工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(9)
今日も工藤信夫著『暴力と人間』の第2章『強い人弱い人ー人間の強さと弱さ』のB『強い人と弱い人』という本から学ぶこと からご紹介してみたいと思います。
アメリカ型のキリスト教と日本
日本では、過去に3回キリスト教ブームがあったことが知られている。第1次ブームは、織豊政権機で社会が安定に向かい始めること、第2次ブームは、明治維新直後で、日本が西欧列強に追いつこうとしたころ、第3次ブームは、大日本帝国が崩壊し、進駐軍が日本に駐留し、社会が安定に向かったころであった様に思います。
このキリスト教ブームの直前には、ほぼ決まって、日本の社会の中で、大きな悲惨な現実が社会で見られたことを忘れてはならないように思います。織豊期の直前は、日本中が戦に巻き込まれた戦国時代で、日本中のあちこちに放置された戦死した人々の遺骸がごろごろしていた時期です。この時期も社会システムの激変がありました。
第2次ブームは、戊辰戦役、西南戦役という実質的な日本の内戦があり、その戦役が終息し社会が安寧な社会に向かい始めているとは言いながら、戦役で疲弊した人心を社会に内包していたころでした。戊辰戦役のときには、東北の旧佐幕側の諸藩では、佐幕側の武士の遺骸は埋葬を禁じられたそうですし。
戊辰戦争直後の会津城 http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/about-boshin/
第3次ブームは、これまでの局地戦に代わり、人類の歴史上初の総力戦である太平洋戦争とその末期に行われた一般市民を対象にした絨毯爆撃や焼夷弾攻撃により、日本が文字通り焼土化し、日本中の都市の街のあちこちに戦争で殺された人々の記憶が強く残っていた時期でもあります。
空襲後の東京の模様 Wikipediaより
この社会的混乱とキリスト教ブームとの関係は、案外重要だと思うのです。日本だけでなく。ある種の”(キリスト教における)リバイバル”が起きているのは、社会不安に多くの人びとが巻き込まれた直後のようです。英国での国教会の分離派が多数生まれた時期は、安定した植民地だと思い込んでいたアメリカ大陸の東部13州がボストン・ティーパーティー事件を契機に、大英帝国に独立戦争をしかけ、独立騒ぎが起きたり、ヨーロッパ大陸でフランス革命が起きたりした直後の人心の不安が広く拡がった時期とほぼ相前後していますし、かの有名なムーディー(中田重治先輩が心酔したムーデー先輩)とサンキーが米国で一大ムーブメントを起こしたリバイバル大会は、アメリカ全土を戦場とした、南北戦争の直後だったという側面もあるように思います。
もちろん、きよめ派の伝統に属し、ドクターの異名を持つマーチン・ロイド=ジョーンズ先輩を私淑するミーちゃんはーちゃんとしては、敬虔な人々の祈りがあったことは露だに疑いもしていないのですが、それだけにリバイバルを帰着するのは、やや片手落ちのような気もします。しかしながら、社会的な不安要因にだけ着目し、それですべてを宗教的な理解を語るのも論外であるとは思ってはいるのですが。
ところで、織豊期にまず、日本にキリスト教を伝えたのは、ポルトガル人を中心としたカトリックの人々でした。明治期には、北海道東北方面の戊辰戦役で疲れきっていた人びとには、ロシアからの亜使徒、ニコライがハリストスにある回復を説き、仙台では、ホーイ先輩やシュネーダー先輩による東北学院の前身( 仙台神学校 )を形成した米国を中心とした人々が伝道しましたし、横浜ではバラーやヘボン式ローマ字で有名なヘップバーンなどが横浜英学所(後の明治学院大学に一部継承)、京都では熊本バンド関係者を中心とした、同志社が形成され、中国を経由して、関学を設立したのは、ウォルター・ランベス先輩は米国南部メソディストから派遣されています。逆に、インド洋周りでは、日本伝動隊の基礎を作ったバークレー・バクストン先輩が到来していますし、他には、明治期のカトリック教会の伝道で大きな役割を果たしたカトリックのパリ宣教会もインド洋周りだとおもいます。他にも、中国インランド・ミッションの関係で、日本に到達した宣教師もかなりおられます。
アジアの亜使徒 ニコライ(神田御茶ノ水のニコライ堂の名前の由来となった方)
ヘボンことジェームス・カーティス・ヘップバーン先輩
ジェームス・ハミルトン・バラ先輩
ウォルター・ランバス先輩
バークレー・バクストン先輩
1945年後のポツダム宣言受諾後は、ダグラス・マッカーサーの日本に宣教師を送るような米国教会への依頼などもあり、多くの宣教師が米国から到達しますし、先にも述べた、中国大陸インランド・ミッションが、中国共産党の中国本土での支配権の確立もあり、外国人宣教師による活動が、実質上困難になり、多くの宣教師がアジア地区ということで、日本を目指すことになった部分もあります。
