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2017.11.04 Saturday

水谷潔さんの2017年10月末のFacebookの投稿から思ったこと(1)

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    ここのところ世俗の仕事でめちゃくちゃ忙しかった上に、忙しさを作り出した仕事が完了したためか、ここまでの緊張が一気に解けたので、疲れがどっと出てちょっと休みたかったのだが、体調が悪い中、導入したシステムが動かないというトラブルを抱えた業務協力先からとにかくご協力いただきたいという電話が入ってきた。相当お困りで、緊急に対応されたいご様子だったので、その事業所でのトラブル対応のため、休みも取れずに10日連続で仕事をすることになった。そうしたらである。水谷潔さんという昔はブロガーで鳴らした方が、面白いスレッドを上げておられ、何やら賑やかしくなっているらしい。

     

    水谷さんの話題のスレッドから

    そのスレッドをまず御清覧いただきたい。一旦ご清覧頂いた上で、ミーちゃんはーちゃんが割と日常的に触れている学生の皆さんを見ながら思っていること、ちょっと違和感を感じたところを突っ込んでみたい、と思う。

     

    昨今の青年たちは、「生きる意味」とか「人生の目的」など求めていないし、必要ともしていないとのこと。真理を求めて教会を訪ねる未信者も、昔とは違いごく少数。(この事実はショックだったし、受け止めるのには葛藤もありました。30代あたりまで該当するようで、これが伝道困難の要因の一つのようです)


    それなのに「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルから脱却しきれない自分がいます。もはや機能しない方法論と知りながら、モデルチェンジできない硬直した自分です。(最近は何とか、若い世代対象の伝道メッセージについては、人生論的説教や目的・意味提示説教は避けるようにしています)

     

     そうした中、最近、ムスリム伝道の経験を持ち、現在は日本の大学生伝道で実を結んでいる若い伝道者にお会いしました。

     彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。

     

     日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。

     

     そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。(人生の意味や目的は信仰決心してから、本格的に教育されるとのこと。)

     

     対象に応じた柔軟な切り口、「意味・目的・真理不要の世代」への伝道モデルを示していただき、感謝するばかり。硬くなった頭を柔軟にしなくてはと思いながら、モデルが乏しかったので、これはありがたかったです。

     

     若い世代の伝道者から、「意味・目的・真理不要世代への伝道」の指針を教えていただけたのは大きな恵みでした。私の小さな経験が同様の葛藤や行き詰まりを感じておられる方々のお役に立てば感謝なことです。

    という文章である。

     

    若者が変わってきた、そして、その若者の変化に追随できてない日本のキリスト教の伝道の方法論が、現在のキリスト教世界の伝道不振の原因の一端ではないか、そして、未だに1950年代、1960年代的な伝道アプローチのままを無反省に繰り返しているかもしれない、ということを最近お出会いになった若い伝道者の方にであって、お気づきになったというのが、水谷さんの投稿での主要なご指摘である、と理解することができるであろう。

     

    ミーちゃんはーちゃん風の突っ込みしてみました。

    以下では、その記事に突っ込みながら、ちょっとミーちゃんはーちゃん風に考えたことを述べてみたい。完全に今回の企画、水谷さんの企画に悪乗りした記事であることは自覚的に熟知している。

     

    昨今の青年たちは、「生きる意味」とか「人生の目的」など求めていないし、必要ともしていないとのこと。真理を求めて教会を訪ねる未信者も、昔とは違いごく少数。(この事実はショックだったし、受け止めるのには葛藤もありました。30代あたりまで該当するようで、これが伝道困難の要因の一つのようです)

     

    真理を求めてきたとされる人々って、中二病患者の一種で

    周りから「ビッグ」って思われたいだけだったかも

    まず、昔は「生きる意味」とか「人生の目的」と言ったある種の真理を動機として、教会に来る人々がいた、というが、それは本当だろうか。個人的には、真理とか、意味とか、目的という用語の定義とかその用語の用法がおかしかっただけではないか、と思う。大学という組織は、本来、学問的真理の追及機関であり、ある種の真理を動機とした人々が来るところとして世間に理解されている部分があった。たしかにそうだろう。

