます。
(キリスト教主義の学校で、チャペルは)あってないようなものと言ったら怒られるかもしれませんが、そういう存在になってしまっている。そこは別だから、あるからと言って積極的に学生生活に組み込まれたりとかはないですね。キリスト教というものではなくても、ちょっと仲間がほしい、開かれた場所はないかといったときに、うまくチャペルが活用しきれてない。目に見えないある種のバリアがキリスト教、あるいはチャペルと大学、一般社会の間にあるようなそんな印象を受けてしまうんですね。(同書 p.24)
これは、あるあるだろうなぁ、と思います。貧しさゆえに学習機会を奪われているために、あまり学問や学習機会が恵まれない学生への対応をするためにキリスト教主義教育の理念で建学された大学の卒業生の中国人の学生と多数お付き合いさせてもらっていますが、彼らを見ていると、キリスト教精神も、キリスト教を背景とした文化理解も、大学という2年から4年の在学期間でも十分浸透していない様子を日々拝見しております。もちろん、中国本土ご出身で、唯物論に支配された教育に染まっているという部分もあるのかもしれませんが。
コミュニティの中心としての教会
米国の神学校などのを出発点とするアイビーリーグの大学の世俗化に関しては、『大学のあり方』という本で、ハゥワワース先輩が、もともと宗教学校として出発したにもかかわらず世俗化が進んだアメリカ東部のアイビーリーグの現状を批判的に取り上げております。紙幣からコインにまでIn God We Trustと書きたがり、アメリカ合衆国に生まれたからクリスチャンだと言い張る人々がおられるほどキリスト教社会と思われているアメリカの大学ですら、世俗化が進み、教会と大学は分離しています。世界最古の大学と呼ばれるボローニヤ大学以降の西ヨーロッパの名門大学の大半は、そもそも教会付属の修道院から出発しております。
日本では、この辺の背景を明治の和魂洋才が唱えらられたころに大学令を成文化したときに、大学と宗教とのかかわりをほぼ排除しているために、大学と言えども宗教と一線を画したものがほとんどです。まぁ、以前の投稿に手島イザヤさんFacebook 上のコメントで大学の起源をどこに見るかということに関して、イエスと弟子たちとの関係に見るのではとご指摘されておりましたが、個人的には、エルサレム神殿やユダヤのシナゴーグにおける祭司教育、律法教育にまでさかのぼりうる、という印象は持っております。
また、日本では、都市の成立が西洋と基本的に違うため、都市の中心核としてのお城とか、寺院とかの周辺にキャベツのように街が張り付き、その外側に防壁が存在しないことが多いのですが、ヨーロッパでは、旧ローマ帝国支配下地域の都市が典型的なのですが、欧州地域の都市には、まず、都市の核にはローマ軍団兵の駐屯本部があり、それを取り囲むように兵営と住民の居住区が置かれ、その兵営や住民居住区の外側には城壁が形成されるという都市構造になっている原型を残す都市が大半です。この軍団駐屯本部が、のちに市役所や教会として都市の中心を形成する施設として利用されていきます。つまり、旧ローマ支配下の都市構造の中心には、世俗の支配管理施設としての市庁舎と宗教的な支配(というかケア)施設としての教会が併存する形が多いのです。
ケルンの旧市街地の配置図
ケルン(旧市名 コローニャ まさに植民都市という名前)の川側から見た概要図
イスラム支配下のコンスタンティノープル
それ以前のコンスタンティノープル
教会から出発したのが近代大学なのに…
ところが、先にも触れましたように、教会立の大学(ミッションスクール)でも、一応建学の理念としては、キリスト教主義を置くものの、大学という学生と教職員からなるコミュニティの中心は教会とはならず、ミッションスクールであるということで、キリスト教学ないし、キリスト教思想の授業は卒業に必要な科目としては設置されるものの、それは卒業に必要となる120余りの単位のうちの2単位ないし4単位程度にしか過ぎないため、基本的に大学というコミュニティ、あるいは公共空間の中心としての教会が占めるという状態になっていませんし、日本の大学人の中で、自分の学問体系の出発点が、神学にある(法学と医学は除く)ということをあまりご認識のない方々が大半を占めるという社会の中では、大学という学生と教職員からなるコミュニティと教会(チャペル)の紐帯が薄いのは、ある面当然だと思います。
設置者の方としては、建学の理念でもあるキリスト教主義の中心的かつ象徴的施設としてチャペルを置かれたい、そうであってほしいという思いはあるものの、それがコミュニティの中心とはならず、欧米型大学やコミュニティにおける公共の中心としてのチャペルを形だけまねる形で置かれているとしか言えないという残念な状態にあるように思います。何せ、青山学院では、大学正門前のウェスレー先輩像は、ちょっとちょっとおじさんと学生の皆さんの一部からは、呼ばれているそうですから。さすが、昔は、あ○山学院大学と呼ばれた時代があっただけのことはあります。
ちょっとちょっとおじさん呼ばわりされているウェスレー先輩像
