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2017.07.29 Saturday

『万人祭司』になったけれども・・・

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    今年は、宗教改革500年

    今年は、宗教改革500年ということで、色々な催しがあったり、いろいろな本が出ている。そういう流れのイベントなどに参加しながら、思ったことの一つを今日は述べてみたい。

     

    宗教改革の一つの大きな役割は、従来、司祭職に限られていた礼拝への主体的参加、教会運営への参加の道を一般信徒に開いたことである。教会での祈りや賛美ですら、司祭たちのみが実際に声をだして参加が許されるものであったものが、宗教改革によって、一般信徒が参加することも可能になったし、ラテン語で、教育を受けたものしか読めなかった聖書、理解できなかった聖書が、宗教改革で、聖書が通常の庶民の言語に翻訳されることで、普通の人が聞いて、理解できることばで読まれ、理解できるものになったし、更に、普通の人が読めるものにもなった。それは、たしかに重要な意味があることだ、と思う。そして、それは、本当に画期的なことであったのだと思う。いまでは、それが標準になってしまい、そのありがたみのようなものがほとんど理解されないほどになってしまった。それはそれで、良かったのだろうか、とは思う。

     

    それとともに、『万人祭司』ということで、ひとりひとりの信徒が神を礼拝する存在になるとともに、結果として、「Me and My God」の側面が強くなり、つまり、十字架における神が上にいて、人が下にいて、それがイエスによってつながれているという縦棒の方向性と縦方向の性質が強くなってしまい、人々の間の中に神の霊がとどまるという、十字架の横棒の性質、つまり信徒におけるコミュニティの側面がいつの間にか弱くなってしまったような気がする。

     

    集落に存在した唯一のインテリと思われていた司祭
    司祭は、昔の村落社会における、唯一のインテリであることが多く、その集落の中での医師であったり、困った時の相談役であったり、法律相談を受けたり、家族の問題の仲裁役だったり、結婚相談所のような役割を果たしたり、また、日々の礼拝での司式は勿論のこと、葬儀や結婚式、新生児が生まれたと行っては祝福するのが、司祭の役割でもあったのであろうとは思う。これらの実に多様な役割が司祭に求められていたのだと思う。そして、これらについての基礎的な教育が司祭教育の一環として行われるはずであったのだが、まぁ、そういうことも向かない人が司祭候補として紛れ込んでいて、まともにラテン語も読めないような司祭も、どうも司祭の中には、いたらしい。そして、司祭職は、今のホームレスや乞食よりちょっとだけマシな職業であると言われた時期もあったらしい。

     

    臨終の場でサクラメントを行う司祭
    中世の結婚式での司祭
    いずれも http://www.gutenberg.org/files/42180/42180-h/42180-h.htm より
    そういう時期に宗教改革が起こり、さらに、カトリックの内部での改革を目指し、イエズス会などが生まれ、カトリック教会内部での改革も、宗教改革とほぼ同時に起きたと言われている。勿論、ドイツなどでの宗教改革の影響もあったという説もあるし、それとはあまり関係がない、という説もあるようだが、実際のところは、ミーちゃんはーちゃんには、よくわからない。ある面、宗教改革を始めた当時、ルター先輩はおそらく、カトリックから飛び出すつもりはなかったのかもしれないし、行きがかり上、カトリックと袂を分かつことになったような気もする。いずれにせよ、改革が必要なほど、当時の教会はよろしくない状態にあったのだと思う。ある面、カトリック教会という制度が、いろいろな面で、制度疲労を起こし、大規模修繕工事が必要な時期に来ていたのだろうと思う。

     

    万人祭司となる中で
    藤本満先生の『歴史』という宗教改革の全体像をめぐる本が出た。いま、その本を読んでいる。これについてはいずれ別記事を書きたいと思っているが、非常に良い本である。これまで、キリスト教書で、キリスト教の歴史を扱う際には、キリスト教の内部の論理にばかり着目し、教会内部の状況や、神学的な理解の系譜の発展史を書き記すタイプの本が多い中で、このような本が出たのは、実に喜ばしい限りであるし、それが、翻訳書ではなく、日本人によって、日本語で書かれたところが素晴らしい。画期的な神学や画期的な教会変化が起きた時代の社会状況にまで、かなり細かい記述がある。おすすめである。

     

    その中で、再洗礼派がドイツで生まれてきた中で、当時の格差社会の中で呻吟していた当時の農民層が、ルター派でも、カルヴァンはでもなく、身分性や、身分の格差事態に否定的な視点を向け、権威性に批判的な態度をとる再洗礼派を支持したというのが、非常に印象的であった。ある面、現状の権威大成では困る人々が、万人祭司のもと、より平等に取り扱われることを求めて、それを、教会内部でも、それこそ、権威打倒に向かって、動いていくような革命的行動に出たのである。

     