     

    真理追及をしているはずの組織に人口の半分が行く時代に

    しかし、1945年以降、とりわけ大学進学率が15%を超えるか超えないか、と言った頃、すなわち1950年代後半の頃から大学という社会は大衆化の方向に進み始め、1970年代で一気に大学大衆化は進展する。一方で、その時代は安保闘争などが行われた時代でもあった。このような状態のなかで、大学に入学して、大学を卒業していった人々の中にどこまで真理追求動機があったかというと、それは現在とほとんど変わりがないのではないか、と思うのだ。

     

    先にも少し述べたが1960年代前半くらいまでの大学入学者は、男性人口の15%前後であった。1975年前後に40%を超え、1995年前後に男女にかかわらずもほぼ50%を超える。最近は60%に迫る勢いである。全人口の15%程度の変わり者が来る組織なら、本人に「お前は真理追及を自分でせよ」と言っておけばよかったのだが、人口の約半分が来るようになれば、その真理追及のやり方から、真理とは何か、とかをある程度消化可能な形にして渡さないといけなくなるので、本来真理なぞをそもそも欲しがってはいない人が、なんとか消化可能な形にするのは、かなり面倒な作業になってくる。大学人は、良かれと思ってであるのか、美しい誤解からなのかは知らないが、そもそも真理も欲しくない人たちに、建前上真理が欲しくなるようにする環境整備まで、教育の名のもとにしなければいけなくなっているのである。真理を欲しがっていない人は、正直にそのことを認め、自分に合ったことをするように社会全体で進めるようにならないかなぁ、と面倒なことが正直嫌いなミーちゃんはーちゃんは思っている。

     

    大学進学率の推移

    http://www.mukogawa-u.ac.jp/~kyoken/data/13.pdf から

     

    大学生を間近で見るものとして、「学生(あるいは若い人)、すなわち、真理動機を持っている人」という単純化には大きな誤解が含まれている様に思えてならない。若い人たちは真理動機を表面上は語るものの、それは、表面上のことでしかないのかもしれない、と思っている。要するに、モテたい、あるいは、社会と言うか世間からの一定の評価を受けたい、と言う思いから真理動機を語っているのかもしれない。もし、それほど真理動機が重要であれば、皆さんもっとマジメに勉強し、大学院に残るはずずだし、昭和30年代後半には、「加山雄三」氏の名前にちなんで「「可」山「優」三」(可[いまでいうC判定、合格すれすれの単位]が山ほどあり、優[今で言うA判定 良い成績の単位]の数が3つしかない成績の悪さを表現することば)という言葉が流行するとはいえない。昔からそういう人がいたのである。

     

    国民的アニメ『サザエさん』に見る大学関係者

    アニメの『サザエさん』の登場人物の一人、伊佐坂先生の長男の大学生甚六さんは、1970年代的な大学生の姿をカリカルチャー化して描かれている人物ではあるが、真理追求者として描かれているとはどうしても思えない。そもそも、海山商事にお努めのフグ田マスオさんにしても、どうも大阪大学の早稲田大学の出身者であるらしいし、盆栽いじりが好きで囲碁が好きな磯野波平氏は、京都大学のご出身らしい。

     

    アニメに描かれている(それも理想化されて描かれている)これらの人々を見ていると、1940年代後半から1960年代前半のこれらのサザエさんの登場人物を見る限り、真理追求をしようとした人びとであるとは、どう考えても思えないようなきがするのは私だけなのであろう。アニメに描かれている大学卒のこれらの登場人物の人びとは、本当に人生の一時期である、大学生や若い時代にも真理を追及をしようとしたのか、その後も真理追及をしようとしているのか、とか考えてみると、どうもそうでもないように思えてならない。

