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2017.11.04 Saturday

『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4)

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    個人的に2017年11月号の『福音と世界』は、ツボにはまったので、しつこく紹介してみたい。今回は第3論文の山森みか論文『「ユダヤ人」を巡る議論と相対化の試みーいまイスラエルで語られていること』である。これもまた、いろいろと考えさせられることが多い論文であった。

     

    世俗国家としてのイスラエルと

    日本との関係の質的変化

    まず、この論文では、近年の日本と世俗国家としてのイスラエルとの関係の変化について次のように概観したうえで、イスラエルという国家の実像にできるだけ迫るべく、サンドという人物の著作を追いながら、説明する論文である。

    かつて日本でイスラエルのことが報道されるのは紛争が激化した時だけであった。しかし今は、イスラエルがセキュリティ関連を中心にスタートアップの会社が多くあるイノベーション大国なのに、日本が他国に比べてイスラエルに注目してこなかったことが指摘され、ひいてはそのベンチャー精神の源は直接的には皆兵制度(とりわけ情報部のエリート部隊選抜と訓練)、間接的には聖書やタルムードに基づいたユダヤ式教育にあるのだという分析がしきりになされている。実際日イ両国間の経済発展を進める投資協定交渉が2015年末に合意されてからは、多くの日本ビジネス関係者が頻繁にイスラエルを訪れるようになり、イスラエルに来る日本人は宗教か紛争に興味がある人ばかりという、これまでの状況が一変した。

    (中略)私個人は、紛争解決には何の貢献にもならないむやみなイスラエルの怪物化やイスラエル・ボイコット運動には反対であり、日イ両国の経済的協力関係は好ましいと考える立場にあるが、それでも「ユダヤ最強説」といった記事の見出しやビジネス関係者たちの「イスラエル詣で」には戸惑っている。それは例えば「国民皆兵」という言葉から日本人が抱くイメージと、イスラエルで実際に運用されている制度の内実がかけ離れているため、認識のずれが蓄積されていくのではないかという懸念等に基づいている。(2017年11月号 『福音と世界』 pp.18−19)

     

    日本とイスラエルの関係を、1970年代末から1980年代中葉にかけて、中学高校から大学の時期にかけて、ディスペンセイション主義というかなり特殊な終末論の立場から、それも強硬な立場の人々の言説を通して、イスラエルというものについての理解をかなり一方的に流し込まれる形で聞いてきた立場にいた。今は、そこからある程度自由になり、それらの言説を多少批判的に見ることができるようになった現在に至っている。結局現実のイスラエルに関する実像の知識がほとんどないために、マスコミや、自ら自称中東問題研究者を名乗る市井のキリスト教関係者によるいわゆるイスラエル最強説といった扇情的な言説を、積極的に見聞きしないまでも、その影響を受け、それらの人々からもれ伝えられてくる言説の一端に触れるたびに、「この40年余りほとんど変わらないし、様々な言説を自称専門家からの発言であれば、うのみにする人々が案外多いのだなぁ」という印象を持った。人は、本当に説得の技術でいう権威性に弱いということなのだろうなぁ、とは思う。まぁ、テレビでも自称専門家を名乗る元テレビキャスターが語ることをありがたく受け取り、それを再拡散する人々が一向に減らないのも困ったことであるが。まぁ、そのような人びとは「自分たちには調べる能力がないから、信じるしかないではないか」とか言い訳のようなことを、おっしゃるが、それは自らの生き方において、そして他人に語る上で、手抜きをしているということを言い立てているようなもので、努力不足を自ら言明しているようなものではないか、とも思う。

     

     

    行軍するイスラエルの陸軍の皆さん

    https://www.haaretz.com/israel-news/.premium-1.667152 から

     とはいえ、このようなイスラエルに対する美しい誤解の背景には、一つにはイスラエルという国が日本からかなり遠い紛争地帯にある国家であり、その紛争地帯の中での小国であることがあるかもしれない。ちょうど、日露戦争の時に欧米人たちが日本に対して持った当時の大国ロシアに対峙する小国といった構造とそこから派生するある種の判官贔屓のような感情や、その結果小国側を応援しようとする意識と多少は似ているような気がする。いずれにしても無理解、知識の不在あるいは欠如により生じた美しき誤解のような気がしてならない。そして、必要以上に神秘の国として過剰に期待が高まっていることの表れではないか、とも思う。どうも人は身近にない存在に対しては、欠点もよく見えない分だけ、安易に美化しがちなのかもしれない。