パワースポット巡りが話題になる現代で
パワースポット巡りをする若者がいたり、そういう人向けのガイド本があったり、その本の中に宗教体験みたいな体験談が結構記載されていて、それが商品化されている、といった話があった後、香山さんは次のように書いていました。
パワースポットに関するムック本
そういうものを見ても何か世間様の顔を見て、世間のルールに従ってきゅうきゅうとして生きていようだけど、何かそれをちょっと超えた力を心の中で求めている。そういう気持ちも非常に高まっていると思うんです。でもそれがなぜかキリスト教というものにはいかず、方向は近くを向いているのに着地点がパワースポットになってしまう。かすってはいるのに違う方に行ってしまう。非常に残念なことですが、でも本当にそれを求めている人たちは多い。(同書 p.31)
実際、パワースポットはテレビや女性雑誌では、かなり人気の企画になっていますし、ちょっと前までは水子供養とかパワーストーンとかが、女性向け週刊雑誌の裏面のカラーページには広告ページがあったり、こういったことに関する記事がかなり載っていたように思います。
週刊女性の特集記事
人々がミッション系大学に普通に行き(旧英学学校が母体のところが多いので、英語能力が向上するかもという、実際には裏切られる淡い期待に胸膨らませてのご入学が多いのだろうとはおもいますが)、純白のドレスを着て、似非キリスト教式を結婚式場教会というなんちゃってキリスト教会で結婚式を実現するのが普通になっている現代の社会の中で、なぜ教会が選ばれないか、というと、教会が宣教地であるがゆえに、信徒に目で見える形でのコミットメントを過剰に求めてきた、という側面があるかもしれません。
さて、先にご紹介したパワースポットを求める多くの若い人々がいる半面、教会ガラガラ〜〜〜という現状を述べた文章の後、キリスト教のイメージの中に厳しさがあったり、その中に入り込むためのもう一歩をつなぐ何かがあるということが書かれていました。
コミットメントを求めてきたアメリカ型教会
このような現状の背景には、おそらく、これまでの日本でのキリスト教会が、宣教地教会であったこともあり、コミュニティの資源不足の結果、必要以上に信徒の日常的コミットメントを求めてきたことがあるかもしれません。
信徒のコミットメントとしては、献金や毎週定期的に教会に来ること、ビラまき、個人の住宅個別訪問、路傍伝道、教会内の証、日曜学校を担当するという宣教や伝道活動にかかわる側面でのコミットメント、教会や教会境内地の清掃等の奉仕、愛餐会の準備への関与、献金等の教会事務への関与、意思決定への関与とかなりのものを日本では求めてきた部分があるかもしれません。それは本当にどうなのだろうか、と思います。
昔見ていた、「こちらムーンライト探偵社 (原題 Moonlighting)」というテレビドラマ(ブルース・ウィルスが出演していていい加減男をうまく演じている)の中で、死にかけになりながら、ここから無事に抜けられたら、日曜日にいかなくてもいいとか、義務(Commitment、関与)が少ない宗教に入信して結婚しようとかというセリフがありました。こういうのを聞いているとアメリカでも教会は、関与を求める集団だ、と思われているのがセリフに現れていて面白かったです。
『こちらブルームーン探偵社』でブルース・ウィリスが歌うシーンだけを集めた動画
先日の出来事ですが、普段ほぼ毎週顔を出している方が、チャペルの司祭に「ここのところ何度かお休みしてしまって、申し訳ない気持ちです」とお話になっていました。その司祭は、かなり出席率の極めて高い方のご発言に対して、「教会に毎週来ないことは犯罪じゃないし、そんなに申し訳ながる必要はないですよ。かえって教会にいないほうが、あなたが神の平和と神の支配があることをご家族や、周囲の人々、ひいては教会内にいない世界の人々に示せるかもしれないし、そうであるとするならば、かえって教会に来ないほうがいいかもねぇ」と話しているのを聞いて、めちゃくちゃ面白いなぁ、と思いました。
教会に来るのは、ある面、特権(Privilege)であって、義務(Obligation)ではないはずなのですが、このあたりの理解が割と薄いキリスト教会の関係者は多いのではないか、と思います。
神が、我々人間を呼んでおられることに対する応答として、そのことの象徴として、主の復活を覚える日(主日)に羊飼い(Pastor それは牧師なのか、司祭なのか、いろいろお考えはあるでしょうが)によって飯を食わせてもらうために集まっているのであって、それ以上のものではないですし、食事をする体力がない人々、呼ぶ力にこたえる力がない人は、その置かれた場で、キリストを見ればいいだけの話なのだろうと思います。ちょうど出エジプトの民が、あげられた蛇の銅像を見たように。
次回へと続きます。
|
評価:
スタンリー・ハワーワス ヨベル ¥ 3,780 コメント:アメリカの名門大学の背景と現状について、詳しい本です |
- コメント
- こんばんは
読もう読もうと思っていた本ですが
