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2017.06.12 Monday

『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その4(宗教改革500年の年に…)完

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    さて、今回で悪役レスラー篇も第4回である。なぜ、この『焚き火を囲んで聴く神の物語』の応答で、場外乱闘気味の応答の文章を書いたのか、場外乱闘しているように見える羽目になったか、ということの弁証(言い訳、説明)を少ししてみたい。

     

    書式でもはみ出した大頭さん

    この本で、確かに主著者の大頭さんの悪行三昧を、悪役レスラーのマイクパフォーマンスよろしく悪口大会をしたか、というと、この本では、たしかに、あまり悪行三昧の跡形が残っていないのではあるけれども、元になった雑誌の段階では、文章の途中でフォントサイズは変える、やたらと脚注がある(それも小さい)…というD.T.P.の版下作成の人にとってはあまりに面倒くさいため、美味しい仕事ではない(さらに、出版社にとってはコストアップ要因)ような原稿となったと思っていたからである。基本、ミーちゃんはーちゃんは技術者でも在るので、これは、あまりに酷い、と思い、それこそ場外乱闘だ、と思ったのである。だとすれば、こういう場外乱闘には、それにキチンと応答して差しあげるべきだなぁ、と思ったのである。大頭さんが、従来の神学系の書籍や雑誌のスタイルにおいても、枠外からはみ出てきていると感じたので、そこはそれ、悪役レスラーらしく「そんなもんあかんやんか」と言ってみただけなのである。

     

    神学のリングは、本当はどこか

    牧師しか行かなようなところに、平信徒としてフラフラ出没(まぁ、昔は牧師の真似事のようなこともやっていたので、研修のためと思って参加し、牧師の関連業界を割りとそばで見る機会を作ってきたが、元いた教会から、暫く来るなと言われたのをいいことに、教会巡りをしはじめ、今は、聖公会の出島のような教会に寓居するようになり、牧師の真似事もしなくて良くなったのでそろそろ、このような牧師関連業界とのおつきあいも、もうそろそろ、やめてもいいかなぁ、と思っている。趣味としてする分には、あまりお金もかからない割に面白いので、もうちょっと付き合おうか、と思っている。

     

    ところで、この本の素材になった雑誌の連載で、理念的なことを理念的な言葉で語るのが定石であったこの種の雑誌のスタイルを破る形で、つまり、牧師が自分の理解をまとめて、牧師に語るというスタイルで書くのではなく、信徒たちにも考えてほしいと思ったのか、連載の段階で、神学そのものを抽象化・結晶化して語るのではなく、神学を生み出した過去の神学者について語るのでもなく、妙なことをし始めたなぁ、と思ったのである。そして、信徒にもこの世界の幅広さ、奥行きのようなものがあり、その面白さの一端を味わってもらおう、と書いているのかなぁ、と聖なる誤解をしたので、「おお、そこまで挑戦状を信徒に突きつけるか」それならば、信徒として、主に、社会の学問の側に足場をおくものとしての哲学的反省(パスカルの意味での反省、深く考えること)から応答するのが、私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことに過ぎない。

     

    この連載の最初に書いたように、神学は教会の学であるとはいうものの、それは、信徒がきちんと聖書を読み込んで、神のみ思いが天において実現するように、地においても実現するための道具というか、存在となるようにすることが本来の神学の役割ではないか、と思っていたからである。神学のための神学ではなく、信徒が、この世界において、神のみ思いを聖書から知り、神のみ思いに関わる、神のみ思いを馳せるために信徒の方々とともに考えるためのものが、神学だと思ったからである。その意味で、信徒に仕えるためのものが神学だろう、とミーちゃんはーちゃんは思っている。

     

    その意味で、神学の本当のリングは、信徒の生活であると思っている。信徒の生活の場において、貢献するのが神学の真骨頂であるとは思っているし、その意味で、神学は同時代性とある種の時代生を反映したものにならざると思えないし、過去の神学者たちの生み出した思潮も、結局は、固定されたものではなく、ダイナミックなものであったのではないか、と思っている。