     

    シュロモー・サンドという人物とその著作から

    シュロモー・サンドという人物の『ユダヤ人の起源』という書籍の中で主張されたサンドの議論が内包する、国民国家という別種の仮構に依拠した議論の怪しさというか、その仮構にあまりにも依拠する懸念を批判的に触れておられる。国民国家という概念でほとんど多くの近代国家は出来上がっているが、その概念自体はフランス革命で生まれ、そして、現在もなお多くの近代国家において共有されている虚構であるように思う。そして、普段はあまり個人の生活と直接はかかわってはこないものの、国家と個人の立場が対峙するような際、例えば、戦争とか、公害とか、信仰と国家の問題とか、外交関係といったいくつかの社会における現象と時折衝突を起こすことがあるとミーちゃんはーちゃんは個人的に思っている。そして、サンドの近年の著作「私はいかにしてユダヤ人であることをやめたか」の主張を取り上げ、世俗派ユダヤ人(前回この連載でご紹介した改革派ユダヤ人とかウルトラ正統派を含む正統派ユダヤ人とはかなり違った生き方をするユダヤ人の人々)の立場を紹介しつつ、その人たちにとって、「ユダヤ人であること」とは、それらの人々にとってどのような意味を持つのか、ということを触れておられる。

     

    世俗派ユダヤ人とその生き方

    まず、世俗派ユダヤ人についての山森先生の視点からのご理解を紹介してみたい。

    世俗派ユダヤ人とは、戒律を厳格に守る人々とは異なり、基本的に戒律や宗教共同体を重視せず、自由な生活を送っているユダヤ人のことである。イスラエルにおいては、ユダヤ人は一般的に宗教派と世俗派に分けられる。宗教派と世俗派は学校も別々で、居住地域が分かれていることが多い。(中略)厳格な宗教派のユダヤ人は兵役を免除されているし、子供の数が多い宗教派の人たちの社会保険料を払っているのも世俗派なのである。世俗派ユダヤ人はいわば、近代的で合理的判断ができる自分たちこそがマイノリティにも寛容で民主主義を理解しており、実質的にイスラエル国家を運営しているという自負を抱いている。(同誌 p.20)

    つまり、世俗派ユダヤ人とは、宗教とその戒律やユダヤ人としての共同体性とはあまりかかわりなく自由に生きるリベラルな人々のことを指すという理解と言っても良いだろう。ある面、東京を代表例とする多くの都市部に居住する日本人がそうであると同様に、宗教のことをガチ勢として考えるわけでもなく、地方部のように共同体に縛られて生きるのでもない人々とかなり類似する存在のユダヤ系のイスラエルにお住まい人々のことらしい。イスラエルの割と主要な部分を占める存在として、ユダヤ人とはいっても、この世俗派のユダヤ人が一定数はおられるということのようだ。ガチのウルトラ正統派のような人々は、社会における預言者的存在としては貴重ではあっても、結構めんどくさい存在なので、そんな人ばかりだと、国家は立ち行かず、国民国家という虚構はすぐに破綻をきたすので、社会の安定化装置のような存在として、これらの世俗派ユダヤ人が多いように思う。つまり、この社会のバックボーンを担っている世俗派ユダヤ人の皆さんは、文化に定着してしまって、もはや文化とは不可分になった宗教的な理解や生活に関する規定部分に関してはあえてあがらったりして、もめ事を意図的に起こしたりはしないけれども、かといって主体的にユダヤの宗教的な理解に回帰していこうとか、そのユダヤ文化とかユダヤの宗教行事の根底にあるようなヘブライ語聖書などに関する理解を積極的に深めることにあまり価値が見いだせないような人々なのだろう。

     

    ところで、現代のイスラエルの中身を見ると

    リベラル派   世俗派ユダヤ人

    ーーーーー   −−−−−−−−−−

            改革派

     宗教派    正統派

            ウルトラ正統派

     