先に読まれちゃいましたね(笑)
以前、香山リカ氏の講演を見に行ったことがあります
さすが講演の中でも「思い悩むな」など、新約の言葉を引用したりして
氏の世界観の構築にキリスト教が与えた影響の大きさを感じます
しかし、洗礼を受けていないということでした
いわば、クリスチャンではなくキリストのシンパですね
だからこそ、クリスチャン世界の中で強烈に思想や言動を制限する
もろもろのバイアスからある程度自由になって発言できるんですね
私はクリスチャンで、10年ほど教会に通っておりますが
教会の人間とはうわべだけのお付き合いをさせていただいてます
積極的に賛美し、祈り、兄弟姉妹と交わりの時をもちますし、
みんな喜んでくれます
(祈りなんて簡単です。ちょっと練習すればすぐできます)
しかしそれすらうわべだけのお付き合いです
私が「すべての人間はクズである、神の作ったこの世界はガラクタである
神もインチキである」という本音を秘めていることを
彼らは永遠に知ることがありません
彼らは自分の意に沿わない人間をサタンサタンと言って攻撃する生活を
しているのです
祈りも、賛美も彼らがブヒブヒ歓ぶのが面白いからしているだけ
心の中で「こいつらをよろこばせればいいんだろ」と常に思っています
全然関係ない話で恐縮ですが
キリスト教はいつから「キリスト教以外は地獄に落ちる」とか
「教会に通わない人は地獄に落ちる」と
教え始めたんでしょうか? -
- ベティ
- 2018.08.23 Thursday 04:43
- ベティさま ご清覧、コメント、ありがとうございました。
>しかし、洗礼を受けていないということでした
>いわば、クリスチャンではなくキリストのシンパですね
シンパというよりは、かなり関心はあるけれども、踏み切るほどのことはなかろうとぬるく眺めておられる教会ニワカ(なんかあったら、教会に関心を持つ人々)のお一人でも、かなり関心の深い方だと思います。文筆家でいうと、塩野七生さんなんかと似ているかもしれません。
>だからこそ、クリスチャン世界の中で強烈に思想や言動を制限する
>もろもろのバイアスからある程度自由になって発言できるんですね
まぁ、内部の人でも、私みたいにやってやれなくはないんですけど、立場がある人だと、あとでネチネチとか、あとで、苦情も言われるということもありますから、それを受けて立てる根性さえあれば、できるはずなんですけどね。ただ、大概の日本人と日本人だけの教会の方の場合には、これは、厳しい。キリスト者である以前に日本人性が求められることがある部分があるかもしれません。
>(祈りなんて簡単です。ちょっと練習すればすぐできます)
自由祈祷の教会でしょうかねぇ。伝統教派の式文系の教会の場合は、祈りの文言が書いてあって、それ以外は普通祈らないという部分もあります。まぁ、祈祷会とかだと、個人のことばで祈ることもありますけど。まぁ、それも、式文というテンプレートがあるので、そんな面倒なことでもないのですけど。でも、自由祈祷だと言いながら、実質的に祈り方のテンプレートがあるとか、って、面白いですよね。論理矛盾している。でも、そういう教会にいたから、敬虔ぶりっ子する簡単な方法として、よく使われるフレーズで祈るということで、敬虔だと思ってもらえるのは、よく存じ上げています。
>「すべての人間はクズである、神の作ったこの世界はガラクタである、神もインチキである」
ということに関してですが、最初の部分はその通りだと思いますが、神が造ったこの世界は、人間がガラクタにしただけ、のような気がします。神がインチキかどうかは、異論がございます。人間側から見ると、インチキに見えるだけ、ということなのだろうとは思います。
>キリスト教はいつから「キリスト教以外は地獄に落ちる」とか
>「教会に通わない人は地獄に落ちる」と
>教え始めたんでしょうか?
これは、割と古い、と思います。多分、古代時代からあったのではないか、と思います。おそらく、ローマ帝国の宗教になったあたりから、ローマ市民にあらずば人間にあらず、みたいな理解と一体化していた部分があろうか、と思います。特に、殉教時代に殉教死ながらも信徒を守った、キプリアヌス先輩が、「世俗の権威から、命を懸けて信徒を守る」という趣旨でいった「教会以外に救いなし」という言葉が「教会以外には、救いがないのだから、地獄で苦しんで当然」⇒「教会に来ないやつは地獄行き」と何ステップか踏んだ挙句に変化していったように思います。今の日本でこの考え方に決定的に影響しているのは、ジョナサン・エドワーズの説教『怒れる神の御手の中にある罪人』の説教が決定的だった、と思います。
コメント、ご質問、ありがとうございます。主の平和がございますように(これもいのりのことばですね。w でも、本心から、思っています。)
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2018.08.23 Thursday 06:49
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