Ministry Vol.34 を読んでみた(2)
今回も前回に引き続きMinistry の34巻の中から、今回の特集「牧師と司祭の育て方」の中の、編集委員座談会の「神学教育をどうする? 牧会者の養成と継続教育の課題」と題する部分から紹介してみたい。
孤独な牧師先生方
朝岡さんという方が、面白いことを言っておられる。
(牧師の孤立を防ぐために地域の交流の場が必要だとした上で)愚痴だけでなく、どう教会を立てていくかという問いにも答えるような読書会や勉強会が必要です。私もそういう場がなければ続かなかったと思います。(ミニストリー Vol34 p.12)
この記述の前後の記述を拝読しながら、結局お友達のいないのが牧師の先生方なのだなぁ、と思った。愚痴を言い合う場もなければ、聞いてくれる人もいない。そして、「自分のところの教会の信徒があまりにも…である」とか言おうものなら、牧師失格だと批判されたり、無能牧師とレッテルを貼られたりするのだろうなぁ、そして、虚勢を張っていなければならないんだろうなぁ、ということを思った。これは実に辛いことだし、虚勢を張るということは、完全な嘘つきとまでは行かないが、多少なりとも事実を曲げてしまうということでもあるので、個人的には虚勢を張るということは、本当に「キリスト教としてどうなのか」ということを思った。
内弁慶な日本の宗教者
そして、さらに少し記述があったあと
牧師は内弁慶というか、他流試合に慣れていません。(同 p.12)
ちょうど先日、キリスト教記者クラブというところの集まりで、「宿坊に泊まる」ということで起業された、株式会社寺社旅代表取締役社長の堀内 克彦さんという方が、『寺社旅研究家がなぜ教会に「行ってみた」のか』というテーマで、お話をお聞きする機会があった。そのとき、冒頭に、お坊さんも同じである、というお話を伺ったので、あぁ、これはきっとかなり日本の文化的背景というか、宗教界全体に共通することなんだろうなぁ、と思った。
その堀内さんは、仏教寺院が今の若者にとって縁遠い存在になっていることに注目した上で、自分にとって縁遠い存在としての教会にコンサートイベントがある日に言ってみて、教会と仏教寺院が何が違うのか、ということをお感じになられて、仏教寺院側の社会との関わり方を反省されたようである。そして、お坊さんには教会に行って見るようおすすめになっておられる。そして気づきをもって帰ってもらうことをおすすめしているようである。実際に行く御坊様は少ないらしいが。要するに『人の振り見て我が振り直せ』である。しかし、何人の牧師さんが、10回以上、他の教派に言って礼拝に参加したことがあるだろうか。ご近所のお寺を見に行ったことがあるだろうか。あるいは、ムスリムのアザーンを聞き、ムスリムたちが礼拝する姿をご覧になった事があるだろうか。ほとんど皆無ではないか、と思う。
ところで、この寺社旅行研究科の堀内さんが、もう一つこの時に面白いことを言って居られて、それは何か、というと、何でもかんでも自分自身でしようとせずに、能力のある社会の人(いわゆるプロフェッショナル)とつながり、学ぶ姿勢を持つことが必要だ、ということをご主張して居られた。これは、本当にキリスト教会でも当てはまる。
お金がないからと、何でもかんでも牧師やスキルレベルが低い信徒がしてしまって、結局、なんとなくみすぼらしい(しょぼい)状態になっていることは少なくない。特にウェブサイトなんかはその典型かもしれない。今はウェブサイトを見てくる人が多い以上、キリスト教会向けのウェブサイト構築事業もしておられるブレッドフィッシュ代表の丸山さんのご主張ではないが、プロの写真家、プロのサイト構築業者に頼むとかして、見栄えのよいものにするとか、というのは見た目重視の人びと(日本人には案外多い)から着目してもらうためには、重要なのではないか、と思う。外部の視点から助言をもらうためにも、外部の人の力を借りるという、こういうのは必要だと思うなぁ。
教会の敗北…う~ん、そうかもしれない
この雑誌の編集長の平野さんが、次のような印象的なことをおっしゃっておられる。
ただ集まっても抽象的な神学論議や空を打つような言葉とか、本当に教会の力になるような神学が十分に成熟していないのではないでしょうか。各個教会が分裂したり、牧師が信徒とぶつかったりという状況は、教会の敗北だと思います。教会とは何かということを、神学と現実に分けてしまっている結果ですよね。(同 p.12)