    というバリエーションというかグラデーションの中にユダヤ人の人々がおられる理解がおそらく実情に近いのではないか、と思う。ところが、ネット上で散見される日本でのユダヤ人理解、Facebook上で表明されている日本のキリスト者の一部の人々の間でのユダヤ人理解の表明をみると、どうも、イスラエルは、宗教派、特に、正統派ないしウルトラ正統派の人々のみでなっているかのような印象に誘導する人びともおられる。イスラエルは、ある種の宗教国家であるからこそ、何が何でもイスラエルの安全保障のために祈る必要があるという論調を見るたびに、この人たちはどこまでイスラエルの実情を知ったうえでこのような意見表明をなしておられるのであろうか、と思うことがある。このグラデーションと、そのタイプの人々の人口構成上のウェイトをかけていっ多様な理解についての認識を持ったほうがいいのかもしれないと思う。

     

    イスラエル大使館のゆるキャラ、シャロウムちゃん。

    http://eedu.jp/blog/2013/06/15/israel_character/から

     

    この世俗派ユダヤ人の代表的な思いを、山森論文ではサンドの書籍からそのエッセンスを次のように抽出している。

    サンドは問う。ユダヤ教を信じていない世俗派ユダヤ人が共有するものは何もない。世界に散らばる世俗派ユダヤ人同士が遭遇しても宗教的な基盤はなく、言語も文化もばらばらである。それを同じ民族といえるのか。(中略)ユダヤ教徒になるにはユダヤ教徒に「改宗」すればいい。キリスト教徒になるにも、イスラム教徒になるにも宗教的な手続きがある。しかし非ユダヤ人に生まれた無神論者が、神を信じない世俗派ユダヤ人になる手続きはない。とはいえ、自分にとってイスラエル文化は深く関わりのあるものであり、それを捨てることはできない。また世俗派ユダヤ人というカテゴリーは空虚で内容がないのに対して、イスラエル文化には、混乱状態ではあるがまだ実質がある。だから自分はイスラエル人から降りるのではなく、ユダヤ人から降りるという結論に至ったのだと。(同誌 pp.20−21)

     

    世俗派ユダヤ人の自己のアイデンティティに関するこの記述を読んだとき、まずもって浮かんだのは日本のプロテスタントタイプのキリスト教徒のことである。宗教的な基盤は、イエス・キリストが神であるということはあるにせよ、それにしても、世界中のプロテスタントをとらなくても同じ日本のプロテスタントの中でも、実は、その教会の中での、言語も文化も実はバラバラに近くて、相互に話もできないし、同じ語を用いながら、(例えば、救いとか、罪とか、神とか、憐みとか)実はかなり違った内容やコンテキストで用いられているし、教会内の身体的なコード、動作のコードや文脈、意味もかなり違っているようである。

     

    半年ほど前に、大阪でのルター派の3派合同礼拝に出たときにも思ったが、同じプロテスタント教会の同じルター派であっても、これまで相互にあまり交流がなく独立に礼拝をしていたという。まさに、同じグループに属するといっても、ルター派の中でも、教会群ごとの文化もばらばらのまま、並立的に存続していた、ということなのだろう。その結果、この違いが放置され続けてきた、ということなのではないか、と思う。

     

    ルター派3派の中でもこのような状況であれば、数多くのグループを含む福音派全体、あるいは、日本キリスト教団を含むプロテスタント派まで拡げ、さらに、数多くの単立教会を含む福音派まで入れてしまうと、もはや、アイデンティティの一致性を担保するとか言うのはほとんど無理な作業ではないだろうか、と思ってしまう。

     

    カトリック教会は、教皇様がおられるという点で、カトリック教会自体は個別教会を見れば、かなりそれぞれの教会ごとに個別性があり、特殊性があるけれども、教皇庁があるという点での一致はあるし、聖公会にしても、祈祷書(Common Prayer Book)における一致はあるというものの、先日の神戸教区の主教就任式で経験したことであるが、個別教会の伝統と個々人が表現する新体制の表現を含む文化は非常に独自である。しかしながら、祈祷書のテキスト自体は一致しているなどのある種の一致性があり、その一致を代表する代表者としての特定の個人に対して、多数の組織からなる組織を代表する組織の代表者として、組織により付託された代表性を持つ個人の存在があるが、そういう代表者をそもそも志向しないゲリラ集団的教会とか教会間組織を持たない組織群もあるので、同じキリスト教と言っても、プロテスタント派というのは、同じプロテスタントに分類されることが多いとはいえ、ある意味共有部分がかなり少ない存在なのだなぁ、と思う。

