<< ふるさと納税ならぬふるさと教会献金(1) | main | 本日のN.T.ライトセミナーの音源のリンク集 >>
2017.10.23 Monday

ふるさと納税ならぬふるさと教会献金(2)

0

     

     



    Pocket

     

    音声ファイルダウンロード先

     

    前回の記事では、国の制度としてのふるさと納税という制度とその問題として、地方財政学上の原理原則等にかんがみて、かなり疑問の残る制度であることをお話したし、本来ふるさと納税に伴わないはずの返礼品と、特に、その返礼品目当てのふるさと納税の問題を少し触れた。

     

    今日は、その教会編についてである。

     

    発想の発端となった雑談

    神戸にある異人館の写真を取りに来た方を、カトリックの鷹取教会(阪神大震災後、紙管工法で作られた教会の後に新しい協会ができた教会)に行ってみたいとおっしゃったんで、ご案内した。「ご聖堂に行かれたら面白いと思いますよ、でも自分の教会でないので、どんどんお御堂(聖堂)に侵入して、ご案内するわけには行かないけど…」とか言いつつ、とりあえず、内部にはいってみたいとおっしゃったので、入り口までご案内した。

     

    その後、神戸以外の方をご案内するいつもの和食レストランにご案内する途中、地方の小さな教会の話になり、それらの教会の存続の話になった。地方部は厳しくて、都会の教会に信者さんを送り込み続け、そして、自分たちは、高齢化が進み、教会の建物とかの維持も困難になっているし、牧師は、2教会、3教会、4教会掛け持ちしている人は少なくなくて、その中で、どのように教会活動を維持していくのか、地域自体の高齢化と人口減少があるし、その中でのサバイバルってのはけっこう大変になるんじゃないか、ということを考えていた。

     

    すると、ふるさとの教会から、東京などの都市部の教会に大学とか就職をきっかけに東京に言ってしまい、昔なら、交通不便とかもあったので、ある程度の地域に企業も人材を配置したけれども、飛行機もあり、新幹線もある中で、東京からの日帰り権がどんどん拡大する中で、企業が地方都市とかに人を貼り付けておく意味があまりなくなっているという側面があって、地域の産業構造も昔とは変わってきた結果、東京では、多様な教会があり、様々なタイプの人々に適応する教会があり、割と年齢段階やその人の聖書理解に合うような教会が見つけやすいかもしれないけれども、地方に行くと絶望的だし、教会と呼ばれるものがあるだけマシの地域もあったりするんですよねぇ、とかいうようなお話をしていた。結果として、都市部の教会は、あくまで地方部に比べてであるが、どんどん人も増え豊かになり、教会財政に各教会を見ればそれほど余裕がないにしても、地方に比べればよほどマシな経済的状況にあるところは少なくない。また、東京とかだと、ふるさとの教会に教会籍をおいたまま、盆暮れ正月のときには故郷の教会にちょこっと顔を出し、都会では、特に都会の教会に教会籍を移さず、客員のまま過ごす信徒さんも信仰生活のあり方としては、少なくないかもしれませんねぇ、とか言う話になった。現代の日本の教会ではドイツの中世都市に関する俚諺である「都市の空気は自由にする」が、ほぼそのまま当てはまるのではないか、ということもお話しながら、頭の片隅には、ちょっこし浮かんでいた。

     

    イエスは人々に開放を告げたようなのだが・・・

    イエスの教えは当時のユダヤ人が、妙な律法主義に凝り固まり、人々の生活が様々な制約でがんじがらめに縛られ、本来の神との関係の中にないような状態に近い状態になっていた人々に、その開放の日がいよいよ来た、ということをイザヤ書預言を引用しながら、告げたので、人々はその部分を読み、解き明かしをしたヨセフの息子をまじまじと見たのだろうし、パリサイ人は、このどこの馬の骨ともわからない中年に入りかけのイエスを違う意味でまじまじと見つめていたのかもしれない。

    【口語訳聖書】 ルカによる福音書 4章 16−22節
    それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
    すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
    「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
    主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
    イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
    そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

    すると、彼らはみなイエスをほめ、またその口から出て来るめぐみの言葉に感嘆して言った、「この人はヨセフの子ではないか」。

     

    しかし、その直後、イエスが重篤な皮膚病患者で、預言者時代に癒やされたのは「シリアのナアマンだけ」とか言い出したら、人々は殺気立ち、イエスを崖から突き落とそうさんばかりのような勢いになったのである。