     

    確かに、人口の一定割合は、真理追及に走る人もいる。ただ、たいていの場合、人生の途中で息切れしてやめてしまう人が多い。真剣に真理を追求するとかいうのは、実体的にはかなり限られるのではないか、というのが、ミーちゃんはーちゃんの観測である。おそらく、人口の数パーセント、たかだか10%以下の人々が息切れ族を含めた真理追及をしようとする人々であるといえるのではないだろうか。もし、そうでないとすれば、大学院は人であふれているかもしれない。

     

    ほかの多くの場合、ネズミーランドのような楽しく若者としての時間を過ごすための組織としてレジャーランド化した学校では、要するに、真理追及をするふりをしたい人が多い(多かっただけ)のではないかと思うのだ。なぜ真理追及のふりをするかといえば、それは仲間の間で差別化を図りたいいう思いからかもしれない。そして、読めもしない、そもそも読む気もない日本語翻訳の本を片手に人生や真理を語るふりをして「大物ぶりっ子」をしたかった小物が多かっただけのことではないだろうか。実際に小物であるミーちゃんはーちゃんは、そう思うのだ。

     

    だからこそ、以下のような諧謔に満ちたウィスキーのコマーシャルフィルムが作られたのであろう。要するに、えらい奴、ビッグな奴にみられたくて、真理追及のふりをなんかをするのはやめタラいいじゃありませんか。そして、真理とかを大上段に語ってもいいけど、そんなことよりスピリッツの一種であるウィスキーを飲みましょうぜ、というCMなのではないかと思うのだ。それは、ある種の中二病、思春期特有のはしかのようなものであるのではないか、と思うのである。


     

    故野坂昭如氏が出てくるウィスキーのコマーシャルフィルム

     

    まぁ、ゲーテの若きウェルテルの悩みにしたって、意地悪な見方をすれば、結局色恋沙汰をめぐる悩み(ロマン主義だからしょうがないが)に関する私小説のようなものであって、真理追及の結果に悩み抜いた挙句の自死なのか、と言われると、個人的にはどうなんだろうと思う。

     

    人は、真理追及するはず、という幻影や思い込みに

    振り回される必要はないかも

    それで、真理追及をする若者を前提にして聖書を語ってきたご自身の姿を振り返りながら、次の水谷さんは次のように書く。こういう正直なところがミーちゃんはーちゃんが、この水谷潔さんという人から目を離したくない理由の一つである。

    それなのに「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルから脱却しきれない自分がいます。もはや機能しない方法論と知りながら、モデルチェンジできない硬直した自分です。(最近は何とか、若い世代対象の伝道メッセージについては、人生論的説教や目的・意味提示説教は避けるようにしています)

    これを拝読しながら、真理なんか本来関係ない、と思っているけれども「フリ」だけで真理を追っかけているという日本社会で、「意味・目的・真理」を切り口に福音を伝えるスタイルでしてきたからこそ、日本の福音伝道の結果を今我々は目の当たりにしているのではないか、と不謹慎ながら思ってしまった。たしかに、戦国時代に来たパーデレたちが見たように、野蛮人の国と思ってアジアの東のはずれの国にきてみたら、高度に発展した文化国家であるジパングが存在したので、彼らは驚いていたのだ。同様に、異教徒であり、野蛮人、バルバロイ(バーバリアンの語源)の国と思って、ムスリム帝国に対峙したら、あちらのほうが数段素晴らしい文化を持っていたことに、素朴に驚いた西洋諸国の十字軍の将官たちがいたのである。日本では、欧米人たちである自分たちが基礎的なアイディアを開発したもののB級品のコピー商品作る感覚で量産しているのだろうと思っていたら、小型軽量化した製品を作って大量に輸入してくる日本に驚いたのが1980年代のアメリカ産業界であっ多様に思う。そのころには、ジャパンアズNo.1と持ち上げられることが多かった。げに思い込みとは恐ろしいことをこれらの3つの例は示しているように思えてならない。

