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2017.11.11 Saturday

『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (7)

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    今日は短め。

     

    『福音の地下水脈』という新連載の中での中村うさぎさんのインタビュー記事の前編からご紹介してみたい。インタビュー記事自体は、なるほどこういう経緯で中村さんってお過ごしになっててきたんだねぇ、と思うような記事で、面白いんだけれども、ある一文が一番気になったので、そこだけ、紹介したい。他にも、この2017年11月号には面白い記事は多数あったのだが、それらはご自身でお買い上げいただいて、お読みいただければと思う。

     

    人を縛ろうとする神々(諸力)

    さて、今回気になったのは次のインタビューの回答としての、中村さんのご家庭の中にあったという複数の人を縛る諸力(中村さんは、神と呼んでおられるが)の存在である。

    父は、世間よりも自分のルール優先なタイプで、正直じゃないといけないっていう気持ちが強い人でした。世間がどう思おうが、「俺が正しいと思ったこと」をいう。洗礼は受けてないけど、家に聖書をおいてて読むようなタイプで。思ってもないことを言わないっている自分のルールを、彼はキリスト教に結びつけていた。「神の前で正直であらねばならない」みたいな。

    (中略)

    父にとっての神はキリスト教の神なんだけど、母の神は世間なの。世間がジャッジするんです。世間の目から見て恥ずかしい、恥ずかしくないといったかたちで。だから、私にとってはダブルスタンダード。幼少期に善悪とかそんなものを親が子供に言うわけだけど、正義を基盤とした父の善悪と、恥を基盤とした母の善悪では、全く定義が違うから。(福音と世界2017年11月号 pp.44−45)

     

    ここで、中村さんのお父様が、信仰告白はしないけれども、聖書を読むタイプ、という文章を読んだときに、ある面、非常に日本的だなぁ、と思ったのである。聖書を西洋哲学か、西洋思想・西洋文化の基盤としては、知りたいと思うけれども、聖四文字で表される神とともに生きることはしない、そして、かなり自己流の理解を聖書のテキストに読み込もうとする、というある時代に生きた日本人男性にかなり典型的に見られたキリスト教との関係のとりかたの姿であり、いまでも、結構このタイプの『何となく、キリスト教に対する思いはあるし、ある程度のことを知ってはおられるけれども、神と共に生きるとなると、二の足を踏んでしまい、しかし、聞きかじったことや、自分の意見と合う部分だけ聖書から読み込んで、一人合点してしまっておられる」というタイプの方は、案外多いような気がする。おそらく、ある時代にキリスト教とであって生きてこられたの方々には案外多いような印象を持っている。そして、大抵の場合、「お話しておられることと聖書の全体の首長とは必ずしも一致しないと思いますが」と申し上げると、その段階で話が終わってしまうことが多いので、案外ご対応するときに細心の注意が必要なことが多いようにも思うのだ。中村さんのお父様のようにキリスト教界の外側だけではなく、キリスト教関係者の中にもおられるようにも思う。まぁ、年齢が若くても、このタイプの自分の思うキリスト教の理解のみをご主張の方は確かにおられるけれども。

     

    日本の現代社会とキリスト教会の中にある

    恥や常識という人を生きづらくさせる神々

    さて、この一文を読みながら思ったこととして、中村さんが取り上げている問題は、中村うさぎさんのご家庭だけの問題ではなく、日本のキリスト教にかかわる問題でもあるのではないか、と思った。それは、自分自身が神と信じる神と、世間自体が価値をおいている世間という神との対立の問題である。

     

    世間という神、世論という神、みんなが言っているという神、もう少し言うと、空気という神のような神ならぬものが現代の日本にも確実に存在し、それが人々を縛っているように思う。

     

    ときに、世論という神、みんなが言っている神、世間という神は、人々を様々な形で縛る。ある場合、常識であると主張されるかたちかもしれないし、世論というかたちでかも知れない。そのようなかたちで、人間を縛っている部分はあるように思うのだ。ここで、中村さんが言うように、ちょうど、人々を本来の神のかたちにするのではなく、小さなコミュニティ、あるいは、小さな世界における世間の望むかたちに個人や人々に強いていくような部分があるようにも思うのである。そして、多くの人がそれに巻き込まれているが故に、人々に世間という神の如きもので、神ではないものが望むことに従うようにさせる。大抵の場合は、それは神々でもなく、世間でもなく、ある声の大きな人の思いということが大きいようには思うのだが。関わるとろくでもないことになるから(だから疫病神のような存在なので、神なのかもしれないが)、とりあえず問題に向き合うのではなく、具体的にこのような世間とか、常識とぶつかって問題化したり、具体的にこの世間とぶつかることで生じやすくなる問題を避けるという方向でかなりの人々は動くようになる。実に、日本的な日本の神々への対応と同じである。

