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2017.06.07 Wednesday

『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その2(予定調和じゃつまらない)

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    今回も前回に引き続き、『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇の第2回として、あの本の対話者として、何をやろうとしたのか、を述べてみたい。

     

    完全原稿型・・・

    世俗の仕事の話で実に恐縮であるが、学会発表とか、イベントとかで、原稿を見ながら、それを一字一句そのまま読み上げるタイプの講演とかスピーチをする方がおられる。それは、それで、一つのスタイルである。重要なことを伝えるのだから、間違ってはいけないということで、こうなるのはよくわかる。世に、完全原稿型の講演とか、完全原稿型のスピーチというタイプのものである。教会でも、完全原稿型の説教というのもある。それはそれで一定の役割があるし、それはそれで、重要な側面を伝える上では大事な方法論なのだろうと思う。政治家の世界では安倍晋三氏がこのスタイルであることがわかっている。

     

     

    完全原稿を読み上げる安倍晋三氏のことを報道するFriday
    http://kaleido11.blog.fc2.com/blog-entry-3428.html から

     

     

    説教者不在につきラジカセのテープでの説教も…

     

    その昔、教会(キリスト集会)で説教をしていたこともあるが、基本的に完全原稿でしたことはない。そもそもミーちゃんはーちゃんには、無理なのだ。世俗の仕事の講義でもそうである。個人的には、かったるくてやってらんない、って感じである。一応は、基本となる骨格は作るけれども、一字一句、完全原稿を作って、それを音読するというようなまねはできない。体質的にそうだということである。学会発表でも、英語なんかの自分の母語でない言語でやる際、最初のころは、完全原稿を作って、それを読み上げることをしていたが、最近は、それもしなくなった。その意味で、ミーちゃんはーちゃんは、基本的に出たとこ勝負の人なのである。

     

     

    ラジカセ(イメージ画像です)
    http://rararadio3.blog.fc2.com/blog-entry-306.html より

     

     

    時々、職場の口の悪い同僚と学生の論文発表や学会発表などを見たりすることがあるのだが、その口の悪い同僚曰く「完全原稿、読み上げるだけなら、事前に録音していた録音テープでもながしゃいいのに。わざわざライブでやる必要ある?事前に論文配布して、その論文読んでおけばいいだけの話でしょ」と切れ気味に同意を求めてくることがあった。確かに内容のほとんどないつまらない発表で、スライドも使わず、読み上げ原稿で済まされる発表もある。文系の学会とか文系の人の学会発表では、このタイプの発表が結構今でも存在する。事前に論文を読んで行くような学会で、それと一字一句違わない発表なんかされたら、「この時間の無駄、なんなの?」って思ってしまうことがある。外がお天気いいときなんか、お外に遊びに行きたくなる。

     

     

    一番、強烈な例は、巡回伝道者が中心になって成立したキリスト集会(教会)で女性信徒しかいないとき、キリスト集会では、女性が語ってはいけないことになっている(キリスト集会派では、ここについてと女性の被り物だけは、なぜか厳密に墨守がされている)ので、仕方がないので巡回伝道者がいないときには、その昔、その巡回伝道者が語った過去の説教の録音テープを流していたという。この話を聞いた時には唖然とした。制約の中での最後の手段、という感じだったんだろうが、ある種、謎のようなこの話をごく当たり前のことかのように普通に語る人々のお話を聞きながら、愕然としてしまったことがある。こういう感性だと、アンドロイド牧師、とはいっても、携帯端末のO.S.のアンドロイドではなく機械仕掛けの人形のほうであるが、それに、牧師の代理をさせるという発想にもつながりかねない。

     

     

    人工知能を活用したロボット説教者・・・
    日曜日の朝、ちゃんと聖別され(聖成され)、あるいは按手を授けられたイケメソのマネキンを講壇に立て、人気声優の声で録音されているか、棒読みちゃんのようなテキスト読み上げソフトで読み上げられる、どこぞの有名説教者と呼ばれる超有名牧師先生の完全原稿の説教とこれまた事前にふさわしい内容の祈りの言葉をのべさせて、事前に設定された適切な讃美歌番号の讃美歌をヒムプレーヤーの伴奏で歌い、そして、きちんと按手されたイケメソのマネキンから祝祷を受けて帰ったら、プロテスタントの教会いっちょ上がりになるではないか。これを支える神学さえ、作り上げさえすれば、無牧教会問題は、問題一挙解決である。インターネット中継の礼拝とかなんかより、よりリアリティがあり、地方の無牧問題は、一挙解決である。これで、日本のキリスト教の未来は明るい。(ウソ)そんなわけがない。