     

    そもそも万代不易の真理とかいうのは存在しないという歴史的な事実を日本では中学校ぐらいの教育で国語教育の一環として教え込まれているのである。

    祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
         沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす
    奢れる者も久しからず ただ春の夜の夢の如し
         猛き人もついには滅びぬ ひとえに風の前の塵に同じ

    そんな万代不易のものがないという理解が千年レベルで続いてきた社会の中で、真理、真理といったのは、オウム真理教とキリスト教くらいではないだろうか。その意味でポストオウム真理教の日本社会で真理真理といいつのることは、実はかなりナンセンスなことではないか、と思う。オウム真理教に関してはいろいろ言いたいことはあるが、彼らは真理にひかれたというよりは、この成立の出発点がヨガの研究会であったことを考えると、実際に目に見えてヨガが彼らの身体性に効果があったことからこそ、彼らは麻原正晃というグルに従い始める。真理に悩んだ結果のグルへの帰依というよりは、具体的に身体性を伴って効くということの体験をしたからこそのグルへの帰依であったのだと思う。もし麻原正晃というグルが、宙に浮いた真理性の議論に終始していれば、オウム真理教は社会の中で宙に浮いた存在であり続け、社会に対してほとんど影響力を持たない理念系の集団であったようにも思う。そのほうがよほどグルのお弟子のオウム真理教の関係者の皆さまと、犠牲者として不幸にして巻き込まることになった数多くの人々にとっては幸せだったのではないか、と思うのである。まぁ、グルの神通力はどうも普遍的な神通力出なかったために、のちにそのような体験ができない人には、L.S.D.とか言った薬剤が投与され、身体性の経験の薬物による疑似体験が提示されるようになったらしいが。

     

     

     

    そもそも、意味とか、目的というものは本当に普遍的で、確実で完全に善なるものであるといえるのだろうか。逆に近代社会の成立とともに成立した啓蒙思想とかにおいて重要視された、意味とか目的における前提に関する善性を無批判に設定し、そしてそれを追求することがより良い生き方であるというような前提をそもそも置いた議論ではないだろうか。個人的に体育教官室の教員から聞かされた「健全な魂は健全な身体に宿る(だから体育の授業で頑張れ)」という妄言(では、身体障碍者を含む障碍者や生得的な身体における不具合を抱える人々は、健全な魂を持たなくなることになるのでおかしいと思ったのだが)、「真・善・美」を人間が追及するとかいう現実離れした理想など、西欧からそのまま持ち込んだ舶来品としての思想や理解だからということで、価値があるとつい最近まで思い込んでいただけなのかもしれないと思うと、それこそ、近代という時代において適合的な一時的な近代思想や啓蒙思想の根底にあるものを、若者がもはや追求しないことをだれが責められよう。すなわち、近代という西欧型社会が生み出した思想と同様の追及をしないこと、それがポストモダン社会なのだと思うのだけれども、近代社会が単に終わってしまって、近代社会における用語で語っていたキリスト教の世界が現実の不適合を起こしただけなのではないか、と思う。だとすれば、若者は当然のことをしているに過ぎない。そもそも、近代社会というのは世界史的には、かなり特殊な社会であって、長らく続いてきた人類の世界から見れば、普遍でもなんでもなく、かえって極めて特殊な社会だったのではないか、と思う。たまたま、西洋の先進国なのか優等国なのかは知らないが、その社会型を西洋以外の世界に押し付けようとして失敗した理念系でしかないのではないか、とも思うのである。たまたま、それと不可分のかたちで提示されたキリスト教を、普遍的なキリスト教、そして普遍的な真理と呼ばれるものだ(実際西欧人はそういった可能性があるのだが)と思ってしまった日本の不幸であるし、当時の先進国であった西側世界、そして、西側世界でのちょっとだけ後進国であったアメリカ社会のそれを明治の日本、大正時代の日本、昭和時代前期の日本、1945年以降か1980年代にかけての日本が、西洋文明と不可分のものと誤解した西洋文明とそれの基礎を与えていると思えた特殊系のキリスト教の追っかけをしてきたことの反映にすぎないのではないか、と思うのだ。

