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2017.11.08 Wednesday

『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (6)

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    今日も、『福音と世界』2017年11月号を読んで思ったことを考えてみたい。今日は、手島勲矢論文「トランプ時代のアメリカ・ユダヤ人の分断・苦悩」似ていて、引き続き触れてみたい。

     

    バーニー・サンダースに見るユダヤ的思想の背景

    バーニー・サンダースという一風変わった主張をし続けてきた人物について、手島勲矢さんは、その主張の背景に次のように語る。

     

    筆者は、バーニーのことは2015年冬まで注目していなかったが、彼のテキサス・オースティン集会の動画をネットで見たとき、この人はいわゆる職業政治家でもなければ、左翼のイデオローグ(扇動家)でもない。ただのベン・アダム(人の子)または「メンチ」(人)として「タナッハ」(ヘブライ語聖書)の「ツェデック」(正義)を追求しているだけなのだ、とその言葉と空気から感じて、彼の選挙戦を日本から見守ろうと思った。バーニーにとって大事なことは、人間の生活におけるベーシックなニーズ(水の安全、健康や教育の平等、家族や共同体の安心など)に応えることであり、労働者に起きる不公平こそはベンアダムへの冒涜なのである。(同誌 p.26)

    手島勲矢先生によるバーニー・サンダースの主張を要約すると、本来人間が神から与えられたまっとうな生き方ができるようにすることであると理解されているようである。個人的には、バーニー・サンダースの政治的主張をイシュー(政策論点)ベースでみてきたので、そのような視点から再構築してみたことがなかった(そもそも、彼がユダヤ系であることは2016年の選挙戦期間中という、つい最近の時期に知ったのだが)が、言われてみれば、なるほど、彼の環境保護政策や労働政策、そして教育政策には、ヘブライ聖書のテキストの影響があると言われれば、いくつか符合する側面がある。社会の外側から考えてみるという予言者的な側面や、この地を管理するものとしておかれた人間(アダム)の子(ベン)としての役割をきちんと果たそうということだと言われれば、そのようにも理解できることは確かなように思う。

     

    バーニー・サンダースのテキサス州オースティン(この辺は勝ちの共和党支持者が割と多い地域)でのラリー(政治集会での演説)

    6分42秒あたりからバーニー・サンダースの演説となる

     

     

    実は、このバーニー・サンダースという人物、若者にかなり人気があったのだ。キリスト新聞から頼まれて、去年の11月にアメリカ大統領選の結果が出たときに、アメリカ人の若者の反応を聞いたことがある。あちこち探すのが大変なので、教会に来ていた20代のアメリカ人のボランティアスタッフに聞いてみたところ、彼によれば、若者のバーニー・サンダース支持はかなり明白であったらしい。バーニー・サンダースが予備選から降りて、民主党の大統領候補の座をヒラリーたんに譲ったとき、若者に失望が広がり、どうでもよくなったという。なぜかと聞いてみると、大学に通うための学生ローンがかなりアメリカ社会の若者の中で負担感が大きく、特に雇用が不安定で雇用の安定性の見込みがない中で、かなり若者にとっての課題であったらしい。その中で、バーニー・サンダースの大学無償化、というのは大きかったという。その希望がついえた瞬間に若者は、大統領選に対する関心を失ったと、ジェイムズ君はいう。

     

    この問題、日本でも他人事ではない。高校から日本育英会の奨学金をもらっていると、大学を出るときに数百万円を抱えている学生は時々いる。たまたま、好景気で新卒労働市場が学生の売り手市場の場合、問題は顕在化しないが、数年前までの景気が悪い状況の時で、就職できてもろくにスキルのない中、派遣社員とか不安定な職種にしかつけないとすれば、奨学金の借金を原因とした就職直後数年での自己破産という事態もある程度の数起きたようだ。アメリカでは、大学の授業料は異様に高い。名門大学だと、年数百万円というような大学がざらであり、州立大学系でも、200万円は最低かかる。こうなると、日本の比ではなく借金地獄に陥る若者は多かったのであろう。それを見ているから、自ら経験しているからこそ、若者が数十ドル(数千円程度)の選挙資金をバーニー・サンダースが大統領選挙に出る際に、拠出し、それが一種の社会的ムーブメントになったのである。なお、このバーニー・サンダースの選挙戦の際の資金集めのムーブメントの話も、本論文では触れられているので、その部分はぜひお買い上げいただいて、お読みいただきたい。