時々、超教派の牧師さんの勉強会に出ていたりする身としては、どうもこの実践面でのご苦労を垣間見せていただいていて、参加している勉強会が多分、むちゃくちゃいいのだろうけど、こういう実践面についてのお話し合いが行われているところに参加させてもらっている。実は、この実践面での話し合いというのが、非常に面白いのだ。ミーちゃんはーちゃんは、神学校で学んだことが全く無いので、神学議論や空を打つ言葉の応報には、「なんですろ〜、それ、何それ美味しいの」と思ってしまうのだが、実践で場数をやたらと踏んでいる民兵的存在なのともともと工学部みたいなところで育ったので、抽象的な議論のおかしさは非常によくわかるし、実践面の大切さはいやというほどわかる。実際の現場を担当する牧師たちに教えられている実践神学とか、牧会学って、どの程度のものだろうか、と気になって仕方がない。まぁ、学としては、抽象的な空を打つ言葉の研究のほうが、現場のどろどろしたものよりも、評価が高い、ということなのだろう。神学校を卒業するときに卒業論文みたいなことをやらせる学校が多いように聞いているが、その中でも、どうも、神学論議みたいな論文を皆さんお書きのご様子である。それでいいのかなぁ、と思う。個人的に世俗の仕事で企業や組織の現場に入るときにはエスノグラフィーの手法を利用することもあるので、もうチョッとこの辺のところにも目を向けられたらいいのになぁ、とは思う。なお、そのようなことをされたい向きには、そのコアの部分が述べられているリングマの「風をとらえ、沖へ出よ」という本が参考になるかもしれない。
そして、教会が敗北を、もし素直に認められないとすると、それは「敗北」を転身と言い募り、せいぜい少破程度のものを轟沈だと言い募った大日本帝国陸海軍の精神性に限りなく近いといえるのではないだろうか。
コミュニティの場としての教会
平野さんの発言で印象的であったのは、次のようなものである。
教会というのは個人のニーズに答える場所だと思われがちですが、そうしているうちにみんな疲れてしまう。牧師とは個人の仕事ではなく、コミュニティに仕え、コミュニティの中で生活する存在です。(同 p.12)
どうも宗教改革によって生まれたと言うか、加速された側面が強い近代社会の変遷の中で、教会はコミュニティと絶縁してしまったようである。もちろん、コンスタンティヌス型キリスト教(国歌と教会が一体化してしまった国教型キリスト教会が典型的)には、不都合や不具合があるとは言わないが、個人個人の多様な要望に答えようとする教会は、モーセの舅が言うように、土台無理なのだと思う。
【口語訳聖書 出エジプト記】
18:13 あくる日モーセは座して民をさばいたが、民は朝から晩まで、モーセのまわりに立っていた。
18:14 モーセのしゅうとは、彼がすべて民にしていることを見て、言った、「あなたが民にしているこのことはなんですか。あなたひとりが座し、民はみな朝から晩まで、あなたのまわりに立っているのはなぜですか」。
18:15 モーセはしゅうとに言った、「民が神に伺おうとして、わたしの所に来るからです。
18:16 彼らは事があれば、わたしの所にきます。わたしは相互の間をさばいて、神の定めと判決を知らせるのです」。
18:17 モーセのしゅうとは彼に言った、「あなたのしていることは良くない。
18:18 あなたも、あなたと一緒にいるこの民も、必ず疲れ果てるであろう。このことはあなたに重過ぎるから、ひとりですることができない。
このモーセの舅が指摘したことを、今、教会員が牧師に求めているのであって、誰かモーセの舅のように牧師をお諌め申し上げないとまずいのではないか。まさに、「このことは、牧師には重すぎるから、独りですることができない」ということ聖書の言葉にあるようにぼちぼち認めたらいいんじゃないか、と思う。
モーセと出エジプトの民
https://stanfordfreedomproject.com/multi-media-essays-on-freedom/the-biblical-exodus-in-the-rhetoric-of-martin-luther-king/ から
軍隊の戦闘行為や社会改革などでもそうであるが、個別部隊という小規模戦力の逐次投入は「愚の愚策」とされているのであるが、相も変わらずそれをやっているのが日本の教会なのかもしれない。
DoA状態の神学
そして、平野さんは次のようにもご発言である。
これまでの神学が機能しなくなっているのかもしれません。だから本当に現実の教会の中からどう神学していくか。今目の前にいる人、時代とどう取り組むかが求められているのではないか、と。(同 p.13)