     

    真理追及とかができる(そのためには真理に実際に人間が触れうる可能性が保証されている必要があるのであるが、それはたぶん無理だと思う)という幻影、人間には存在目的があるはずとか行った幻影、人間には存在意味があるはずとか言った幻影に踊らされていたのが、近代における西洋社会なのであって、それを人間の側で作り出そうとしていたのが近代西洋社会ではなかったろうか。ちょうど、現実に存在する自分のしっぽのようなものをそのまま受け止めるのではなく、それを捕まえようとして、必死になって到達しようと悪あがきをした犬のように悪あがきをしてきたのが、これまでの西洋近代という社会であったような気がしてならない。本来存在そのものを語るにあまりふさわしくない言語と用語とその用法と、そのためには課題が大きい論理体系を多用して、無理してそれを語ろうとしてきたのが、この300年ほどの間豊かで先進的であるとみんなから誤解されてきた西ヨーロッパ社会と、そこでの独自に適合するように展開されてきた哲学やキリスト教ではなかったか、とも思う。

     

    幻影を追い続けてきたのかもしれない教会

    西洋型のキリスト教に大きく依拠する形で日本で伝道してきたことが完全に無益であったか、というとそうでもないと思う。実際に、無理をしていることが多いかもしれない、とは思いつつも、それでもキリストに多くの人々が出会う機会を与えようとしたという意味での意味は確実にあったとは思っているし、その一端として生まれたキメイラ的存在としてのミーちゃんはーちゃんがあることは素朴に認めたい。

     

    グスタフ・モローが

    キメイラ

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%A9

     

    宗教(偶像)あるいは人間に存在する信念体系とそれに踊らされること

    個人的に考えると、宗教とは、一種の信念体系であると思う。そう考えると、宗教とは、ある種人間が生きる上で必要となる信念その者といっても差し支えないだろう。人はこれなしに生きるとすれば、規則も何もないカオス状態の中で生きることになる。これまでの多くの宗教と呼ばれるものは、キリスト教、仏教、儒教、イスラム教、という外側から分類可能にするためにラベルをさまざまの張られているものが存在する。これらの宗教は、一種のそれぞれの文化の中で形成されてきた行動や信念に関する概念体系というか、信念体系と呼ぶのがふさわしいようにも思う。そうであるので、もう少し、このあたり、言語と概念と擁護の整理はもう少しちゃんとやったほうがいいと思う。

     

    ところで、ちょうどパウロが、汎神論的世界に住んでいたギリシアの人々に向かって、あなた方は信仰心とか宗教心にあつい人々だとアテネでいったことが新約聖書の中に記録されているが、人間は信念体系、それが、すべての時代に普遍的で共通であり、さらに時代を超えて、地域を超えて、すなわち、すなわち時空間を超えて受容あるいは共有可能なものであるかどうかは別として、何らかの信念体系を人々からなる社会が有することが多いし、その信念体系を社会の中において価値あるものとすることが多い。その意味で、誰しもが自分なりの個々異なる宗教を持っているといえる。また、同じキリスト教に分類されるとしても、その中での信念体系が万国共通か、時代的に共通か、と言われれば、かなり異なることが多いのではないかと思う。その程度のものである。

     

    ところで、個人の中に全く信念体系がないとすると、その人の行動には一貫性のあまり見られない、壊れた機械のような挙動をしめすか、ある種の乱数的な不規則性(実は計算機の乱数はある規則によって作られているので、実は乱数といいつつ規則性があるのだが)を示すような行動パターンとならざるを得ず、そのような人は、予測不可能性が大きすぎるために社会的生活がほとんど困難になることになる。まぁ、通常の日本語では、このような信念体系を宗教とは言わず、習慣とか常識ということが多いだけの話である。

