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2018.07.08 Sunday

工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(6)

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    さて、これまで

     

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(1)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(2)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(4)

    工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(5)

     

    と第1章部分をご紹介してきましたが、本章の最後に、これからのキリスト教の目指すべき方向性と、これまでのプロテスタント系キリスト教が、意図せずに持ってきた問題がある部分に工藤信夫さんは切り込んでいきます。それをまずご紹介したいと思います。

     

    雑魚の群れとしてのテゼ共同体

    本論にいたる前に、工藤信夫さんは、トゥルニエの印象的な文章を引用し、そこから想起されたことをお書きになっていました。それは、次のような引用部分でした。

     

    今や、いたるところに、貧しい教会や預言者たちが目立たず、組織もまとまりもなく、整った深い教義もなく、まさに福音書の言う、目があっても見えぬ形であまた出現してきているではないか。(中略)若い人たちの数知れぬ福音的集いがそれである。それでは、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教徒、共産主義者の違いなど全く問題にされない。そこではイエスとの出会いと兄弟的な交わりだけが問題なのである。(314頁 傍線部は筆者)

     

    <組織もまとまりもなく><整った深い教義もなく><イエスとの出会いと兄弟的な交わりだけが問題>という表現が私の心をひく。

    というのは、宗教者の力・暴力は<組織><教義>と深く結びつく可能性があるような気がするからである。(『暴力と人間』p.62)

    この部分を読みながら、思ったのは、Taizé という礼拝共同体のことでした。詳しくはリンクを張ったテゼ共同体(←ここをクリック)のWikiの記事を見てもらうとお分かりいただけるかと思いますが、まさにここに書いている通りのことが実現しているように思います。賛美を中心とした共同体を形成しながら、まさに、<整った深い教義もなく><イエスとの出会いと兄弟的な交わりだけが問題>ということが、問題を内包しつつも、その運営が行われているようにも思います。とはいえ、このテゼのコミュニティがこういう形で形成可能なのも、内部の構成員が流動的でも、運営可能(ミハ氏註:追記しました)であり、入れ替わりがある程度あっても運営可能なこと(ミハ氏註:追記しました)激しいこと、が前提になっているということであり、さらに、賛美を中心としたコミュニティだからこそ、このような形での(ミハ氏註:追記しました)運営可能な部分もあるだろうなぁ、と思うのです。

     

     

    テゼの様子

     

    組織構造と組織内暴力

    世俗の学で、組織論なんかも関心領域の中でありますので、工藤信夫さんの記述、「宗教者の力・暴力は<組織><教義>と深く結びつく」という部分は、宗教だけでもないように思うのです。確かに、組織ががっちりしている、あるいは固定的であろうとする組織であればあるほど、宗教者の力と暴力は激しくなる傾向にあるようにおもいます。ちょうどこの記事を書いている前日の2018年7月6日に、麻原彰晃こと、松本智津夫死刑囚の死刑が執行されましたが、あの組織でも警視庁による家宅捜査が上九一色村の施設で行われる前後にその力と暴力は頂点に達し、オウム内での麻原尊師の高弟と呼ばれる人たちへの実効的権力が非常に強まっていたのではないか、と観測しています。

     

    ただ、工藤信夫さんのご指摘の組織内権力構造と暴力の問題は、宗教的組織に限った話ではなく、一般的な組織論においても、おおむね妥当する原理ではないか、とおもうのです。つまり、「指導者の力・暴力は<組織><組織の形成原理>と深く結びつく」と思うのです。古くは、日中戦争期の帝国陸軍内の暴力事件、最近では、大阪私立桜宮高校のバスケットボール部およびバレーボール部監督の暴力事件なども、基本的に同じ構造を持っていますし、電通の労働基準監督署の立ち入り調査事件(高橋まつりさん関連諸事案)も、基本的にこのような構造があると思います。もう少しいえば、家庭内暴力の問題も、同じ構造を持っていると思います。

     