     

    以前にも書いたが、コプト正教会の教会や、日本ハリストス正教会の教会、カトリック教会の礼拝ないし聖餐式での式文の文言は多少は異なるものの、式文の基本的な構成(テンプレート)と内容がほぼ同じであり、あまり戸惑わないものの、その種の共通性はプロテスタント派の教会ではあまり感じることはなかった。まぁ、プロテスタント派では、説教と賛美歌があることと、説教が割りと長めであること、という共通性はあるかもしれないが。賛美歌も、歌うとは言いながら、実は教会ごとに歌われる賛美歌とその曲や歌い方は、実はかなり違う事が多い。

     

    世俗派ユダヤ人と世俗派日本人の類似性

    日本で、割と日本人論が流行る背景には、ここでの山森先生によるサンドの主張の要約のように、「世俗派ユダヤ人というカテゴリーは空虚で内容がないのに対して、イスラエル文化には、混乱状態ではあるがまだ実質がある」という指摘を援用するとすれば、世俗派であろうと仏教系であろうと、神道系であろうと、あるいは日本人がよくいう無神論(本当は汎神論的な世界観を持つ)日本人という全体としてのカテゴリーには、似たような動きを含め、内容における実に豊かな多様性が存在して、実際には議論することに困難を覚えるほどの混乱状態であるとはいえ、多くの人々が共有する何か日本的と思われるような実質があることが期待できるためであるからなのか、結構日本人論がメディアや政治家のことばなどでも一般化されて語られがちという傾向にあるという特殊性があるのかもしれない。実は、日本国内の実情としては、地域的にも社会集団的にも、その文化要素は多様であり過ぎて、それを一本か、一般化して語る行為そのものは実は空虚で内容がない言説である。そのようなことを考えていると、ある種の共通の日本人論と言ったような神話というか、その神話として美しい誤解が大手を振って歩いている社会に、長らく無自覚的に居住し、生活していると、たしかにカテゴリー分類された先が空虚という状態に生きている我が身を振り返ってみれば、確かに、カテゴリーとして空虚な世俗派ユダヤ人と分類され続け生きていかねばならない人びとの存在というのは辛いだろうなぁ、と同情してしまった。

     

     ところで、この世俗派ユダヤ人が多い、ということ、そして、キリスト教やムスリムとしての改宗にあたっては特定の儀式と手続きがあるということは案外重要なのかもしれないと思うから、これらの通過儀礼と手続きがキリスト教やムスリムへの改宗では維持されてきたのだろう。

     

    しかし、特定の神社の氏子になるというのにはおそらく手続きがありそうだが、神道(特に国家神道)に改宗するという概念が神道の世界にあるかどうかは、よくはしらない。しかし、一般の日本人の持つ宗教性から考えて、日本人の多くの宗教意識は、この世俗派ユダヤ人の立場に近いのではないか、と思う。

     

    そう考えると、日本のキリスト教の福音派の一部でもてはやされているメシアニック・ジューという存在とその背景ということはもう少し考えてみたほうがいいのかもしれない。ウルトラ正統派からの改宗は、あまり考えられないだろうから、正統派からの改宗なのか、改革派からの改宗なのか、あるいは同じユダヤ人でも世俗派からの改宗組なのか、ということは考えておいたほうがいいかもしれない。それによって、聖典へのの立場とアイデンティティと関与の度合いが同じユダヤ人であっても違うからである。それを一括りに、メシアニック・ジューが言ったから、と言ってその発言を鵜呑みにするとか言うのは、どうなんだろう、と思ってしまう。

     

    ちょうど、ある程度配慮して発言される場合が多いものの、大阪人(泉州)一人の意見を聞いて、大阪とはカクカクシカジカであると断言するに近いのではないだろうか。泉州文化と摂津の文化は違うし、同じ泉州でも泉佐野と岸和田では大分文化が違うからである。

     

