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2017.10.28 Saturday

『福音と世界』2017年11月号を読んでみた (1)

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    今日は福音と世界の最新号’2017年11月号)を読んでみたところ、大変面白かったので、その中から一部を紹介してみたい。この号は、実に面白かった。今月号の特集は、どれをとっても、めちゃくちゃ面白い。ぜひ、旧約聖書とユダヤ人とに関心を持つ人々に読んでもらいたいし、特に、イスラエルベタ押しのキリスト教福音派の人々には、ぜひお読みいただきたい特集号である。特に、現代ユダヤ人、現代イスラエル人を勝手に騙るのは構わないが(なぜなら、言論は自由だから。でもその責任は問われるけど)、実情はある程度アップデートした上で、語って欲しいと思うなぁ。ガチガチの日ユ同祖論は、論外であるにせよ。

     

    第1論文から

    反ユダヤ主義と現代国家としてのイスラエル国

    ということで、今回は第1論文の早尾貴紀論文『人種差別としての反ユダヤ主義とイスラエル国家』からご紹介してみたい。今ではその情熱が全く薄らいだが、1948年のイスラエル国(王国としてのイスラエル国ではない。この混乱がアメリカ福音派には時々みられる)建国、1970年台前半までの中東戦争にイスラエルが勝利し、その生存基盤というか、存在感を大きくした頃には、当時のオイルショック(これまた中東戦争の余波の一つではあるが)による不況(というよりは経済減速)が全世界中でおきて、イスラエルに対する関心が急速にキリスト者と、そうでない人々の間にまで広まって、キリスト者の中には、「いざ再臨か」とかと言った切迫感をもって一部の人々が生きた時代があった。ミーちゃんはーちゃんもやんごとなきおこちゃまであった頃、そのようなある種の切迫感の中で過ごした一人ではある。

     

     

    やんごとなきみやびなお子ちゃま おじゃる丸

    https://news.biglobe.ne.jp/trend/0330/cin_160330_4588405573.html から

     

    このイスラエル建国には、反ユダヤ主義の反作用としてのシオニズムが濃厚に関わっており、また、ナチス・ドイツ支配下でのユダヤ人迫害に手をこまねいて 拱手傍観するのみであったり、あるいは、それに積極的に、また、消極的にせよホロコーストに加担してしまったことになる、連合国側の人々の第2次世界大戦後の良心の呵責も影響しているようにしか思えない。事実かどうかは、知らないが、思想の自由がある以上、ミーちゃんはーちゃんがそう思っているだけの話である。したがって、ヨーロッパ人の良心の呵責云々のミーちゃんはーちゃんの印象は、与太話の可能性が大であるので、読者は眉に唾きして、ミーちゃんはーちゃんの書いた部分をお読みいただきたい。ミーちゃんはーちゃんが書いた部分は別として、今回の論文からの引用部分は、精度の高いはなしであると思っていることは、付言しておく。

     

    この早尾論文では、『ユダヤ人』と呼ばれる人々がヨーロッパ社会でどのような人種的まとまりを持つ人々として認識され、さらに同定されていくその過程と、その中での血縁関係でのユダヤ人の区別というか差別が存在したこと、それが、非ヨーロッパ人としてのいわゆるブラックと呼ばれるアフリカ系諸国民への定位に果たした役割を明らかにする。本論文は、ヨーロッパでの半ば中途半端なかたちで定着した流浪の民としてのユダヤ教の人々、ユダヤ人がヨーロッパ社会の中で位置づけられていく中で、彼らは、ボグロムやホロコーストといった悲劇に巻き込まれていく。そして、ゲットーに押し込まれ、事あるごとに反感の対象にされる。漸くパレスティナ(ペリシテ人の地と言うくらいの意味)に第2次世界大戦後、定着しかけることができたと思ったら、北から南から軍隊がやってくるわ、警備を過剰にしたら、パレスティナ人の一部過激派からは、爆弾投げ込まれるわ、ミサイル打ち込まれるわ、みたいな状況になっている。この背景には、イスラエル国という近代国民国家自体が、ユダヤ人国家といえるわけでもなく、そうなったのは、過去のわずか70年未満に取った政治的経緯の結果であることを示す。イスラエル国の国民の一定の割合は、ユダヤ教からの影響を受けているとはいえ、純粋にユダヤ教的な宗教国家でもないという、一種キメイラ的な国家であることを明らかにするのである。さて、その記述を見ながら、なぜ、このユダヤ問題が、人種問題として提起されるのか、というあたりのことの導入部を少し以下で紹介してみよう。

     