    組織論を学としてかじったものの感想から言えば、問題は、結局組織の閉鎖構造、組織からの脱出可能性の多寡にあるように思うのです。組織が閉鎖的であればあるほど、指導者ないし宗教者は相手が逃げないわけですから、力の行使が可能になります。ところが、組織が開放的であり、他への脱出可能性があればあるほど、いくら力をかけたところで、組織内圧力は高まらず、力の行使の効果は薄まるように思うのです。その意味で、組織の閉鎖性の程度がこの問題を考える際に、きわめて重要なのではないか、と思います。

     

    包摂的なキリスト教

    トゥルニエがややもすれば、領域の壁を作りがちな分断的構造を持つ科学と信仰の世界を自由に行き来したことを取り上げた記載についてのある方のレポートを引用された後、工藤先生は次のように書いておられました。

    私にはこのレポータの指摘は、私が再三再四強調しているようにトゥルニエの紹介はもう十分に、日本のキリスト教会への貢献ではないかとか思えてくる。つまり、分断的なキリスト教ではなく<包括的なキリスト教>である。

    換言すれば、細事にこだわる神学を語って良しとするキリスト教ではなく、この世の中で実際生きることに悩み迷うキリスト者に寄り添って、大局的な見地から多くの示唆を与えるキリスト者の生き方である。(同書 p.78)

    学問の世界に半分以上身を置いているので、学問の世界が、分野横断とか、学際性とか、学環とか、わけのわからない用語(業界内にいる人間ですら、この種の用語の粗製乱造ぶりには辟易している…)を粗製乱造しつつ、その閉鎖性をぶち破ろうとしているのではありますが、キリスト教の世界は、教派間の壁を取り除くことは、御法度であるのではないだろうか、と思いたくなる部分もあるようにも思います。

     

    先月末の記事「大阪ハリストス正教会の講演会「東方への旅、正教に導かれて」にいってきた 」でもご紹介しましたが、伝統教派は基本的に包摂的なキリスト教でもあります。もちろん、その分、正教会の皆様の一部もお認めのように、ボロボロであったり、外部者から見るとごみのようにしか見えないような過去の遺産もたくさんお持ちではありますが、Unityというか、一体性というか、一つであることへの意識は、いわゆるプロテスタント教会とは比較にならないほど、強くお持ちという現実はあるように思います。

     

    対話の成立が時々困難な福音主義神学会…

    それに比較し、プロテスタント教会は、純粋と言いますか、分裂志向と言いますか、少し残念な傾向があるように思います。現実にそれを強く感じるのは、福音主義神学会に参加しているときです。この学会に参加させてもらって、いつも思うことは、多数のキリスト教の所謂福音派と言われる教団からのご参加者がおられるためか、教団ごとに用語と語の用法にかなり明確かつ大きな違いがあるのですが、その学会の討論で用いられている単語が、それぞれ微妙に違った意味合いで同一の語が用いられているために、お互いが同じ意味を理解していると思いつつも、実は、同じことが意味されて対話されていないという、意図しない形でのミスコミュニケーションと言いますか、非常に具合の悪い対論と言いますか、ディスコース(対話・ディスクルス)がかみ合っていない状態が発生していることがままあります。

     

    そもそも、対話として成立していない状態が成立していることを拝見します。同じ日本語ですよ。お使いの言語は。日本の学会ですから…。教派が違うと、一つの同じ語に付与された意味が、ここまで違うのか、と思うほどの違いがあることを、その学会に参加させていただく中で、見聞してまいりました。そのことばの用法とそのことばに込められた意味というか、理解というか、コンテキストをそれぞれの対話者側が譲らないものだから、妙なことが起きるのですね。さすらいのキリスト者のミーちゃんはーちゃんからしてみると。ほとんど、通訳して差し上げたくなるほどでございます。時々、見るに見かねて、やりますけど…w。

     

