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2017.06.10 Saturday

『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その3(人を人らしく、教会を教会らしく・・・)

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    さて、ここのところ、プロレスでいえば、反則技すれすれ、水谷尊師のお好きな野球でいえば、暴投気味、内角高めギリギリといえば、聞こえはいいが、実際には、あわやビーンボールともなりかねない危ういところを突いた記事ばかりで恐縮であるが、今日も気を取り直して、いつものようにまた、危険球ギリギリのところで勝負してみたい。

     

    大暴投だとは知っているけど…
    大体野球は見ないし退屈する(そもそも見慣れてないから…)傾向にあるので、野球のことはよく存じ上げないが、基本的には退屈なゲームだと思っている。前にも書いたが、こういうビーンボールも時々混じるようなスリルあふれるのがないと、面白くないではないか。大体、日本の朝のニュース、それは、朝のニュースショーとは言えないような気がするが、ニュースがちょっと入るバラエティショーでも、盛り上がっているのは、こういうラフプレーやそのあとの乱闘騒ぎのほうである。であるからこそ、今日も悪役レスラーとして、書いてみたい。

     

    以前にも登場した口の悪い同僚によると、「野球場に行くのは、大声をあげて、ストレスを発散するため」だそうである。ということは、である。実は人は、このような乱闘騒ぎや危険球といったようなスリル要素が案外お好きなのであって、静かな茶室で、じっくりと抹茶椀を延々30分も1時間も愛でながら、「結構なお茶碗で・・・」とかはあまりお好きでないのかもしれない。個人的には、茶道具は見るのも使うのも好きなので、椅子席ならば、じっくりとお付き合いしたい。デブな年寄りなので、正座は無理だから椅子席なら、という条件付きなのである。

     

    計算機がつくる説教を、信徒がドローン飛ばして聞く教会って…
    前回、IBMの計算機Watsonで古今東西の有名説教を集めて、機械学習させ、会衆の希望を織り込みつつ、クロラーで集めた世間の情報を織り交ぜて、適当なウェイトを用いて作り上げらた説教も、そのうち、理性(Mind)重視派には受けのよい、かなり完成度の高いといってもいい説教が出来上がり、それを、お好みのボカロイドに読ませて、説教者はイケメソ風のアンドロイドで、会衆は、ドローンを飛ばして、そのイケメソ風のアンドロイドの説教を聞くということが起きるかもしれない、という無茶な投稿をしてみた。それなりに反響があったので面白かった。とはいえ、大した反響があったわけではないが。

     

    ドローンっていっても、(Boeing Phantom Eye) みたいなのが来たら怖いかも http://www.boeing.com/defense/phantom-eye/

     

    教会では、IBMのワトソンが変えないとかいうご意見もあったが、そんなもん、インターネットがあれば、時間で借りるレンタルをすればよいのである。インターネットで、説教を作るためのパラメータ(改革派の要素**%、メソディストの要素**%、バプティスト要素**%、お笑い要素**%)とかぶち込めば、勝手にそれなりの説教になって読み上げ用の説教原稿が出てくるなんてことも、相当カラン未来に、ソフトウェア的にはが可能になるだろう。

     

    予定調和で行けば、これでもいいはずである。

     

    でも、それで、説教か、それが、説教か、それが、教会か、それで、教会か、と言われたら、ミーちゃんはーちゃんはそうではないと思っている。今は聖公会の英語部の出島のような教会に寓居していることにしているが、もともとは清め派であって、前回も今回も書きながら、清め派のの血が騒いで仕方がなかったし、それは説教といえないと思っているし、そんな機械仕掛けの説教をありがたく拝聴しているのが、教会と思えない。そして、個人的には、そんな予定調和の説教や、教会なぞ、詰まんないと思っていることは、間違いない。もっとダイナミックなものが説教だと思っているし、もっとダイナミックな存在が教会だと思っている。

     

    でも、以前キリスト新聞の連載小説になった架空のコピペ牧師の説教って、古今東西の名説教を用いているわけではない、と思うので、仮に可能であるとして、機械学習して、適切なパラメータから計算機が生み出すような説教よりは格段にひどいはずである。過去の説教を参考にするのならまだしも、いろんな教派の説教をでたらめにとってきて、説教が作られているとしたら、もう、聞いているだけで、頭が割れそうになったりするだろうし、悪酔いするのではないか、と思う。帰って、人間が手抜きをして恣意的に何かするほうよりは、バカまじめな計算機がガシガシやって出してくるもののほうが、格段にましなこともあるのではないか、と思うのだ。

     

