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2017.06.14 Wednesday

小島聡著 『ヨハネの福音書 と夕凪の街 桜の国』について思ったこと・・・(上)

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    さて、ここまで、いくつか本の企画や雑誌などでは、書き手の一人として、関与してきたけど、そういうかたちではなく関わってきた本が出版されたので、その出版をお祝いし、ここでもご紹介してみたい。この本については、この本のミーちゃんはーちゃんの書評が次回の『本の広場』ででるが、そこにかききれなかったことを、その原稿の基本的な線をもとにしながら、もうちょっと書いてみたい。

     

    時間という次元をどう認識するか…

    現代人にとって、時間とは、人間とは関係なく、あるいは他のものとは独立に、一方的に、それ自身のリズムで進んでいくというか、この社会を規定する次元の一つ、空間をX軸、Y軸、Z軸が支配するように、時間軸もこの社会を規定している次元の一つであるが、X軸、Y軸、Z軸のようなこれらの軸とは異なり、戻ることのできない次元として人間とその行動を規定している社会の軸として考えられていることが多い。現代人にとっては、先に述べたような社会や環境を考える上での、一種の前提となっている、過去から未来に向かって一方的に流れているという時間理解にある種チャレンジしている本ではある。たしかに時計の針は戻ることはない。それは確かだ。しかし、それは我々、人間の観察の限界であるのかもしれない、とは思う。ひょっとすると、X軸、Y軸、Z軸が、人間にとって、ある程度前後左右上下に自由に移動ができるように、時間軸も人間にとっては1次元のあるベクトルにそって、一定の速度で進行しているととらえているのは、人間の認知の限界であるかもしれないと思う。元同僚の数学者の友人なら、少なくともそんなことは考えそうな気がする。ミーちゃんはーちゃんですら考えるのだから。

     

     

    実は過去との関連で生きている人間…

    現代の我々は、ある意味で常識で縛られている。過去起きたこととは、ある程度、無縁に生きていると考えがちである。しかし、よく考えてみると、必ずしもそうではない。現代人の世界は、ある種時間断面が大量に集まった集合体として、ある時代の状況、現代の状況を考えているが、実はどうもそうではない。歴史性、少なくとも時間の連続性の上に我々の現在があるのである。現在の法律は、過去に作られたものである、現在の政策は、過去の出来事の上にできたものであるし、現代の人間理解は、過去の誰かの人間理解をちょっとづつ作り変えながら、できているからだ。

     

    哲学だってそうだし、神学だってそうだと思う。我々は、アウグスティヌスなしに神学を考えられないし、パウロなしに神学は考えられないし、ヨハネの記述なしに神学はできないし、イエスの存在なしに神学は考えられないし、イザヤが記述したとされることを無視して神学は考えられないし、ダビデの存在なしに神学は考えられない。それは、哲学でもそうだ、ギリシア哲学なしに現代哲学は存在しないのだ。なかったこととして始めることはできるけれども、それは非常に迂遠だと思う。大抵ある人が考えることは、すでにギリシア時代の先人たちが考えているし、自分たちが考える神学のようなものは、既に過去の人達もそれなりに考えているのだ。だからこそ、古典や過去の著作を読む意味があるのではないか、と思う。

     

    ところで、一方向的に、単調に進んでいくような時間管理をヘブライの民はもっていなかったようで、螺旋的に進行しながら、過去とある断面ではときに交差するようなかたちの時間理解をもっていたような気がする。この辺は、ヘブライ思想研究者の手島イザヤ先生にもちょっと聞いてみたら、そんな感じとも言えると教えていただいた。ありがとうございます。

     

    この本の本論とは関係ない話題はさておいて、その一方向的に直線的に進んでいく時間理解で聖書を読んでしまうと聖書理解が歪むことがある。少なくとも、その問題を、この本では、現代人と違う時間理解をもっている人びとの一人であり、そのうえで、ギリシア思想をかなり深いところで知っていると思われるヨハネが書いた、ヨハネの福音書を素材としてとりあげ、聖書が多様な重層的構造を持っていることを明らかにしようとした本である、という印象を持っている。

     

    ある言語とその背景にある何か…

    ところで、言語、とくに外国語という対象について日本語から考えてみると、外国語を支えるなにか、というか、外国語の背景にある思想とか、文化とか、ライフスタイルとか、世界観とか、ものごとのみかたをある程度肌感覚で知っていないと、その外国語での表現が歪んだ物になってしまうようなきがする。英語で書くときには、英語で考えるという習慣がないと、意味自体は通じるけれどもなんか妙な表現になってしまうのである。外国人が日本語で話すときの窓ロッコさを感じるのである。他には、テレビの外国映画を見る時、う~~~ん、これ、ちょっと感じが違うんだが・・・と思うような翻訳に出会うこともある。昔自分が書いた英語の論文があるが、今見たら、「ぎゃ~~~」と叫び声を上げたくなるような文章だと、我ながら思う。

