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2018.08.18 Saturday

工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(20)

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    今日もまた、第4章「女性であることーパーソナルな世界の豊かさ」から読んで思ったことを紹介してみたいと思います。

     

    管理という発想・個別性の軽視

    管理という言葉は、あまり印象がよろしくない言葉の一つになっています。管理教育という言葉に現れるように、人間性を無視した取り扱いをするというイメージがあるように思います。管理という言葉に対応する英語はControlだと思われがちですが、本来は、Managementだと思います。では、Controlの日本語で比較的よく使われる言葉は、制御という言葉ではなかろうか、と思います。制御というのは、相手ないしは対象をある程度意のままに動かせるというイメージとつながってきます。

     

    日本の経営学では、いまだに同質性を前提とした研究方法が多く行われているわけですが、人事管理などの経営学の分野では、勤労者の多様性Diversityをどのように生かしていくのか、という研究が行われるようになってきています。この背景には、アメリカなどの大企業が多国籍企業化がすすんでいき、社内に多様な人材を抱えるようになり、その多様性をどのように生かしていくのかが問われるようになってきた、という部分があります。これまで、日本の企業でも、多国籍経営が行われはいますが、多様性を踏まえた人材登用や現地化はさほど進んでいないように思えてなりません。日産やシャープといった倒産の危機を迎えかけた企業でトップが外国人という企業も見られるようになってはいますが、社内の人材的多様性を前提とした運営ができていない企業は多いように思います。その背景には、日本語という、もうどうしようもない参入障壁があると思っています。留学生を社会に送り出す中で、この障壁の高さは感じます。まぁ、もちろん、学生の側のヒットエンドラン型の就職姿勢(数年日本で働き、ノウハウをもって母国に帰るという就職態度)や自己の能力や才能を過大評価するという傾向などがあるのは、あるのですが。それもカルチャーであり、ダイバーシティを形成する要因ではあるはずではあるのですが。

     

    ここで、工藤さんは、男性原理というよりは近代を支配した思考の傾向(くせ)でもある管理しようとする傾向について、次のように書いていました。

     

    つまり管理的な思考は<何か>に重きを置き、必ずしも<誰か>を考慮しない部分があるのである。

    その結果<何か>のは以後にある<誰か>の痛みや悲しみに思いが及ばないことになりかねない。(『暴力と人間』p.230)

     

    このブログ記事でも、そして、この工藤さんの『暴力と人間』のシリーズでも触れてきたことですが、近代を支配した思想の背景には、同質性、均一性と言った一様性の前提が広く検証されない前提として想定されているように思います。この近代の前提があるからこそ、平均をとったり、集計をしたりという意味があるのであって、対象の属性を強調し、個別性をあまり強調してしまうと、そもそも、サンプル数が激減するので、統計を取る意味がなくなります。集団として扱えず、個に分解されてしまい、一様性を前提とした学問的手法、とりわけ統計学的手法で扱いづらくなるのです。となると、全体をどうやって表せばよいのかわからなくなる、一般化がかなりしにくくなって、一般化を目指すような学問ができなくなるという課題を抱えることになります。

     

    数量化の背景

    統計学や社会調査、あるいはそれらの手法を扱う心理学では、ある程度社会全体としての痛みや悲しみについての調査結果を出すことはできますが、個別の個人の痛みや悲しみには向き合うことはできませんし、そもそも、そのタイプのある社会集団を扱うような研究者は、個別の個人の痛みや悲しみに向き合おうという方向性は持っていないように思います。このブログの筆者であるミーちゃんハーちゃんも個別性より集団性、個別性よりも一般性を目指している学問体系を志向しているので、どちらかというとマスでモノを捉える近代的な考え方に毒されている側面があるのは素直に認めたいと思います。

     

    それはそうと、先日放送されていたNHKスペシャルの「船乗りたちの戦争 〜海に消えた6万人の命〜」という番組中で、ある海軍将官の言葉として番組中紹介されていたことばが非常に印象的でした。「最初の頃、敵の攻撃で(民間)船が沈められたときには、心がいたんで、真剣に対策を考えたものだが、次第に被害が増えるに従って痛みを感じなくなり、感覚が鈍ってきた」(大意)という表現です。このようなあまりに対象数が多くなるという状況が、対象を数字でしか捉えられない状態になってしまって、固有名が消える現象が、この海軍将官に起きたのだと思います。基本、どんなに優れた記憶力の人でも、記憶できるのは、おそらく対象数が1,000くらいなので、それを超えると、個別認識ができなくなるからだと思います。関心がなくなる、関心が薄れると、固有名が消えるという作用を人間は持っているのかもしれないと思います。この記憶が消えるのもまた、神の恵みだとは思います。いつまでも覚えていると、辛いことも記憶し続けますから。PTSDを起こさないためにも、この記憶の消去というのは大事なのだろうなぁ、と思うのです。

     

    お勉強型の教会…

    工藤さんはこれまでの西洋近代社会の中野男性原理的な西洋近代文明社会の教会を模索する中で形成されてきた現代の日本の男性原理に支配された教会について、次のような実に非常に印象的なことを書いておられます。

