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2017.09.25 Monday

シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語 を読んでみた(1)

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     さて、前回の記事、平和なのか、平安なのか (09/23)は、KDKの集まりでの南野先生のご発言がきっかけになった記事だったのだが、それは、ちょうど、最近いのちのことば社から刊行された、南野先生がお訳しになったベルンハルト・オット著『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』がどうもある程度、ご講演に影響していて、その出発点の一つであったみたいである。お友達のOさんなら、「☓☓ページを見ずには死ねない」とか言いそうな内容がたっぷりの本であるし、本としての出来もちょっとアメリカ人向けっぽいところはあるが、いい本である。

     

    シャロームとは何か

     シャロームが、ユダヤ社会のあいさつのことばであることを知っているキリスト教徒は少なくないだろう。しかし、それと同じようにムスリムのみなさまが、サラームと言ったり、アッサラームアライクムと言ったりするのをご存知のキリスト教徒の方は、多くはないかもしれないが、一定数はおられるだろう。いずれにせよ、シャロームとアラビア語のサラームの両方とも、SLMという語根を持つ語である。ところで、このSLMという語根のもとにある意外な意味について、『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』では、その語根がもつ意味として次のように書いておられた。

     

     詩篇85篇9節には、神はシャロームを望んでいると記されている。したがって、神の計画をシャローム・プロジェクトと呼ぶことにしたい。多くの人たちは築いていないが、ヘブライ語の単語シャロームには私達が考える「平和」よりももっと広い意味が込められている。

     シャロームには支払いの意味がある。

                           (『シャローム神のプロジェクト 平和をたどる聖書の物語』 p.29)

     

     これを読んだときに、「あっ」と思ったというか、ピンと来たのである。イエスは、われらの正の中に神の不在である、「罪」の代価をご自身の身で支払うことで、神のシャローム・プロジェクトを完成させられたのである。まさに、イエスの十字架の死は、神のシャローム・プロジェクトの中心的な象徴であり、そうであるがゆえに、教会は十字架を空高く掲げるのであるし、主教たちや司祭は十字架を首から下げて、自分たちはこのプロジェクト・チームの一員であることを明らかにするのであるし、信徒の一部も本来呪いの記号である十字架を首から下げたり、イアリングにしたりするのである。自分たちは、このシャローム・プロジェクトのプロジェクト・チームの一員であることを示そうとしているのかもしれない。我々は、イエスのフォロワーさんとして、そのシャローム・プロジェクトに参画し、プロジェクトのメンバーとして呪いの対象である十字架を身にまとうことで、イエスと一つの心となっているものとして歩むことが重要なのだろうと思う。そして、その象徴として、十字架をご自身の身にまとう人もいるのではないか、と思うのである。ところが、現代社会の場合、この十字架型のネックレスやイアリングを下げていても、本当のプロジェクトに関与しているかどうか、怪しい人も少なくないらしい。

     

    教皇フランシス様もおかけのペクトラルクロス

     

    人間が負っている負債

     50年に一度、全部の借金が無効となるヨベルの年は、本当に実現したかどうか、かなり怪しいとする研究者が多いが、これは、人が本来の姿を失い、借金の結果、奴隷とならざるを得ない状況からの解放を実現する神の制度であることの説明があった後、この本の著者は次のように書く。

     

     しかし、経済的負債だけが人間が追うべき債務の全てではない。そのことを私たち皆が知っている。人間はお金だけでは和解できない傷、痛み、不正義をもたらしてしまう。このような状況では赦しが求められる。この赦しの意味は、負っている自らの負債から開放されることであり、初めに作ってしまった負債によって罰をもう受けなくてよいことを意味している。

     また、イスラエルにとってシャロームは支払いだけを意味するのではない。人間と神との関係もこの概念で述べられている。人間と神との関係においてすべての点で正しければ、シャロームが存在することになる。しかし、聖書の証言によれば、民と神との関係がいつも正しいと言えない。(中略)人間と神との間でどのようにシャロームが回復できるのだろうか?この回復についても聖書は物語として語っている。(同書 pp.21−22)

     

    ここで、大事なことは、人間には回復不能な非金銭的な、あるいは経済的な負債をもつことがあるということである。わかりやすく言えば、ああすればよかったかもしれない、こうすればよかったかもしれない、自分がああいうことをした結果が、ああいうことを言った結果、まずい人間関係の結果を招いたかもしれないといった後悔とか、自分自身が能力不足のために、あるいは、努力不足のために不完全に終わってしまった、やむを得なかったとはいえ、本来望んでない結果を招くことになり、関係者全員に被害が及んでしまったとかいう痛みが生まれたり、不正義が実現してしまった場合などがある。そうなると、人はくよくよと悩み、場合によっては抑うつ症状を示したりしてしまう。そして、自分自身を責め、精神的に追い詰めてしまうことになる。自分自身が正しいと思う人や、自分自身の努力で正しくあることができると思う場合、この自分自身を責め、自分で自分を苦しめる傾向が強くなるように思う。

     