しかし、これまでの神学が機能しなくなっている、って、それ、まさに、心肺停止状態ではないか。アメリカの医療や消防警察関係者の用語に、DoAというのがあるが、救急車で運ばれたときには、実質的に死亡している状態を指す。まさに、日本の神学はDoA状態に近いんじゃないか、って。後は医師の死亡宣言を待つだけの日本のキリスト教神学というのがどうも実情に近いんじゃないか、ということをやんわりおっしゃっているようである。
これを読みながら思ったのは、日本の神学世界の中での超有名人で、それを研究される方が少なくない(有り体に言って多いらしい)方に、バルト先輩がいるらしいが、かのバルト先輩だって、教会教義学は牧会の現場で生み出された、というように聞いている。この辺、神学部に行ってないので、ちゃんとわかってない証拠ではあるが。だとしたら、バルトが紙に書いたもの、印刷されたバルトの著作を研究することもも、ちろん大事だが、一旦教会の現場に戻って、バルトがなぜこう考えたのかを辿ってみることも大事なのではないか、と思うのだが、違うだろうか。
計算機屋の世界では時々やることがあるのだが、他人が書いた計算機のプログラミングコードを見て、なぜ、このようなコードになっているのか、ということをするのである。これは、プログラミングのスキルを上達させる上で、個人的には、結構役に立っている。それと同じことをバルトの印刷した本のみでやって、バルトが書いたものだけでやろうとするから、宙に浮いたことになるのではないか、と思うのだ。もちろん、バルトが活動した西ヨーロッパの教会と日本の教会は組成も編成も、文化も違うからその点は留意した上で、ということではあるが。
どんな教会になったらいいか、を言えない教会員達
越川さんという方が、非常に印象的なエピソードをご紹介されている。
私の体験でいうと、都内の教会に赴任したとき、「どういう教会にしたいですか」と聞いたら、教会員が絶句してしまった。(同 p.13)
ここで、絶句したというのが印象的である。どんな教会にしたいか、ということがないということは、教会員にとって、教会は自分の問題でない、ということなのである。現在参加している元町のチャペルで使う式文には、子供が礼拝中に描いた落書きが表紙になった式文がある(幾つかのパターンかの式文があって、それぞれの式文を、司祭が編集し、コピー印刷して、表紙を付けている。そのアーティレスな絵が表紙になったその表紙絵は、『ぼくの理想の教会』と言うタイトルである。
こどもですら、理想の教会像があるのに、日本では、大の大人の信徒さんたちが、自分たちの理想の教会像が描けてないという。これは、相当深刻な状態ではないだろうか、と思うのである。
特に教会がコミュニティのものであるとするなら、コミュニティの成員である教会員が、「あなた任せ」「行政任せ」よろしく、問題解決を牧師に外注して「牧師任せ」をやってきた、ということだろう。その意味で、まずもって教会の体というか、共同体の体をなしてこないまま、ポストモダン社会に突入してきたのが日本の教会ということなのかもしれませんね。
気の毒な若者たち…
最後に、平野さんが書いていることを紹介して終わりたい。
僕は「伝道」「伝道」って叫ばないほうがいいんじゃないかなと。もちろん伝道は大切で、するんだけど。今、声高になっているのは、このままでは教会が閉鎖していくから伝道が必要だ、という思いでしょ。そんな考えで捕まえられてしまう若者は気の毒です。(同 p.13)
教会を維持するための「伝道」ってどやさ、ってこの記述を見ながら思ってしまう。「バブルの化石」のような維持費のかかる教会堂という鼻で息するものが作り出した建物にしか過ぎないものを偶像にし、それを若者集めて無理やり維持しようとする、それは発想がおかしいし、もし、そうだとすると、もはや破壊的カルトにちかいとおもうのだ。若者をなんとか必死でかき集め、その若者たちを働かせて、「後進を育てる」とか「後進に道を譲る」とか美辞麗句を並べても、「やれ、ああせい」とやり方まで指定するようでは、イエスが、律法学者とパリサイ人に対して批判した、その言葉のままではないか、と思うのだ。
【口語訳聖書】 マタイによる福音書
23:2 「律法学者とパリサイ人とは、モーセの座にすわっている。
23:3 だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。
23:4 また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが、それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない。