    まぁ、よく考えてみれば、理神論でやる教会って、こういう教会を究極に目指していたのかもしれない。そら、もう、キリスト教といえなくなるのは当然である。

     

     

    それで、考えてみると
    では、教会を教会とする○○とは何か、ということを考えてみたい。それは、人を人とする○○とは何か、ということでもある。もう少しいうと、人間を神のかたちとする○○とは何か、ということである。

     

    このブログの長い読者なら、もうおわかりのはずである。同じことを手を変え品を変え何度も書いてきたからだ。それは、リングマの本でも強調されてきたし、N.T.ライトのクリスチャンであるとは、でも強調されていたことである。○○とは、聖霊(聖神)のことである。これなしには、キリスト教はキリスト教になりえないものであり、先週の日曜日は、ペンテコステであったが、そのペンテコステの日に人々に臨み、聖霊が人に臨在されることが起きた、とういキリスト教にとっての大事なできごとを記念する日であった。

     

     

    人間には聖霊が内住するようにできている。神とともに生きるようにできている、聖霊が与えられる約束が与えられている、同表現するかは多様ではあるが、神とともに、聖霊をうちにいだき、生きることこそ、神が我々に望んでおられることなのだ。かっこよく生きることでも、人から賞賛されるように生きることでも、人の基準や世間一般が当たり前とすることでもなく、ただ、神に従い、神とともに、神の御前に生きるということこそ、神が我々に望んでおられることなのだ。神にあって不甲斐ないながらも、生きているということこそが、神のみ思いなのだろうと思う。

     

    重きは神の側か、人間の側か…
    この点、この200年の外国から来たキリスト教は、どこか、人間の視点が中心になりすぎていて、神に従って生きるとか、そういうことは、教会の中ではすっかりと人気のない考えになってしまっているようだ。まぁ、こういうことを勧めているキリスト教の一つに、正教会があり、正教会では、キリストに従うこと、神に従って生きることがかなり大事なこととされている。

     

     

    プロテスタントでもそうだ、と言われるだろう。ある面、それはそうかもしれない。しかし、神に従っているとは、言いながら、聖書に従っている、とは言いながら、神がこう思っておられるだろうなぁ、と自分なりに変換した神のみ思いに従っている、といっていることはないだろうか。あるいは、聖書に従っていると言いながら、自分が受け入れ可能な部分だけに限定した聖書の文言にのみ従いながら、聖書に従った生き方をしていると言っているようなことはないだろうか。あるいは、人間には、できないことはないという、一種のバラ色の理想、ロマン主義の影響を受けた人間観に従って、自分自身の不甲斐なさを認めず、自分自身が最大限努力することでなんとかなると自分自身も、他人もどっか騙しつつ、自分のすることは神の御心と一体化しているのだ、と強弁していないだろうか。

     

    そもそも、人間には、神のみ思いを完全に実現することなどできないのに。

     

    でも、そのようなロマン主義的な新校舎の姿でも、いいのかもしれない。神の哀れみの深さを感じ、そのことを知ることができるのだとすれば。そして、もし、その人間の力でなんとかなるという思い込みをもって過ごしてきたことを、神の前に悔い、神のもとに戻ろうとするならば。神の前に自分がいろいろなことができる、自分がこんなよきこともした、あんな神の栄光を帰すこともした、と言い張り、自分の努力や成したことを以下のイエスの祈りについてのたとえ話に登場するパリサイ人のように並べ立てるようなことをせず、かえって、取税人のように神の前に自分の不甲斐なさをさらけ出そうとするならば。

     

    【口語訳聖書】ルカによる福音書
     18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
     18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
     18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
     18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
     18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
     18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

     

    かたちだけこの取税人のようなふりをしているのではないか、とかご批判される方もおられるだろう。それも一理はあるが、イエスは、どう言われたであろう。

     

     

    【口語訳聖書】マルコによる福音書
     9:39 イエスは言われた、「やめさせないがよい。だれでもわたしの名で力あるわざを行いながら、すぐそのあとで、わたしをそしることはできない。
     9:40 わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方である。

     

    と言わなかったろうか。それを我々は、反対はしないが創造者である神を信じないものを、手前勝手に、「わたしたちの味方」とはせずに、「わたしたちの敵」としてきたのではなかったろうか。

     

    この企画の出発点となった『焚き火を囲んで聴く神の物語』の著者の大頭さんという人は、すぐに、「〇〇という人は敵ですか、味方ですか?」と以前はよくミーちゃんはーちゃんに問い合わせてきていた時期がある。個人的には、このような単純化がなされたものの見方は、おやめになりませんか、と以前くどくお諌め申し上げてきたところではある。最近は、ミーちゃんはーちゃんがあまりにうるさいことを言うからか、敵か味方かみたいなことは聞いてこなくなった。なぜかは知らない。