こう考えてみると、日本のキリスト教宣教は、様々な多様な国からの宣教師に依拠して行われてきましたが、明治以降は一貫して、アメリカ合衆国からの影響が強いということになりますし、とりわけ、1945年以降は、占領軍内のアメリカ将兵がその腫瘍舞台を締めていたこともあり、日本国がアメリカとの関係を深めていくとともに、日本のキリスト教にも、アメリカの教会の影響が非常に色濃く現れているように思います。
キリストを信じているといいながら、神の力を借りてでも強くなろうとする私たちは、その発想からして何か思い違いをしているのではないだろうかと思われてくる。
そして、ここに至ると私はもうこれまで私たちの世代が教え込まれてきた、キリスト教の間違いに気づく戸口に立っているような気がする。
というのは、戦後の私たちに伝えられたキリスト教の多くは、今日のアメリカ文化を代表するサクセスストーリー(成功主義)であり、”目的達成型”の信仰である。(『暴力と人間』p.116)
西廻りの教会(アメリカ経由の教会)と東廻り教会(インド洋あるいはシベリア経由の教会)の何が違うかというと、基本的にアメリカという開拓地型のフィニーなどから始まる野外伝道を中心とした大衆動員型の伝道を経由していること、自分でも何でもしたがるDo it yourself型の思想が骨の髄まで染み込んだようなアメリカ人の伝道かどうか、というあたりが大きく影響しているように思います。
その結果として、キリスト教としての肌触りがかなり異なります。なお、ヨーロッパはアダム・スミスを引くまでもなく、古くから分業制度が確立しており、役割によって、して良いこととできないことが、職分によりかなり厳格に定義されている社会ですので、何でもかんでも自分でやってしまおうとする傾向はあまりないように思います。
さて、東廻りで日本に宣教した伝統教派型の教会に共通するものはなにかといえば、自分の弱さをまず認めてしまう点ではないか、と思います。カトリックにしても、正教会にしても、聖公会にしても、まず、自分には罪があり、自分が神の前に不十分であることを認める(告白する)ところから、礼拝がまず始まりますので、そもそも、自分たちが強いなどという概念を持ちにくくできているように思います。しかしながら、自然に抗して生きることを強いられた開拓民を祖にもつ米国系のプロテスタント系教会の一部の場合、どうも、次のような構造があるのではないか、と思います。
神の民であるから祝福されるはずだ
⇒神の民であるから神の力が働くはずだ
⇒神の民である私達は強いはずだ
⇒神の民である私達は強い
という論理構造から、強さを求める構造が見られるように思えてなりません。もちろん、アメリカ文化の中に根ざす、Do it yourself精神は、そのDo itという言葉が指し示すように、Doingタイプの信仰を志向するように思えてなりません。となると、教会がなすべきことは、日本が明治期以降一貫して、宣教地であることもあり、宣教してなんぼ、あるいは、福音伝道してなんぼ、という形の信仰のあり様が模索されてきたように思います。
そして、社会の人は、立派なものに惹かれるであろうから、そのため、社会の範たる、社会を照らす灯台のような存在(そもそも、それは神ご自身だとミーちゃんハーちゃんは思うのですが)であるべきキリスト者は、立派でなければならない、というある種乗り会があったように思います。このような指導的な立場についての儒教的な世界観を含む論理構造と、前回の記事でもお書きしましたように、近代社会が富国強兵という言葉にあるように、より豊かに、より強く、より高く、より効果的であることを求めたこともあるため、日本では、何かできること、何か、他者より優れていること、何事かを起こせること、つまり、Doingタイプの信仰者の理想像が形作られていったように思います。東廻りで伝わってきた伝統教派がともすれば、神の主権性を認め、人間がパッシブな存在として理解される人間感を強く主張することに比べ、西廻りで伝わってきたプロテスタント系教会は、(伝統教派との比較の問題ではありますが)人間をよりアクティブな存在として理解したことも影響しているのかもしれません。
その結果として、工藤さんがご指摘のように、「今日のアメリカ文化を代表するサクセスストーリー(成功主義)であり、”目的達成型”の信仰」となっているのだと思います。とはいえ、1945年以降、アメリカ文化はその恐ろしいほどの生産能力を基礎とし、世界を席巻しますから、東廻りだからといって、北米的な思想の影響は皆無では無いように思いますけれども。