こうなると、ミーちゃんはーちゃんのご友人のMさんがいつも、Facebook上でご指摘のように、維持費のかかる教会堂という建物をとっとと捨てて、コミュニティとしての教会を作り出すほうがいいんだろうなぁ、と思ってしまった。そう思うあたりが教会ゲリラ的な精神が染み付いているからかも知れない、のではあるけれども。
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- コメント
- 一言感想を書かせていただきます。越川先生のコメントの引用部分、「どういう教会にしたいですかと聞いたら、教会員が絶句してしまった」というところと、それについてのご意見についてです。私は、教会員の信仰生活の「本丸」は、教会ではない、と思っています。月曜日から土曜日まで、神様から派遣されて、世の中で生きるわけです。「教会で、日常でどう生きるかについて、何かを得る、考える手がかりを得る、何かの力を得る。そして日曜日以外の日々を懸命に生きる」というのが、普通の信徒ではないかと愚考します。私は、「神様」のことではなく、「教会」のことばかり考える生き方は、どこかまっとうではない感じがしています。そのあたりのスタンスが、おそらくは「普通の信徒」と「牧師」とは相当に違っているのではないか、と思ったりします。「どういう教会にしたいか」をほとんどの信徒がはっきりビジョンを持って、堂々と語る、というような教会は、どこか気持ち悪いような気がします。私の感覚が変なのでしょうか...
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- いち平信徒
- 2017.08.31 Thursday 22:02
- いち平信徒様
御清覧、コメント、ありがとうございました。ここのところイベントの主催担当と後片付けをした直後、黙想会に参加しておりましたので、お返事がすっかり遅くなり申し訳ございません。
>私は、教会員の信仰生活の「本丸」は、教会ではない、と思っています。
それはそうですね。私とて、教会が信仰生活の目的だと思ったことはございませんよ。ただ、家が雨風を凌ぐためだけのものではなく、その中で時間を過ごす以上、多少は居心地の良い者にしたいという素朴な思いというのはどこかにあるのではないでしょうか。
思いますに、これまで、いろいろなことを信徒の皆さんが色々試行錯誤されご提案ても、これまで諸事情で諦め扠せられてきたりしたのではないか、という懸念を持っております。その結果、教会は自分たちのもの、という当事者意識が薄れ、牧師様が決めるもの、という諦めに似た蓄積ができているという側面が多くのキリスト教会の内部に知らず知らずにできているとすれば、実に残念であると思ったゆえの記述です。
信徒は日常生活で生きる中でこの地に神の平和をもたらすために神の民として歩むことが本分というのは、全くそのご指摘のとおりなのですが、教会もまた、地域の中にあって、神の民の存在を示すものでもありますし、雨風がしのげればよい、というカマボコ兵舎のような使い捨ての施設でも良い、という考え方もあれば(そういうところで長く過ごしましたので、その考えが染み付いてはおりますが、それだけでもないのではないかなぁ、と思うようになっております。その意味で、神との丁寧な関係づくりをする環境も大事なのかもしれないなぁ、と最近思っております。そのことが少し強く出ているかもしれません。
>「どういう教会にしたいか」をほとんどの信徒がはっきりビジョンを持って、堂々と語る、というような教会は、どこか気持ち悪いような気がします。
堂々でなくてもいいんで、そういう話がある程度フランクにできる教会(そもそもそんなものはありませんが)といいなぁ、そして、それが多様内見が表明されるような教会であればいいなぁ、と思います。
いち平信徒様のイメージの堂々と語る と言ったときに、それが金太郎飴のように、異口同音に同じことを語る、という教会は、全くよろしいとは個人的には思っておりません。一人ひとり神との関係が異なる以上、いろんな夢があまり制約なく語られる教会というようなものができないものか、と思い巡らしております。
いずれに致しましても、コメント、御清覧、ありがとうございます。
-
- ミーちゃんはちゃん AKA かわむかい
- 2017.09.02 Saturday 19:49
- 管理者の承認待ちコメントです。
-
- -
- 2017.09.04 Monday 23:53
- はじめまして。いつもたいへん興味深く拝読させていただいております。
