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2009.11.21 Saturday

日本人と教会 第2回要旨

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    今回の学びのスタンスについて、まず説明しておきたいと思います。

    私の学びのスタンスは、これまでも、「これが聖書的真理だ」と主張

    するものではありません。

     どちらかというと、これまでも、私にはこう見える、ということで

    お話してきたつもりですが、こんかいも、私に見えているイメージを

    お話したいと思います。

     以前から、強調しておりますように、考えるための糸口をお渡しす

    るのが、学びの主要な役割だと私は、考えています。

    前回を簡単に振り返っておきたいとおもいます。

     日本社会において、キリスト教会は、結果的に、地理的にも心理的

    にも社会の周辺部に置かれてきたようにおもいます。

     社会の内部にいないことを自ら選択してきたし、社会も外部に置い

    てきた部分があります。

     人々とともにいることをしない教会、地域のものとさせない教会の

    構築がおこなわれてきたようにおもいます。

     教会について学ぶ前に日本人の信仰概念の整理をしておきたいと思

    います。

     日本の信仰は、ユーラシア東部民族の伝統的精神世界や霊のとらえ

    方の上に乗った神話学に変形され、神道の原型に乗った形の仏教とな

    っていて、神道と仏教の混在があるわけです。日常生活に見る神道の

    原型は、井戸の神に対する信仰や、初詣、事故防止のプレートを車に

    つけること(お札のかわり)などに見られます。

     仏教と社会との関係を考えると、お葬式のときの出番や集会所とし

    ての機能があるわけです。だれも、結婚式に、密教の形の仏式では

    しないですよね。

     平安仏教はエリートや貴族のための仏教で、鎌倉仏教で時宗や日蓮

    宗のような大衆伝道型の仏教が発生し、江戸時代に現在の戸籍の前身

    となった宗門改め帳(檀家名簿)により、国民の組織化が進められた

    といえます。江戸時代の仏教僧は、漢字の文字が読み書きできるイン

    テリ層であり、であるからこそ、寺子屋、という概念が生まれたわけ

    です。ただ、平かなは、鎌倉時代には庶民にある程度普及していた形

    跡があるので、文字はエリート層だけのものでなかった可能性はあり

    ますが、社会的地位がある立場になるためには、かなり熱心に学習さ

    れたようです。

     日本人の信仰をめぐる諸問題ですが、先日の成田敞美さんのお話で

    「日本人は、メガネや針のようなつくられたものを信仰している」と

    いったニュアンスの表現がありましたが、日本人の「針供養・メガネ

    供養」は拝んでいるのではない様に思います。

    針供養とか、メガネ供養は、呪詛と言っていいと思います。呪詛は、

    平安仏教、密教の特徴です。なぜ、日本人が針供養とか、メガネ供

    養をするかというと、これらのものを使用した人の魂が、ボンドの

    ようにつかったものに付きまといそれが悪さをすることを封じるた

    めに、付きまとうものを奉り、褒め殺すものだと考えた方がよいか

    もしれません。

     雛祭り(流し雛)、灯篭流し(原爆忌)、神輿の海入りにしても、

    霊がとりついたもの流すことで、霊がとりつくことを防止する心の

    動きといえます。

     平安仏教(天台密教・金剛密教)ともに呪術要素をもっており、

    護摩行等に現れます。この密教は、修験道につながっていきます。

    恐山・大峰山・月山・…などが代表的な山岳宗教地です。

     よく、水子供養というのがありますが、これは、水子の霊を慰め

    るというよりは、仏として褒め殺ししているのに近いと思います。

    これは、伝統的な考えで、ヤマタノオロチも基本、褒め殺しと考え

    てよく、最後は本当に殺していまいますけれど。

     先日の民主党の小沢氏の発言が、日本人のキリスト教に関する

    よくある意識を示しています。読売新聞の記事では、「キリスト教

    は排他的」民主・小沢氏、仏教会会長に、というみだしのもとで、

    次のような記事がありました。

     民主党の小沢幹事長は10日、和歌山県高野町の高野山・金剛峯

    寺を訪ね、102の宗教団体が加盟する「全日本仏教会」会長の松

    長有慶・高野山真言宗管長と会談した。

     小沢氏は会談後、記者団に、会談でのやりとりについて、「キリ

    スト教もイスラム教も排他的だ。排他的なキリスト教を背景とした

    文明は、欧米社会の行き詰 まっている姿そのものだ。その点、仏教

    はあらゆるものを受け入れ、みんな仏になれるという度量の大きい

    宗教だ」などと述べたことを明らかにした。

     さらに、小沢氏は記者団に、「キリスト教文明は非常に排他的で、

    独善的な宗教だと私は思っている」とも語った。

    という記事ですが、なぜ、こう思われるようになったか、ということ

    を考えてみる必要がありそうです。

    日本人がキリスト教を忌避する理由ですが、その中に、押しつけがま