     

    歌謡に人々に開放を告げたはずの教会が、がんじがらめに人々をしているとしたら、どうなのだろう。それって、イエスが実現されようとしたことの真反対とは言えないまでも、かなり方向が違ってしまっているのではないだろうか。そして、地方の教会の若者が自由にされるのが、「都市の空気」だとしたら、それは一体どういうことなのだろうか、とも思う。

     

    特に、都会に出てくると、地方には、教会の選択肢が殆どないとは言わないまでも、行く候補になる教会が限られる状況に比し、交通費をそんなに掛けなくても、様々な教会に出没できるし、キリスト教書にしても、出版されたその日に手に入るし、キリスト教書店の在庫にしたって、バラエティが非常に豊かであるし、都市部のキリスト教書店は、めちゃくちゃおしゃれとまでは言わないけれども、書店の雰囲気もかなり明るい。また、キリスト教書を扱う書店の候補も多くないし、また、様々なキリスト教書店に行く経費だって、ヘタをすると1000円以下で、移動時間として2時間もあれば数軒回れたりもする。その意味で、Facebook友達のMさんがFacebookでコメントしてくれたように、キリスト教は、基本的に都会向きの宗教というか信仰形態である、という側面はあるとは思う。地方では、キリスト教(耶蘇教という地域は、さすがに減ったと思うが)関係者であるということは、都会以上に少数者であり、生活が困難になる場合が存在するようである。

     

    地方部の教会で若者として過ごした日々の記憶から

    地方にある大学に入学し、かなりの距離の北関東のある地方都市の教会に通いはじめた頃、その地方都市の教会で大歓迎された経験がある。その北関東の教会では、東京から数時間からの距離であるためか、高校生くらいまでは熱心にその地方教会に大勢かよっていても、進学や就職でみんな東京に出ていってしまって、その人達は、滅多に帰ってこないという経験を十数年近くされたところに、突然降ってわいたかのように大学進学にともなって高校でたてのミーちゃんはーちゃんがいったもんで、地方都市の教会のおばちゃん、おばあちゃんたちには大変喜ばれたし、そして、おおばあさんやおばさんたちから、たいそうかわいがってもらった。ちょうど、高校に海外の高校からの留学生が突然現れたという感じであったのであろう。そういう珍しい存在であったからか、かなりありがたい経験をした、と今でも思っている。

     

    そこのおばあさんたちから30年ほど前に聞かされたところでは、その地方都市の教会でキリスト教と出会い、都会に送り出すことで、「都会の教会で熱心に神とともに生きているから、それでいいのだ」という思いをおきかせいただいたものの、「それでも若い人はいないのは寂しいねぇ」ということを時折は漏らしておられた。その教会は地方都市の規模からすると、かなり珍しく、30名近くの教会員のおられる教会ではあった。大学卒業後十数年して、近くで用事があったので、ご訪問したら、ほぼ経過年数分だけ平均年齢が上がっている状態であり、これはやばいかもしれない、と思ったことがあった。まだ、人数が多い分だけ、その当時問題は明確化はしていなかったものの、あと10年後を考えると、状況はかなり厳しいだろうなぁ、というのは思った。

     

    ふるさと教会献金の原型

    ある方との神戸市内の教会を巡る雑談の中ででた話の中に、地方の教会に教会籍を残すのなら、参加者としてはカウントされなくても、教会人数には入るのだし、年に数回でも多少は献金もあるだろうから、それで、教会の存続に多少は貢献できるかもしれないねぇ、という話になった。その場での話はそこまでであった。

     

    そんなこんなことなどを思いながら、前回の連載である 『人口減少社会と地方部と教会の悩みシリーズ』に、Facebookのお友達のMさんがふるさと教会献金のようなことを言い始めた。若い神学生を地方に派遣してみたら、とか、若手のうちは、地方教会に貼り付けるとか、地方教会の教会員が作ったものを都会の教会で売って、地方の教会の維持経費に充当するとか、教会という建物をやめて、家庭巡回型での家の教会のようにするとか、まぁ、色々なアイディアを展開してくださった。

     