     

    単純、素朴な信仰者の姿

    息子の勉強に付き合う関係や、最近日本に来るムスリムの方の全体のボリュームとしても、増えていることもあり、ムスリムの人びととのお付き合いが増えた。日本だとムスリム=過激派=原理主義者という構図が出来上がりがちであるが、近くによってじっくりとその姿を眺めていると、実に多様な人々であることがわかる。国や出身地域、言語によって、世俗の仕事、その信仰のスタイルや微妙なところは違うのであり、イスラム、あるいはムスリムということばで一括りにするのが難しい人びとの多様な群れなのである。それは、キリスト教でも同じである。正教会系の人々の姿と、アメリカの福音派の人びととは、姿も行動パターンもかなり異なる。その意味で、キリスト教一括りにするには、実に多様な人々と教会の集合体なのである。

     

    ただ、ムスリムのある部分の人々、ムスリムの良心と言って良い人々とお付き合いしている限り、彼らは、信仰と行動が分離しておらず、信仰は信仰の世界、日常は日常の世界という切り分けをしないで生きている方がたの姿を見ていると、在る面、美しいなぁ、自然だなぁ、と思うのである。それは彼らが、発展途上国の人だから、というわけではどうもなさそうである。所謂これから発展する余地があるから、あるいは、伝統社会から来ているからこそ、割と単純、素朴な信仰者の生き方、というわけでもなさそうである。

     

    どうも、イスラム思想、あるいはヘブライ思想の中にある、ある概念が、このような単純、素朴な信仰者のあり方を可能にしているようなのだ。それは、自分が誰のものが、自分を含む他人が、自分を含む環境が誰のものか、ということと、実は深く関わっていて、それが、神から与えられているテキスト(アラビア語のクォラーン、ヘブライ語のトーラーあるいはタナッハ、日本語での旧約聖書あるいはヘブライ語聖書及び新約聖書、あるいは、ギリシア語聖書)をどのように理解するか、とかなり深く関わっているようなきがする。

     

    いわゆる旧約聖書、あるいは、学術語としてのヘブライ語聖書でも、いわゆる新約聖書、あるいは、福音書から始まり、黙示録が最期にあるギリシア語で書かれた聖書でもそうなのであるが、そもそも、人間とは人間のものではなく、人間とは、神のものであるというのが、基本的な理解である。環境にしても、土地にしても、水にしても、空気にしても、生物にしても、人間が作り出したもの以外の全ては、本来は、神のものであるのである。

     

    それをいつの頃からか、人間はこういう環境や土地や、水や、野生動物が無主物であるから好きにしていい、ということをやり始めた。無主物とは、所有者、権利者が人間の世俗の法で定義できないもののことである。このような無主物、あるいは無主の土地は、最初の発見者が好き勝手に、何をしてもいいと勝手な理論をつけて、ネイティブ・アメリカンから土地を勝手にものすごい不当な廉価で合法的に奪っていったのが、アメリカに最初の頃に入植した開拓者の皆さんである。

     

    だからこそトランプ現大統領が選挙戦中に、「不法移民は出て行け」と言ったときに、以下のような画像が、ネットに出回っていたことを覚えておられる方もおられるだろう。

     

     

    https://www.pinterest.jp/frybread7/native-funny/ から

     

    https://imgflip.com/tag/native%20american?page=6 から

     

     

    ムスリム系の人々でよくある名前に、アブダラ(アブドアラー)という名前があるが、それは、「神の奴隷」という意味である。その意味で、彼らは、自分の思いで生きるのではなく、神のみ思いに従って生きる奴隷であるということで、アブダラ(アブドアッラー)という名前などでも、彼らの生き方の方向性を示しているのであり、神への絶対服従、すなわち、神に従って生きる奴隷、主が何を求めているのか、ということを求めて生きる生き方をしようとしているといえるのだろう。

     

    イエス様も次のように言っておられる。

     

    【口語訳聖書】 マタイによる福音書
     24:45 主人がその家の僕たちの上に立てて、時に応じて食物をそなえさせる忠実な思慮深い僕は、いったい、だれであろう。
     24:46 主人が帰ってきたとき、そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

     

    また、神の奴隷になり、天の父のみ旨を行うもの(すなわち、神の奴隷、あるいはしもべとなること)を選ぶことの大切さを、別の表現で次のようにイエス様も言っておられる。

     

    【口語訳】マタイによる福音書
    7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
     7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
     7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

     

     