     

     そうした中、最近、ムスリム伝道の経験を持ち、現在は日本の大学生伝道で実を結んでいる若い伝道者にお会いしました。

     彼は大学生に、人は誰も「宗教(偶像)」を持っていると伝えます。「自分は違う」と否定する学生たちに、彼はムスリムと日本の就活の共通性を指摘します。敬虔なムスリムの方々は、定時に礼拝をささげ、断食をしますが、彼の説明によれば、それは、神様により受け入れられるようになるため。このことは、学生たちが会社に受け入れられるよう就活に必死になるのに似ているわけです。

      日本では、断食で命を落とすムスリムの方々を「信じられない」と言いますが、海外では、日本の過労死や就活の失敗で命を断つ学生を「信じられない」と評価します。そこで、学生たちは自分たちが、社会や世間という偶像から、拒絶されることを恐れ、受け入れられることに命を懸けていることに気が付きます。まさに「受容と排除の神」からの受容を求めて生きる自分自身を発見するのです。

     

    この文章を読みながら、日本には社畜(会社に飼われている従順な家畜のようなサラリーマンのこと)と呼ばれる有給型の奴隷(その意味ではローマ時代の解放奴隷と同じ)がいるのだが、イスラム世界には、神に対して、従順に心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くすタイプの生き方の一つとして、神に従うもの、あるいは神の奴隷・神のしもべであろうとするムスリム(神の奴隷・神のしもべ アブドアッラーとして生きる人々という意味あいをも含む)がいるだけの話であって、両者とも、誰かの奴隷であろうとすることでは、実はあまり変わりないのかもしれない。

     

    誠実を尽くす先が違うだけである。確かに、サウディアラビア系のムスリム社会では、ムスリムの特殊系としての過激な宗教理解を生んだ世界の中では、神を追い求め巡礼のかたちなどで神を愛そうとして命を落とすことがあるかもしれない。しかし、神は神とともに生きようとする信徒の存在を喜ばれることになっているはずである。その意味で命を落とすことまで、他者の命を奪うことまでを容認する概念というのはムスリム世界に広く存在するかというと、かなり特殊な例らしい。あくまで神(アッラーフ)は人が神とともに生きることをのぞんでおられ、神が作り玉石存在が死ンで失われることまでを望んでいないという理解のはずであるし、死ぬことをもってどうのこうのするのは、先に述べたようなサウディアラビア系の特殊なムスリムに固有の現象であるのではないか、とは思っている。

     

    とはいえ、神に帰依するものとしてのムスリムが全体として、神の奴隷として生きることを理想としていることはありそうである(アブドアッラーという名前、時にアブダラと発音されることがあり、その名前は神の奴隷という意味であるが)が、その奴隷として生きる結果に関しては、人(信仰者)によって理解が違うし、それがムスリム流であるらしい。その意味で解釈には幅があるのである。あるムスリムがAの状態であるからといって、別のムスリムがBの状態にあるということは、実際に多く見られる形であり、近代の均質性同質性を重視する世界観ではとらえにくいものなのだと思う。その意味で、すべからくの統一性や普遍性を求めるということとはあまり関係のないのがムスリムの世界であるようだ。

     

    ところが、近代社会にどっぷり浸かってきた現代の日本では、外生的な統一性や普遍性、一貫性を、必要以上にその成員に求めることがある。これが残念なのである。個が無視される社会が近代社会における、ある特殊系としてそのような社会構造が成立している事例を日本においては、多く見ることができるようにも思う。

     