    泉州岸和田名物 だんじり

     

    ところで、イスラエルはユダヤ教徒のいる国であるからと言って、イスラエルを祝福するものは祝福されるという旧約聖書の表現を取り、宗教国家でもなく、神権政治国家でもな苦、ダビデ王家の最高の結果の王国でもない、現国家の世俗国家としてのイスラエルで、ウルトラ正統派からはガン無視され、その実際の運営を行っている人びとのかなりの部分が、かなり無神論的なユダヤ人からなる世俗国家をガチ勢のキリスト教徒である福音派の一部の人々が支援することに伴うある種の滑稽さを思ってしまうと、なんとなく残念かもしれないなぁと思ってしまう。

     

    その意味で、次の記述はそれらのことを考える際に参考になるかもしれない。

     

    だが、神を信じてはいないかもしれないが、ユダヤ教にルーツを持つ習慣に部分的であれ参加している世俗派ユダヤ人に、そのアイデンティティから降りろと要求するのは非現実的である。さらにこのような立場は、世界で反ユダヤ主義が激しくなると、成立し得なくなるだろう。ユダヤ人はその内面にかかわらず、外側からユダヤ人だと規定されてきた歴史を持っている。(同誌 p.21)

     

    多くの世俗派ユダヤ人は、「ユダヤ教にルーツを持つ習慣に部分的であれ参加している」程度なのであり、それと同様に、日本人の多くの人々が「神道にルーツを持つ習慣的になんとなく参加している」というだけのことが日本でも発生しているにすぎないのではないかと思うし、そのことに対して、キリスト者として強行な異議申し立てをしてみることは全く無意味だとは言わないが、強行に異議申し立てを言われた側の人びとには、そんなに「何かを考えてやっているわけではないし、スーパーでなんかそんなディスプレイもあるから、われわれもやっているだけの事でやっているに過ぎない」はずだが、と当惑して終わるということではないか、と思うだけなのだ。ハロウィンにしても、クリスマスにしても、その宗教性の観点からの意味をかなり真面目に考えながらやっているとはいえないように思うのだ。

     

    今年の渋谷のハロウィンパレードの模様

     

    そのような異教の神への礼拝の場に世俗の関係上、存在せざるを得ないとしても、今風の表現をするとすればガチ改宗異邦人、異邦人ユダヤ教徒と分類されるであろうナアマンのようなスルー力の高い対処方法をキリスト教関係者の一部もうちょっと考えたほうがいいのかもしれない。

     

    ユダヤ社会における多様性と議論

    日本では、あまり議論をするところが見られない。日本社会は、本当に静かだなぁ、と思う。いや、朝まで生テレビとかあるではないか、というご意見もあるかもしれないが、あれは仕組まれた議論であり、エンターテイメントとしてテレビで見せるための議論である。日本の教室は実に静かである。同じような授業を日本とアメリカでしたことがあるが、日本は、教える側のペースで授業を完全にすすめることができるが、アメリカでは、学生が遠慮会釈なく、わからないところは、小学生であっても、大学生であっても、突っ込んできて、議論を仕掛けてくる。こっちのペースで授業を進めようとしても進まない。予定通りの予定調和的な授業なんかできた試しがない。

     

    また別の機会に滞在したアメリカでの経験であるが、同じアジアの民でも隣の朝鮮半島の人びと、さらに、その先の中国系の人びとはかなり議論をする。と言うよりは、自己の権利の主張はかなり激しい。最近は学生さんの中で、単位については、自己の権利(単位がつかないことに関してのみであるが)の主張はかなり聞かれるようになったが、日本人対象の講義で、中国系の留学生のような粘り強い交渉に辟易するという経験はしたことがない。そういえば、中国からの留学生が「結婚相手にするなら日本人がいい」と言っていたので、「どうしてなの?」と聞いたら、「いやぁ、中国の女性は性格が強くて大変だから」と苦笑いしていたことを思うと、日本人というのはウサギ小屋に住んでも文句を言わないうさぎのような存在なのかもしれない。それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。

     

    ユダヤ系の人々は、かなり議論が激しいことは、著者の山森先生からお伺いした。なんとなく声の大きな人の発言にサワサワサワとなびいていく日本の社会とは違うらしい。そのようなことに関して次の一文が参考になるかもしれない。