     

     

     

     

    https://stuffwaynewrites.wordpress.com/2013/01/10/will-robots-replace-our-pastors/
    うわ、おんなじこと考えているやつがアメリカにおった。ある面、当たり前なんやねとは、思った。

     

     

    そんなこんなを考えていたら、ドイツで、祝福機能が付いたロボット司祭ができてたらしい。(BreadFishの丸山さん、FBでシェアしてくれてありがとう)

     

     

    ロボット司祭の動画像

     

    このロボット司祭については、http://www.tawashix.com/entry/robotPriest に詳しい

     

     

    しかし、だれがこのロボットに按手したのだろうか。このロボットの使徒継承権はどうなるんだ…といったことを考えて、東京の地下鉄の電車はどうやって入れるのか、という春日三球・照代の漫才のように考えて夜も眠れなくなりそうである。寝るけど。

     

     

    懐かしの地下鉄漫才

     

     

    とはいえ、説教中心で考えるなら、聖餐を軽視し、リタジーを軽視するなら、極端な話、こんな教会運営だって、十分候補のうちに入るだろう。このような在り方の教会運営を否定しようとするなら、それをきちんと否定する神学を、今のうちに早急に作ったほうがいい。日本の10年後の教会は、ロボット牧師を考えなければならないほどの状況になっていると思うが。

     

     

    予定調和型の教会がなしていることは、あるいはリタジーや聖餐が無視される教会や世界では、これと同じことが起きかねないのではないだろうか。それこそ、これが現実化して、古今東西の名説教と呼ばれるものをA.I.(Artificial Inteligence 人工知能)に機械学習させて、ある程度の説教ができるのであれば、10年後になくなる職業の一つに、教会の説教者ということが含まれうるかもしれない。教会が説教でできているとして、説教だけに限れば、話しである。

     

     

    あるいは、説教は生身の人間が声を出して読むにせよ、機械学習したA.I.説教製造マシーンに、計算機に内蔵されたカレンダーから教会歴を割り出し、会衆が関心を持ちそうなキーワードとか、スマホから説教についての希望するキーワードを集めた集計結果を全自動でぶち込んで、5分もすれば、古今東西の優れた説教を網羅的に機械学習した人工知能先生による見事な説教が出来上がるのである。

     

     

    コンピュータ教会・・・
    前回、レンチン説教ということをお話ししたが、レンチン説教ならぬ、A.I.チン説教ってのもそのうち本当にできるかもしれない。こないだ運転していたら、面白い看板を見かけた。コンピューター検眼っていうメガネ屋の看板である。この種のコンピュータにはなんでもできる、なんでも正確といった無茶な信仰、「もうおやめになりませんか?」と計算機屋としては思っている。

     

     

    そのうち、コンピュータ説教とか、新規性を求める教会では、「当教会では、IBMのワトソンが学習して作成した名説教を毎週皆様に…」とかわけわからん事を言うような教会も出てくるかもしれない。なお、IBMは、最近ビッグデータと人工知能のワトソンに力を入れているらしい。

     

     

    そして、そうゆう教会では、信徒は信徒で、ロボットにアバターつけて、教会にロボットを派遣して、説教を自宅で聞く、とか、ロボットを介して、お交わりをするとかになるんだろうか。完璧に予定調和型でリタージカルな側面を軽視するような教会だったら、本当にこれでできるんじゃないか、という錯覚にも一瞬陥りそうである。

     

    あぁ、やなこって。w

     

     

    IBMの高速計算機 ワトソン
    http://robotstart.co.jp/news081.html から

     

     

    マンネリ化を防止し、礼拝にリズムを与える教会暦とリタジー
    こういう予定調和的な教会って、あるいは意外性のない大いなるマンネリと呼んでもいいほどの、マンネリ化した教会って、好きな人は好きなのだろうけれども、個人的にはミーちゃんはーちゃんには、会わない。プロテスタント系の教会しかご存じない方は、伝統教派をマンネリとご批判になられれる方もおられる。リタージカルなものを大事にする伝統教派のほうが、ある種マンネリという部分もあるかもしれないが、そこはうまくできていて、飽きないようにちゃんと、教会歴や『たき火を囲んで聞く神の物語 対話篇』での大頭さんの先輩遊びの出発点となった先輩記念日表というものがあって、これまでの信仰者としての先輩たちがど尿なことを成したのかを覚えるという側面もある。この教会歴や先輩記念日がリズムを生み出すこと、そして、礼拝をする会堂の様式を教会暦に合わせて変えることの意味は、伝統教派に行ってみて、深く思い知るようになった。