     

    災厄をもたらす日本の神々

    以前にも、このブログ記事でかいたが、日本における古代神には、結構祟り神が多い。人に祟るから、それを崇敬して遠ざけて、それが人間に悪しきことを起こさないように、供物を供えるのが、割と古い時代の日本における神々への対応であったように思う。数多くの親和にそれを見出すことができる。多くの場合、災いを起こさぬようにというと、消極的なので、災いではなく福を願う行為に現在を読み替えられているものの、おそらくは、厄除けなどという言葉にも残っているように、その神から発せられる災厄を除くための神々扱いになっているのではないか、とも思う。日本の神は、災厄からの開放という福音を告げる神ではなく、神の存在そのものが災厄の原因であることが多いように思う。そのような意味で中村さんは、お父様の正義の神とお母様の恥の神と言う表現をしているのだろう。その神という発言の背後には、災厄をもたらしかねないものとして、お二人の主張やお二人がおっしゃったことで生まれることが表現されているように思う。

     

    根津神社の厄除けのチマキ

    http://michiruhibi.com/2014/04/23/old0324/ から

    根津神社という名前から、低湿地等でもともと水害の常習地域(作物の根に水がついて農産物が被害を受ける地域)の神社であることが想像される

     

    住吉大社の厄除けのお守り

    https://www.yakuyoke-yakubarai-jinja.com/yakuyoke-omamori/kansai/27-osaka/001-sumiyoshitaisha.html から

     

    しかし、日本の教会には、日本の教会と教会の信徒を縛る教会(教界)という世間とか、その教会固有のテンプレートなのか、教会の恥とか、キリスト教会の恥とか言う名前の神ならぬ存在があるようにも思う。本来、神のかたちへの回復がなされるはずの教会でも、「このように生きよ」、「あのように生きよ」さもなければキリスト者にあらず(つまりそれは恥である)というような常識というのか、キリスト者の行動パターンに関する常識というのか、テンプレートが強固にあるようにも思う。そして、そのかたちの中でしか生きさせない諸力のようなものが存在している部分があるように思えてならない。もともと、変な人を変な人(他者と違う人が他の人々とは違っている存在)のままにしておくことを認めないような何かがあるように思えてならない。

     

    どうもこの辺が、日本の牧師子弟や、キリスト教2世の生き方を縛っている諸力となりやすいのではないか、とも思う。生き方を縛られるような、そんな災厄に縛られるのが嫌だと(それは誰しも、若い間は特にそう思う様に思うのだが)、多くの若い皆さんたちは思うのかもしれない。誰が、好き好んで、他者からの束縛を、特に若い時期に望むだろうか。他者からの束縛を受けるような場に残れる人々は極めて特殊な人々からなる集団ではないか、とも思う。他者から何らかのかたちで縛られることに疲れきった若者がどんどんと逃げ出していっているのが、現状の日本のキリスト教会の何処かにあるのではないか、とも思う。

     

    多様な人々が一つの神を一つの様式で

    礼拝する教会という場で思うこと

    そういう常識とかいったことの縛りの殆どない教会に現在は参加していて、いま、かたちとしては、式文の様式と儀式の様式だけには縛られながらも、どこか自由を味わっているミーちゃんはーちゃんがいる。そして、見た目も、日常会話に用いる言語も違うもの同士が集まり、同じパンを食べ、同じ杯のぶどう酒につけ(あるいは、ぶどう酒を飲む)、実に多様な人たちが存在する中で(その意味である地域固有の文化や常識というものが、共有事項として共有されない状況の中で)、異なる神ではなく、共に共有する唯一の神を共通の礼拝様式で礼拝するという行為をなす中で、この人々がこの場で織りなす多様性ということはなんだろう、ともともとかなり変な人であるミーちゃんはーちゃんは時折考えている。文化や常識といったものからの束縛からも開放され、他者からの束縛が殆ど無い中で、あえてその中で、神を礼拝する意味とはなんだろうか、と考えつつ、近頃は聖餐式に参加している。

     

     

    以上で、この2017年11月号についての記載は終了としたい。

     

     

     

     

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