     

    世俗派ユダヤ人というアイデンティティを共有していない私個人は、このような立場が表明され大いに議論が交わされること自体が、あらゆる可能性を吟味検討するダイナミックなユダヤ的伝統にのっとっているのではないか、と思う。(同誌 pp.21-22)

    とりあえず、発言してなんぼの社会、そして、指導教官だろうが、親だろうが、ラビだろうが、よしんば神だろうが、それに向かって議論し、自分の主張を貫いていくような生活パターンがユダヤ的伝統なのだろう。こういう状況の社会は日本にはあまりみられないように思う。

     

    まぁ、そんな環境の中で鍛えられると、自分の主張を堂々と述べる度胸の必要性を感じるとともに、それに対して、個人の本領煮立ち、本人が持つ実力を議論において発揮して見せることの重要性を感じる。

     

    パレスティナとイスラエルの壁を巡る議論

     この山森論文では、さらに、アモス・オズという人の主張の概略を紹介しながら、現在のイスラエルとパレスティナ問題で、重要な問題になっているイスラエルの壁の問題について、次のようにお書きである。

     

    オズは、イスラエルとパレスティナの紛争は宗教戦争ではなく領土紛争に過ぎないことから、困難ではあるが解決は可能だという。オズの言う解決は一貫して、二つの民族が二つの国を持つといういわゆるに国家解決である。そしてそのためには国境の画定のためには、イスラエルとパレスティナの双方が妥協しなければならないのだが、その妥協を妨げているのが狂気なのである。そしてオズは、いわゆる分離壁についても、それが通っている場所が問題なのであって、壁そのものは必要だという。(同誌 p.22)

    ここの記述で重要だなぁ、と思ったのは、紛争の実態と焦点を明確に捉えることではないか、と思った。異なる宗教同士であれば、すぐに宗教紛争と判断してしまいがちな部分がある。確かに、イスラエルの壁を巡る問題は、ムスリムVSユダヤ教という宗教観紛争という誤解がのべられることがあるが、このパレスティナとイスラエルの間に存在する壁の問題は、実態的に領土紛争であるという見極めではないか、と思う。そして、その紛争にまつわる狂気の問題である。この狂気が問題をややこしくし、そして、人が人を殺傷することの報復へとつながるというのだ。狂気がコントロールできれば一番良いのだが、狂気は理性でコントロールできないときている。そこが困るのだ。

     

    ガザ西岸地区の境界壁

    http://gershonbaskin.org/insights/the-new-walls-and-fences-consequences-for-israel-and-palestine/ から

     

    ある事柄をわかりやすく説明するために宗教とか人種を出してラベルを張ってわかった気になるということがもたらす問題は、ヨーロッパでの過去から現在までの紛争あるいは戦争やアメリカでのテロ行為の本質を考える際にも言える。ヨーロッパやアメリカでのテロ行為は、宗教観紛争というよりは、国民経済というパイに対する旧植民地民であるが故にその国に住んでいる人びとのアクセシビリティが制限されていることと、G.D.P.で測定されることの多い国富に関するその国に住む人々の間での配分が歪んでいるがゆえの問題であり、それを正当化するために正義とつながりやすい宗教や信仰の問題が口実として用いられているだけである。このように、ある社会的な問題の表面を見て終わるのではなく、その問題において、何が根源的な問題かを見分けることは案外重要なのである。

     

    トランプ大統領は、メキシコとの国境にグレートウォールを作ると言ったが、この場合は政治的な問題でもなく、宗教的な問題でもなく、純粋に経済的な移民による、米国の経済的な利益(資金及び雇用機会)の流出を防ぐというための壁である。結局富の流出を防ぐ壁がなければ、利益の流出が激しすぎて国力が消耗してしまわざるをえないほど、深刻なんだろうと思う。特に、誰でもができる単純労働者は、英語を喋る必要が無いので、カリフォルニアあたりだと、その殆どは、ヒスパニックと呼ばれるスペイン語話者という現実はある。カリフォルニア州では、スペイン語は公用語の一つであるとはいえ。

     

     

    壁の建設を主張するトランプ大統領候補(当時)

     