     

    聖書を読むときだってそんな感じである。誤訳とは言わないが、もともとの言語がもっていた感覚というか、雰囲気が失われているんじゃないか、って思うことが時々ある。特に思想的なもの、哲学を含む文章では、それを強く感じる。

     

    福音書はそれぞれ独自の味わいがあるのだが、中でも、ヨハネの福音書は、他の3つの福音書とは明らかに異なった味わいと手触りを持った福音書である。ヨハネの福音書は、ギリシア語が単に話せるだけではなく、その世界の哲学思想やギリシア語世界での、ものごとのみかたができる人物でありながら、ユダヤ人でもある人物であるヨハネが書いたようにしか思えない。

     

    古代ヘブライ的な重層性を持った福音書、そして、螺旋的に進行していく時間や過去の歴史との重なりをかなり重視し、重層的に表現しているようなきがするのである。まぁ、このゆにさらっと、書いて分かる人は、案外少ないのではないかと尾もう。この辺の関係というのは、案外理解するのが困難だと尾もう。なぜならば、現代は過去から未来に向かって一直線に線形的に進むと考えられているようだし(例えば、歴史の年表なんかがそういうスタイルでできている)、ガムやスマートフォンだって進化するらしい。個人的には仕様変更、仕様改善がなされたということなのだが、それを進化というあたりが、我々が、このような概念にいかに毒されているのかの何よりの証左だとおもう。

     

     

     

     

    マンガを用いて、わかりにくい概念に挑戦している本

     しかし、このようなことを、単にこれまでよくあるタイプのキリスト教書のように、理論的、抽象的に示したのでは、大人の一般読者、あるいは中高生くらいの若い一般読者には、理解が困難だろうなぁ、と思う。日本のキリスト教書は、ガイドブック的入門があって、後は、牧師先生方や、こういうのを読むのが好きな大人受けを目指して出版される。昔は、入門と専門の間の中間的な本や、小説仕立ての青少年向けのキリスト教書が数少ないながら存在したが、今は、出版事情もあるのだろうが、このような中間的な存在がない。となると、もう、中高生などに読ませる本がないのが実情なのだ。とは言え、このような聖書理解に関する内容は、重要な割に、助けがないと、容易に理解できないため、かなり思想的な文章であるヨハネ福音書などは、結構、自分にとって都合がよいように、拾い読みしているキリスト者は少なくないのではないだろうか。

     

    そこで、著者の小島さんは、『夕凪の街 桜の国』というコミック作品に着目し、そして、映画化された作品を引用しながら、それをメタファーとして、過去と現在が交差する状況、そして、螺旋的な時間の進み方、人間関係のつながり、ネットワークが存在し、それが生み出す歴史的重層性の中に生まれるものがあるということを示している。そのうえで、実は、聖書の世界は、そのような重層性が多数あることを示し、聖書自体が、ある種時間と空間的制約を超えたものであり、従来の直線的、線形的な時空間理解とはかなり異なる螺旋的な時間の中で、重層的な関係性のなかで、読まれ、話され、理解され、受け取られ、これからも受け取られていくものを示そうとした本である。

     

     

     

     

    まぁ、こういうクロスオーバーとか、カットバックが利用された脚本には幾つかあるが、個人的に見て面白かったのは、Julie and Juliaとか、めぐりあう時間たち (The Hours)などがある。

     

    映画 ジュリー アンド ジュリア のワンシーン

     

    めぐりあう時間たち の予告編

     

     そして、近代を支配した、いわゆる科学的とされる、直線的で一方向な一定の時間の流れが小学校の社会科における教科書の歴史記述や、理科の時間記述から、社会一般の歴史理解に至るまで時間記述の支配的な概念となっており、その先験的な仮定に強固に支配されたままでは、創世記から黙示録に至る聖書記述が十分に理解できないのではないか、という重要な問題提起をこの本を通して、小島さんはしようとしている。

     

    従来のキリスト教書では、大人の用語で、専門家の用語で、かなり抽象的に表現することが多かったと思う。それでは、中高生や、若い人々は置き去りにされて行くことになる。この問題を回避すべく、比較的若者にも読みやすい題材であるコミック作品をも絡めながら、聖書を読むときに、現代社会を縛っている直線的、単層的、単一平面的な時間軸、空間軸で理解するのではなく、重層的な螺旋状の時間の進行と出来事の関わりと人間との関係が、現代社会においても十分意味あるものであり、特に聖書を読んでいくうえで重要であることを示そうとしている。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

    評価:
    小島聡
    ヨベル
    ¥ 1,080
    (2017-06-01)
    コメント:ヨハネ福音書と夕凪の街 桜の園 を素材に使った聖書の世界へのガイドブック

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