2017年8月の関西牧会塾に行ってきた(3)
今回は、関西牧会塾の参加記の最後、小渕さんのご講演「ナウエンに学ぶ想起」に出席して、とったメモ(前半1/3以下のメモが保存されておらず、消滅してしまっているので、あとは、記憶を頼りに書いているので、今回はご講演内容からずれているかもしれないので、その点はご容赦賜りたい。
これから、ナウエンに学ぶ想起ということでお話してみたい。思い起こす、ということは重要なことである。
信仰のスランプ状態
40代過ぎたころ、教会に行くことが退屈に思えてきたことがあった。ある種の霊的な砂漠状態に陥ったことがあった。教会に行ってもこころ燃え上がるという経験をすることもなくなり、いつものようにいつものような説教がなされ、いつものような聖書理解が語られることが多かった。合わないメガネを掛けて書物よ読んでいる状態に近い状態であり、説教についても、1年に一回か2回か、あぁ、これは、と感じることがある程度であり、一生懸命準備しておられる牧師の方には申し訳ないが、半分寝ているような感じで、聞いているのか聞いていないのか相半ばするような感じで、聞いている様な状態であった。ワンポイントでいいから、来てよかったなぁ、ということを聞きたいと思った時期があった。いつも決まったことをしていると”あき”が来てしまったような感じがあり、自分が変えられていく経験をしたいなぁ、と思ったことがあった。
(ミーちゃんはーちゃん的感想)
個人としては、20代の前半のころに、同じような経験をした。その時に、ロイド・ジョンズの『霊的スランプ』という本に出合い、覚醒したことがある。それから、大学になぜか置いてあった聖書やキリスト教関連の古今の名著と呼ばれるものをひたすら読み漁っていた時期が30代後半に入るころまで続いた。最近は、自分が聖書とかなりがっつり四つで向き合うようになったので、そういうことはさすがに少なくなったが、こういうスランプ状態には、誰しも出会うものなのかもしれない。同じようなことを、舟の右側の礼装とかの特集号で、英司祭が個人の話としてしておられたことを思い出す。
ある人から、自分の過去を宝物にしていない。と言われた。中年期を過ぎて、人生の到達点がある程度、見えてきた中での信仰生活になっていく。そう大したこともできないし、それほど大きな出来事も起きない中で、中誰状態というのか、結婚生活でも時々起きるといわれている一種の倦怠期のような状態に陥った感じがしたことがある。
サクラメントと想起
サクラメントと想起はつながっている。そもそも論として、聖餐も想起するためのものであるとイエスがおっしゃっている。
イエスは、
【口語訳聖書】ルカによる福音書
22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。とおっしゃっている。
また、それは、過ぎ越しの祭りとつながっており、イスラエルの出エジプトとつながっており、とさまざまな想起すべきこととつながっているのではないだろうか。
(ミーちゃんはーちゃんからのメモ この後の記録がファイル内から脱落しているため、記憶をもとに書くので、かなりいい加減です。スマソ)
(ミーちゃんはーちゃん的感想)
まさしく聖餐は、主を記念するためなのであるし、説教、ないしは御言葉の聖餐と呼ばれるものは、イエスを祈念するためのものであるはずなのだが、そもそも、説教がイエスの死と復活とそこにあった希望を想起させえない状態、本来、御言葉の聖餐であったものが、聖餐が想起させるはずのイエスの生と死と復活が想起されえなくて、先週どこに行ったとかだの、どこでだれと会ったのだのと言ったことが記憶に残るとしたら、それは、非常に残念だと思うし、そうだとしたら、ちゃんと按手を受けていて、聖餐の司式ができるのなら、こねくり回した説教で、なに味なのかよくわからないような御言葉の聖餐になっていたり、業務報告や先週見た映画やテレビの話で、無理に引き延ばした結果、結局、なにをおっしゃりたいのかわからなくなっているような説教を延々30分や1時間もするよりも、聖書を読んで、祈り、キリストは死に、キリストは復活し、キリストはよみがえられた、とみんなで言って、その後、聖餐をして、今日も、イエスが示されたことを記憶し、我々がイエスとつながっていることを覚えましょう。とやる方が、よほどよいのではないか、と思う。