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2018.04.02 Monday

「金継ぎ」 または 「金繕い」 と「復活」

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    去年の11月頃のアドベント(待降節)からレント期間中にかけて、いろいろ気分的に滅入ることがあって、日常生活やら、いろんなことが迷走状態になりながらも、聖餐式と聖餐によって毎週養われ、自分自身の弱さと不十分さ、そして、自分自身が壊れている存在であることに向き合い、その中で生きる日々を、この4か月余り過ごしてきたような気がします。

     

    今日は、その中でも、レントの第3主日に司祭が語った説教の中で取り上げられていた”金継”ないし”金繕い”から復活についての黙想をお話してみたいと思っています。

     

    金継 または 金繕い

    陶芸や骨董に興味がおありの方であれば、”金継”ないし”金繕い”というと、あぁ、あのことか、と思い浮かぶ方もおありでしょう。割れてしまって用をなさない、かたちをなさなくなってしまった陶器を新たな形に再生、ないし新しい作品として再創造する技術のことです。

     

    金継技術で再生された茶器(根津美術館のサイトから)

     

    司祭の方は、この金継について、ご家族のご葬儀に参加されるために帰国されていた時にご実家においてあった女性向けのキリスト教雑誌(英語の雑誌)でたまたま知ったということで説教をはじめられた。この金継をもとに、説教では、金継と復活との類似性から復活の希望について語っておられたが、その説教を聞いて以降、個人的には、この金継と復活について、この数週間考えてきました。そして、自らが、バラバラになってしまい、まとまりがない状態でこの4か月余り、過ごしたことと、そして、復活について、そして、将来起きるとされている再創造の姿に思いを巡らせていました。

     

    ところで、この金継が話題に出たとき、最初、”きんつば”のことだと思った方もおられたようでした。

     

    本高砂屋さんのきんつば

     

    閑話休題

     

    金継と復活の姿

    先にも少し述べましたが、自分自身がバラバラになり、まとまって、ものを考えたり、読んだりすることができないというか、いろいろ考えたりすることを、したくない状態が続いてきたこともあり、そして、その状態はいまだに続いているのですけれども、このようなバラバラな状態に自分自身が耐えがたい状態のなかで、この金継の技術から復活や神による再創造を黙想してきました。そして、バラバラになり、そして、用役を果たさなくなった状態、そして、バラバラになったものを単に組み合わせたところで、ばらばらのままだと意味を成さないのだけれども、それが、金継によりもともとのかたちとは少し違った形で再生されたり、傷を持ったままでの状態での再生される、という意味合いについて考えてもいます。金継は、ばらばらになったときに生じた傷をも生かすことにより生まれる味わい、といったことがが、案外大事なのかもしれない、という黙想を未だにしています。

     

    先にも書いたように、金継は、バラバラになった茶器などの破片をつなぎ、漆でつなぎ、そこを金箔とか銀箔でカバーすることで、元のかたちや用役に近いものにしていくことではありますが、金継をするということは、金継された器は完全に造られた時のその創作時点の姿に戻すのではなく、割れた姿を生かしつつも、ばらばらになったパーツを漆を用いて接合し、ばらばらになった部分が失われている場合など、場合によっては他の陶器の破片を用いて、傷が修復されることする技術用のです。その意味で、ばらばらになったものを修復することを通して新たな景色(風合いというかデザインというか色合いというか)のあるものに作り替えていく技術なのではないだろうか、と思っていたりします。

     

    特に、上の金継の器の写真(根津美術館のサイトから拝借した写真)で紹介した器では、もともとの茶碗の破片だけでなく、同時代の陶器の破片の一部が金継によって繋がれているようです。単に、金継がもともとのかたちに戻すだけではなく、他のものも、時につなぎ合わされ、新しい別のものへと作り替えられ、さらに、その傷跡や別のものをつないでいくことによってすら、新たに創造されたものとして味わうことができるようになる、という側面もあるのだろうなぁ、と黙想しておりました。

     

    考えてみれば、イエスが復活された時、傷跡は消えることがなかったことが複数の福音書に記述されています。トマスには、自分の手に空いた釘の穴に指を入れてみるがよい、と言われています。傷ついた姿が残っている復活のからだであったのでしょう。ある場合には、イエスがパンを裂いて弟子たちに渡した時に、初めて、そこにいる人物がイエスであることに気が付いた(エマオの途上での出来事)とも書いてあります。その意味で、復活のからだには、単なるもともとあった時の姿だけではなく、我々が想像や空想するような完ぺきな姿であったのでもなく、イエスが受けた傷跡も含めて残っているのかもしれない、傷跡を含めた再創造なのかもしれない、と思ってみたりもしています。