    例えば過労死問題なんかにしても、会社の利益を追い求め、一時的に採用してくれたのかもしれない鼻で息するものが作った会社に愛社精神や忠誠を死をもって示すような一種の殉死精神徒かは、ムスリムから考えれば信じられない世界であり信じられない信念体系であろうと思う。会社とは、個人に労働機会としての雇用と、その対価としての給料を与える社会的存在である。日本では、フリンジベネフィットとしての個人に対するソーシャル・キャピタル(人間としての人間社会で生きやすくするための関係性の束というか関係性が生み出す資源というかある種の資本)までも与えることが可能な社会的存在でもある。そして、そのような社会的存在である企業は、その企業を保有する株主に対しての配当の原資となる企業の利益確保を前面に出し、社員や関係者の人々を関与させようとする。実際、企業が提供する個人に対するベネフィットは多くの場合、未来永劫に保証されたものではない。その意味で、虚像に過ぎないのだが、雇用される者同士、雇用されようとする者には、その企業にしがみつくことができ、それがあたかも当然、あるいはそれが有利なことであるかのような幻想を与え、そして社員同士を無意味に競わせるに近いことが起きるようになる。ある意味で、過労死問題は幻影に踊らされた結果であり、人々が自分の姿を見失った結果であるように思う。

     

    世の中、前回のブログ記事『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (4) でご紹介した、山森論文に引用されているサンドの所論のように、「日本人であることから降りること」は現実的に可能なのだし、「会社員という生き方から降りて、自分の身を守ること」は福祉国家の中では、実際に可能なのだが、それに思い至らないほど幻影に踊らされているとすると、実に悲惨あるいは滑稽ですらあるかもしれない、としか言いようがない。

     

    「人間は弱く不完全である」という事実と

    「強くありたい」という幻影とキリスト教会

    人間は弱い。個人としての人間は弱い存在である。であるからこそ、組織を過剰に頼ろうとするし、その組織や集団に対して過剰な期待を抱くのかもしれない。本来、宗教組織は、ムスリムにしても、キリスト教にしても、ユダヤ教にしても、仏教にしても、道教にしても、その他多くの宗教でも、その弱い人間にある意味での非公式的な無形のソーシャル・キャピタルを弱さを抱えている存在の人間に対して提供し続けてきた存在であったのだが、今の日本のキリスト教には、その弱さを認める場と時間が教会の中でかなり欠けているように思う。その側面が最近はずいぶんよくなってきたようには思うが。最近読んだ、『精神障害と教会 教会が教会であるために』で向谷地さんが書いておられる文章が少し気になった。

    礼拝という場に恐れることなく自身の弱さをゆだねるときに、その弱さを通して、神様の言葉が私たちの心にしみこんできます。その意味で、教会とは、本来私たちが弱くかつ愚かになれる場所、まさしく「甘えられる場」なのです。(『精神障害と教会 教会が教会であるために』p.103)

    まぁ、ここで、向谷地さんの文章に「甘えられる場」という表現があるが、これは、「神に甘えられる」ということであり、おそらく、神のあわれみを希うことができる場というような意味であって、「人間に甘えられる場」「他者に甘えられる場」と目に見えるものから何らかのものを得ようとする人々や、人間に対することだとか誤解する人が少なくないのが、近代の困ったところなのかもしれない。そして、この神のあわれみを希うことと人間が弱い存在であると認めることは、伝統的にはキリスト教が本来重視してきたことなのであるが、この200年のキリスト教では、このような部分が消え去ってしまい、教会でも自らが祝福されたことを誇る場になってしまっているような側面が皆無とは言えないのが残念なのである。その意味で、「甘えの構造」はどうも日本的なものだという説が定着しているらしいが、「人間が弱く、教会が神に甘えられること、すなわち、神のあわれみを希うことができること」は、個人的には「真理」というよりは、人間の存在に関する実態としてのファクト(事実)だと思う。もし、このファクト、すなわち「人間が弱い存在であること、教会が神に甘えられることを提示する場であること、すなわち、神のあわれみを希うことができること」について、もっとお示しできたら、いいだけの話ではないかと思うのだ。それこそ、真理というよりはファクトの追及というのであれば、神から離れている人間の本来の状態において発生する真理としての弱さを、素朴に認めることを進めるべきなのかもしれない。ファクトとしての人間の弱さを覆い隠すための偶像に等しいもの(学歴とか、富とか、健康とか、コエンザイムQ10の服用による若さといったこと)を意識的にせよ、無意識的にせよ、多数身にまとっていると意味においては、人は偶像崇拝者であることを認めることができるのである、とすれば、それこそ、神の必要性や真理を根源的に説いたことになると思う。その意味で、以下の文章の指摘は重要であるとは思う。