さて「Ministry Vol.34 を読んでみた」を読ませていただきさっそく同誌を購入しました。わたしはリベラル、日本基督教団の教会員ですが。もう何年も前から言われている聖霊派福音派の極端な伝道や集会に違和感を感じております。日本の社会全体が閉塞感があふれ、高齢化しているなかで、極端かもしれませんが、牧会者の養成と継続教育がパターン化したり、牧師や教役者の言っていることをうのみにして考えることをしなくなったり、彼らの言っていることが正しいのだという単純な方向に行かないかと危惧を覚えます。
ミーちゃんはーちゃんから
(メールアドレスさらさないための配慮として、代理で投稿いたしました。) -
- スマイル(代理 ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい)
- 2017.09.05 Tuesday 19:27
- スマイル様、いつもご清覧ありがとうございます。また、この度はコメントありがとうございます。
>聖霊派福音派の極端な伝道や集会に違和感を感じております
わたしは、もともと、>聖霊派福音派<の中の人であって、それをじっくりとやんわりと変えようとしたら、どこかで臨界点が来たらしく、ご出席をご自粛をといわれたので、1年程放浪していました。
ご指摘のように考えずに、牧師のいうことに問答無用で従うことが、信仰だ、とか、個人的にはありえないなぁ、と思っております。単純化された方向に全員一致で向かうこと、向かわせることに、個人的には、恐怖すらを覚えてしまいます。
いずれにしましても、ご清覧、コメント、ありがとうございました。
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2017.09.05 Tuesday 19:38
- 教会にこもるコミュ障気味の牧師、平信徒は牧師に意見するべきではないというタテマエの裏で牧師夫妻への不満が渦を巻いている教会員。表面上仲は良いけれど、風通しは悪く、教勢は衰えつつあるのに誰も責任を持って活動しようとせず、毎年去年と同じことを繰り返しているだけなので、当然新しい風が吹くこともない、そんな教会に3年前に私はやって来ました。
10年以上務めておられる牧師が、教会をどんな場にしたいのか私にはその意志も志向も見えず、それが不思議でした。
「先生はどんな牧師になりたくて牧師になったのですか?どんな教会にしたいっていう希望はありますか?」と無邪気に尋ねた私に、先生の答えはモゴモゴとはっきりしないものでした。
なんか、自分はそういうんじゃなくて神様の導きのままに、みたいな返事だったと思います。
あれ?ビジョンなしで教会は運営されていってるの?
と思い、教会総会で今度は教会員達にそういう問いかけをしてみたら、あー、受洗して間もない人はわかってないのね、教会はそういうんじゃないから。一般社会の組織運営とは次元が違うから。
みたいな反応でした。
そこから、私の本当の教会生活がスタートしたように感じています。
去年と同じことをしていても何も変わらない、だからなにか1つでも新しい取り組みをする、と決めて、ある企画を提案し、牧師夫妻に協力を求め役員会に承認をもらい、始めました。
それが小さな成果を生み、今まで教会に来ていなかった方々がその時間は都合をつけて来て下さるようになり、教会員達の中にもそのことを喜び評価して下さる方々が現れました。
そうした過程の中で、教会が自分達の都合の良い伝道をするためではなく、公益法人として地域に資する活動をすることを念頭に置いて教会を開くこと、
与えられている牧師の個性を生かしてその良さを認識してもらうこと、こちらから言いたいことを訴えるのではなく、聴いてもらいたいことを自由に話せる場を提供する、という教会のあり方が自分の中ではっきりしてきました。
皆教会にビジョンを持ってないなら、この隙に私はトライする価値があると考えることをやろうと思っています。共に働く人はいつか出てくると期待もして。
外に出たがらない牧師の良いところは、いつも教会にいること。いつでも「会いに行けるアイドル」ならぬ牧師。会いに行けば話しを聴いてくれる牧師というのも稀少ではないかと思います。
牧師も教会員もお互い欠けのある人間に過ぎないので、今共にここにいることの意味を見出し、与えられた人とモノと場所という資源を活用して、教会外の人々の役に立てるようにと願っています。そこから先はきっと道は示されると信じて。 -
- リリィ
- 2017.09.20 Wednesday 14:02
- リリィ様
コメント御清覧ありがとうございました。
>10年以上務めておられる牧師が、教会をどんな場にしたいのか私にはその意志も志向も見えず、それが不思議でした。
うーん、あっちこっちで、牧師さんがカラーを出さなせないお話もお伺いしますし、カラーを出さない牧師さんがおられるお話をお聞きします。この辺、キリスト教がどのようなものかを共有できない教会は案外多いのかもしれません。