     

    ヨベルの年の理解に基づく政策としての大学無料化

    ところで、旧約聖書のなかにヨベルの年の記述がある。50年に一度、奴隷は解放され、借金が棒引きになる1年のことである。古代イスラエルでこのヨベルの年に約束された、奴隷の解放と借金が棒引きになるというこの制度が実現したかどうかというのは議論がいろいろあるようであるが。それは別として、借金は貸主に対する隷属への道である。それに一定の制約をかけていたのが、このヨベルの年の制度だったかもしれない。ちょうどそれと同じように、もし、ベン・アダムである若者を学生ローンで縛ってしまう元凶の一つが大学の授業料であるとするならば、それを取り除くことは、神のツェデク(義)の実現ではないか、という発想でこの政策を掲げたのは、実に旧約聖書的発想に基づくものであったのかもしれない。上のばーに・サンダースに関する論文の起債を読みながら、ヨベルプロジェクトの以下の動画の内容を思い出していた。

     

    ヨベルプロジェクト(途上国を先進国に対する借金から発生する霊獣の道から解放しようとするプロジェクト)

     

    バーニー・サンダースが単なるリベラリストではないわけ

    バーニー・サンダースは、選挙戦中、C.N.N.のアンダーソン・クーパーとの対話の中で、自らDemocratic Socialistであるといっている。実際の動画かこれである。

     

    自ら、Democratic Socialistであると語るバーニー・サンダース

     

     

    アメリカ社会は、いつまでやるのか、という気分を個人的に持っているが、いまだにマッカーシズム(いわゆる赤狩り)の雰囲気がある。その赤狩りを背景にした映画にMajesticという映画館をめぐるある種のラブコメディがあるが、その中で、非常に印象的なシーンが以下の社会主義者呼ばわりされた人物に扮しているJim Carryの演説である。

     

    マッカーシズムを背景とした映画 マジェスティックで憲法修正第1条を読み、語るJim Carry

     

    いまだにこのマッカーシズムという狂気の時代に一歩間違うと入り込みそうな部分が米国社会にはある。それは、ちょうど、冷戦時代の始まりに、米国がソビエトと中華人民共和国やキューバと対抗しなければならず、そのために、朝鮮半島で、ドイツで、そして、ヴィエトナムで彼らはまさに血を流しながら国際政治を行ったのである。その真剣さが、ある意味マッカーシズムを生む背景にはあったように思うが、それと同時に、その理想形に参加していったThe Best and the Brightestたちもいたのである。そうであるがゆえに、Vetとかウォー・ベテランと呼ばれる退役軍人に対する彼らの思いは熱いのである。

     

    今月は各地で、上記のような退役軍人パレードが行われる月ではある。

     

    意外だと思うが、バーニーの米国に対する愛国心は強い。彼は国を守るための「正しい戦争」(たとえば、ISに対する戦争)をひていしない。その彼の感覚は、まさに20世紀の世界大戦に根差しているアメリカ的なアメリカなのであり、そのアメリカは、フランクリン・ルーズベルトの「四つの自由」を信じて試練の時間を超えたファイター(戦士)たちが作り上げたアメリカの理想である。

    (中略)

    その第一は「言論と表現の自由(Freedom of speech and expression)」。その第二は「それぞれの仕方で神を礼拝する万人の自由(Freedom of every person to warship God in his own way」。第3は「(経済的な貧困)欠如からの自由(Freedom fron want)」。そして最後は「侵略の恐怖からの自由(Freedom from fear)」となる。これらの自由は旧世界から逃げて繰るユダヤ人にとっては、望んでも決してあたら得れることのない夢のような理想であったからこそ、この国のために戦うことをユダヤ人が誇りとしたのも無理はない。(同誌 pp.26−27)

     