    パレスティナとイスラエルの分離壁について

    イスラエルとパレスティナの間の分離壁は、イスラエルからの経済的な利益のパレスティナへの流出の阻止を目指すわけでもなく、異なる信仰を持つ人々の国境を超えた流入を防ぐということでもなく、実は犠牲者を増えないようにするという必要悪の実現としての側面が強いらしい。そのあたりのことについてオズの所論を取り上げながら、山森論文では以下のように記述がなされている。

     

     分離壁そのものは、とにかく早期に物理的に両者を分け、死者の数を減らして事態をできる限り鎮静化させようという発想に基づいていた。交流のない冷たい関係であっても、多くの死者が出るよりはいい。当初分離壁の設置に反対したのは、左派ではなく右派の人々であった。壁を作るということは自分のものと相手のものを明確に分けるということである。(中略)そして実際分離壁が作られると、双方の死者の数は劇的に減った。私は、分離壁がもたらす弊害はもちろんあるし、また自分の住んでいる地域にそのような壁ができるのは到底承服しがたい政策だと思う。しかし分離壁のもたらすマイナス面と、どちらの側であれ死者の数の激増という二つを考えると、分離壁がある世界のほうが相対的にましだと考えざるを得ない。ここには理念はどうであれ、結果的に死者の数が多く施策と死者の数が多く施策のどちらかを選ぶのかという問題がある。もちろんオズも指摘しているように、分離壁が通っている場所は明らかにイスラエルに一方的に有利であり、その一は双方の合意が得られる場所に将来移動させるべきだ。(同誌 pp.22-23)

    こういう文書を読むと、とりあえず、これ以上の流血の惨事に耐え難いから、一時的措置として壁の建設に走ったとは、言えそうである。

     

    たしかに、人は高邁な理念を掲げるし、宗教とか思想にその根源が存在する形の理想が実現することを期待するけれども、実は、完全に同じ理想が他者と自己の間で共有されることはほとんどなく、人々の間に存在する理想の微妙なズレが人々の間に混乱と不快感を発生させる。さらに、自分の理想をかなり精密に言語化できないし、現実世界には、様々な制約が存在するため、完全に理想世界を実現しきれない。そうなると、理想世界を目指しつつ、理想とは似ても似つかない理想の近似解が現実には生じてしまう。そのような近似解で理想ではないものができてしまうと、そんなものは頼んだものではなかったということで、理想を願った人びとは失望し、そして、理想の実現に向けて尽力した努力した人びとは、努力したにも拘らず全く評価されないため、これまた失意を抱えてしまう。そして、理想を作り出そうとする人びとは出来上がった理想を目指したが結果生まれてしまった醜い現実である「理想の成れの果て」の周りで、ため息をつくしかないという現実は、まま起こるのである。

     

    宗教改革も似たようなところがあるかもしれない。本来のキリスト教からズレてしまった世界の中で、本来のキリスト教はこのようなものではなかったか、と思われるものを取り戻そうとして、多くの悲惨と思わぬ悲劇を伴う副次的効果が出たようにも思う。理想は素晴らしくても、現実が伴わず、予想しなかったことが多数起きるということなのだろう。その意味で、ユダヤ人居住区とパレスティナ人居住区の間に壁を作るという計画が、理想を掲げて具体的な政策立案にわりと反映させようとする左派の人びとから分離壁賛成したというのは、彼らが理想を置い続けた結果をよく熟知しているのが、左派の人々だったということの繁栄かもしれない。

     

    空間や距離は分断も生み出すが、直接被害を防ぐための緩衝地帯の構築が可能になる。その意味で、社会の安全と相互の適切な環境の確保のためには、このような安全策というのは案外有効なのかもしれない。世界史の歴史を見れば、地域間交流や人的交流は、他の地域に関する知識と認識だけでなく、新しいもの(例えば、胡椒とか、丁字[グローブ]とかトマトとか、じゃがいもとか、とうもろこし)といった人びとの生活を豊かにするものをもたらすとともに、戦争や疫病などの災いをもたらすことも少なくないことを考えると、この辺のバランスは案外難しいのかなぁ、とも思う。

     

    以上、山森論文の紹介は終わり。

    次回は別論文の紹介へと続く

     

     

     

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