     

    トゥルニエはこれまで述べてきたように、文明批評としての男性原理のもたらした様々な弊害を強調する一方で、男性原理に基づいた神学や聖書解釈がもたらす問題についても言及しているからである。

    そして私がこのトゥルニエのこの本を、多くのキリスト者に紹介したいと思ったのはこの点にある。というのは私の思うところ、私たちがこれまで耳にしてきたキリスト教といえは、それは教理であり、教義であり、それは主に知的学びであったような気がするからである。

    それをある人は私にいみじくも「教会は”お勉強の世界”」と言った。

    もちろん私どもが身近に見たキリスト教の世界には、マザー・テレサのように人間の現実生活に関わる奉仕活動やキリスト教の社会的実践もあったが、大半の働きは宣教とか教会形成、聖書の学び、トラクト配布や伝道活動と言った活動主義であった。しかしそこにかけていたのは私達の生活そのものに結びつく<具体性><人間性><日常性>という<人間の実在>からの分離・遊離ではなかったのかと思う。(同書 p.246)

     

    ドイツ及び北欧を中心とした西洋近代社会はルター派・カルヴィン派・再洗礼派を中心としたプロテスタント教会により作られ、フランスを中心とした西洋近代社会はカトリックから極端な形での分離をして、人権思想というカトリック教会のキリスト教の代理品を生み出すことで、英国では、国教会制度を背景としつつも、多数の分離派を生み出す中で、近代社会自身を形成してきたように思います。アメリカ大陸とオセアニア地区では、イギリスからの分離派の関係者とアングリカン・コミュニオン(イングランド教会との相互陪餐が可能な教会群)の関係者と、ヨーロッパからのカルヴィン派及びルター派、再洗礼派等の関係者、アイルランド系カトリック教会、ヨーロッパ大陸のカトリック教会関係者や正教会関係者の多重波状的流入によって近代社会が形成されてきたといってよいかと思います。

     

    お勉強中心型教会になった背景

    特に、宗教改革運動と、カトリック内の同時期の教会革新運動(イエズス会などの登場)は、基本的にこれまでの古い教会のスタイルであった15世紀までのキリスト教を否定しようとした動きを持っていたため、その正統性を伝統に求めるのではなく、学問的な妥当性、真理性に求めたために、どうしても、男性原理的なものになりがちであり、先に引用した工藤さんの文章中での「これまで耳にしてきたキリスト教といえは、それは教理であり、教義であり、それは主に知的学び」であるという側面は強かったように思いますし、さらに、工藤さんに対するある方のご発言に「教会は”お勉強の世界”」と言うのは、実際的な部分ではなかろうか、と思います。

     

    ここで、工藤さんが、「人間の現実生活に関わる奉仕活動やキリスト教の社会的実践もあった」と書いておられるような方は、カトリック教会を中心とする伝統教派でも、プロテスタント教会群でも見られましたが、どちらかというと、日本では、カトリック、聖公会での働きが数の上では多かったように思われます。とはいえ、明治期以降のプロテスタント教会は、明治期に女子教育への関心がアメリカで高まっていたことや、アメリカ社会の倫理的な価値観からの廃娼運動(女子矯風会へと継承)など、(女子)教育、英学を背景とした高等教育を中心とした社会的実践を行ってきた側面があるように思います。なお、カトリック教会においては、より社会の貧しい人々への奉仕をする対応をとった時期と、より雙葉や六甲高校など社会の指導的な層の人々へのアプローチを目指した対応をとった時期とが交互に発生していることは、上智大学の川村神父の研究から明らかになっています。

     

    宣教地としての日本とアメリカの教会文化

    ところで、これまでの日本での教会の動きは、「大半の働きは宣教とか教会形成、聖書の学び、トラクト配布や伝道活動と言った活動主義であった」と記述があるが、これは、日本社会は教会にとって、明治期以降一貫して宣教地としての側面が強いので、宣教、教会形成、伝道活動が中心にならざるを得ないという事情があり、ヨーロッパ社会では、骨身にしみるほどキリスト教と社会は一体化した状態にあったようです。

     

    あるいは、国教会を作らないと、アメリカ合衆国憲法修正第1条で言わなければならないほど骨身にしみてはいたほど、移民の出発地のヨーロッパ諸国ではキリスト教の影響が広く社会に及んでいた状態であったようです。

     

    とはいえ、未開地であったアメリカ大陸では、教会の社会に対する重しというか社会的な制約が外れたこともあり、ジョナサン・エドワーズが、リバイバル説教として『怒れる神の御手の中にある罪人』をして、一部の人々を失神させてまでもキリスト教徒であることを取り戻すよう、回心を市民に迫らなければならないほど、堕落していたという側面もあり、リバイバル運動では人々に説教で回心を迫るというスタイルが確立されたように思います。ジョナサン・エドワーズ以降、ウェスレー・ブラザース(ジョンとチャールズの兄弟)、ホィットフィールド等のリバイバル運動が全米で取り組まれていき、野外集会を中心として執り行われていったという側面がありました。