    しさがあるかもしれません。

     結果としてではあるけれども、自己中心主義・パターナリズムがあ

    るかもしれません。

     キリスト教が忌避される理由には、地域社会や家族といった共同体

    に害悪(不必要な対立)をもたらす存在だからというのもあるかもし

    れません。

     不幸にして、日本では、中産階級の人々が主な信者になり、中産階

    級のためのキリスト教になってしまった様に思いますし、そのイメー

    ジはかなり確立しているのではないでしょうか。たとえば、横浜バン

    ドの高名な牧師の植村正久は、「我輩の教会に車夫、職工の類はいら

    ない」と発言したようですが、このような態度が、信仰が広がりにく

    い環境を作り出してしまったのではないでしょうか。

     教会での説教でよく聞くフレーズとして、「神のない世界は、○○

    や○○が起きて、まったく秩序や平安がない人が多いですが、神を信

    じない人たちには希望がないので、救われる必要がある。」というフ

    レーズがありますが、この話は、キリスト者の目から正しく見えるか

    もしれませんし、その精神性は理解できますが、神のない世界に住む

    人からすれば、自分たちの生活が馬鹿にされた気分になるのではない

    でしょうか。

     そのことで、人々を遠ざけるとすれば、教会はそれでよいのでしょ

    うか?

     実は、この種のフレーズはアメリカ人の説教者がしゃべっていまし

    た。かれは、「キリストを知らない人々は、孤独を紛らわすために、

    飲酒し、飲酒運転で事故を起こすことがある。私の友人もそうだった。

    その友人は、天国に行けないのです。だから、友よ、キリストの許に

    行きなさい。」と熱心に説教していましたが、と言われても、飲酒癖

    を持っている人はそこに一人もいなかった。意味あるのかなぁ、と思

    ってしまいました。

    プレゼンテーションの仕方で人は心を閉ざすこともあれば、開くこと

    もあるます。

     要は福音を聴衆に合わせてどうプレゼンテーション(提供、提示、

    引き渡し)するかが問題ではないでしょうか。この部分が、日本の教

    会は、弱いのではないでしょうか?欧米型の19世紀の宣教方法(実践

    神学)を無批判に受け継いでいるのではないでしょうか?

    まさに日本のキリスト教はイエスは非日常のイエスとしてとらえてい

    たのではないでしょうか?

     聖書の中でのイエスは、少なくともそうではなかったようです。

    イエス自身、「主が貧しい人々(プトコォス)に福音をつたえるよう

    にと」とルカ4章18節でいっていますし、「あなたがた貧しい人

    (プトコォス)たちは幸いだ」とルカ6章20節でいっています。

     「あなた方は、貧しい人々(プトコォス)とはいつも一緒にいる

    が、」とヨハネ12章8節といっています。

     日本社会での教会の位置づけは、無意識のうちに「(霊的に)貧し

    い人々を福音に導く場所」という部分があり、どちらかというと、

    勝利者の側に立つ論理のところがあります。この立場は、戦後の多く

    の福音主義と呼ばれる教会の立場であり、宣教師や牧師たちの立場に

    時折見られたものです。この立場の問題は、正義は、宣教する側・指

    導する側にしかないことになります。

     この立場は正しいのでしょうか?

     当初は、プロテスタントは、「公会」と自身を呼んだわけですし、

    教えるところということではないという意識があったように思います。

    ヘボン訳聖書では、「集会」と訳されているそうです。このことは、

    鈴木 範久(2006)『聖書の日本語』岩波書店に書かれています。

     教会の位置づけは、もともと、「貧しい人々とともにあり、その中

    で神の国を見る場所」であり、教会構成員を勝利者の集団としない立

    場だったと思います。最近でいえば、解放の神学の立場(問題がある

    が)だといえます。この立場は、生協運動の主唱者である賀川豊彦の

    立場ですし、カトリック教会の一部の伝統的立場です。

     「相談したくなったら、教会に行け」ということが、佐藤 優(2009)

    の「神学部とは何か」新教出版社に記載されていますが、このように、

    キリスト教会の立場は、基本的に貧しい人々ともにあろうとしたはずで

    す。

     たとえば、アンソニー・グローブス、ジョージ・ミューラー(石井十

    次等に影響)、のような貧しい人とともにあろうとした多くの人がいます。

    この考え方は、中国インランドミッション(OMFの前身)につながってい

    きますが、この運動の代表的な人は、ハドソン・テーラーです。彼は、

    ジョージ・ミューラーの影響を強く受けた人物です。

     貧しい人々とともにあり、その人々とともにキリストを分かち合おうと

    したが、その人々に信仰や文明のもたらす『豊かさ』をたらそうと試みた

    とはいうものの、福音のもたらす救いを引き渡そうとした方法論の中に、

    時にやや強硬なもの、無理解や誤解に基づく方法が含まれたように思います。

     典型的には、マッジ・ベッコン著「主の御手の中で」に見ることができ

    ます。自分たちは神の側(正義)、他の信仰を持つ者はサタンの側(悪)