     

     そこで、自らが偶像礼拝者である認めた学生たちに、あるがままで受容し、共にいてくださる真の神様を紹介します。人は誰も神を必要とすることを理解した学生たちは、本物の神様を受け入れるわけです。(人生の意味や目的は信仰決心してから、本格的に教育されるとのこと。)

     

    しかし、この部分を読みながら、「意味・目的・真理」の追求であるということを教えてきたキリスト教はたかだかこの数百年のことであり、キリスト教は、長らく「神とともに生きること」と、それがどうしてもできない人間の姿と、死という個人的な終末に向かって歩まざるを得ない人間の姿を見つづけ、そうであるがゆえに、「キリスト」と「神」のあわれみということを求めることが、人間には必要であることを示し続けてきたのであって、そもそも、自らが触れることも触ることもできない真理(こっちのほうと指し示すことぐらいはできるけれども)をあたかも自分が持っているかのようにふるまい、その神の領分にあるべきものである「真理」を教えようとかいうような、本来、神にしかできないはずのことを騙り、神の座を神の名のもとに簒奪してきたのかも知れない、と思う。個人的には、心理が何かとは、神の領分のことであると思っている。

     

     若い世代の伝道者から、「意味・目的・真理不要世代への伝道」の指針を教えていただけたのは大きな恵みでした。私の小さな経験が同様の葛藤や行き詰まりを感じておられる方々のお役に立てば感謝なことです。

     

    その意味で、先にも述べたように、「意味・目的・真理必要世代」というのは、近代的な時代における一時的な存在であり、現代では、それが「意味・目的・真理不要世代」になったのであり、考えるだけ野暮だと思い、考える必要がないと言い出した人々が出始めたのであるとするならば、それはそれで、堕落後の人間の姿に近い形に戻りつつあるということである、と思うのだ。であるとすると、それらのあきらめきった人々に、「あなた方にはできないのは当然のことであり、そうであるからゆえに神はあなた方をお呼びになっておられる。であるからこそ、不安がらずに、こころから神のあわれみを希うがよろしい。神はそれを与えるというのが聖書の約束だ」というファクト(事実)ことをお示しして差し上げるという、本来のキリスト教の在り方に戻すだけのことではないか、と思うのだが。神のあわれみはファクトであり、真理ではないのかもしれないが、そのファクトを単に示すことが大事である、というのは違うだろうか。

     

    そして、日本のキリスト者も、モデルやモデル的な演奏のような固まった生き方を追い求めるのはやめたほうがもういいのかもしれない。そして、いわゆる理想的なキリスト者の伝道パターンというかモデルに縛られるのではなく、もうちょっとプロセス志向で、神とのアドリブをもっと楽しめばいいのになぁ、と思うのは、きっとミーちゃんはーちゃんだけなのだろう。そして、それが、リングマが、『風をとらえ、沖へ出でよ』で主張している主要首長であると思うのは、ミーちゃんはーちゃんの理解力が足らないのではないか、とも思う。

     

    また、もうちょっと書いてみるつもりである。

     

     

     

     

     

     

     

     

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    コメント:1章が4ページで区切られているので読みやすいし、内容は日本の教会への示唆に富んでいるように思う。おすすめ

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