     

    以下は黙想というよりは、妄想に近いものになるのですが、この金継のことを考えながら、復活のことを考えてみました。ちょうど、イエスの復活のからだは、全く完全な別のあたらしい物に代わってしまったのではなく、傷やもともと生きてきた中で変化してきたの特性をある程度持っているものかもしれない、と思うようになりました。となると、人間と、イエスにつながる人々の復活のからだも、もともとこの地で生きることを通して蓄積された傷を含めた、さまざまな性質をある程度持ち合わせながら、別のもの(神が与えられたもの)が付け加えられながら、あるいは不必要なものは時に除かれながら、新たなものに造り変えられていくのかもしれない、と思うようになっています。そんなことを、妄想していました。

     

    そう思ってみれば、それに符合することは、聖書の中にいくつかあるように思います。

     

    ノアの洪水の前と後は、前のものが利用される形で、洪水後の世界になったわけですし、イエスの復活の日とも重なっている出エジプトの過ぎ越しの祭りにしても、前のイスラエルがある程度そのまま、荒野で旅に出て神の国となったわけですし、荒野に旅に出たのは、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫たちだけではなく、そのうちに在留異国人たちも含まれていたように思います。それが、一つの神の民として、荒野を進んで(退いて)いったわけです。そして、復活主日に読んだ聖書箇所の中には、このようにありました。

     

    God is pleased with everyone who worships him and does right, no matter what nation they come from.


    (使徒 10章35節 「神は(中略)、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さる」)

     

    この言葉を考えながら、終末で実現する神の国(神と神の民との関係)の回復は、イスラエルの回復だけでなく、アブラハムに約束された諸国民の回復でもあることを考えたりもしました。

     

    こう考えると、復活後の姿や、神の終末における再創造された天と地の姿というのは、どんなものであるのかは筆者にはよくわからないのですが(そもそも、黙示なので、分かりにくくかかれていますし)、もともと神がつくられたものが完全に放棄され、無視されるのではなく、それを活かすように再創造、あるいは作り変えられることなのかもしれない、と金継の器を思い描きながら、考えています。

     

    バラバラに崩壊した自らの姿と重ねて

    少し、書いたのですけれども、この4か月の間、考えはまとまらないし、文字を読むのがつらくて辛くて仕方なかったし、なにを見ても、気分の高揚を感じることがなく、まさに自分自身がボロボロ、バラバラになってしまったことだけを感じる日々を過ごしていました。

     

    そもそも、元から筆者自身は、そんなボロボロ、バラバラでしかない存在であったのかもしれないとも思ったりもしています。

     

    まだ、そのバラバラ感にとらわれているような名残はこころのどこかや、日常生活のあちこちには今なお残ってはいるが、金継のことを考え、これは、神が再創造を自分自身の上になされているプロセスであるのかもしれない、と黙想の中で思い描いたりする日々を送っています。そして、再創造の一環として、どんなものでつがれ、どんなものがつながれ、どんなかたちに再創造されようとしておられるのか、陶造りなる方が造し、土にかえっていくような土器にしか過ぎない存在が、壊れ、その用益を失っても、なお、金継をするかのように、神が再創造し、新たな用役を与えようとしておられるのかもしれないと思い、どのように造り替えられようとしているのか、創造主の御手の新たな再創造のわざをかいま見せていただけることを楽しみにしてこれからの日々を生きてまいりたい、と考えています。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント
    Thank you for sharing what is going on with you and your life. I do appreciate your honesty. I had a similar experience, I tried hard to get back to what I was before “ confusion, loss, chaos, darkness,fear, uncertainty, etc”. But the Lord was very kind, he made me think that he was not pleased with me ,what I was before. Also perhaps I was trying to be a somebody whom God did not want me to be. He humbled me through this kind of experiences and I am grateful to him for them. I stopped trying but trusting. My English is very poor but my Japanese is worse. I am glad you started updating your blog again. Pray that we can both grow in grace and In the knowledge of our Lord and Saviour Jesus Christ.
    • Saori
    • 2018.04.15 Sunday 07:47
    Saoriさま

    コメントありがとうございました。Saoriさんも苦しみの中を通っておられることを覚えて、心から、ご同情申し上げますとともに、神の憐れみを求めて祈ります。

    Lord have mercy on us.
    Lord God, hear our prayer.

    この4ヶ月あまり、荒野の中を旅するような感じでしたが、その中で、カラスならぬ、司祭がくださるパンとぶどう酒にあずかる中で、生かされていることを感じておりました。


    Saori様の上にも、ご回復がありますように心から祈ります。

    コメント、御礼申し上げます。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2018.04.16 Monday 12:04
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