    キリスト教世界の中に反ユダヤ主義の生成の歴史を詳細に見ることは容易なことではない。というのも、キリスト教徒ユダヤ教の差異の中に原因を探し求めることは、あくまで宗教解釈の次元の議論になるが、反ユダヤ主義は人種差別のイデオロギーだからである。「血の思想」に基づく人種差別を、宗教解釈によって説明することはできない。
    またその点に関連して最初に確認しておかなければならない基本的な問題として、しばしば聞かれる俗説にイエスの十二使徒の一人「イスカリオテのユダ」がイエスを裏切って売り渡したことが反ユダヤ主義の原因であるという聖書由来の物語があるが、これは何の説明にもなっていない。というのも、イエスは古代ユダヤ教の改革者としてはなおユダヤ教徒なのであり(初期キリスト教の成立の目安となる新約聖書の編纂は2世紀頃とされる)、この時点でキリスト教対ユダヤ教の対立図式を持ち込むことは決定的に無理がある。(福音と世界2017年11月号 p.6)

    まず、ここで、早尾論文では、ユダヤ問題という一種の人種差別について、「「血の思想」に基づく人種差別」であり、「宗教解釈によって説明することはできない」と自身のご主張の主要論点を述べておられる。日本でこの問題を考えたり発言したりすることがお好きな皆さんは、割とキリスト教関係者に多く(それはアブラハムの信仰に由来する宗教であるということがキリスト教にはあるからと言うのは、新約聖書のヘブル書に出てくるからだが)、たいていは、ユダのイエスの裏切りがユダヤ人否定の根拠として用いられるが、それを「これは何の説明にもなっていない」と、実にすがすがしく、そして、明快に否定しておられる。

     

    もし、裏切ったユダがユダヤ人だったからユダヤ人は迫害されるべき、というのなら、実際に手をかけたのはローマ人であったし、パウロに至っては、自分がユダヤ人であることを誇っていいなら、自分はガマリエル門下生で、パリサイ派だ、といっている。確かにローマ市民権は持っていたが、彼は母親がユダヤ人女性であったようである。ちなみに、ユダヤ人は母親がユダヤ人であることが重視される。この辺を勘違いしている日本のキリスト者はかなり多いように思う。ユダヤ人であるかどうかに関して言うと、不確実性の強い父系より確実性の強い母系なのである。

     

    そんなことを言ってしまえば初期の弟子たちは、ユダヤ人ばかりであるが、ペテロにいっては、最終的には悔い改めたとはいえ、鶏がなく前に三回「イエスなんてやつはオレっち知らないもんねぇ」とか否定して、裏切りまくっているのである。たしかにイエスを当時の官憲や有力者に売り渡しはしなかったが、裏切りという点では、あまり大差がないように思うのは、ミーちゃんはーちゃんの理解力が不充分であるからであろう。

     

    エル グレコ作 ペテロの改心

    https://commons.wikimedia.org/wiki/File:El_Greco_-_The_Repentant_St._Peter_-_Google_Art_Project.jpg

     

    そして、そもそも、初期キリスト教は、当時のユダヤ教のシナゴーグで人々が集まっているところにちょこちょこっと、弟子たちが参加して、現地のユダヤ教教会(シナゴーグ)に参加している異邦人(外国人)相手に、「チミたちが読んでいる聖書で預言されていた人と思われる人が、イスラエルでちょっと前まで存在しておられて、そして(十字架にかかって死んで)、死者の中から復活したのだなぁ。チミら知らんだろう」と言い放ったかどうかは定かではないが、異邦人の改宗ユダヤ教徒相手にイエスのことを話したのであって、ある面、使徒時代くらいまでは、ユダヤ教の世界での存在のなかで、なんか、「キリスト、キリスト」というので、どうもこいつら、純正ユダヤ教徒とかなり違っていることを言っている人々ぢゃないか?といった感覚で、当時の人々からキリスト基地外(キリストキリストと狂った様に言う奴ら)とラベルがキリストという人々に貼られたようであり、これが、クリスチャンという語の出発点である。

     

    ところでプロテスタント派の教会の礼拝で、ユダヤ教の名残を見つけるのは、砂漠の中から特定の成分の砂を見つけるようなものなので、その共通性というか名残を見つけるのは、たしかに困難であるが、正教会系の教会に行けば、そのユダヤ教時代の象徴は、少し注意深く見れば、教会のあちこちに見受けられる。カトリックの中での独自の展開の中で、その後の宗教改革のときや、そういうった象徴をとっとと捨ててしまったことにより、今のプロテスタント教会では、それを見出すのができないほどお掃除されている教会が多いし、そういう教会しか見たことがないと、確かに、ユダヤ教とキリスト教は別物と言いたくなり、自分たちは違うのだと言いたくなる気分になる人がいたり、ユダヤ教からの進化系とか発展系だから偉い、とか思いたくなる人が出てくるのは避けられないことだとは思う。進化系が必ずしも良くならないことは、Windowsの短い歴史でも、MacOSの短い歴史でも、まま起きてきたことである。