     

     

     

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    ジョナサン・エドワーズ

     

     

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    イコンになった、ウェスレー・ブラザーズ

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    ジョン・ウェスレーとチャールズ・ウェスレー

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    ジョージ・ウィットフィールド

     

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    ホイットフィールド時代のリバイバル大会

     

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    現代のテントミーティングによるリバイバル大会会場

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    現代日本でのリバイバル大会(甲子園ミッション)

     

    このあたりのアメリカのキリスト教の特質については、以下で紹介する森本あんり先生が『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 』という書籍で整理されたように、アメリカでの教会文化の中に、このリバイバル運動の伝統が強く残っているため、米国では「宣教とか教会形成、聖書の学び、トラクト配布や伝道活動と言った活動主義であった」という側面はあろうか、と思います。同書の概要を知りたい方は、コチラをどうぞ。

     

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(1)

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(3)

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(4)

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(5)

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    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(8)

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    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(10)

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(11) 

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(12) 

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(13)

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(14) 最終回直前スペシャル

    森本あんり著 反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体 を読んだ(15) 最終回スペシャル

     

    そして、明治期以降のキリスト教は、カトリック教会、正教会を除けば、ほぼこのリバイバル運動が18世紀以降ずっと行われ続けてきたアメリカからやって来た宣教師やアメリカの支援を受けた教会が多いこと、また、まずキリスト教への認知を充実させるための手段として、明治期に日本に到達した多くのアメリカ系キリスト教、戦後日本にGHQの支援を受ける形で大挙して到達したキリスト教が、ジョナサン・エドワーズのスタイルの影響を受けたリバイバル運動を経由して説教を通しての説得というスタイルを持つアメリカの教会からの宣教師を中心としていたため、「宣教とか教会形成、聖書の学び、トラクト配布や伝道活動と言った活動主義」を取らざるを得なかったという背景があり、今日もなお、その明治時代、また、戦後以降の活動主義文化から、脱却できていないという問題はあるように思います。

     

    現在の日本のキリスト教をどう見るか

    とはいえ、未だ日本では宣教地でしかないので、これまでの方針を堅持しなければならない部分もあろうか、とは思うのですし、日本の宣教開始から今年で150年前後ですから、キリスト教が始まった時期の歴史から考えても、未だニケア公会議の状態にまでキリスト教理解が至っておらず、日本は、未だキリスト教徒は何であるかを自分の言語で考えかねている状態であると思ったほうが良いのではないか、と思います。

     

     

    ミーちゃんハーちゃんの若い友人が、『神の五指としてのキリスト教』というなかなか良い記事を書いているので、このあたりに関心のある方は、そちらをお読みいただいて、投げ銭をして小遣い稼ぎを支援いただけると嬉しいし、もっと知りたい方は、『アーギュメンツ #3』をお買い上げいただきたいと思います。

     

    最近、インターネットの普及のおかげで、教派間の障壁がかなり下がり、知ろうと思えば、教会が禁じない限りにおいて(いまだにカトリックに行くことに抵抗感があったり、行くなという福音派の教会もあるようですが)は、他教派の動きなどもかなり情報が入手できるようになってきました。特に、テレビに依存しなくても、他の教派の情報が入るようになってきました。また、第2バチカン以降、とりわけ、今のフランシス様になってからというもの、カトリックの側もかなり柔軟に(まだまだ聖餐論では難関を抱えていますが)対応いただけるようになりました。こうなると、工藤さんがお書きの「<具体性><人間性><日常性>という<人間の実在>」と信仰が一体化したキリスト教(伝統教派である、カトリック、聖公会、正教会)に、触れてみようとする勇気さえあれば、それを目の当たりに見ることが可能になっています。とはいえ、それが教会の教理とか、人が言ったこと(例えば、エキュメニカルな動きは悪魔の働き…とか)とかに左右されない限りは、という条件下ではありますが。その意味で、今は伝統教派を含む多様なキリスト教会の実際や実像をかなり自由に観察し、味わい、共に働く中で、参考にできるようになってきていることは確かです。

     

    その意味で、工藤さんに問われているのは、実は、「主に牧師は教会にいるものだ、24時間365日いるべきものである」といった仏教僧と寺や、神官と神社との関係の類似性から類推し、派生させた信徒の思い込みなどから、教会に縛り付けられ、教会に閉じ込められている牧師さんの考えではなく、信徒のほうの考え方や、思い込みなのかもしれません。

     

    【口語訳聖書】イザヤ書
     61:2 貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
     61:2 主の恵みの年と

             われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
     61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである

     

    というイザヤ書について思いめぐらすとき、個人的には、教会の「捕われ牧師に放免を告げ、縛られている牧師に開放を告げ」牧師がその本来の業務であるはずの「主の恵みの年と、われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、教会の中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである」という牧師の本来業務をできる牧師さんが一人でもたくさん増えることを願ってやみません。

     

    次回、本書の紹介の最終回です。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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    コメント:アメリカからの宣教師の影響を受けてきた日本の伝道アプローチの背景が描かれていて、大変参考になる。

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