日本社会での宗教リテラシーの浅薄さ
キリスト教系カルトは、日本を始めとする東アジアで、かなりの数が見られるように思います。この背景には、キリスト教がまだ十分社会の中で咀嚼され、浸透してきていないことがあるように思います。
更に、日本では、近代化の過程の中で、宗教に関する基礎的な知識を教えられる機会がなく、社会の中でも、葬儀くらいしか宗教的要素と触れる機会がないし、その触れ方も、儀式としての表面的なものであり、その宗教的儀礼のその先にある内奥まで触れることは、基本的に稀だとおもうのです。
ホテルや結婚式場で行われる近年の人前結婚式に至っては、宗教的な側面は完全に脱色されています。また、結婚式場教会と呼ばれる教会では、教会員がいない教会であり、キリスト教の結婚式でなはい結婚式が執り行われています。それは、キリスト教の雰囲気を持つキリスト教の様式に一見従った結婚式が、退職牧師ならまだしも、時々、司祭資格もなく、牧師資格もなく、按手も受けたことがない、信仰の内実のまったくない、場合によっては仏教思想に傾倒したアルバイトのコーカシア人種に見える外国人によって執り行われていたり、日本人が外国人に疎いことから、イスラエル人によって執り行われる事例もあるやに聞いています。このような宗教リテラシーのなさや、宗教的なものをあまりにも軽々しく扱う現状の態度はかなり深刻だと思います。
海外旅行した際や、海外で暮らす際に、安易に、特定の宗教を信じていないからということで、無神論者扱いを受けかねない、無宗教を名乗るなどの事例も見聞きします。特に、この無宗教という表現は、ムスリム世界で過ごす際に、神をも恐れぬ人間中心主義とも過激な一部のムスリムの皆様には映るようで、過激な人からは攻撃の対象とされかねない怖さを持っているようです。これらは、キリスト教への無関心以上に、日本人の宗教リテラシーの低さを反映しているように思います。
ある牧師の方が、お住いの地域で、普通の街で出会うタクシーの運転手さんや、美容師さん、お医者さんなどに、何度説明しても、日本人にとっては、キリスト教というと、プロテスタントか、カトリックしか出てこない(正教会系は、残念ながら無視されている模様)し、大抵は理解が混乱していることや、たとえ、ミッションスクールで学んだ経験などがあっても、キリスト教の教派に無頓着な姿をこころからお嘆きですが、基本宗教リテラシーが低い日本では、そのようなものでしかないと思います。日本では、政教分離の悪影響と近代合理主義思想・啓蒙思想が、初等中等教育の教育現場では効きすぎていて、このような宗教思想に会えて触れない副作用が、現代社会では大きな問題となっているのかもしれないと思います。
さて、工藤さんは、トゥルニエの文章の<服従>に関する記述を引用した後、次のように書きます。
<実り豊かな服従>と<貧しい服従>があるというのは、無視できない指摘である。
トゥルニエのこの本は50年前に書かれたものだが、キリスト教の歴史の浅い日本ではまだこうした”すりかえ”と言っていい現象を見極める力が弱いのではないだろうか。
”独善的な指導体制”や”カルト化”した集団の動きを宗教的・霊的と勘違いし、”盲従”を”忠実”と取り替えかねない姿である。(同書 p.120)
最近も、オウム真理教が起こした事件に、信徒として関与し、死刑判決が出ていた人々の死刑が執行されましたが、オウム事件は、工藤さんがお書きのように、個人的な経験であったとしても、実際に身体的に効果を実感できたからこそ、「”独善的な指導体制”や”カルト化”した集団の動きを宗教的・霊的と勘違い」する現象が発生し、そして、教祖の麻原氏に唯々諾々と社会のエリート街道まっしぐらだった、有名大学の理工系の卒業生の皆さんがしたがったという側面があったと思います。そして、ポアと称する殺人事件に関与することになったのではないか、と思うのです。一応、仏教伝来から1500年位、真言密教にせよ、天台密教にせよ、これらの密教系仏教の伝来から1400年以上経過していても、このようなことが起きた背景には、まさに、このような現代日本における宗教的なリテラシーの底の浅さがあるのではないか、と思います。
神への”忠実”と人への”盲従”のすり替え
ところで、工藤さんは、ここで、「”盲従”を”忠実”と取り替えかねない」とご指摘ですが、これは、教会だけで起きているわけではありません。割と普遍的に見られる現象だと思います。