     

    アブラハム宗教と改心

    ところで、地中海世界における、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという一神教の間での改宗問題は、仏教や日本型宗教、あるいは、神道といった異教世界からキリスト教への改宗とは、かなり違う意味を持っていることについて、次のような記載が早尾論文にはある。本来はもっとあとにあるのだが、ここで先出ししておく。

     

    そもそも改宗は、同じ「唯一神」を抱くこれらの一神教の間では特に珍しいものではない。というのも、『旧約聖書/タナハ』を聖典として共有する「啓典の民」としては、ユダヤ教であれ、キリスト教であれ、イスラームであれ、異なる宗教というよりもむしろ、同じ「アブラハムの一神教」内部での改革運動の結果として分派した「宗派の違い」とさえ言えるからだ。(同誌 p.6)

     

    N.T.ライトは『クリスチャンであるとは』という書籍で、ユダヤ教徒キリスト教を兄弟関係で捉え、イスラームをいとこかあるいは親戚か何かのように記述している部分がある。案外、この3者は非共有部分より、共有部分が大きいようには思う。たしかにクォラーンの叙述と、ヘブライ語版聖書とその翻訳聖書では、創世記伝承に違いは生じているが、基本構造はそのまま維持されている。その意味で、アブラハム宗教という大きなくくりで見ると、宗教のOSは共通で、乗っているアプリやOSのチューニングがかなり違う3台のPCを見ている感じと理解するほうが近いように思う。ただ、OSをいじりすぎて、プロテスタントの側では、共通性が見いだせなくなっているのは、先ほど紹介したとおりである。ただ、ムスリムは絶対帰依を言うので、ムスリムから他の宗派と言うか宗教に移籍すると、あとは死が待っていることになるらしいが。それもまぁ、キリスト教徒やユダヤ教徒で宗祖にいらんことしたやつがいた結果であるらしいけど。

     

    レコンキスタという現象

    もうちょっと、早尾論文の前後をずらして話をしてみたい。それは、レコンキスタというスペインでおきたことで何がユダヤ人たちに置きたのか、ということである。レコンキスタは、イスラム帝国の一部がスペインに北アフリカとスペインの間のダーダネルズ海峡を渡ってイベリア半島に流入した。そのイスラム教徒の皆さんがイベリア半島で定着していたのを、キリスト教側が追い落とし、と言うか、この日までにこの地域から出て行け、と期限付きでキリスト教側が、ムスリムとユダヤ人に対して宣言し、これらの人々をイベリア半島の一部から追放したのである。つまり、イベリア半島のキリスト教国、すなわちキリスト教純化思想を持った王制国家が、ムスリムなどの異教徒、そして、なぜだか当時のユダヤ教徒も、非キリスト教徒であると判定したため(まぁ、十字軍や当時の海賊行為との関わりもあったのだろうが)、イベリア半島から追放されることを選ぶか、改宗を迫られるというの憂き目にあったのである。

     

    ところで、先にも述べたように、ムスリムの場合、キリスト教への改宗は、死を意味した。従って改宗ということはなかったようである。しかしイスラム教徒には、アフリカやアラビアにイスラム帝国があったので、ダーダネルズ海峡を渡って、アフリカに帰るとか地中海を浸かって、アラビアに行くという選択はムスリムの皆さんにはまだあったが、ユダヤ教徒あるいはユダヤ人には行くところがない放浪の民状態になり、半ば強制的に強いられるかたちで所払いされてしまったのである。

     

    その辺の事情について、次のような記述がある。

     

    ところが、強制的かつ集団的な改宗となると、事情は一変する。改宗によってキリスト教徒になったものは、スペイン語で改宗者を意味するコンベルソと呼ばれてきたが、数十万人に達するイベリア半島のユダヤ教徒たちが強制的かつ集団的にキリスト教に改宗させられたとなると、まずは、その改宗そのものに、すなわちキリスト教への信仰心に疑念が差し向けられる。(中略)結果、表向きだけは改宗した「隠れユダヤ教徒」を実際に生み出すことになった。彼らは、キリスト教社会からは、侮蔑的な『豚』という意味で「マラーノ」と呼ばれた。

     

    (中略)

     