    ある面、今から見ると、そのような革命的行動に出たことの意味は理解できにくいと思う。なぜなら、今は、このような平等思想があまねく普遍化しており、人権思想が当然のこととして受け止められるほど、あるいは、現在の人権思想以外のものが受容しにくいほど、普遍的な社会の価値観、いや、世界の価値観にさえなっているからである。そして、多元的な世界を容認すべしとしたポストモダンの社会に突入していっているからではある。

     

    しかし、ポストモダンの行き過ぎがあると、中心性や中核性や基準が失われ、一種のアノミー状態を示すことがあるように、現在の教会も、このようなことが起きている部分があるかもしれない。キリスト教とキリスト教でないものを区別することが難しくなっているようにも思うのだ。

     

    万人祭司と守秘義務
    そんなことを思っていると、FBのお友達のある方が、「上に立つ人は相談された秘密を漏らしてはならない」ということに関係する投稿をしておられたが、じゃぁ、「万人祭司」となったときはどうなんだろうか、と考えてみた。上に立つ人は、この場合、神しかなくなる。そうなると、相談されたことに対する守秘義務はないのか、ということにもなりかねない。しかし、実際には、上に立ってはいないからとはいえ、守秘義務は個人的にはあるように思う。これが漏れるということは、その漏らした相談を受けた側の信頼が失墜するばかりではなく、社会自身を疑心暗鬼なアノミー状態に陥れることがあるからである。

     

    実際にこんな案件が二昔前ほどにあった。あることで、同じ教会(当時は集会と呼ばれるところにいた)にいた人から相談を受けた。その人は他の人である宣教師Aさんにも、同じ内容を相談して意見を求めた。すると、他の人の宣教師Aさんは、宣教師仲間である、宣教師Bさんに自分が相談を受けたことについて、話したらしい。そして、その宣教師Bさんから、「こんなことがあったらしいね」と相談された方に話があったらしい。そこで、、その宣教師Bさんともミーちゃんはーちゃんはつながりがあったので、相談をされた方は、ミーちゃんはーちゃんが相談内容を漏らしたと思いこんで、ものすごい抗議を受けた。個人的には一言も漏らしていなかったのだが。まぁ、ご不満を十分承ったあと、「漏らしてはいないので、宣教師Bさんに、誰からお聞き及びになられたか、聞いてご覧なされるのがよろしいのでは」と申し上げたところ、実際に宣教師Bさんにお聞きになり、上記のような事情が判明したので、その相談を受けた方の疑心暗鬼は解消したので、良かったのであるが、このようなことが、教会では、教会という社会が小さいがゆえに起きるのである。

     

    これなどが典型的な事例であるが、万人祭司とか主張されるときにこのような事が起きてしまうのである。本人にしたら、深刻な問題を相談し、祈ってもらおうと思って相談したのに、それが新興プロテスタント教会内では、教会内の噂話、ゴシップネタになってしまうという不幸なできごとは、結構起きるようだ。牧師とかそういった立場の人が漏らすのは、論外にしても、まぁ、論外とは言え、そういうことがあると、人は馬鹿ではないので、そう行った問題行動を起こす牧師といった立場のその人がを信頼されなくなるだけであり、人が離れていくだけなので、キリスト教界全体にとっては、そういう心得が足らない人のことが一般化されて、さらに話に尾ひれがつくことが多いので、実に、迷惑な存在ではあるけれども、それだけの話しである。一応、こういうことがないように、というで牧師先生型の教育がなされていることを、確信したいところではある。本当のところは、どうなっているかはよくわからない。行ったことがないので。

     

    しかし、新興プロテスタント系の教会では、万人祭司を強調するところがあり、祈るのに熱心なのはいいのだが、あるところで、ここだけでお願いします、と言った話が、その教会中どころか、よその教会の人まで周知の事実になっていることがあり、ひょんなところでよその教会の人にあったときに、「あなたのあの問題は、その後どうですか」などと聞かれて、さかなくんではないが、「ぎょぎょぎょのぎょ」、と言う感じの経験する人がときにあるようだ。これは、万人祭司と言いつつ、祭司の役割を担う人たちが持っていた守秘義務の概念までは、継承されないことによるのがもしれない。

     

    さかなくん

     

    こういうことを考えると、その意味で、「万人祭司」という概念は、色んな意味で、リスク要因を教会の中に広げたにすぎないのではなかったのか、と思うことがある。思いつく限りでも、信仰理解を、自分自身と神との関係のみにしてしまう側面、人々の中に働く霊であるべきものを、個人と霊との関係に矮小化してしまう側面、祭司であるという覚悟や、自覚も思いもない人が、祈りの課題として具体的な内容までも知ってしまうようなかたちで、現在起きているかもしれない。このような非常に好ましくないような側面が、一気に幅広い人々にひろげ、あまり覚悟や思いがない人までもが祭司としての権能を持つということで、広く教会全体にその権能を覚悟がない、思いがない人にまで、拡大させてしまった側面もないわけではないような気もする。

     