    ところで、工藤先生は、<包括的なキリスト教>とお書きですが、個人的には、包摂的なキリスト教ではないか、と思うのです。他者を含みこみ、受け入れ合う存在、すなわち、下の讃美歌の冒頭のThough we are many, we are one body、すなわち、多様性Diversityと一様性Unityを持つ存在が、本来キリスト教のはずですから、それは、包括的であるのは本来当たり前であるのですが、それができない原因を考えますと、やはり、他者に対して包摂的である必要があるように思うのです。Anglicanの今寄留させてもらっているチャペルでは、聖餐の部の冒頭に、必ずこのThough we are many, we are one bodyを声に出して、確認しています。それを繰り返し声に出し、言葉にする中で、この多様な存在を包摂する、その包摂性の大事さをミーちゃんはーちゃん個人は、感じるようになりました。

     

    The International Eucharistic Congress- Dublin June 2012 のテーマソング

     

    そして、工藤さんの「細事にこだわる神学を語って良しとするキリスト教ではなく、この世の中で実際生きることに悩み迷うキリスト者に寄り添って、大局的な見地から多くの示唆を与えるキリスト者」という言葉に異常に反応してしまったので、次回はこのことを扱った同じヨベルの「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋171」を紹介することにいたしました。

     

    ところで、これまでの記事 工藤信夫著「暴力と人間」を読んでみた(3)でもご紹介してきたところでありますが、結局口の悪いお友達のMさんによれば、砂のように細分化されたプロテスタントは、ある意味「細事にこだわる神学を語って良し」としすぎてしてきてしまったために分裂を繰り返し、もはや、何が何だか状態になっている部分があることは確かであるように思います。そして、「細事にこだわる」がゆえに、これだけまさしく支離滅裂に分裂できた、という側面はあるように思うのです。いい方はあまり適切ではないとは思いますが、ある面、これだけ分裂した結果、一発屋の集合体というか寄せ集めみたいなものが、プロテスタントとして総称されているように思うのです。そうであるがゆえに、先に紹介したように福音主義神学会では、対話の成立のための通訳が時に必要となるのであるようにも思います。ただ、通訳が入らないケースが多いので、そこはお互い意味が分からないまま、言いっぱなしに終わっていることが多いのが、残念ですけれども。

     

    祈りの右手と左手の違い

    そして、工藤信夫さんは、ナウエンのレンブラントの放蕩息子の帰郷というエルミタージュ美術館の至宝の作品からインスパイアされた『放蕩息子の帰郷』という名著(まだお持ちでない人は、急ぎ、読まれた方がいいですよ)の中の、神を表すとされる放蕩息子の父親の手の形状の記載に触れておられます。

     

    ”神の二つの手”という発想は(トゥルニエ著)『暴力と人間』という本の中で私がことさら驚きを持って読んだ箇所である。

    ちなみに私は当時『放蕩息子の帰郷』(片岡伸光訳 あめんどう 2003年)という本に出合い、その本の中で、レンブラントがその父親の両手が左右で違うように描いているという指摘を読んで、ナウエンの観察力の鋭さに驚くとともにトゥルニエとの一致に驚いたことがあった。

     そしてその本の中でナウエンの指摘、つまりキリスト者の究極の目的はこの両手(父性・母性)を兼ね備えた父親に近づくことであるという指摘にも驚いた。そして、そこで私はようやく私ども信仰者の目指すべきゴールが理解できたということになる(167頁)(同書 p.82)

     

    放蕩息子の帰郷の父親の両手の拡大部

    https://www.pinterest.jp/mchstalwol/nt-przypowie%C5%9Bci/ から

     

    先日、兵庫県立美術館で開かれていたエルミタージュ美術館に指導している大学院生を引率していってきたのですが、これでもか、というほど(ちょっとやりすぎな感があるのがスペイン絵画w)のスペイン絵画がやたらとあり、その中に、宗教画が数多く含まれていたのですが、これが非常に面白かったのでした。手のかたちに着目してみていくとき、そこに雄弁に物語る手の形、所作が表れていたのでした。院生向けにこの手のかたちについて解説していると、遠足というか校外学習というか、大阪北部で起きた地震の震災直後で動員数が不足しているために駆り出されたのかもしれないような小学生の群れにも、スペインの宗教画の解説をPourする(垂れる)羽目になったのでした。必死になってメモとる小学生がかわいくて、ゼミの時間にメモすら取らないうちの院生に、学ぶ態度とは斯様なものであると、もちろん、あとで訓戒を垂れることにしました。w