    ということは・・・

    人間が人間になる、人間を人間にする、ということは、人間が神のものになる、あるいは、人間が本来のその目的に従い、神とともに生きるような姿となることが、人間が人間らしくなるために必要になるということと言っていいと思う。そして、人間らしくなった人間が、集まるからこそ、人間が神が造られたものであり、人間が神のものであることを認め、それらの呼び出された人びとの集合体(カハル構造を持つ集団)が教会なのである。つまり、教会すら、人間が集まってできているとはいえ、人間ためのものではなく、教会員のものでもなく、ましてや、牧師のためのものではない。教会も神のものである。

     

    神のものは神のもとに

    その意味で、カイザルのものはカイザルのもとに返すべきであり、神のものは、神に返すべきということばは、実はかなり重要なことを含むのである。自分を含め、神のものであれば神にお返していく。つまり、神の奴隷として生きることが、アラビア語で言えば、アブドアッラー(アブダラ)として生きることが重要なのである。

     

    【口語訳聖書】マルコによる福音書

    12:17 するとイエスは言われた、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」。彼らはイエスに驚嘆した。

     

    ムスリムのかなりの部分の人や、ユダヤ教世界や正教系の世界のある程度の部分の人は、神の奴隷として生きておられるが、プロテスタントでは、自らそのものも含めて、この被造世界が神のもの、神の支配に服すべきものであることを忘れ、神がご自身の権利を今ご主張になられないことを言いことに、この世界を、そして、自分自身も、あたかも無主物である家のごとく考え、自分の思うがままになるものとして、扱うようになってしまったのではないだろうか。

     

    人間が人間らしく在るために、

    教会が教会であるために・・・

    人間が人間らしく在るためには、教会が教会であるためには、まず、人間にせよ、教会にせよ、神のものであるという神の主権を認め、神にその主権を返納していくところから始めるべきかもしれない。人間が握りしめている自分自身、人間が他の人間を握りしめているその手を開き、そこに臨済される方、聖霊なる方を握りしめるのではなく、それを受け取ることができるように手を上に向かって開いておくことが大事なのだと思う。そこに吹き込まれてくる神の霊、神の息吹、精神の働きをふわっと受け止める事が大事なのではないだろうか。このあたりのことをある程度書いたのが、リングマの『風をとらえ、沖へ出よ』なのだと思う。

     

     

    ところで、計算機には、機械には残念ながら、聖霊を受ける部分はない。聖霊が内住される場所がない、聖神が臨在される場所でもある”こころ”(Heart)がないのである。コンピュータは泣いたりしないし、怒ったりはしない。人間はコンピュータの単細胞さに怒ることが在るけれども、コンピュータは、人間に対して、正しくない操作をしたので動かなかったとは画面上に表示させたり、プリントアウトしたりはするけれども、人間に対して殺意を抱いたりはしないし、人間のギャグに反応して、大笑いしてくれたりしないのである。感情と似たような反応を画面に表示させたりすることはプログラムで、ある程度できるけれども、それは、心からのものを真似しているにすぎないのである。もう少し言えば、計算機はアルコールを飲ませても、酔っ払ったりはしないで故障してしまうが、人間はアルコールを飲むと酔っ払ってしまうのである。だから、酒に酔うな、とパウロは書いているのであって、一滴たりとも飲んではならないとか書いていないように思う。アルコールに本来、神のものであるべき人間が奪われてしまうからこそ、本来の神のものが失われないように、「酒に酔うな」と書かれているのだと思う。

     

    その意味で、神の霊を求め、神の息吹を求めることこそが、人間的ななにかと神の霊が相まって、存在することで、人間や教会が神のものとなり、神がともにおられることになり、神の奴隷樽にん気んが、神の奴隷の集まりである教会が、活性化が起きるのだろう。それを、近代の社会では、リバイバルとよんだのではないだろうか、と思う。

     

    リバイバルとは、人間が運動として起こすものでもないのだろうし、人間が必死になってつかもうとするものではないと思う。リバイバルとは、受け止めるものなのだろう。そっと受け止める。そっと手のひらで受けた時、本来の活性の状態を回復できた状態になったのがリバイバルなのではないか、と思う。その意味で、すリバイバルは人間が起こせたりするようなものではないのだろうと思う。このあたりは、ロイド・ジョンズの『リバイバル』を読んでもらうと、ある程度は、わかるのではないか、と思うのである。

     

    次回へと続く。

    一応、このシリーズ、次回で終わりにしたい。

     

     

     

     

     

     

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    評価:
    D.M. ロイドジョンズ
    いのちのことば社
    ¥ 2,160
    (2004-10)
    コメント:名著

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