    国民がすべからく投票できることの裏にある恐ろしさ
    ちょうど、国民が等しく一票を持つということは、たしかにありがたいことであるし、重要なことではあるとは思うが、熟慮して投票することが前提となっているということを忘れて、あまり考えていず、自分にとって耳に麗しいことに聞こえ、まともに聞こえる個人に投票するという状態につながりかねない危うさをも含んでしまった気がする。その意味で、マクグラス先輩の本のタイトルでもあるChristianity's Dangerous Ideaということの意味を思う。

     

     

    マクグラス先生の本 

     

    その意味で、万人祭司にせよ、国民がすべからく選挙という政治的革命の手段を持つということにせよ、祭司としての役割や選挙権を付託されるということは、これらが付託された個人にとっては、ある面実に恐ろしいことも共に預けられてしまっているのだ、という理解と覚悟を保つ必要があるのではないかなぁ、ということを考えている。

     

     

     

     

    この記事も単発

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    藤本 満
    日本基督教団出版局
    ¥ 2,592
    (2017-06-30)
    コメント:社会の状況と宗教との近現代史を概観する名著

    コメント
    >カトリック教会内部での改革も、宗教改革とほぼ同時に起きたと言われている。

     当然改革の雰囲気は周りにあったであろうし、歩みがのろく感じるかも知れないが改革も行なわれていて当然かと。大体時代に合わせた変更を全くせずに二千年も連綿と続くわけがない。ただ、この宗教改革と呼ばれる要因によりより早く、また強く改革がなされたことも確かと思います。


    >カトリックから飛び出すつもりはなかったのかもしれない

     これも当然なことで、ナザレ派も当初は独立した異なる信仰集団として設立されたと思えず、その予定もなかったようにみえます。これは多くの宗派、カルトも同様で、東方諸教会(非カルケドン)、正教会の分裂も多くは些細な違いがその他の要因により今に至ったと考えるべきではないかなと・・・
     仏教でも根本分裂や日蓮のように明確な分派活動(立教)の場合を除き、殆どが行きがかりや、分裂する気もないのに弟子が突っ走ってしまい教団が出来る例のほうが多く見受けられます。(時宗の一篇や曹洞宗、浄土宗も初期は明確ではなかった)
     宗教改革も信仰的にいかにもまずい部分は大人の振る舞いで密かに修正していたりしますので、その変革速度は改革の有無で速くなったのか否かは検証の方策はありません。しかしラテン語聖書のみでなくギリシャ語、へブル語、アラム語その他のテキストも参照するようになり学問としては深まるより好ましい方向へ向かっていると思います。
     しかし、信仰そのものが深まる方向に向かっていると言い切れない部分はあります・・・余辺はマア個々人個別のお話しかなと・・・
    • ひかる
    • 2017.07.29 Saturday 20:23
    光様、御清覧、コメント、ありがとうございました。

    ご指摘いちいちもっともなんですが、このブログの読者には、時々光様のような霊性な方ばかりでなく、ガチ勢の方が、別のところで、苦情を送ってこられたりするので、なんだかなぁ、と思うこともあり、あえてぼかした表現にしたり、両論併記で中央公論風を醸し出しているところもございます。そのあたり、ご理解いただけるとありがたいです。

    京都ユダヤ学会の記録にもございますように、宗教改革も、レコンキスタ語のイスラム世界の弱体化、それに伴うスペインでのユダヤ人迫害とそれに伴うヨーロッパでのユダヤ人の流動化、オランダの独立などなどの影響もあり、まぁ、そのへんも書き始めると終わりそうにないので、割とさらっと済ませてしまいました。

    まぁ、分派分裂は本流からラベルが貼られ、それで激化した関係者が暴走するというのが一般的かもしれませんね。
    御清覧、コメントありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.07.29 Saturday 21:04
    興味深く読みました。
    裁判員制度が思い起こされるところもあり、考えさせられました。

    ウチの教会では、牧師にリーダーシップを持ってもらってついて行きたい方々が多く、それに対して牧師は、自分に権力が集中しないよう、自分の意志が教会員に影響を与えることができるだけ少なくなるように、リーダーシップを教会員サイドに持ってもらいたいというお考え(と私は解釈しています)なので、
    リーダーシップという名のお鉢は預かり手がなく、誰も責任を持ちたがらないまま、浮いている感じです。
    本当に万人が祭司なら、ウチの教会運営のありようも違っていたでしょう。
    • リリィ
    • 2017.08.11 Friday 14:46
    リリィさま

    コメントありがとうございます。

    >リーダーシップという名のお鉢は預かり手がなく、誰も責任を持ちたがらないまま、浮いている感じ

    これ、大事なポイントですよね。多くの日本の教会でも、同じことが起きているように思います。信徒が萬重宝で牧師に丸投げしないような形になるには、どうしたらいいのかなぁ、と思います。

    御清覧、コメント、ありがとうございました。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.08.11 Friday 21:09
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