2017年8月の関西牧会塾に行ってきた(2)
前回に引き続き、2017年8月31日に開催された関西牧会塾での中村佐知さんのご講演の後半部分をご紹介してみたい。前回と同様、ミーちゃんはーちゃんが当日参加して聞きながら、PCに記録したメモに基づいているのでありうべき誤謬は、すべてミーちゃんはーちゃんによるものである。ミーちゃんはーちゃんの意見は、極力本文より分離して、ミーちゃんはーちゃん的感想として、フォントをやや小さめにして表記しているが、それでも交じっている部分があると思う。それはご容赦賜りたい。
観想的な霊性とは
観想的な霊性(Contemplative Spirituality)であり、辞書で観想という言葉を検索してみるとかなり怪しいような表現をふくんでいることがある。観想は、瞑想ではない。とはいえ、一種神秘主義的なものを含んでいることは確かである。
キリスト教の伝統の中での観想とは、黙想とは区別される、ある種の祈りである。観想とは、神のご臨在に意識を向け、神の方に心を向けることである。老夫婦や恋人同士が何も語らずに見つめ合うように、神と見つめ合うことであり、言葉を超えて、一緒にいることを喜ぶことである。
キリスト教の世界で、レクティオ・ディヴィナとして確立された方法があるが、そこでは、聖書のことばを黙想して、祈りにおいて応答し、最後に観想する 無言で神の前に出るということをする。このとき、心の動きは止めている状態である。
クリスチャンのリーダーは、神学的な思い巡らしをすることが必要であろう。しっかりとした神学的な思い巡らしがなければ、適切なクリスチャンリーダーシップとはいえないのではなかろうか。
(ミーちゃんはーちゃん的感想)
行うこと、成し遂げることが価値があるとされる現代社会において、何もしないこと、はた目には瞬間的に止まっている状態、なにもなしえていない状態というのは、無益な時間とか、無益な行為とみなされがちである。家人の家族に、子供の時ボーっとしていると、「なにをボーっとしているのか?」と親から怒られた人がいたそうであるが、何か生産的と見えることをしていないと怒られるのが、現代社会であるということを良く表すエピソードだと思う。
聖書内にある霊的観想と深い関係にある表現
先にも述べたように、霊的観想というと、少し怪しく見えるかもしれない。ところで、霊的観想には聖書的根拠があるか、というと明確にその語そのものがあるという形での根拠は存在しないが、霊的観想を示唆されているように思われるような表現はいくつかあるように思われる。具体的な例として、霊的観想ということと関連する聖書内の表現とすれば、沈黙や静まり、やすらぎ、神を仰ぎ見るというような表現でもあり、より具体的には、
【口語訳聖書】詩篇
62:1 わが魂はもだしてただ神をまつ。わが救は神から来る。
といった表現にもみられるのではないだろうか。
ある意味、沈黙の中で、神に目を向けていることが観想であるとは言えるだろう。
最近の現象として、S N Sでの瞬発的な炎上の問題を考えてみたい。このような状態は、人間として、適切な状態であろうか。あるインタビューで、同性愛者の結婚式を挙げるか、と聞かれて、ユージン・ピータソンは、「はい」と答えたことそのものを問われて、ユージン・ピータソンは、ゲイマリッジ容認論者だということで、賛成派、反対派に分かれ、S N Sが炎上した。そのことに関して、炎上した直後にユージン・ピータソンが撤回したら撤回したで、また炎上したということがある。これなどが典型的だが、良く思いめぐらすことなく、瞬間的に反応する時代の中に我々はいるのかもしれない。その意味で、観相的なものと、S N Sの炎上に見られるような衝動的・反応的は対極的な関係にあるように思われる。
(ミーちゃんはーちゃん的な感想)
プロテスタント派のツイッターユーザーの一部は、ネットクラスタの中では戦闘民族とよばれることもある様である。ちょっとしたことで目くじら立てて、ツイッターやフェイスブックで炎上しやすいのは、どうもプロテスタントに多いらしい。(正教会でもそのタイプの人がおられたのは事実だが)ちょっとした言葉の切れ端、コンテキストをまるで抜いた言動の切れ端をとらえて、やれ、おかしいだの、やれ、謝罪せよだの、実に喧しい人々もおられる。これに日本特有の厳密性や世界に冠たる短時間戸別居宅配送システムである宅急便システムを発達させた国だけあって、迅速でないことに対する堪え性がないと来ている。そして、ブラック企業というのか、ブラック職場化しても、迅速さということを至上命題にしている企業体も少なくないのが日本という国である。ところが、これは世界に類例がない現象だし、世界に類例を見ない正確性と高速性をともに持つシステムだと思う。日本でしか、ピーク時には、6分に一本発車する新幹線は、日本でしか運用できないのではないか、と思う。中央線に至っては、2分から1分半に一本走らせている。そういう世界に慣れ親しんだ皆さんが、フェイスブックの世界や、ツィッターというような世界にもご登場になられるので、その人国勢最高の様な概念が、もともとバケツリレー型のかったるい伝送システムで運用することになっているネットの世界にも持ち込まれ、瞬間的な反応を相手に強いる人々もいる。よもや、この世界にはいないと思うが、ツィッターのA P IやFacebookのA P I が体の一部として埋め込まれている人ではないのだから、その程度のものと思って付き合えばいいのに、と思うが、それができないのも、また現代的な現象なのかもしれない。