     

    信徒に仕えるための神学

     しかし、学である以上、業界用語、あるいは、ジャーゴンとよばれるものが出てくる。大抵、これが理解できないとある特定の学の世界に触れることはかなり難しい。それが、本来、多くの人々に仕え、多くの人々の生活に貢献し、その成果を伝えるための学として出発していても、結果的に専門家の学になってしまうゆえんである。

     

    この辺は世俗の学の世界でも全く同じで、ある学問の隣接の学問分野に行くためには、ある程度時間をかけて、その世界固有の言語を学ばねばならない。同じ日本語であっても、驚くほど、ことばが違うし、同じ語でも用法が違うことがある。これで戸惑ってしまうのだ。つまり、ことばにそれぞれの分野ごとに独自の手垢、あるいは、味わいがついており、その手垢や味わいを無視して、ある言葉を使うことができなくなっている。神学でも全く同様である。

     

    このある業界の用語の手垢というか味わいの部分と、ある学問をするために知っていなければいけないことの多さが、学問から人が遠ざかる理由であるので、それを、なくそうとして大頭さんは書いていることはわかった。そのような態度のことを大頭さんは、神学ジャーナリストという言葉で表しているが、それはちょっと本職のジャーナリストとして、いいのだろうか、とは思う。確かにテレビに出てくるような、自称ジャーナリスト、あるいは、テレビ局がジャーナリストとラベルを貼り、ありがたがっているような人には、その後発言を聴く限り、この人あまりまともに勉強していないのではないか、と思われる人も交じるが、マジメな学識に基づいて仕事をしているジャーナリストの方のほうが、実は多いとは思うのだ。

     

    ジャーナリストとは、何かというのは、これまた難しい話であるが、学術誌がJournal of Political EconomyとかInternational Journal of Systems Scienceとか言うように、もともとものをきちんと書く人が書いたものが載る定期的に発行される媒体が、Journalの本来の意味に近いのだとすると、大頭さんがご自身を神学ジャーナリストとしておられるのは、学術雑誌(多分)にも何点かは書いておられるから、そうなんだろうなぁ、とは思う。なお、ミーちゃんはーちゃんも、最近も共著ではあるが、こういう学術誌には論文を寄稿してはいる。このブログに駄文を書いていることだけをしているわけではない。神学系の学術論文は今のところ、書く気はないけど。数理系の実証分析系の研究が中心なので。

     

     

    Journal of Political Economy の表紙 https://library.idfr.gov.my/index.php/en/journals/1229-journal-of-political-economy-april-2015.html から

     

    International Journal of Systems Science
    http://explore.tandfonline.com/page/est/tsys-international-journal-of-systems-science-editors-choice

     

    余談に行き過ぎたので、元に戻すが、信徒が生きているのは、過去の神学的理解が成立した世界ではない。日本に持ち込まれた欧州や米国の神学的文化コンテキストと違う世界である。だとすれば、単純に何処かでできたものをそのまま持ち込んだのでは、一部の特殊な人はそのまま受け取れるかもしれないが、大抵の場合、そのまま受け取ったのでは消化不良を起こしてしまうことは言うまでもない。

     

    真理を追求しているはずの哲学の世界でも、哲学的思惟や哲学の理解は一つではない。なぜ、そうなるかというと哲学が対象としている人びとの思想や理解の世界が常に変動しているからであり、哲学も時代と人々が生きる社会からしか生まれないのではないか、と思っている。そして、ある学問は、他の学問に影響を与え、そして、また別の概念が生まれてくる。どうも、神学もそうではないか、とおもう。いま、牧師先生方の神学会などの集まりや、キリスト教の関連学会にもちょこちょこ顔を出していて思うのは、神学の中だけを見て居られ(もう少し言えば、アメリカの神学の世界での動きだけを見て居られ、というのは少し言いすぎかもしれないが)、世俗の学に目配せして、世俗の動きも日本やアジアという空間に軸足を起きながら、なしておられる方がどの程度おられるのかなぁ、と素朴に思うことがある。