その方がよほど想起できるような気がするのは、多分、ミーちゃんはーちゃんが聖餐マニアで、週に2回しても足らないと思うほどの聖餐ヲタクだからかもしれない。いくら30年来のキリスト教徒の友人から、聖餐式そんなに重要か、と揶揄されても、キリスト者としてキリストのみ技の想起が重要だと思っているし、大事なものは大事なのだから、これだけはあるける間はやめられないのである。ただし、業務報告や昔の信徒の武勇伝を、いくらその教派の伝統芸、あるいはその牧師の十八番であろうと、その場にいる聴衆とは関係なく語る牧師さんの説教なら、参加するのは、一度で十分だと思ってしまいたくなるミーちゃんはーちゃんがいるのは確かである。
Holy Communion http://www.nac.asn.au/5pm-community-news/ から
ナウエンにとっての想起
想起することについての様々なナウエンの書籍からの文章を紹介しつつ、想起することの意味等について、小渕さんはご紹介になった。
例えば、イエスの苦しみと自分との苦しみの結びつきを考え、イエスの苦しみを想起すること、神との交わりに根差す中で問題をとらえ直すこと、固定概念に合わせて、問題解決をしないこと、想起が人々を結びつけること、苦しい経験の中にも紙がおられること、神を待ち望む中で、霊的変容が起きること、人生の谷や闇の中で、イエスが聖餐の場を持たれ、イエスの死と復活を記憶することができること、祝福を受けることの重要性、他人と共にすることの中に働かれる神ということではないだろうか、ということが紹介されたように思う。
また、イスラエルの民が毎年のように、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りなどのさまざまな祭事を通して、彼らの歴史と歴史の中に現われた神の関与があることを覚え、今もイスラエルの民に神の関与があることを覚える人々がおられることなどが指摘されたように思う。
ところが、想起を妨害するものがあり、人間の弱さにおいて、神とのかかわりなどが想起できない場合があるかもしれないこと、また、人生の中でも様々な想起するための手がかりがあり、誕生日とか、人との別れと再開、食卓、季節、友人、御言葉、バプテスマ、聖餐、共同体、祝福、奉仕などを通しても、これまでの神の関与を思い出し、そして、神と共に生きるということを想起する機会を大事にし、そして、神との関係を時々に応じて、想起することは重要なのではないか、と思われる。
そして、神を思い起こされる友情ということで、邦訳未刊の”Clowning In Rome”の中からナウエンの書いたものが小渕さんによって翻訳されたうえで、引用され、夫婦が相互の深い愛に愛に根差す関係性であり、神の聖なる臨在が垣間見られるように、友情にも神の臨在が垣間見られることがあり、それは、相互に相手の価値を見つけ出すからゆえの友情ではなく、共に神のわざをこの地にもたらすための友情であり、そして共に神を見上げるうちに、神が想起され、そして、そこに神の臨在があり、神への想起へとつながっていくのだろう。
あと、友情に関するワークショップをスモールグループで10分ほど行ったが、その中で、人生に影響を与えた友人、友人から傷つけられたこと、人間関係の特徴、自己の見直し、そこからわかること、といった側面に3人くらいのグループでこれらについて話し合い、閉会となった。
ChrisitianFriendshipで出てきた画像 アメリカでも焚火しとる人たちがおるなぁ
http://unashamedimpact.com/blog/what-does-christian-friendship-look-like から
最近、悲しい目に合っている悪友の大頭さんのことを書きながら、覚えて祈ったので、焚火の歌をアップしておこう。
大頭眞一作詞 岩渕まこと作曲 岩渕まこと演奏 焚火の歌(神の物語)
印象的であったナウエンの本からの引用
参考用に配布された様々なナウエンの著作から引用されている文章の中で、最も印象的であったのは、
聖餐はごくごく普通の、そして最も思い浮かべやすい神聖なふるまいです。それは、イエスについての真理です。あまりに人間的で、あまりに聖なるもの、あまりになれていながら、あまりに謎めいているものです。とても身近でありながら、とても意味深い。(ナウエンと読む福音書)