    という極端な二分論に近い考えが時に見られます。


    これをみるとき、Paternalismということを考えることができるかもしれま

    せん。この語は、父権主義:力のあるものが、弱いものの利益になるように

    配慮して弱い者の意思とは無関係に弱い者の行動に関与、介入する行為のこ

    とをいいます。そこには、善意が存在するのですが。たとえば、学校教育や

    義務教育・シートベルト規制等がこの種の代表例です。

     この思想は、啓蒙思想などは典型的にあらわれます。この立場に立つと、

    啓蒙される対象としての来会者・啓蒙する側としての伝道者という無意識の

    構造ができやすくなります。

    ところで、聖書で言う「証人」とはマァトスということばで、記録とか物証

    とか言った言葉を持つ語です。この言葉は、あることが事実であることを

    「呼び出されて」自分の理解や認識を口述する存在です。自分から触れ歩く

    のは、証人ではなく、押し売りではないでしょうか。証人の場合、どちらか

    というと、主導権は他者にあるます。

    証とは、キリストor神がいることを静かに指し示す行為ではないでしょうか。

    それを、いつの間にか、伝道という行為と意味をすり変えて理解していない

    でしょうか?証≠福音伝道ではないのではないでしょうか?結果としての福

    音伝道が実現することがいつの間にか、目的となってしまっていないでしょ

    うか?そのことを考えた方がよいかもしれません。

     伝道の方法の多様性は、伝道とは、ナザレのイエスが神であることを宣伝し、

    説得して回ることだけではないのではないでしょうか。全ての信者の役割が違

    う様に私は思います。信者の人生の目的は何でしょうか?それは、神と共に生

    きることでしょうか。それとも伝道でしょうか。

     アメリカで、強盗に伝道した女性信者の話がありますが、この話のように、

    伝道は、信仰の結果という可能性はないのでしょうか?

     信仰と文明(啓蒙思想・啓蒙時代の倫理)のごった煮としての伝道となって

    おり、時に、救いたいという熱心さのあまり、高圧的な伝道や「仏壇を壊して

    しまえ」的な伝道方法がないでしょうか。マッジ・ベッコン著「主の御手のう

    ちに」の記述中に「仏壇を壊してしまえ」というあり方をよしとする表現が散

    見されます。この結果、多くの人々とともに居られない環境を自ら作ってしま

    ったのではないでしょうか?
     私、個人としての反省すべき点を持っていますし、今までの伝道がおかしい、

    私の立場が正しいというつもりはありません。しかし、常に、反省するべきとこ

    ろがないか、振り返る必要があるのではないでしょうか?自らの聖書理解の中に、

    暗黙の仮定・前提・無意識の意識がないかどうかを検証すべきではないでしょう

    か?

     教会とは何でしょうか?何をするところか?
     
     マルコ10章13-16節に、激怒したイエスが出てくる(激怒したことは触れ

    られることが少ないが…)この場所から私たちが学べるものは、神の国は、受け

    入れるものたちのものではないでしょうか。

     子供の地位は、日本では比較的高いが、この当時社会からは黙殺されていました。

    黙殺された子供たちを受け入れるところとしての教会があったわけです。

     教会とは、みなさんにとって何でしょうか?少しお考えになってください。

     教会とは、私にとってまず、明け渡す場です。神に対して、そして人に対して明

    け渡す場です。このことは、ピリピ4章8節に書かれています。また、教会とは、受

    ける場でもあります。それは、神から受ける場であり、人から受ける場でもありま

    す。IIコリント7:7やガラテヤ1:12にこの根拠が書かれています。

    また、渡していく場でもあります。手から手へ、人から人へ伝えていく場でもあり

    ます。この根拠は、Iコリント2:12、15:3にあります。ぜひ、その場所をお読み

    になって、皆さんの教会についてのお考えを深めていただければ、と思います。
    コメント
    こんにちわ
    小沢さんは仏教徒の間でも勘違いと言う意見があります
    死んだら皆仏
    これは一般的な人の考えです死んだら仏ではなく弟子になる
    が小乗で大乗が死んだら皆仏全部が皆仏と言う教えではないのです
    自然崇拝であった日本は熱烈な仏教信者の曽我馬子によって撲滅あるいは地位を失います。自然崇拝信者の物部氏と曽我氏の戦いは宗教戦争でした。聖徳太子は四天王の力を借りて物部氏を追い詰めます。その他にも仏教徒同士の醜い争いは起きていますが小さすぎる日本の戦争は歴史ではあまりかかれない事が多いのですが日蓮迫害と浄土宗の迫害は教科書にも掲載されていました。これ作って見ました^^;
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    • miruru
    • 2009.11.22 Sunday 05:56
    コメントありがとうございました。

    仏教というよりは、日本仏教自身の歴史的
    経緯が江戸時代で大きく変質し、それが儒
    教的なものとシンクロし、さらに、明治時
    代に国家神道の影響が上書きされ、そこに
    仏教的な思想が融合されたと言えると思い
    ます。

    江戸期の反動もあり、明治期には仏教はか
    なり圧迫されたものの、葬儀の処理には、
    神道的な穢れの問題があり、仏教各派に頼
    らざるを得なかった側面などもあったよう
    です。

    このあたりの歴史上のパズルの解きほぐし
    が、この種の問題を解決するためにもう少
    し必要ではないか、と思います。
    • あるキリスト者
    • 2009.11.22 Sunday 17:20
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