     

    大頭さんが、平信徒のミーちゃんはーちゃんにあえて、対論を頼んできたということは、世俗の神学というリングの中なのか、象牙の塔なのか、金字塔の中なのかは、よく知らないが、信徒の生きている世界は、そのような狭い枠内や領域で終わっていないはずなので、神学という限定された枠内(公共圏)では収まらない世界に生きている人間の立場から対話を求められたということは、神学というやや狭い対話のための空間や領域(これを、ハーバマスという人は、公共圏と呼んでいる)という枠内に留まらない対話のための空間や領域での対論を頼んできたということなのだなぁ、と思ったので、それに応答したまでである。

     

     とはいえ、いきなり、マジで、世俗の学の世界の概念であるシステム論とか、科学思想の歴史理解とかからかい始めると、人は読む気なくす(これは、授業している時に経験済み)ような気がしたので、最初は、軽く自己紹介がてら、大頭さんとの関係を書いて、ちょうど、ボクシングの試合の前に記者会見でボクサーがやるように、そして、観客を巻き込むために悪口大会をしたのである。そもそも、当初のヨベルからの依頼原稿の文字数は、7000字である。楽の世界からの応答として、世俗の学の発展の歴史的経緯などは書けなくはないにせよ、かなり荒っぽい議論になる。とすれば、どうせ与えられた資源ならば、面白おかしく、リングに上る前の記者会見のように、悪口を言ってみるほうが面白そうだと思ったし、そのほうが読者というか、ギャラリーも面白がるのではないか、と思ったのだ。

     

    売上を確保するための販売協力として

    スポーツ新聞とかいう駅売りの新聞や、タブロイド紙と呼ばれる夕刊だけしか発行しない新聞があるが、駅の新聞販売スタンドでそレラの雑誌やタブロイド紙のトップ見出しにあふれているのは、バトルのことが多い。こういう揉め事は、スプリングセンテンスと呼ばれた、文藝春秋や、週刊新潮とかの見出しに多い。あまり、こういう週刊誌の広告がついていない電車にのることが多いので、時々、出張で山手線とか中央線とかに乗ると、「え、こんな広告するんだ」と思うようなどぎつい広告を見ると、目のやり場に困ってしまうことがある。女性誌だって、男性誌や一般誌とくらべても決して負けていない。

     

     

    週刊女性 中吊り広告  http://blog.8bit.co.jp/?p=6457 から

     

    なぜ、こういう広告をするか、揉め事に関する記事が大量に記載された広告をするかというと、売れるからである。揉めている方が売れるのである。だからこそ、あえて揉めているようなことを書いておくと、それだけで本が売れるのではないか、と思ったのだ。ある面で、あの文章は本を売るための方策である。なにせ、キリスト教書は、あまり売れないのだ。だとすれば、筆者としても、売れるための工夫を少ししてみようと思ったのためである。

     

     

    世紀の揉め事であった宗教改革

    今年は、宗教改革から500年を迎える。今では500年も経ったので、それなりに固定化されてしまったが、宗教改革とは、動乱であったし、庶民の熱気をも受けた当時の一大ムーブメント、ブームであったのだ。固定化した当時の教会の姿、抑圧される領主や庶民、国家(と言っても今の近代国民国家ではなく、都市国家と国民国家の中間的な存在の国家政体と一体化したような教会の姿に対して、庶民の渦巻く情熱の高まりの中で、ちょこっと文句を言ってみた、というのが、そもそもルター先生がやったことであり、それは、当時の教会(カトリック教会)をディスってみた、あるいは学術系の言葉を使うと、批判してみた、ということだったのではないか、と思うのだ。

     