宗像大社でのバケツリレー
https://mainichi.jp/articles/20160126/ddg/041/040/005000c から
キリスト教指導者と世俗主義の問題
キリスト教指導者達の問題も似たようなところがあるかもしれない。特に、世俗主義との関わりの問題というのは、案外深刻な問題を生んでいるかもしれない。特に、前半で述べた、社会や親から与えられた偽りの自己との関わりの問題があるのではないだろうか。
(ミーちゃんはーちゃん的感想)
アメリカのキリスト教会の姿を見ていると、牧師と名声とか、教会や牧師についての毀誉褒貶の問題というのは、少なくないように思う。まぁ、アメリカ社会があまり落ち着きのない社会だとおもう。個人的には、高ボラティリティ社会(瞬間湯沸かし器のように、一時的に盛り上がるものの、そのことについてすぐ忘れ去られていき、大事なことが継続的に考えられない社会、推移性、あるいは状態遷移性の高い社会程度の意味)と呼んでいるが、まさに、それがキリスト教界の世界に持ち込まれていて、ツイッターやFacebookが始まる前から、このような傾向があり、有名牧師の動静がもてはやされたり、また、有名牧師を見倣うとか公言する人々もいないわけではないように思う。そして、聖書に向かって自分で考えて判断するよりも、自分にとっての関係の深いグループの独自に流行とか、言説からしかお考えになられない方々も少なくないように思う。流行言葉を消費するような中学生や高校生ならいざ知らず、個人的にはどうなんだろうか、と思うことがないわけではない。もちろん、独自の教派的伝統というのは大事にされた方がよいとは思うが、それが行き過ぎてしまって、対話ができない状態になっているとしたら、どうなのだろうか、とも思う。
https://ranjivarughis.wordpress.com/tag/transformation/ から
観想的であることと活動的であること
観想的でありつつ、活動的なことは可能であり、活動の問題とは別であり、観想とは神との関係のことでもある。神の声に従おうと思っているのなら、活動的になることはあるのではないだろうか。ところが、あることに、単に瞬間的に反応しているというような状況だったら、いかに活動的であるとしても、その瞬発的な反応をすることに、どのような意味があるのだろうか、ということを考えた方がよいのかもしれない。衝動的な生き方と観相的な生き方の間には大きな違いがあるように思う。白か黒か、という考え方でない生き方が大事かもしれない。第三の道がないか、と考えるというのが観想的な生き方から生まれるものだと思う。
ある人(多分、リチャード・モーアと聞こえたように思う)のことばに、「テンション(緊張関係)を一旦留保できることは霊的観想の結果である」という表現があるが、そのようなことが観想において重要なのであり、一旦留保することで思いを巡らす中で、神と向き合いながら考えることの重要性を示していると思われる。
(ミーちゃんはーちゃん的感想)
この辺は、一般システム理論とか、心理学のある分野とか、マインドフルネスに近い仏教のある一部とか、N V C Non Violent Communication とか、と呼ばれる概念とある程度共通部分があるなぁ、と思う。要するに、ものの見方をどうするか、現実問題に振り回されずに霊性に思いを巡らし、現実を見つめていくことと割と方法論がよく似ていると思うのだ。ミーちゃんはーちゃんは、お付き合いのある農業関連組織や地方自治体の皆さんと協力しながらお仕事を進めることも多いので、第3者的な立場でこれらの組織とかかわることがある。その時に、現状で混乱しており、堂々巡り状態にあるようなどうにもならないクライエントさんからのご依頼を受けることがある。そんなときにお話をしながら、物事を進めていくのだが、直接の当事者でない分だけ、個別事態や個別の現実に振り回されないで済むので、かなり自由に考えることができることも少なくない。多くの場合、堂々巡りしていたり、現状で混乱しておられる方の場合には、現状に対して、瞬間的反応をすることへのアクセル全開状態(いわゆる戦闘モードや脊髄反応モード)であり、考えることができない状態であることも多くて、いったん止まって、考えることができなくなっておられることも案外多いので、関係者からそれぞれお話を聞いて、問題を一時的に停めて考えるだけで、解決することが時々起きる。それとよく似ているのだろうなぁ、と思った。
この辺のことを仏教思想について、お知りになられたい向きには、魚川祐二さんの「仏教思想のゼロポイント」を読まれると手がかりになるものがあるかもしれない。一般システム理論に関しては、ワインバーグの
たいてい戦闘モードに入っているときは、敵か味方か、善か悪かという二分法的な考え方で考えがちにどうしてもなってしまう。この二元論的な考え方では、次元が縮退してしまい、本来の豊かな次元の中での出来事が、善か悪かに対抗してしまうことになるように思う。そして、たいてい自分に見方をしてくれる人や意見が似ている人を無前提に善としがちな傾向を持つのだけれども、それは実はまずいように思おう。こうなると、まともに考えたとしても、事実認識の空間というか時限がおかしいので、出てくる結果も当然おかしなものにならざるを得ないのである。問題解決の第3の過誤(間違った問題を一生懸命解こうとする、という困った現象を指す語)の典型例になるような気がする。