     しかし、自分自身がそもそも論としてどんなに頑張って正しくあろうとしても、正しく生きられないと思い、自分自身のこの種の弱さ、不十分さ、自分自身の能力のなさを素直に認め、神の介在を求めていき、神との和解と人との和解を求めていくことができるならば、このような神との関係の回復は、かえって容易になる。これは、長らく過ごした福音派的なキリスト教ではあまり感じることがなかった。ある時、イスラエル在住の旧約聖書の研究者の方から、「ヘブライ社会では、大贖罪日があるからこういう問題は自分で抱えるのではなくて、システムとして処理できるからそんなに苦しまなくて済むんだけどねぇ。伝統教派でも、こういう、悔いていることを解決するシステムがあるからねぇ」と言われていた。しかし、福音派的な世界にどっぷりはまっているときには、このことは理解できていなかった。

     

    不十分さゆえに神のあわれみを待つことに関するワーシップソング

     

    主のあわれみを求めるテゼの讃美歌

     

    正教会の主のあわれみを求める讃美歌

     

    John Rutterの子供のための礼拝(ミサ)のなかの、主のあわれみを求める讃美歌

     

    実際に、アングリカン・コミュニオンの聖餐式に出るようになって、式文を読みながら、自分たち自身と自分自身の弱さ、ふがいなさ、不完全さをまず認めるところから礼拝を始めるようになると、確かに、礼拝の最初に式文を通して、自分自身の犯した罪を認め、毎週悔いることの大切さを覚えるようになった。まさにシステム化された反省が式文の全体に染み渡っていて、そして、神に自分自身の罪をゆだねることが意識できるように、式文ができている。

     

     こういう経験は、福音派にいたときには経験しなかったことである。だからといって、以前いた福音派がだめだとか、間違っている、というつもりもない。ただ、今いるところの礼拝の総体が、個人的に「現状のミーちゃんはーちゃんの持っている聖書理解に合う」ということに過ぎないのだろう、とは思う。

     

    あと、この本には、「人間と神との間でどのようにシャロームが回復できるのだろうか?この回復についても聖書は物語として語っている」というような表現が、本書には散見される。『聖書は物語る』の著者の大頭眞一さんなら、太字で引用した「この部分を読まずには死ねない」とか簡単に書くところであるが、今ちょっとご事情があって、こういう発言を気楽にはされる状況ではないので、タイミングを見て、ミーちゃんはーちゃんと、時々は、また遊んでほしいなぁ、と思っている。個人的には、かなり寂しいのである。のべつまくなし、からまれるとしんどいけど。

     

     

    個々人のシャローム・集団に現れるシャローム

     ここで著者の方が言うシャロームが、個人の決心とか決意とか、個人を起点とする近代以降のプロテスタント諸派でよく言われるような、神様と私、私と神様 Me and My God のような関係だけでないことに関して、次のように書いている。

     

    神は一人の個人的救済(ここではアブラハム)にだけ関心があるのではない。神の計画は、この一人の人物から偉大な民族を起こし、この民族を通してすべての民族に祝福を及ぼすことである。ここで、神のプロジェクトの世界的視野の一端を見ることにしよう。神は単に、回心して新生した個々人を探し求めているのではない。人々が神に帰るとき、その人々は他者へ帰り、被造物へ帰り、もともと意図された創造の使命に帰っていく。(同書 pp.43−33)

     

     ここで、重要だなぁ、と思ったのは、引用文の後半部分、「人々が神に帰るとき、その人々は他者へ帰り、被造物へ帰り、もともと意図された創造の使命に帰っていく」という表現である。放蕩息子の弟君が父のもとに帰ったように、人が神に帰るとき、そこには、父のもとには放蕩息子の弟くんがおそらく嫌いだろうと思われるような放蕩息子の兄のような他者もいて、それらを含めた他者との関係の中に帰り(帰属し)、そして、神が人間に管理を託された被造物世界(おそらく神のものである土地とそこにあるすべてのもの)に帰り(帰属し)、その一員として生きていくということなのだろう。

     

    レンブラントの放蕩息子の帰郷 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Return_of_the_Prodigal_Son_(Rembrandt) より

     

     先日、 Ministry Vol.34 を読んでみた(4) (09/13) という記事を書いたら、その記事をもとに、Facebookのお友達のエノクさんが、説教で取り上げてくださった。その中で、印象的だったのは、「神の国とか天国とかには、自分の嫌いな人がいないと考えている人が多いかもしれないけれども、実は皆さんが嫌いな人もいるんですよ。自分の都合のよい空想ばかりしていませんか」とご指摘であったことであった。

     

     実は、この嫌いな人もいる、最終的に戻った新しい創造、神の支配がこの地に訪れるときには、個人の好き嫌いとか、個人間の対立とかに関しても、和解あるいはReconciliation再一致が、人間によらず、神のみによって実現するという意味では、地上の世界での好悪などはあるのかもしれないが、それを超える圧倒緒的な和解の成立というのが、終末(神に帰るところ)において起きるという形で、神のシャロームが実現するのであろう。

     

     それはさておき、その録音で聞く限り、エノクさんによると、ミーちゃんはーちゃんは、奇特な人だそうである。「」妙奇天烈で、「」殊なという意味で「奇特」ということなのだろう。そう言ってもらえるのであれば、これは実にミーちゃんはーちゃんにとっては、何よりの誉め言葉である。だって、ミーちゃんはーちゃんは、マッドサイエンティストを目指しているのだから。エノクさんには、この場を借りてお礼を申し上げたい。

     

     

    次回へと続く。

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 1,620
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:薄いけれどもものすごくいい本

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