    まさか、大爆発を狙って、生命狙われるようなことになるとは思っていなかったようである。それが、カトリック神学という閉鎖空間の中で、あるいは、限られた人たちの神学公共圏で行われている限りは、現在知られているかたちの宗教改革にならなかった。ルターが当時の庶民、農民や領主階層といった社会の様々な階層の人々の渦巻く不満とマッチしたからこそ、ヨーロッパを大激動の海に巻き込んだのだと思う。一大事件になったのである。彼がしたのは、当時のカトリック教会をディスった紙を、大学の掲示板である教会の門にみんなが教会に来る日のAll Saints Day(全ての聖人の日)にぶちつけたことだけである。

     

     

    この宗教改革の例のように、改革というよりは、大変革、革命のようなものとは、最初はほんの僅かのことで起きるのかもしれない。ルターの前にも、フス先輩や他の先輩方も居られたのだが、どうもタイミングが合わなかったらしく、ヨーロッパ全体を巻き込むかたちにならずに終わっている。大きな波になるかどうかは、どうもタイミングが重要なのかもしれない。

     

    初参加した「いのフェス 2011」の記念すべきポスター

     

    宗教改革が、大騒ぎになったのは、それがエンタメ要素満載だったからであろう。エンタメ要素があったからこそ、社会の多くの人々がみんなじっと、ルター先輩の動きを見ていたのだろうし、そして、当時のルターが生きた時代の人びとはそれに巻き込まれ、関与していったのではないか、とは思うし、それが、社会の大変動期にあった社会に結果として大変動をもたらしたのだと思う。

     

    エンタメこそが正義などというアホなことは言わないが、今の日本の福音派系キリスト教界、あまりに真面目でお行儀が良すぎで、良い子ちゃんが多くて、エンタメ要素がなさすぎのような気がする。そら、お行儀のよい、良い子ちゃんたちのよいこちゃんのための、良い子ちゃんによる信仰という側面が在るのは確かではない化、と思う。だからといって、無意味に不良ぶってみたり、過去の黒歴史を誇るために良い子ちゃんが本当はない話を持ち出すのは、もっとおかしいが、素朴に考えて、「そうでないんじゃないか」と思うことはそうでない、ともっと正直に、フランクに言ってみたほうがいいのではないか、と思うのである。

     

    良かったかどうかは別として、カトリック教会に向かって、ルター先生は、かなりの悪態ついている。え、こんなこと言ったの、と言いたくなるようなかなりひどい悪態もある。その意味で、ミーちゃんはーちゃんの悪態は、とりあえずは、大頭さんが言ってきためんどくさいお願いをネタあたりを最初のきっかけにしながら、今の信徒のためとは、ミーちゃんはーちゃんには、ほとんど思えなかった日本の福音主義関係の先生方のご議論の現状に対して、「それ、ちょっと狭い世界に凝り固まってませんか」「ブログでもなんでもいいからさ、もちょっと、信徒の世界にも出てきてくださいな」と言いたいがためにちょっと悪態をついて挑発してみた、ということである。その意味で、愛のある悪態でもある。挑発したら、4人の先生方が庶民向けにブログを書き始めた。一発目はあまり庶民向けとはいえないけれども。まずは成功である。とは言え、まだ、なかなかちょっと高踏的であるので、もうちょっと庶民よりにしてほしい気はしているが。

     

     その意味で、この本が、当時のカトリック教会に悪態をついたルーテル先生の宗教改革から500年に出たという意味は大きいと思うのだなぁ。これが。その意味での記念論集としての価値の幾ばくかはありそうな気はあるようなないような・・・そう言ってしまうと、単に遊んでいるだけにすぎないものとしては、ちょっと大げさではあるが。

     

     

