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2017.07.26 Wednesday

『黄金のアデーレ』 名画の帰還という映画を見た

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     さて、たまたま、テレビを付けたら映画をやっていたので、『黄金のアデーレ 名画の帰還』という映画を見ルトもなしに見始めた。すると、これが面白いのでたちまち引き込まれてしまった。この映画は、オーストリアでのユダヤ人迫害の仮定で起きた出来事を扱っており、映画の中心的素材として、『黄金の女』と呼ばれるクリムトの名画、作品をおき、その名画を中核として、様々な出来事が展開し、そして、そのうえで、和解を扱い、和解についても考えさせるような作品であったし、あぁ、ここまで聖書の出来事がこの人たちのメタファーとして用いられているのだなぁ、と思った。

     

    「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」 ウィキペディアから

     

    この映画について

     この映画は、基本実話をもとに多少、創作が入った作品であるらしい。史実の面に関しては、色々あるらしいが、何より、圧倒されたのは、ヨーロッパの文化と歴史の厚みであり、その歴史が個人の様々な行動で編み上げられており、作り出されていることを感じさせる映画であった。


    同映画の公式サイトは、こちらからどうぞ。


    非常に簡単に言うと、グスタフ・クリムトの作品の一つ「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」あるいは、「金の女性」という絵画をめぐり状況から、ヨーロッパとアメリカの近現代史を背景に描き出した作品である。

     

    同映画の予告編

     

     

    このクリムトの作品は、第2次世界対戦前に、あるユダヤ人家族の所有のもとで、その一族が住んでいた家にかけられていた絵画だったのだが、ナチスドイツがオーストリアに流入、あるいは、実質上オーストラリアを併合し、ナチス・ドイツがオーストリアに進駐する中で、逃げ遅れた家族が住んでいた家にかけられていた絵画の一点であるようであった。ちょうど、映画「サウンド・オブ・ミュージック」の描くトランプ一家がスイスに脱出する前後に起きた事件を扱った映画であった。

     

    サウンド・オブ・ミュージックの予告編

     

    登場する関係者がすごすぎ・・・

    この映画の主人公は、この絵画が保管されていた家に住んでいた親族の一人で、クリムトの絵画のモデルのアデーレ・ブロッホ・バウワーの姪に当たる実在の女性、マリア・アルトマンである。この女性は、男性オペラ歌手と結婚し、ギリギリのところで、ウィーン(ヴィェナ)からドイツのケルンに脱出し、どういう経路を辿ったかは不明(詳しいことは映画の中では触れられていなかった)だが、アメリカにたどり着く。そして、このクリムトの作品のモデルとなった姪の老後を演じたのが、ヘレン・ミレン(ディム・ヘレン・ミレン)である。そして、このヘレン・ミレン演じる老婆であるマリア・アルトマンの代理人となった弁護士が、E.ランドル・シェーンベルグという人物だったらしく、このシェーンベルグさんは、おじいさんに当たる人が、オーストリアの近代作曲家で、12音音楽を確立したアルノルト・シェーンベルグであった。このアルノルト・シェーンベルグもナチス支配から逃れてカリフォルニアに移住する。

     

    アルノルト・シェーンベルグの作品


    もうこのへんで、なんだか、クリムトやシェーンベルグと言った19世紀から20世紀にかけての西洋絵画や音楽の有名人がかなりたくさん出てきてお腹いっぱい(おお、ヨーロッパは芸術文化の厚みが違うわい)感になった。

     

    ところで、クリムトの「黄金の女」、あるいは、「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」は、ナチス占領下で、ナチス・ドイツに接収され、オーストリアの美術館に飾られることになる。ここでややこしいのが、この有名なクリムトの絵画のモデルになった人物アデーレ・ブロッホ=バウアーが、配偶者の死後、オーストリアの美術館にその作品を寄贈するという遺言を残していたことなのだが、その関係で、この所有権をオーストリア政府は自分たちにあると主張し、主人公のマリア・アルトマンは、この黄金の女性と呼ばれていた絵画は、略奪されたもので、本来の所有権者であるはずの自分に返せ、という主張をするのであり、その主張の間で法廷闘争、ありとあらゆる法廷闘争のマニューバーがこの絵画を巡って行われるのも、見どころの一つであるが、今回、この映画を見て、思ったのは、名前を奪うことの暴力性である。

     

    名前を奪ったナチス・ドイツの精神性

    どういうことかというと、第2次世界対戦後、このクリムトの絵画のタイトルとして、戦後オーストリアで展示されていたときには、そもそもこのクリムトの作品のタイトルであった「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」にかわって、無名性を持つようなタイトル「黄金の女性」というタイトルに変えてしまったところに、このマリア・アルトマンと弁護士のシェーンベルクくんが怒りまくるのである。そして、この美術作品を単なる「黄金の女」とすることは、この肖像画に描かれた一人の人物の人格を失わせる暴力行為に対する怒りをぶちまけるのである。

     

    マリア・アルトマン(2010年当時)

     

    つまり、それは何かというと、名前という人格と直結したものを奪った、ナチスドイツの暴力性と、それが極みまで発揮されたホロコースト、アウシュビッツやダッハウなどの強制収容所の暴力性にも、つながっているんだなぁ、ということが非常によくわかった。

     