マリアの受胎告知のことばから
マリアは、受胎告知を受けたときに
【口語訳聖書】ルカによる福音書
1:34「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。
といっているが、その中に思いめぐらし、観想的な生き方が表現されているように思われる。
マリアの受胎告知のシーンを描いた絵画
(ミーちゃんはーちゃん補足 マリアのような奇跡的・衝撃的な出会いだけが観想を生み出すだけでなく)日常生活のさまざまな所に思いを巡らすヒントが存在している。例えば、キリスト教書のタイトルや広告などからも、着想を得て思いを巡らせることがあるかもしれない。(この辺から個人的なことからお話(お証というらしいけど…)が混じった話になっているので、プライバシーの問題もあるので、省略した。)
現実の問題にぶつかった時に、その問題に強固に抵抗するだけでは問題は解決できないかもしれない。主に同意しながら生き方を模索することの必要があるように思われる。神の臨在に休息し、神を見つめつつ、現実の社会を神に従って歩んでいくこと、神のともにおられる神に目を向け、生きつつ、生活の中で変容(Transform)することが大事かもしれない。王なる神がこの地をおさめるという期待と確信において、この地のことに関与していくことが重要なのではないだろうか。
(ミーちゃんはーちゃん的感想)
宗教改革では、贖宥状をはじめ当時のカトリック教会の在り方や課題に抵抗して、プロテストしたことで、プロテスタントになった部分があるので、その意味で非常に抵抗というのか、戦いというよりは闘争みたいなものが、精神性の中にかなりあるように思う。そして、あくまで自立した個人として、この世との戦いというようなメタファーが讃美歌などにもみられることが多い。例えば、以下のOnward Christian Soldiers という讃美歌のように。
ハリストス正教会、聖公会、カトリックと触れてみたときに、そこにある自分の不甲斐なさを認め、その不甲斐なさを受け止めて下さる王なる方にどっぷり頼って生きるようなキリスト教もないわけではないけれdも、宗教改革を経て、さらに近代社会を経て、人権思想の影響も受けている現代のキリスト教には、この種の概念がないので、かなりしんどい宗教間の世界が広がっているように思えてならない。
Onward Christian Soldiers
身近に、ムスリムの人々(イスラームにある生き方をする人々)の生き方を拝見すると、その二面性のなさというか、ふたごごろのなさ、生活と信仰の一体性というか、かっこいい言葉で言うと一貫性(コンシステンシー)がある姿に感動に近いものすら覚えることがある。頭と心と体を分離して生きる現代の西洋近代型のキリスト教を基礎としたキリスト者としては、時に、かなわないなぁ、と思うことがある。ISIS団のような余裕のなさが表れている人々はどちらかというと、特殊で、かえって、春の風のような駘蕩とした鷹揚さのある信仰というか、Tim Kellerの『放蕩する神』に表現されている様な溢れに満ち満ちた神概念を持つ人格的な神に任せて(信頼して)、ある面、生き方に無理がない生き方をしておられる方々が多いことを見ると、自分がいかに自分で何とかせねば、とあくせくしているその姿を反省させられることが多い。そして、神の奴隷であるところを誇る、ということまでの神への信頼がない自分自身は、本当に神に信頼して生きている、と言えるのか、と思ってしまった。
ところで、アブダラ、とかアブダッラ、アブドゥアラーという、アラビア系に多い名前があるが、それは、神の奴隷という意味であって、建前にせよ、そういう名前を我が子につけるというような生き方をしている人たちをみると、赤面したくなる。
モスクでの礼拝の様子
https://muslimvillage.com/2011/09/10/14530/uk-muslims-pray-for-911-terror-victims/ より
そして、レクティオ・ディビナ(本当は聖書を数節程度じっくりじっくり、繰り返し読み、まさに味読というような語のような感じで味わいながら、その聖書の言葉で気になる言葉が浮かび上がるようになるという経験の中で、神との関係を深めていく霊的修練の一種)もどきのことをする時間を7-8分とって、午前中のご講演が終わった。
次回は小渕さんのご講演の部分をご紹介する予定。
評価:
来住 英俊 女子パウロ会 ¥ 810 (2007-06) コメント:薄いけれども、基本が書いてある。 |
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評価:
G.M.ワインバーグ,大野 徇郎,ジェラルド・M・ワインバーグ 共立出版 ¥ 3,456 コメント:一般システム理論の視点からの物事の見方に関する本 |
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