    以上で、悪役レスラー編は終わりである。

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント
     ご紹介と応援ありがとうございました!訪問者数が増えていることにびっくりしていましたが、理由が分かりました(笑
     どれほど世界に目配せしているかと問われると、返す言葉に窮するというのが私も現状だと思います。(M野先生は、この点、ずいぶん先をいっておられます。)出来上がったシステムをあまり信頼せずに組みなおしている段階の私は、公への発信への遠さも感じます。
     専門家同士による神学対話も実はまだあまりないように思いますので、その意味では、1歩どころから、2歩も3歩も踏み出す必要がある状況にあると思います。
     7月は、ガンダム・オルフェンズに関する3つの視点と相互応答を企画しています♪ 若者に限られるかもしれませんが、アニメという素材をもとに、より広い対話を出来ればと願っていますので、また応援いただけると嬉しいです。
    • 怪物くん
    • 2017.06.12 Monday 08:44
    私は教会に通い始めて6年しか経っていませんが、1度転会しているため、ある同じ聖書個所を取り上げた説教を4人の牧師から聴くという機会に恵まれ?ました。
    具体的には書けませんが、同じ個所を取り上げているのに、牧師によって全く説教内容が違う、ということの意味を考えさせられました。

    聖書の解釈は「神学的な正しさ」が求められますが、4人の先生方の「正しさ」を疑うことはありません。
    が、その聖書個所の解釈から導かれて、私達の日常生活における指針や心構え、日々の信仰のあり方、生き方のヒントのようなものまでが、説教として与えられるわけですが、そこに「違いがある」ということは、
    牧師のキャラクターや主義主張、好みによるものなのか、だとすれば牧師を通して聴くみ言葉を私達信徒はどんな構えで受け取ったらいいのか、と考えてしまうのです。

    私は、それぞれの説教内容の「違い」は、個々の牧師の持つ「日常」の違いによるものなのではないかと感じています。
    牧師には牧師の日常があり、信徒には信徒の日常があります。
    そこにある隔たりが大きい時、信徒にとって、語られる説教は本の中の「正しさ」にとどまり、生きた言葉として私達の日常生活に活力を与えるものにはなり得ないのではないかと思います。

    「神学の本当のリングは、信徒の生活であると思っている。信徒の生活の場において、貢献するのが神学の真骨頂であるとは思っている」
    という文章に、そのことをまた思い返していました。

    「信徒の世界に出てきて」下さった4人の先生方のブログも、これから楽しみに読ませていただきます。
    • リリィ
    • 2017.06.12 Monday 20:36
    いえいえ、最初に早く、読者を確保するためには、すでに読者が多いブログからリンクを張るのが一番。

    内容がいいので、ご紹介したまででございます。焚き火の飛び火組の火が消えないようにしないとね。もっと燃やさないと。

    公の発信、そのうち、和いちろー先輩を大頭さんが引きずり込んでくるから、そう遠くないかもよ。そのためにも、気軽なメディアで発信しないとね。

    そういえば、『夕凪の街 桜の国』という、アニメかませて、本書いた人がお友達にいるの。次回紹介するけどね。

    こういう自由な発想がもっと出ないとね。

    また、どこかでお会いしましょうぞ。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.06.12 Monday 22:07
    リリィ様

    コメント、ご清覧ありがとうございました。

    >ある同じ聖書個所を取り上げた説教を4人の牧師から聴くという機会に恵まれ?ました。

    いや、それ、非常に稀有の経験かも。牧師が変わるところでは、結構こういう経験をすることがあるかも。

    正しさ、って、実はどう考えるのか、ってむつかしいのですよ。数学の問題だって、解き方はいくつもありますし。二次関数みたいに政界が二つの値を取ることもありますし。真理は一つとか言うのは、個人的にはたわごとに近いと思っていますが、いまだにこの種の誤解が人々の間にかなり強硬に残っているような気がします。

    ご指摘の通り、牧会者と信徒の生活の座というか場の隔たりが大きいとき、物理空間的には同じ場にいても、精神的、霊的な場の違いは大きい感じがしますよね。分断されているというか。

    あのブログ、結構マジでやっている人であることを知っている、知り合いばっかなんで、ぜひ、読んでやってください。(アクセス数が増えるだけで、発信側には励ましになります)

    それでは、また、どこかでお会いできるとうれしいです。

    では、また。
    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.06.12 Monday 22:15
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