世俗の仕事の関係者の中に医療従事者(ナースや検査技師関連の人々)が少なくないのですが、この利用関係者のお話を聞いていると、医療関係でも、基本医官への医療従事者の盲従を求める医官は時々おられるようですし、また、工学部関係などでは、教室の教授の権威は絶対であり、関係者は盲従に近い関係になることも少なくないとお聞きしますし、大日本帝国陸軍だけでなく、英国陸軍でも、アメリカ陸軍でも、海兵隊でも、下士官への盲従を徹底的に仕込みます。その問題が表面化する問題を、ア・フュー・グッドメン(原題はA Few Goodmen)や、フルメタル・ジャケット(原題は Full Metal Jacket)という映画では、取り扱っています。
ア・フュー・グッドマンの予告編
A Few Goodmen の英語版予告編
フルメタル・ジャケット 日本語吹き替え版
Full Metal Jacket 英語版 予告編
この種の問題は、「(人への)”盲従”」と「(神への)”忠実”」の混乱が起きる背景には、禁止規定では、神は、人間に「十戒」あるいは「十のことば」で明白な指示をお与えになってはいるものの、具体的になすべきこととして、神ご自身が明白なわかりやすい指示として人間に与えておられるのは「神を愛せ」「神が愛しているあなたの隣人を愛せ」の2つのポイントに限られており、それをどのように実現するのかは、人間にお任せになっている部分があるからではないか、と思うのです。
その結果、この指示が明確にないのをいいことに、聖書の言葉を適当に切り貼りしてしまえば、聞き手である信徒が聖書の言葉に通暁していない(情報の非対称性が存在する)ことをいいことに、教会の指導者、牧師への”盲従”を強いることはいとも容易なことではなかろうか、と思います。これに対抗するためには、このブログのロングセラー記事である
と題する記事でもお書きしましたように、
それに対抗するためには、かなり懇切丁寧に聖書から反証しなければなりませんが、そのためには聖書から縦横無尽に相手を納得させるための引用をした上で、「どう思う?」と相手の方に示さなければなりません。戦闘モード全開といった雰囲気にあまりならずに。
と、聖書の言葉には聖書の言葉で返すしかない、まるでユダヤ人のラビの皆さんのような対応が求められるわけです。そのためには、聖書を熟知する必要があります。とはいえ、以下のような現実があるのも悲しいかな多くの場合のようですが。
しかし、ただ、根拠なく「聖書的」というようなことを言う方は、そもそも議論を聞く気がなく、どうだといったところで、耳を傾けてもらえないことが多いのも悲しいかな事実です。その人の考え方が、「聖書的」でとどまっているならまだしも、その人の考え方が「聖書そのもの」というか「聖書に等しい権威」に化けているにもかかわらず、本人が、自分自身を一種の聖書(あるいはYHWH)に等しい権威としているという暴挙!に出ているかもしれない、ということをまったく意識していない場合がかなりの高い確率でみられるのが、この話の怖いところです。だれかから、語り聞かされたものをまったく自ら吟味もせずに受け止めてしまうというウルトラスーパードゥーパーに安易な方法で、権威化するという…。
この辺、聞き手というか、信徒側が聖書リタラシーがないことをいいことに、情報の非対称性(信徒側の宗教、キリスト教リタラシーの不在)に付け込んだ形での収奪(ナウエンが「もっとも狡猾で分裂を引き起こし人を傷つける力は神への奉仕と称して使われる力」と表現した力を用いた収奪)が教会内での指導的立場の人々、中高年の信徒さんなどへの盲従、その発言の絶対かのような形で、教会内では起きているように思うのです。
次回へと続く
|
- コメント
- >パリ宣教会
100年程前に埼玉県で最初に建てられた教会堂、宮寺教会はパリ外国宣教会が建てたと聞いています。戦前関東で最大の信徒数を抱えた日本キリスト教団 武蔵豊岡教会も数キロ離れた場所にあり、当時の人口集中区域が現在と大きく異なることを感じさせます。 -
- ひかる
- 2018.07.27 Friday 22:36
- ひかるさま
ご無沙汰しております。ご清覧、コメントありがとうございました。
>当時の人口集中区域が現在と大きく異なることを感じさせます。
そうですねぇ。結局労働集型産業であった養蚕業や農業が中心の社会では、人でこそ命ですから、都市部の人口は少なく、地方部の人口が多かったんでしょうねぇ。今では、本来労働集約的な産業として長らく続いてきた農業ですら、資本集約的な産業になってきましたから、都市部への人口集中ということになったのでしょうねぇ。
ご清覧、コメント、ありがとうございました。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2018.07.28 Saturday 07:37
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