    実際に、彼らの仲間のユダヤ系の人々とって実際にある種の捕囚でもあったナチの強制収容所からユダヤ人を開放をしたという側面が、第2次世界大戦にはあり、その時にアメリカで掲げられていたのは、上の記述で引用されている4つの自由であった。また、ヨーロッパの大陸側がナチスドイツの黒い影でおおわれる中、彼らが逃げえたのは、スペインやイギリスを経由したアメリカ合衆国しかなかったのである。一部、ロシア周りで中国や日本に脱出した人々もいたのだが。このあたりの背景を含むクリムトの名画をまつる面白い映画として、『黄金のアデーレ』という映画を上げることができよう。

     

    映画『黄金のアデーレ』の予告編

     

    ところで、アメリカでは、いまだに戦争する際には、必ずといってよいほど、この4つの自由の大義が語られるが、その背景には、この第2次世界大戦の記憶がいまだに鮮明にあるからであることと、後に触れるアメリカの精神性の中にPledgeと呼ばれる文言の中にある、Liberty and Justiceということ表現の強い影響を受けているような気がする。その意味で、アメリカ人の価値概念に関してこの自由FreedomやLibertyは、大きく影響している様に思う。実際に直近の戦争であるイラク戦争の際の作戦名というのか、戦争名は、Operation Iraqi Freedom であった。

     

    アメリカ国民の一致とその根源

    このブログでもしょっちゅう書いているが、アメリカという国は、ペニーと呼ばれる1セント高架から、100ドル紙幣に至るまで、In God We Trustと書かないと気が済まない国である。さらに、裁判所の壁には、そう大書してある。ムスリムやユダヤ教徒(ウルトラ正統派のみなさんは、かなりその表現に冷ややかな視線を向けているようだが、それでも、彼らの国民の統合の象徴は、このIn God We trustであり、Pledgeなのである。そして、小学生は、基本、Pledgeという表現とアメリカ国旗に向かって忠誠を誓うことを叩き込まれるのである。

    アメリカで現地の小学校に行った人なら言えるはずのPledge 

     

    アメリカという多様性の国の一致を支える宗教や信仰や思想とはいったいなんであるのか?これを問うことは、アメリカ研究の基本であるが、筆者は、それは、ある意味で、旧大陸でおきた一神教的な宗教思想の浄化運動へのリアクションとしての自由と平等の希求ではないか、と考えている。つまり15世紀末のイベリア半島からのユダヤ人・イスラム教徒の追放、そして信仰の純化を求めての宗教改革・新教と旧教の争いの記憶と、新大陸の宗教と政治は無関係ではないと思える。(同誌 p.28)

     

    この手島勲矢論文では、アメリカの一体化を図る思想は、自由と平等の希求であると指摘しておられるが、もう少しいうと、Pledgeの最後でいう、Libety and Justice for allだと思うのだ。平等といっても、なんでもいいから平等というような社会主義的な平等ではなく、すべての人において義(Justiceないしツェデク)が行われることであるということをもう少し考えたほうがいいかもしれない。このあたりの義にまつわる感覚のずれが日本のキリスト教の世界の中での義認論(Justification)の議論を少し妙なものにしているようにも思うのである。Justiceは人間に対してなされるものであって、人間がそれになるものでない、という理解はもう少しきちんとしたほうがいいような気がする。

     

    そして、このLiberty and Justiceが戦争をする際に、たびたび語られ、そして、そのために兵士となった人々は戦場に赴く。現在のアメリカでは、ドラフト制度と呼ばれる徴兵制に依拠していないとはいえ、市民権授与(従軍すると市民権が得られるというメリットが存在する)や大学の進学資金を目指したある種の制度的、経済的徴兵制度が存在するという批判はあるのだが。

     

    アーリントン墓地に葬られた多様な宗教的背景を持つ兵士たちの墓

    http://lajotadejaime.blogspot.jp/2013/05/flags-in.htmlから

     