そうなるとご指摘どおり、
>去年と同じことをしていても何も変わらない
と10年一日のごとき、慣れ親しんだ毛布の中に丸まっている教会のような教会ができるのかもしれません。それはそれで、教会のあり方かとは存じますが。
リリィ様は素晴らしい。
>あー、受洗して間もない人はわかってないのね、教会はそういうんじゃないから。一般社会の組織運営とは次元が違うから。
>みたいな反応でした。
多くの方はこういう割れた段階で挫折してしまわれますので。それを小さな働きから始められて、実を結バレたのですから。リリィ様の教会も素晴らしいですよね。
>まで教会に来ていなかった方々がその時間は都合をつけて来て下さるようになり、教会員達の中にもそのことを喜び評価して下さる方々が現れました。
というところまで行けたのですから。本当に希望が有ります。
>教会が自分達の都合の良い伝道をするためではなく、公益法人として地域に資する活動をすることを念頭に置いて教会を開くこと、
与えられている牧師の個性を生かしてその良さを認識してもらうこと、こちらから言いたいことを訴えるのではなく、聴いてもらいたいことを自由に話せる場を提供する、という教会のあり方が自分の中ではっきりしてきました。
教会とか宗教法人が固定資産税等無税であるのは、本当は、世のため人のため、であるから、公益法人扱いではあるのですが、そこらあたりをもう少しキリスト教界の多くの関係者の皆様にはご理解いただきたいような。
>今共にここにいることの意味を見出し、与えられた人とモノと場所という資源を活用して、教会外の人々の役に立てるようにと願っています。そこから先はきっと道は示されると信じて。
多分、その道は、きっともうすぐ違う形の実を結ぶと思いますよ。そして、きっと遠方からですが、神の平和と祝福を祈念いたしております。 -
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2017.09.24 Sunday 13:45
- >>「どういう教会にしたいか」
こう聞いたら人間の願望が出てきますからね。むしろ「どういう教会にしたくないか?」と聞いてみるといいのではないかとか。それこそ「そうなりたくない教会」こそが実は「聖書が述べている理想」なのだと「思い知らされる」というのも「仕方ないことだ」と思っています。そりゃあ「娼婦が一人もこない(来づらい)」「ホームレスを嫌がる」ような「『白く塗った墓』のような見た目だけ清らかな(心の中は汚い)教会」を作り上げてるわけなんで、教会なんて理想から遠いただの「自己満足のための娯楽施設」に成り下がってるんだと思いますね。ところがすでにアミューズメント施設としては「時代遅れ」です。時代遅れなりの「結果」を甘受する覚悟をするしかありますまい、と考えています。むかしの温泉旅館がコンクリ施設に改修して時代が古くなっただけみたいなものですよ。滅んでいくのも神の予定に含まれており、これまたよろしいのではないか、とも思います。 -
- Mizota Michael Satoshi‎
- 2017.10.15 Sunday 13:22
- 御清覧、コメントこちらでもありがとうございました。
学会前の中国人学生指導で手を取られており、すっかりお返事が遅くなりました。
>「どういう教会にしたくないか?」と聞いてみるといいのではないかとか。
いやぁ、ネガティブオプション、外枠から絞っていくタイプですね。
>「ホームレスを嫌がる」ような「『白く塗った墓』のような見た目だけ清らかな(心の中は汚い)教会」を作り上げてるわけなんで、教会なんて理想から遠いただの「自己満足のための娯楽施設」に成り下がってるんだと思いますね。
ホームレスの人はいづらいですよね。サワサワとホームレスとか、馴染めそうにはない方のまわりの空間が広がっていくとか・・・ありそうなだけに・・・賛美歌を歌うコーラスグループのための施設ではないか、に近いことはあるかもしれません。
>時代遅れなりの「結果」を甘受する覚悟をするしかありますまい、と考えています。
ま、維持すべきものと、替えていっていけないものの弁別をしないとマズいのかもしれませんねぇ。
御清覧、コメント、ありがとうございました。
-
- ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
- 2017.10.21 Saturday 11:03
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