     

     

    季節ごとに代わる聖なる食卓、教会暦に合わせた多様なリタジー(式文)、あるいは、レント(大斎)の経験、実に見事と言うしかない。プロテスタントでも、そのようなものを一部取り組んでおられる教会もないわけではないが、これまで言った教会ではきわめて薄っすらとあるくらいであった。

     

     

    まぁ、そういう変化がないことについての課題についての感性が鈍い方もおられるので、大いなるマンネリ、教会暦などとは無関係に均質性、一貫性を追求される教会もある。それはそれで、見識だと思っている。まぁ、現代の人工知能、ワトソンくんくらいなら、この辺も適切なし気分を揃えてくれるだろう。そうだとしたら、生身の人間としての牧師や司祭は不要になってしまう。

     

     

    こう考えてくると、Pythonなんかでプログラム書いて、クローラーでも作って、新聞とか、ツィッターとか、ウェブに上がってくる情報を拾いながら、そこで現れる単語から社会の動きなんかを拾ってきて、その辺を説教に反映させて、古今東西の正教の伝統、カトリックの伝統、アングリカンの伝統、プロテスタントの各派の伝統に保存されてきた名説教を、IBMのワトソンくんに機械学習させて、作成させたほうが、説教の内容という意味では、よほど世間に生きる平信徒にとって充実していると感じられるような説教にはなるかもしれない。少なくとも、説教の文字テキストを作り出してくれるようになる日はそう遠くないと思っていると、これからの神学校教育って、何をすることになるのだろうか、などと空想しては、ニタニタ笑っている。

     

     

    計算機やA.I.は神を理解するか?心を持つか?
    こうなると、計算機は神を理解するか、計算機は、神からの召命を受けるか問題にまでなってしまいかねない危うさをもっているように思う。あるいは、計算機はMind(思考)は持つことはできると思うが、Heart(こころ)を持つことができるか問題とも深い意味ではつながっている。先週まで読んでいたナウエンの本(The way of the heart)には、Mindの祈り(頭で考える祈り)とHeartの祈り(こころで祈る祈り)があると書かれていたが、近代プロテスタントの祈りは、Mindの祈りがメインで、ほとんどHeartの祈りがなかったのではないか、というようなことが指摘されていた。それゆえに、現代のMinistryにおいては、Heartの祈りを取り戻すことが重要であるということと書かれていた。それと重ねて考えると、計算機がHeartをおそらく持ち得ないので(というのは、計算機は、神の被造物ではないし、神の息吹を吹き込まれるようにできていないので)、当面どころか、未来永劫、計算機でガラガラポン説教は必要にはならないだろう。

     

     

    しかし、今後の日本のキリスト教徒の信仰がMind派に大きく傾倒していくとすれば、それこそ、計算機ガラポン説教のほうが、適切な説教構築のためのパラメータ(ウェイト)をきちんと与えさえすれば、望ましいものになる可能性が高い。とはいえ、計算機は、神の被造物ではなく、人間による被造物でしかないので、未来栄光、霊を宿すことはないだろう。

     

     

    その意味で、神の息吹が吹き込まれた(はずの)人間の牧師や司祭による司式や説教は、その価値を減じることはないだろう。

     

     

    予定調和を崩すのがお約束の悪役レスラーとして
     そこで、この本で、少なくともミーちゃんはーちゃんが第6章でやろうとしたことは、予定調和的な議論ではなく、大頭さんの言葉を拾いながら、適当に茶飲み話をするでもなく、あるいは、褒め殺し(これをすることはちょっと考えたが、あまりにも可愛そうなのでやめた)でもなく、対話である。対話は相手の話を聞きながら、ツッコミをビシバシ入れるものであると、関西人としては心得ている。この連載でも、あえてボケ倒したのが大頭さんだとすると、関西人としては、それにツッコミを入れるのが、責務と感じてしまったのである。お葬式のような漫才はつまらないだろう。漫才が漫才であるためには、適切なツッコミこそが大事なのだ。

     

     

    そう思っているから、ちょっぴり予定調和を崩してみたのだ。

     

     

    次回 「予定調和を打ち破るのが教会の○○ではないかな?」へと続く。

     

     

     

     

     

     

    評価:
    大頭眞一
    ヨベル
    ¥ 2,700
    (2017-06-01)
    コメント:おすすめしております。一応寄稿者としても。w

    評価:
    Henri J. M. Nouwen
    HarperOne
    ¥ 886
    (2009-09-22)
    コメント:大頭さんの本は読まなくてもいいので、英語が読める人は、この本を読むほうがいいかも。

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