ここでナウエンが言っていることは、本当に大事だと思うのだなぁ。そういえば、Racheal Held EvansがSearching for Sundaysという本の中で、メソディスト派かどこかの青年キャンプに行ったとき、そこで聖餐をしたらしいのだが、その時の彼女の経験として、牧師や司祭にとっても、また、参加者にとっても、この聖餐のパンを分け与えること、また、受け取ることの意味を考えさせられた、という記述があったように記憶している。それはそうだろう、と個人的には思う。特に、7mm角のサイコロ状のパンや、教会の皆さん方がフライパンで焼いたパンが、無言で適当に回って来る聖餐では全く感じなかったことを、この2年間、聖公会の司祭から、毎回、「これはイエスキリストの体」あるいは”This is the body of Christ, broken for you”.といわれながら、パンを受け取るとき、それは本当にそうだなぁ、と思うし、毎回のようにドキドキしている自分がいることに気がついているものからすれば、聖餐とは、実に想起のための重要な手がかりである、と本当に思わずにはいられない。尚、司祭とイエスを同一視していないことだけは、申し述べておく。
以上で、この連載は終了である。本当はもっと重要なことをおっしゃっていたのに、特に、今回のは、情報量が薄くて、本当に申し訳ないと、講師の小渕さんに対しても思っているし、読者の皆様に対しても思っている。
この連載、これにて終了
評価:
D. M. ロイドジョンズ 聖書図書刊行会 --- (1983) コメント:大学に入学した年出版されたバージョン。助けられた。 |
評価:
--- Thomas Nelson --- (2015-04-14) コメント:大変興味深く拝読いたしました。 |
評価:
ヘンリ・ナウエン あめんどう --- (2008-04-30) コメント:イエスの生涯に合わせて、ナウエンの本から良いところを拾った、コンピレーション版 お勧めいたします。 |
- コメント
- >週に2回しても足らないと思うほどの聖餐ヲタクだからかもしれない。
年に二回(復活とX-mas)は義務ですと言われても多いと感じる小生は極端としても、常にラジカル(励起状態)でいるのは、セクトの文化的背景かも知れませんね。自然状態を観察すれば、安定状態になろうとするのは通常の方向性であり、励起させるにはそれなりのエネルギーは必要になります。励起を続けるにも励起させるよりは低いですが、やはりそれなりのエネルギーを必要とします。普段は平穏であるからこそ晴が際だつと考えるのは極東の辺境地区のみに通じる慣性かも知れませんが、祭り紀文は祭りの時だけで十分な小生がここにいます。年取った性ですかね??
先日昼間自転車で飛び回っていたせいか、夜分に息子の嫁から来た電話に出るのが億劫で、細君に対応を全て任せてしまいました。やはり年の性でしょう。 -
- ひかる
- 2017.09.07 Thursday 06:20
- ひかるさま
コメント、御清覧ありがとうございました。
セクトの影響なのかどうかはよくわかりませんが、象徴性への関心(仕事上、そういうことばかりしているので)ということかもしれませんねぇ。いろいろな聖餐式のパターンとそこに見る違いを見出すことが大好きなこと、聖餐を受けて過ごすことが定常状態だから、というのもあるかもしれませんねぇ。祈るのと同じような感じで、聖餐と共に生きるのが好きなのかもしれません。聖餐は当たり前、ってことなんでしょう。お祭り男ではありませんけど・・・w聖餐式は静かなものですが、神との出会い静謐のうちに覚える事ができるからこそ、好きなのかもしれません。
まぁ、日常生活がお祭り騒ぎに近いので、その意味で、底から離れて静まる機会が大事なのかもしれません。
少しお疲れのご様子かと存じますので、この機会に是非ごゆるりとした時間をお過ごしになられますように。
コメント、ありがとうおございました。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2017.09.07 Thursday 07:57
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