    あるものを一般化して、個人として見ることなく、ラベルを貼る、ラベルを張り替えることも、ある面暴力的な行為なのであろう。そして、貼られたラベルが独り歩きし始めると、さらに暴力性を増し、理解が独り歩きするようなことが起きやすくなる。これに関しては、直前の連載のルーテル・セミナーでの信仰義認のことばにまつわるご講演と礼拝説教の要約をご覧いただきたい。まぁ、恩寵義人としたところで、このように名前をつけてしまうと失われるものがあるので、これまた問題であるように思う。

     

    その意味で、ある程度簡略化したラベルから理解するのではなく、常にオリジナルに当たり、その実像を確認するということは、面倒くさい作業ではあるが、その精神は大事だと思う。それは先人の努力に対する現代を生きる我々からの正当な評価にもつながっているのであろう、と思う。

     

    和解について考えさせられた

    詳しくはこの映画の他に、ドキュメンタリー映画が何本かあるらしいので、法廷闘争や、最終的な結論に至る過程が直接の関係者により触れられているようなので、そちらをご覧いただきたいが、この映画を見て、もう一つ面白いなぁ、と思ったのは、最終的な決定が出たあとの映画の役柄としてのマリア・アルトマンに言わせたセリフである。オーストリアの法制度に従った調停で、マリア・アルトマンに最終的にこの奪われた絵画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」の所有権が移ることが法的に確定する。そこで、オーストリア政府のお役人が、あわてて、「この作品をオーストリアに残すよう、そのための相当の費用も払うから」と半ば懇願するのだが、そこで、このマリア・アルトマンというおばあさんは「これまであなた方に何度も和解の申込みをしてきたのに、そのチャンスがあったのにあなた方は、ドアをぴしゃっと締めてしまい、門前払いしてきたではないか。この絵画をアメリカに連れて帰る」と言い放つのである。実にかっこいいなぁ、と思ったシーンであった。

     

    それを見ながら、和解には時があるし、和解しようとする側の態度が問われる、ということである。これは、神との和解においても同じことだろうと思ったのである。キリスト教やユダヤ教の最終的な神と人間との関係における最終的な終着点、あるいは目標は、神と人との和解である。その目標が和解である以上、我々側の態度は、やはり問題になるように思うのである。

     

    あと、この映画の中で、駆け出し弁護士であったシェーンベルグの孫の弁護士くんが全てをなげうって何もない状態で、この裁判に取り組んだときに、オーストリア政府の代理人の弁護士だったか、お役人だったかが、「こんな少年みたいな弁護士で勝てるのかね」とイヤミをいうシーンがあるが、「この少年みたいな弁護士がいいのだ」とヘレン・ミレン演ずるマリア・アルトマンがいうシーンがある。

     

    この台詞を見ながら、ゴリアテみたいなゴチゴチのオーストリア政府とその役人を、ほとんど何も持ってない少年ダビデが打ち倒したことになっているので、あぁ、この辺、ダビデとゴリアテをメタファーにしているんだなぁ、と見ながら、一人ニンマリして楽しんでいた。

     

    歴史について考えるということ
    しかし、この映画を見ながら、退廃芸術排斥運動と銘打ち、質実剛健、衛生思想といった自分たちの価値観に合わないものを排除していき、そして、繊細な芸術、美を求めていった芸術家を蹂躙していったに等しいナチス・ドイツの存在に代表される悪の問題、諸力としての悪の問題、そして、人びとの名を奪うこと、それは、生命を奪うことに等しいことの問題を考えさせてもらったような気がする。

     

    日本でも8月15日には、千鳥ヶ淵戦没者墓苑での追悼式が毎年開かれるが、あれは、多くの人びとが市民を巻き込むタイプの近代戦の結果、なくなったことを考えると、致し方がないのである、とは思うが、本当は、一人ひとりに人生があったのであり、神の息吹として、神ご自身が吹き込まれた命と、その神の霊がおられるべきその座所が設けられていたはずであることを考えると、無名性ということと、近代の暴力性を、無名戦士の墓とかいう表現に感じてしまう。911事件のときの犠牲者が一人一人名前を呼ばれることや、映画『炎のランナー』などでは、オックスフォード大学関係者の戦没者名が読み上げられるシーンがあることなどを考えると、このあたりの感覚というのは、もう少し考える必要があるのかもしれない。

     

     

    9/11 Memorial Ceremony 18分30秒あたりから遺族による犠牲者の名前の呼び上げが始まる

     

    歴史といえば、著名人の起こした事件と時代のみを、我々は考えがちだし、わかりやすいので著名人が起こした事件とその当時の社会を中心に考えがちではあるが、それだけでは不十分で、そこには、我々が知り得ない多数の人々のその時代の多様な行動から生み出される多数の事件が、布の縦糸と横糸の交点のように積み重なり、そして、様々な織り文様を生み出すようにして、我々が見る大きな絵柄としての模様としての歴史が生み出されているのかもしれない、とこの映画を見ながら、改めて思った。

     

    なお、現在「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」は化粧品メーカー、エスティ・ローダーの当時の社長、現会長のロナルド・ローダーが買収し、ニューヨークのノイエ・ギャラリーに展示されている。

     

    今回、単発。
     

     

     

     

    評価:
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    ギャガ
    ¥ 2,827
    (2016-05-27)
    コメント:非常によろしかったと思います。

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