    ここに(コンベルソとマラーノの両者の見分けのつかなさ)初めて、信仰に基づく「ユダヤ教徒」ではなく、「血の純血」思想に基づく「ユダヤ人」と言う概念が発生する。もちろんここで言う「血」は、生物学的な血液のことでなく、あくまで「イデオロギーとしての血」であるは強調しておきたい。(中略)改宗がユダヤ教徒集団全員に強いられたことによって、血が変わらない「元ユダヤ教徒集団」が作り出された。個人的な回収であれば生じなかったはずの「血の異なる人種集団」がここに生じたのだ。これによって、仮に祖先の代で改宗していたとても「あのユダヤ人コミュニティ出身のユダヤ人」と言う人種的規定がその子孫にまでつきまとうことになった。
    すなわち、レコンキスタがもたらしたものは、イベリア半島のキリスト教支配だけでなく、その内部に潜む人種的マイノリティ集団としての「ユダヤ人」でもあったのだ。(同誌 p.7−8)

    ここで、早尾論文では、隠れユダヤ教徒という言葉を使っておられるが、これは、実に適切な表現ではなかろうか、と思う。隠れユダヤ教徒の場合は、意図的にユダヤ教徒であることを選択するということであるから、まぁ、下手をしてバレたら、ろくでもない目にあうことになる。その覚悟の上での選択だったのだろう、と思う。ところが、仮にコンベルソの皆さんのように、誠心誠意転向しても、まぁ、宗教とは個人の信念システムとかなり強く結びついているので、「改宗した」と表明したとしても、なかなか信じてもらえず、ギクシャクはする事が多いとは思う。さらに、誠心誠意、真性の改心をしたとしても、キリスト教徒の側から、なかなか、信用してもらえないことは、冤罪事件の被害者というか、加害者と間違えられた冤罪で訴えられた人が、法廷で無罪が確定しても、なかなか信じてもらえないこととよく似ている。いずれにしてもろくでもない目が待っていたのではないか、と思うのだ。冤罪との類似性で言えば、まさにオウム真理教事件のときの河野さんという方がそのような被害に合われた方である。世間だけでなく、マスコミの一部が率先して、河野さんについてのかなり詳細な追っかけをしていたように思う。このように、人がすることは、どこの国でも同じであるし、日本では同様のことが第2次世界大戦中にキリスト者に向けて、発生したように思う。

     

    ムラーノ(豚)とユダヤ人を呼ぶこと
    ところで、ここで、ムラーノという言葉について考えてみたい。最近でこそ、イスラム教徒の生活規定として、ムスリムと食事規定との関係についての理解が広まってきたが(本来ハラールは、個人が信仰によって決めれば良いことであるらしいので、政府による規制を一律で包括的に定めるのは、イスラム法的にいかがかという意見があることは記憶されるべきである)、ユダヤ教でも、食事規定(コシェルとかコーシェルとか呼ばれる)は律法(トーラー)にも記載があり、豚は食べないし、汚れた動物として指定されている。放蕩息子が豚の世話をしているということは、ユダヤ人としてはありえないことであり、豚の世話をさせられているということは、本来ありえないことなのであり、彼は異邦人同様に落ちぶれたものとして描かれているのである。

     

    放蕩息子の息子くんのように、世話をすることすら汚らわしくあり得ないはずの豚(マラーノ)という名前を付されたユダヤ人の心境は想像するにあまりがある。マラーノと呼ばれながらも、それでも生きていくことを選んだユダヤ人たちの思いを考えると、非常に複雑な気持ちがする。ちょうど、キリシタンと呼ばれ、揶揄されながらも極東の島国で行きようとした人達の姿と重なる。しかし、こういう記述を見ると、結局日本型宗教であろうと、ユダヤ教であろうと、人は自分とちょっとでも違うと思えば、いとも容易に他者に対してシンジられないくらい苛烈になれるのであり、洋の東西、宗教の違いは関係ない。東洋的な仏教だと平和かというと、まさにその東洋的な仏教徒が、ロヒンギャと呼ばれるムスリムたちをアジアの南の方の国では迫害しているのである。実に残念なことであるが。仏教だから平和、キリスト教徒だから平和、ムスリムだから平和、ということにはならないことを、我々はもう少し冷静に見つめたほうが良いかもしれない。

     

    それで、レコンキスタが何を生み出したか、というと、早尾論文は次のように書く。「レコンキスタがもたらしたものは、イベリア半島のキリスト教支配だけでなく、その内部に潜む人種的マイノリティ集団としての「ユダヤ人」でもあったのだ」。つまり、レコンキスタによって、ヨーロッパ(少なくともイベリア半島)での被差別対象集団として位置づけられた民族がユダヤ教徒ないしユダヤ人であったし、それはヨーロッパ社会の中での人がしたがらない仕事をするしかないマイノリティの人々として、社会的に位置づけられた、ということができよう。
     

    ((((次回へと続く)))))

     

     

     

     

     

     

     

     

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