     

    https://web.pref.hyogo.lg.jp/bi01/prado.html から

     

     

    プロテスタント各派では、聖餐式がいい加減なやり方でされるうえに、リタジー理解もかなりいい加減なので、司式者(牧師)の所作、手のかたちがかなりめちゃくちゃになっていることが多い(そして、個人的にこのあたりがかなり気になるのもあって、伝統教派のほうが親近感を抱いている部分がございます)のですが、パンを裂き、分けるときの所作、祝福を祈るときの所作、それぞれ手のかたちや位置を含めた所作そのものにもいのりが込められているはずなのですが、かなりの部分のプロテスたん派では、所作があまりにいい加減で、見てて、「なんともはや…」という気持ちになることとも多いのです。その意味で、このあたりのことが理解されるかどうか、ということはすごく不安なのですが、プロテスタント一般に、祈りの手の形にしても、固く結んだ祈りの手しかないのは、本当に残念だと思います。

     

     

    個人的には、以下で紹介するデューラーの祈りの手のような祈り、左右は違っていて、不完全な形でありながら、神に受け入れられるものであることを願いつつ、神に向かって開かれた手で、神の恵みを受け取るように、祈るようなものでありたい、とは思っております。

     

    https://www.thoughtco.com/praying-hands-1725186

     

    なお、このデューラーの『祈る手』には、非常に美しいお話があるようです。本当かどうかは知りえないことではありますが。英語ですが、詳しくお読みになりたい方は、こちらのリンク https://www.thoughtco.com/praying-hands-1725186 をどうぞ。

     

    最後に苦しみの中にともにいてくださるイエスを覚える祈りの言葉をもって、終わりたいと思います。

    Almighty Father,

    whose Son was revealed in majesty

    before he suffered death upon the cross:

    give us grace to perceive his glory,

    that we may be strengthened to suffer with him

    and be changed into his likeness, from glory to glory;

    who is alive and reigns with you,

    in the unity of the Holy Spirit,

    one God, now and for ever.

     

    (レントに入る直前週のCollectから)

     

     

    1章は、これで終わりです。次回は、予告通り、「落ち込んだら 正教会司祭の処方箋171」のご紹介をいたしたく。

     

     

     

     

     

     

     

     

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    コメント:お勧めしとります。

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    コメント:お持ちでない方は、急ぎ入手を。名著です。

    コメント
    通りすがりに失礼します
    俗世の中にあるようなパワーゲームが
    信仰の世界にも確かにある
    それはクリスチャンホーム出身でない俗世の人間が
    何かのはずみで教会という場所に来て初めてわかることです
    今はネットがあり、そういう矛盾や卑怯は
    瞬く間に拡散します
    しかし、こうすることでみんなより自分の良心で考えるようになるでしょう
    思考停止が信仰の基本だった時代はとっくに終わっているのです
    • トモキ
    • 2018.07.27 Friday 13:59
    トモキさま
    ご清覧・コメント、ありがとうございます。

    >今はネットがあり、そういう矛盾や卑怯は
    >瞬く間に拡散します
    そうなんですが、それをご理解ない教会の指導者の方も多くて…
    自分たち以外の言うことは正しくない、間違っている、バイアスがかかっている…
    いろいろおっしゃっているようです。
    あとは、インターネットに触ってはならない神学をお持ちの教派や教会もあるやに聞いております。それでも、インターネットに触る若者がおられますので、その方々に向けて書いております。

    >しかし、こうすることでみんなより自分の良心で考えるようになるでしょう
    >思考停止が信仰の基本だった時代はとっくに終わっているのです
    考える方は、原題でも一部に限られるかもしれません。考えるためには、それなりの能力と知識が必要ですから。残念ながら。考える人の声は小さく、大衆の声にかき消えされて行く、というのが、ナチスドイツが生まれた時代のころと、あまり変わっていないようですし、であるからこそ、現在の米国大統領がおられるのではないか、と思うのです。

    いずれにしましても、ご清覧、コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2018.07.28 Saturday 07:32
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