    それはさておき、同論文では、「つまり15世紀末のイベリア半島からのユダヤ人・イスラム教徒の追放、そして信仰の純化を求めての宗教改革・新教と旧教の争いの記憶と、新大陸の宗教と政治は無関係ではないと思える」とお書きであるが、この背景には、プロテスタントが生まれたその背景として、15世紀のイベリア半島でのレコンキスタにより始まったヨーロッパでのユダヤ人の流浪とその流浪に伴って生じたヘブライ語聖書テキストへのアクセシビリティの向上があったこと、キリスト教による純化主義があったことを改めてご指摘である。このあたりに関しては、この連載の第1回の記事『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (1) で紹介した早尾論文を参照されたい。ここでは、ヨーロッパで血で血を洗うような宗教の名を語った、領土戦争や経済戦争や政治闘争の影響をこの手島論文で指摘になっておられるが、そもそも、アメリカ合衆国の初期の植民地化にあたっては、武力闘争によって行き場を失ったイギリス人がプリマス植民地を建設したことに端を発するというのがアメリカの建国神話なのである。その辺は以下のBowling for Columbineという銃社会アメリカの問題を扱った映画でもパロディ化しながら、描いている。

     

    ボウリングフォーコロンバインにおけるアメリカ建国神話とアメリカ社会への揶揄するアニメーション

     

    アメリカの政治と宗教との不可分な関係

    市民宗教国家としてのアメリカが実際にはあるわけだが、個人が信仰の自由をかくほし、そして、言論の自由の共通ベースとなっているその市民宗教とは何であるのか、について手島論文では次のように書く。

     

    それ故に、建国以来、アメリカ人は政府と(特定の)教会の癒着に対する警戒が強く、政教分離(正確には教会と国家の分離)については、すぐに合衆国憲法の基本原理として確認する修正文書が出るほどである。特定の教会の支配を拒否するだけに、なおさら、「いったい、何がアメリカ合衆国の一致を支えている宗教精神なのか」という問いは重要な政治的な問いになる。ここで筆者は、アメリカ・ユダヤ人の学者たちが今盛んに問題にしている「ユダヤ・キリスト教的(Judio Christian)」という言葉の重要性に注意を喚起したい。この言葉は、ユダヤ教徒とキリスト教徒を一塊にする文化・文明の名称だが、その中身がトランプ政権の登場でいま問われているのだと思う。(同誌 p.28)

    アメリカは、先にも述べたように、小学校でのプレッジから裁判所の壁に至るまで、Godと言わなければ一日すら始まらない国の中で、では市民国家とはいったいどのようなものなのか、という問いは、かなり重要な問題であると思う。ところが、それが、アメリカに住んでいる人にも、この神は、ユダヤ的な聖四文字なのか、あるいは、ユダヤ教からスピンアウトして別物になってしまったキリスト教における、キリストなのか、あるいは、聖三一者であるのか、あるいは、ムスリムたちのアラーなのかは実はあまり判然としないし、それぞれがそれぞれの宗教背景に合わせて、それぞれが忠誠をつくし、信頼している神であるという点において、ある種の市民宗教ではある。

     

    今回の手島論文の中でのJudio Christianという言葉を見る中で、ワシントン州でお世話になった大学教員とその奥様との間で熱い議論がかわされたことを思い出した。お二人ともヨーロッパに出自を持つユダヤ系アメリカ人であったが、そのお二人の間で何気ない会話の中ではあったが、かなり熱い議論が、今から15年ほど前に交わされていたことを思い出した。奥様のほうは、ワシントン州の公衆衛生関係の公務員の方であったが、普通の公立学校教育を中心とした子供たちの教育の場合、建前として、Judio Christian という語がつかわれるものの、学校のイベントをとってみても、アメリカの公立学校文化はあまりにもChristian側によりすぎており、Judioの側面への尊重がないということで、そのあたりのことを議論しておいでであった。この議論は、アメリカ・ユダヤ人学者たちの学問的な問題だけではなく、実は市井のユダヤ人の皆さんにとっても、どうも気になる問題であり続けていることは、時々感じる。アメリカに住むユダヤ人にとって、公立小学校がそうなら、ムスリムの皆さんにとっては、もっと劣悪な環境に見えるに違いがないようにも思う。

     

    手島論文についての記事は以上で終わりである。あともう一回、中村うさぎさんのインタビューについて、記事を書いて、この号についての連載を終わる。

     

     

     

     

     

     

     

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