    しかし、アイディアとしてはあっても、いざ、それを実現するとなると、いろいろな障害が北アルプスの山々や、本家ヨーロッパアルプスや、ヒマラヤ山脈のように立ちはだかり、それを超えていくことが困難である事が多い。その山々を越えようとした段階で、アフリカから象や軍勢を率いて、ローマを目指した、かの猛将ハンニバルも結局は力尽きたように、多くの人々も力尽きてしまうと思う。特に、モノが関連した交流を素人がするのは、物流が分かってない行政マンが、それを非常時に自分達でやるということで徒労を経験するように、かなり厳しいことに直面せざるをえないのである。

     

    アフリカから象に乗ってローマに向かうハンニバル

    https://www.pinterest.co.uk/pin/150518812520249226/ から
    特攻野郎A-Teamのハンニバル

    https://forums.inxile-entertainment.com/viewtopic.php?t=18402 から

    映画『羊たちの沈黙』に出てくるハンニバル・レクター
    https://www.scoopwhoop.com/hannibal-lecter-quotes/
    羊たちの沈黙の予告編

     

    ところで、何のために貨幣があるのだろうか。それはそもそも決済や安全な資金移動のためである。安全、確実、迅速に資金移動を可能にするシステムは現在の日本社会ではあるのではないだろうか。

     

    ところで、新約聖書によると、エルサレムの地方が飢饉に襲われたとき、異邦人教会は何をしただろうか。信徒代表たちに金をもたせ、山賊、海賊が跳梁跋扈する地を旅して、資金を届けたのではないだろうか。だとしたら、現代においては、貨幣や全銀手順を利用して非カカウ的低廉な手段で、地方部への資金移動ができるのではないだろうか。

     

    非常時だけでなく平常時の人的交流を含めた支援も

    類似のことは、阪神大震災の被災地にある教会、東日本大震災、熊本地震、豪雨災害の被災地にある教会に、日本全国から支援物資や支援献金が送られた。これはこれで、日本のキリスト教会が同じキリストに従うものであること、同労者であることをかたちを通して表明し、そして、その痛みの軽重はあるにせよ、ともにあるものとして覚える機会になったとは思うが、割りと、一時的なもののような気もする。無論、継続的にそれらの被災地域の教会を支援されている教会があるのも知っている。たしかに災害などの非常時の支援も重要であるが、平常時でもいたんでいる教会を定期的に覚えること、祈りの中で、まだ直接会ったことのない教会の人々を覚えることも重要なのではないか、と思うのだ。

     

    この時期、Facebookを見ていると、各地の教会の牧師さんも地方のあちこちの教会で奉仕しているお姿をお見受けする。そういうのを見ていると、教会間の顔が見える交流が成立していることの証左だと思うのだ。その際に、都市部の教会からの支援資金として、ある種のふるさと献金とともに数名の信徒が都市部から参加し、地方の教会に参加し、交流するとかいう程度なら、まだ実現可能性はあるのではないか、また、地方の教会との定期的な講壇交換として、都市部の教会から地方部の教会に信徒を含め、参加するような交流なども意味があるかもしれない。

     

    まぁ、全国展開しているような教団がある場合、一種の教会間平衡化資金として、資源配分がされているということもあるやに聞いているが、そういうのがない単立教会では、何らかの方法で、他の単立教会との人的交流とふるさと教会献金として、教会の献金の中からの他の教会へのある教会からの資金的寄付というのは、教会の責任としてあってもいいのかもしれない。もし、それが機能不全となっていて、教会間資金へ行こうかが行われず、祈れ、頑張れ、とだけいい、個人の善意による資金移動だけになっているとしたら、教団本部とかがある意味ってなんだろう、と思い出す人たちがいても当然かもしれない。ただ、それは、帝国陸軍の前線への派遣部隊運用方針とほぼ同じなので、なんだかんだ言って、現地で鋭意奮闘努力せよ、と寅さんの詩にあるようにゆうだけかもしれない。ただ、通常の教会献金(月定献金とか)にプラスとしての献金だと、それはいかがなものかと思う。もし、個人でするよりは、教会の交流として、した方がいいかもしれないとは思うのだ。

     

    前回の記事で、ふるさと納税の一環として返礼品目当てのふるさと納税はいかがなものか、と申し上げたが、教会の場合も、返礼品目当ての協力券金とか言うのは、いかがなものかとは思うのである。「神に捧げたものは、本来神のものであるし、自分たちの教会だけの献金でもないのではないだろうか。そして、自分たちの教会だけが、教会だけでない」といったようないうような視点がもう少し、日本の教会にあってもいいように思うのだが。

     

     

    この連載終わり

     

     

     

     

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM