<< N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その64 (完) | main | 『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その2(予定調和じゃつまらない) >>
2017.06.05 Monday

『焚き火を囲んで聞く神の物語』の楽屋話 悪役レスラー篇 その1(神学校授業のレンチン説教は・・・)

0

     



    Pocket

     

    音声ファイルダウンロード先

     

    前回、先月末の記事  いよいよ、あの本『焚き火を囲んで聞く神の物語』が・・・  で『焚火を囲んで聴く神の物語』を神学プロレスと称したが、久保木さんによれば、あれは、『神学フェス』だという。まぁ、そういう意味でいば、『神学ジャムセッション』といってもいいかもしれない。

     

    しかし、個人的には神学プロレスだと思っている。なぜかというと、「戦争は血を流す政治、政治は血を流さない戦争」とクラウセヴィッツさんがいったのか、いわなかったのかはしらないが、対論が真剣なものである以上、言葉による真剣な、どつきあいしないと面白くないではないか。なので、今回、がちでその対論という学問的などつきあいを世俗の側にある人間としてやろうとしてみた。7000字という制約付きで。

     

    オファーの経緯

    ミーちゃんはーちゃんは、プログラマさんでもあるので、クライアント・依頼者・発注者の制約は絶対である。かるいオファーは、大頭さんからFacebookのメッセージであったが、この場合の正式のオファーは、メールで出版社のヨベルの社長の安田さんからやってきた。メールでこようが書留でこようが、内容証明郵便でこようが発注者の制約条件は絶対である。今回の依頼は、メールで頂戴したが、素直にそれに従った。そうしたら、お一人、どうも、この字数制約をガン無視したのが、上沼老師である(最近、中国人の留学生の世話をすることが多いので、彼らは、ミーちゃんはーちゃん老師と書いてくるので、それが伝染している)。

     

    校正稿を見たら、上沼老師お一人、長い(倍ぐらいの1万字超)の長さなのである。正直、「ずる〜〜い」と思った。「こっちのほうが、よほど、場外乱闘じゃん」と思った。あと、お一人、色々斟酌すべき諸事情があったことは間接的に存じ上げている方なので、個人を特定はしないが、締切を大幅に遅れて原稿を送られた方(2月末段階でも原稿が入っていない)もおられた。それらの方こそ、個人的には、場外乱闘ではないか、とおもうのである。

     

    そういう意味で、この本では、読者からは一見、目に見えない場外乱闘事件を起こしている執筆者もおられるのである。

     

    ところで、先のクラウセヴィッツさんであるが、どうも本当のところは、多分 「戦争が他の手段を以ってする政治の延長」 と言ったらしい。

     

    プロレスのどつきあいにしても、学術的対話をするにしても、ある種真剣にやるということは、ある程度の流血覚悟をするということであろうし、その覚悟でリングに上がっているわけだ(いやなら、そもそもリングに上げなければよい)し、それは、大頭さんの方も、望むところだったと思う。なぜならば、大頭さんは、この本の共著者は、同調者ではなく、対話者(対論者)だと繰り返し、この本が出るまえの企画段階でのFacebookでのチラみせ(スニークプレビュー)の投稿でそう語っていたからである。

     

    情報処理学会のラインスタンプではないが、「同調者ではなく対話者(対論者)である」とまでおっしゃるなら、と世俗の職業人として、そして、神学的素人の見地から応答して差し上げたのが、拙論である。たかだか7000字である。そもそも、そう大したことはかけない。

     

     

    ところで、この本の私の応答部分について水谷潔 尊師(当然、これはおふざけ表現である。読者よ、悟れ)はFacebook上で、次のように書いておられた。

     

     壮絶な戦いを繰り広げたのが、川向氏。神学とは関係ない大頭牧師の悪行三昧を暴露するという「場外乱闘」を繰り広げ、「凶器攻撃」に出る。リングに上がった後も、容赦のない攻撃で、大頭牧師は、血まみれに。大仁田厚を彷彿させるこの流血マッチも、「神学プロレス」の醍醐味の一つだろう。

     

    確かに、大頭さんの悪行三昧は書いた。だって、旧約聖書には、アブラハムの悪行三昧も、ダビデの悪行三昧も、包み隠さず書いているではないか。この本は、旧約聖書の路線の上で『神の物語』を聴く、として企画が上がっている以上、当然のことだと思ったので、この大頭さんというどうにも困った人の大頭さんに対する、最もあわれみ深いお方、すなわち神の憐れみを、きちんと示すためにも、そして、神の御名が賛美され、栄光が評価されるように、きちんと悪行三昧も書いておかねばならない。

     

    市井の研究者への冷たい態度
    このキリスト教業界、牧師が表街道だとすれば、平信徒は、裏通り、あるいは裏街道を歩むのが当然のようにあつかわれる。それは、キリスト教メディアでもそうだし、神学校と呼ばれるところでも、基本的には相手にされないし、牧師の世界の人たちからは、なにを言っても、鼻先で笑われている様な印象がある。ミーちゃんはーちゃんのひがみ根性からの歪んだ印象かもしれないが。ちなみに、ミーちゃんはーちゃんとお付き合いいただいている牧師の先生方は、そういう対応をされる方はほとんどおられない。
    ところで、こういった対応は、まぁ、それは、教会の世界だけに限らない。学問の世界でもそうなのだ。

     

    学問は基本的に学の世界や業界の専門家の世界である。組織に所属しないで研究をする人のことを、市井の研究者と呼んだりするが、こういう組織を背景としない存在(いまは、独立研究者 Indipendent Researcherと呼ぶことも増えた)は、案外、想定外の質問、つまり、先の「この分野は、素人なので教えてほしいのですが・・・」と前置きをするかしないかは別として、「いまから、学問的に公開処刑をするから、歯を食いしばれ」に近い質問をするから、実におっかないのである。一応、ある分野をしている人からすると、「そこを言っちゃうと、これまでの蓄積を含めて、おしまいになるから、それは言わないお約束」という暗黙の一定の了解事項があるのだが、学者にとって素人の質問がなにより恐ろしいのは、この「言ってはいけないお約束」を完全に無視してくるからなのである。そもそも、学問の世界で、基本的には言ってはいけないお約束は、本来ないはずなのだが・・・。
    一応、魔術師の例でいう「詠唱」部分で、「観測や測定方法、時間的、文字数的な制約による限界がある研究成果だから、それ以上は突っ込まないでね」という学術分野ごとのお約束を述べるということは言っておく習慣のようなものはある。とはいえ、基礎的な前提を疑うことなんかはまだ正当な批判なので、学問の側は、正当な批判である限り、ある程度受けて立つ気分はある。

     

    一番困るタイプの市井の研究者は、「自分は個人で長い時間かけて研究しているのだから、あなた方、学問の側にある側は認めないかもしれないが、たとえ専門家あなた方には、意味が分からなくても自分に自己流の用語であるかもしれないが、自分の発言の権利をよこせ」と結構高圧的に批判的なことをおっしゃるタイプの方のご発言である。結構、これ、革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)とか、日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派(革マル)系の左派系の人々や、ご自分だけで勉強しておられて、自己の研究を他者の目から見て、対話的に、批判的にご自身をご覧にならなくても済むような環境におられる高齢者に多くて、もともと性格が偏固であるためか、だれからも相手にされないタイプの方に多いような気がする。まぁ、一応相槌を打ちながら、お話はきちんとお伺いすると、少し冷静になられるのか、その過激な言動は少し和らぐので、その落差がかわいらしく思えることが多い。このタイプは、教会を批判するために教会に来られる方にもかなりの確率で散見される。

     

    要するにこういうことをおっしゃる方は、「教会内の仲間内でやりやがってけしからん(おいらも仲間に入れてくれ)」ということだけが言いたいだけなんだろうと思う。ただし、仲間に入る、リングに上る以上は、ヤコブのレスリングの記事ではないが、お互いに取っ組み合いをやるわけであるから、腿の蝶番の外れることだって、そして、怪我をすることだって覚悟の上である。けがをしないためには、ちゃんと受け身や練習しておかないと、だめである。そうしていても、けがの一つや二つ、流血の一つや二つなければ、面白くないではないか。サッカーのワールドカップが茶室のなかでのお茶の勝負になってしまい、相互におっとりと、「結構なお手前で・・・」みたいにやられたら面白くはないだろう。

     

    とはいえ、マジで茶道をやると、あれはあれで結構、格闘技系芸術なので、「茶道具合戦」「掛け軸合戦」になったりするのであるが。たぶん、千利休に秀吉君が切れたのは、秀吉君に離宮がガチ勝負を挑んだからだ、と思うのである。まさに、派手さを追求する絢爛豪華系を目指す茶の湯の世界の秀吉君に、利休が「この絢爛豪華系のお茶の分野は素人なのですが…」と秀吉君とそのお茶の好みを公開処刑をしたから、時の権力者の秀吉君の逆鱗に触れて、死を賜ったのだと思う。

     

    道をガチ勢で極める世界(学問の世界もそうだが)は、「あな恐ろしや」の世界なのであり、けがをしたくない素人衆は、手出しをしないことに限るのである。ガチ勢を相手にすることは、案外実に恐ろしいのである。

     

    ここで、振り返ってみれば、ミーちゃんはーちゃんが「人のいいI.T.技術屋のおぢさん」としてのミーちゃんはーちゃんに対する印象をもっていたかもしれない大頭さんから、対論をお願いされたので、それもまた、ややこしい、オープン神論とかいう議論についてお願いされたため、「よっしゃ、そんならいっちょもんだろう」と学問の世界では当然の「素人的コメントで大変恐縮ですが、たぶんこの辺のことをきちんと理解しないんでいいのでしょうか…」と怒涛の攻撃をしたのが、本書第6章のp.162以降である。したがって、水谷尊師曰く「リングに上がった後も、容赦のない攻撃で、大頭牧師は、血まみれに。大仁田厚を彷彿されるこの流血マッチ」となってしまったのである。

     

     

    なお、学問の世界ではうっすらとは知られていても、多くの人々がご存じないのは、ニュートンや、パスカルなどの時代の割と有名な学者には、世俗の世界の住民で、市井の研究者、独立研究者だった人が多いのである。たかだか300年か400年くらい前まで、昔はみんな、独立研究者であった。恵まれたご身分でない人で勉強したかった人は、修道院で修道生活をしながら学問をした。コペルニクスがそうであるし、遺伝の法則を発見したメンデルも修道僧である。

     

    世界で最古の大学と呼ばれるイタリアのボローニャ大学も、もともとは修道院がその出発点であるし、世界の名門のオックスフォード大学も、ケンブリッジ大学も修道院から始まっている。アメリカのハーバード大学も、もともとは牧師養成所であった。

     

    オープン神論とミーちゃんはーちゃん
     あの本で書いたように、第6回日本伝道会議(JCE6)では、社会と教会の関係を考えるセッションに事前に申し込んでいたにもかかわらず、そこから、突然引き抜きをして、オープン神論の世界に引きずり込まれた。聖契神学校の関野祐二校長が、直前に大頭さんにオープン神論のセッションをまとめるように、丸投げしたことが諸般の原因らしいが、そこに集まる多数の並みいる牧師先生のまえで、ことあるごとに、「川向さん・・・・」と神学的な素養のない人間に、大頭さんは助けを求めてきたし、かなり厳格な予定論に立つお立場の改革派系の牧師さんからある種、「おかしいじゃないか、そんな予定がきまっていないことなどは、神が全知全能なれば、神のご性質の理解がおかしくなるのではないか」とねじ込むようにおっしゃった方とも、行きがかり上やむを得ず、対話を求められたのである。一応、学問的誠意をもって応対はしたつもりであるが。当方だって、流血マッチをなんとなく行きがかりとはいえ、やらされたのだから、その場で気が付いたことを書いておこう、このオープン神論の背景に潜むある種の前提、世界観があること、それの妥当性があるのか、どこまで妥当性があるのか、前提としての妥当性はどうか、という気が付いたことを、「素人的コメントで大変恐縮ですが、たぶんこの辺のことをきちんと理解しないままで、神学的議論のみで議論を進めて、よいのでしょうか…」とぶちかましたのが、第6章の応答「神の群像劇(アンサンブル・プレイ)と私たち」の後半p.162の部分である。

     

    神学は牧師室のものじゃないかと…
    と、ここまで長い前振り(この辺は、学術論文での先行研究の部分、魔術師の世界での「詠唱」に当たる)をした後で、本論に突入である。この辺は、学資論文や、修士論文や博士論文などの学術論文の定石である。これもまた、学門の世界のお約束である。

     

    個人的には、組織神学などの勉強をまともに神学校でしたことはない。その意味で、ミーちゃんはーちゃんは、神学という魔術師の世界での「詠唱」をきちんと唱えられないし、唱える気もない。大体長すぎて退屈してしまうと思う。そこでこれまた、「素人的発想で、大変恐縮なのですが…何のために、神学があるのでしょうか」と根源的な質問(それはしてはいけない質問かも知れないし、少なくとも、日本やアメリカの神学校ではあまり教えてくれない重要な根源的問いだと思うが…)をしてみたい。

     

    今、世俗の学でもそうだが、学問のための学問が多すぎるような気がする。学問的成果を簡単にあげる(要するに論文を書くこと)ための学が求められているし、学問の評価も、基本的に論文を書かないと評価されない、根源的な問いをすることはあまり評価されない現状が実際にあると思う。なぜならば、そんな根源的な問いについての論文なんて、そう簡単にかけないからである。簡単に書ける論文は、テクニカルに書く論文であり、評価者である人々(それは匿名の評価者、レフェリーだったり、学位論文の審査員)に受けのいい論文を書かないと、よい評価がもらえないので、ついそういう安易な道に流れてしまい、本来、何のために研究するのか、なぜに自分がこれが面白いと思ったのか、などは一定の評価をしてもらうための犠牲として、結果として、無視されることが多い。その意味で、魂を売り渡して評価を得ているのである。しかし、それでいいのだろうかとも思う。その人のスピリットというか、魂というか、学問的な素朴な出発点とかは、案外大事にしたほうがいいとはおもうが、それでは、食えない。

     

    先日、Elementary (日本では、エレメンタリー・ホームズアンドワトソン in NY)というアメリカの海外ドラマを見ていると、「神学をやっている人は、神学では食えないので、別分野で就職している」というセリフが聞こえてきたが、学問の世界では、みんな生活するためには、魂を売り渡して、仕事をするしかないのである。

     

    ところで、そもそも、神学とは、神学のためのものだろうか、と素朴に、素人的発想で思ってしまう。もともとは、神学は、信徒が神の民として歩めるように整えることを補助するため、神の民に仕えるための学として始まったのではないだろうか。ほかの学でもそうだが、そもそも、天地創造の御業をより深く知るために始まった自然科学にしても、人のかたちが人のかたちとしてよりよく生きることができるように始まった医学にしても、今はその出発点を忘れ、神の御業などとは考えないまま、独自のベクトルで進み始め、自然科学の場合は、核融合や核爆発などにも貢献する原子物理学の世界という、人間には手に負えないものにもつながったし、医学にしてもそれが人間の尊厳なのか、神のみ思い(エンシャー・アッラー 神のみ思いのままに、という意味のアラビア語)を尊重しているのかうかがわしいような延命治療なども行われなくはないと思う。まぁ、延命治療の場合は、遺産相続などの関係で、簡単に死んでもらったら困るというような人間側の側面が働いている場合も無きにしも非ずであるが。

     

    いずれにせよ、信徒は、牧師室で生きているわけではない。霞を食って生きていけない以上、牧師室を占拠し、牧師先生に飯を食わしてもらう(時にこれをしてもらうとうれしいことは確かだが)ことを延々続けるわけにはいかないのだ。信徒は、生活の場があるのだ。逆に、牧師先生だって、信徒がつねに金魚の糞のように付きまとわれるといやだろう。信徒が、神の民が、神の栄光を求め、神とともにこの世界で生きられるようにすることを聖書から考えるのが、まずもって神学だったはずだし、聖書神学の大原則だったはずだ。他者と他者の言説をあげつらってどうこうするような神学は、神学のための神学ではあっても、信徒のための神学、神の民に仕えるための神学、神の民が礼拝するための奉仕者としての神学といえるのだろうか。個人的には、そう思う。

     

    輸入冷凍レトルト料理のような日本の神学
    そして、上に引用した水谷尊師のコメントに、なんで、ミーちゃんはーちゃんがあのような乱暴な応答をしたのかについて、ミーちゃんはーちゃんは次のようなコメントをお返しいたした。

     

    信徒が生きているのは、社会なんです。これまでの日本の神学とよばれるものは、その信徒が生きている日本社会を無視して、あるいは、日本社会の文脈のコンテキストをある程度無視して、西洋である程度出来上がってきた、パッケージ化されたレトルト食品のような神学を、これは舶来の非常に素晴らしい食事だ、と言って、ほぼそのままちょっとレンジでチンして出してきたのが、日本の教会の”神学”だったのではございませんでしょうか。

     

    大頭さんは、レンジでチンしたものをちょっと無節操に(という気はしますが)寄せ集めたものも、時々、ちょっと使いながらも、ある程度ちゃんと自分のところで調理して(ちょっとだけだけど)、それを我々にぶつけてきたような気がしたのです。

    としたら、それにキチンと応答して差しあげるのが、社会の側に足場をおく私の役割とおもったので、やや場外乱闘気味にやって見せたまでのことでございます。この辺の匙加減がかなり難しいのですね。いきなり、マジで、システム論とか、科学思想の歴史理解とかだと、読む気なくすでしょ。w
    上の表現は、個人的には、後藤先生のご発言
     これは新しい伝道方式だと言われる教会では、 ゴスペルミュージックが歌われ、 ホットドックにコカコーラ、スターバックスが似合うような雰囲気で(これらも私の好きなものです)、実際にドリンクの自動販売機が置かれていたりします。それが今の社会のライフスタイルですし、文明的にも、文化やエンターテインメントの世界でも、アメリカ的消費社会に誘導されているのが世界の現実ですから、新しい世代への伝道のアプローチのためにはやむを得ないし、自然で必要なことかもしれません。しかし、そういう中で伝えられているメッセージが、アメリカのポップカルチャーに彩られた古いディスペンセーション神学のイデオロギーであったり、価値観や世界観におけるアメリカニズムであったりするのを見ると、日本の福音派キリスト教は、時代の流れとともに多様化はしましたが、いつも新しいものはアメリカから来るということにおいては、私の高校時代から——いや戦後の焼け跡の時代から——何も変わっていないのではないかと思わされます。

     

     

    の趣旨を下品に、より浮世風の言葉で表現したに過ぎない。アメリカやイギリスでの流行をそのまま持ってきて、○○の神学がはやっているから、と翻訳書に浮かされて、それが教会の中で幅をきかせる。牧会カウンセリングが流行っているからと、日本のプロテスタント派の教会の中でそれが流行る。実に残念なことである。

     

    牧会カウンセリングは、無意味だとは言わない。ないよりはましではある。

     

    ただ、流行に乗ってやるのはどうなのか、と思う。以前どこかでも書いたが、牧会カウンセリングは、本来、司祭と信徒の間での告解(いわゆる懺悔)で大概のものがカバーされていたはずなのに、告解は、おかしい、儀式的だとプロテスタントになったその末裔たちが勝手に廃止した結果、説教では簡単に処理できないために、教会の中で何らかの形での対応が迫らているゆえに、牧会カウンセリングが出てきているような気がするのだ。自分たちで勝手に廃止しておいて、何を今頃言い出すのか、とMさんでないけれども言いたくなってしまう。牧会カウンセリングをやるなとは言わない。しかし、やるならやるで、そのための神学をきちんとするほうが先ではないか。自分たちが捨ててきたものが何だったのか、ということを、まず反省すべきではないのか。「神学校で教えてないから・・・」というかもしれないが、それは理由にならない。

     

    牧師の先生方は、神学校で教わったことを信徒がわかるように平たい現代日本語に変換して語る(電子レンジでチンするように語る レンチン説教する、と以下称する)ことが牧師の役目だろうか。違うのではないかなぁ。Lean CuisineやTV Dinnerと呼ばれるレンチン料理がアメリカのスーパーに行くと、いろいろうられているが、神学校で仕入れたLean Sermon やTV Sermonなら、まだ、レンジでチンするだけましである。レンチン説教なら、ましかもしれない。中には、どこぞで見た説教をそのままコピペしたようなコピペ説教も出るようである。ミーちゃんはーちゃんのお友達になっておられる先生方や、この本の共著者にはレンチン説教やコピペ説教するような、そういう方はおられない。日本の教会の大半の牧師先生方の土曜日の深夜の呻吟ぶり(土曜深夜、Twitterを観察していると、このシンギンぶりが結構な頻度で出てくる)を見ていると、大変だなぁ、と思う。まぁ、レンチン説教どころか、コピペ説教でお済しになられる、そういう変な牧師先生はあまりいないようだが、一部にそういう方もいないというわけではなさそうだ。

     

     

    http://www.hezzi-dsbooksandcooks.com/2015/06/new-lean-cuisine-marketplace-meals.html
    上のリンク先を見るといろん種類のLean Cuisineが出てくる。

     

     

    http://www.cooksinfo.com/tv-dinners

     

    とはいえ、日本にアメリカの神学潮流が入ってくるまで、約20年のタイムラグがある(その意味で、お古であるともいえるし、十分にアメリカでの様子を確認し、安全が確認されてから入ってくるとはいえるかもしれない)し、以前は、もうちょっと時間的なラグがあったし、英国やアメリカなら、クラッシックとも呼べる本、例えばロイドジョンズやF.F.ブルース、ライル、ナウエンの著作などは、神学校の入学者が一定程度継続的に、それも一定の人数ボリュームがあるので、クラッシックとはいえ、いまだに印刷・販売され続けているものの、日本だと、神学書は、ここで会ったが百年目、親の仇でも仇討のように確保するように、書店で出会ったときに確保するか、復活書店さんなどの古書店で確保するしかないのである。実に残念なことである。

     

    日本の出版社は毎年、大量の2刷、3刷の出ない本ばかりを次々と出している自転車操業状態が常態となって久しい。この本だって、主著者の大頭さんが印税を取るのではなく、印税部分は大頭さんだって、現物支給なのであって、大頭さんは主著者自ら、売り歩いておられるのだ。共著者も印税はないしその部分は現物支給である。実に涙ぐましい状況なのだ。

     

    とはいえ、アメリカのキリスト教書の大手ともいえるZondervanなども大手出版社の傘下に入るなど、キリスト書関係の規模の小さい出版社は再編のあらしにまみれている。まぁ、これらの状況は、理工系の専門書などでも同様である。そして、その多くが、実は翻訳モノ(輸入書)なのではないだろうか。日本人著者によるものは、かなり少ない。そして、時々、翻訳が目が当てられないものも少なくないのだ。残念なことに。最近は、要所をそのまま読むほうが、妙な翻訳を見なくて済むし、何より、安いので、英語でそのまま読んでいることが多い。とはいえ、日本語でないと困ることもある。その意味で、日本語のキリスト教書では、少なくとも、あめんどうの本は、編集の人がかなり厳しい目を光らせているので、翻訳書であっても、安心しててもよいが、それ以外の書店のものは、訳者を見ないと、信用ならないものが多い。訳者を見てても、外れの時もある。

     

    どうも、日本のキリスト教所業界をマクロ的に見ていると、アメリカで十数年か数十年前に流行った本が、レンジでチンするかのように日本で翻訳されて、神学校で読まれ、それが教会の現場に広がっていく現状があるような印象も、日本のキリスト教書の出版事情を見ていると、起きているのではないか、と思うほどである。某神学校では、いまだに、戦後間もないころの大先生の著作が、いまなお読み上げられているとも聞く。それをもとに受講生と議論するのではなく、講義の時間には、教員がその古い本を読んだり、学生が音読しているという、信じられない教育が行われているらしい。日本語についての語学教育でもあるまいし。もう、開いた口が塞がらない。

     

    神学校での教育がそれならば、レンチン説教で済ませる人が出てくるのも理解できなくはない。

     

    ところで、アメリカや英国ではやっているからいいわけではない。

     

    しかし、10年も、20年も時代遅れの冷凍焼けして、かなり硬くなったり変色したような聖書理解をありがたがって受け取らされている現状ってどうなのかなぁ、と思う。それならば、正教会のように、聖書と古代教父のものしか読まずに作り上げられる説教のほうが、変に中途半端に古いものよりも、よほど熟成がなされていて、濃厚でいいような気もするけれども。大体説教時間が短いし。

     

    大頭さんのオープン神論は、おそらくレンチンである。何冊かきちんと本読んだ結果ではないと思う。どこかでちらっと聞いたことや、山崎ランサムさん(大頭さん風の表現によれば山崎ハンサム)のブログを読んだだけという節が感じられる。そもそも、「こういう話はこういう理解でいいか」とミーちゃんはーちゃんにときどき、聞いてくる段階で、かなり怪しい。

     

    まぁ、詳細は読んでないにせよ、本書の素材は、まとまった本を何冊も読んだうえで、というわけではないにせよ(その意味で、レンチンではある)、一応自分で考えてみて、なんとか信徒さんのレベルにも聖書の世界をわかりやすく受け取ってもらえるよう、工夫をして述べようとしたのが、本書ではある。ちゃんと調理をして、味見くらいはした感じが、本書であると思ったほうが良い。

     

    調理不足や、調理の盛り付けは、まぁ、ひっちゃかめっちゃかではあるような気がするが、一応、自力である程度格好よく見せようとして、盛り付けまで、やろうとした、ということと、やってみたという、その精神は高く評価したい。だからこそ、面白がって、同書でも応答したし、こうやって、台所事情を、料理の鉄人よろしく中継しているのだ。

     

    1980年代中葉に大流行した料理の鉄人。この番組のフォーマットはアメリカにも輸出され、アメリカ版の番組ができた。

     

    アメリカ版 料理の鉄人 Iron Chef

     

    こういう料理をぶつけられた以上、単なる感想ではつまらないではないか。なぜ、このようなオープン神学というような亜流とも思える神学思潮が出てきたのか、近代社会と近代キリスト教社会をゆるく支配してきた組織神学の体系がもたらした現在の社会の閉塞感と、その閉塞感を打破しようとして、これまでの蓄積を、あえて無視したような神学の体系や学問の体系がどうして出てきたのか、ということを現代社会という生活の座から軽く解き明かすことこそ、世俗社会に生きて、世俗社会の閉塞感と、世俗社会でのポストモダン思潮や、ポストコロニアル思潮を横目で見てきた人間の役割だと思うので、メタ世界からの議論を申し上げ、話題を提供したまでである。神学にとってのメタ概念を、場外乱闘とおっしゃるならば、言われたらよろしい。

     

    日本の神学状況を横目でちらちらとみているに、どうも神学という象牙の塔なのか、金字塔なのか、エッフェル塔なのか、あばら家なのかは知らないが、どうもその建物の中に凝り固まっていて、その世界の内側だけを見ている感じがして、この辺の社会の状況ととらえて社会に出ていくための神学をしている人が少ないような気がする。それを、不十分とは言えども、乱暴さを持ちつつも、そのあばら家なのか、象牙の塔なのか、金字塔なのか、エッフェル塔なのかを飛び出して、我が道を行く、という感じで行こうとした大頭さんに対する、援護射撃が、あの場外乱闘、メリケンサックでガンガン、チェーン攻撃でビシビシなのであり、これから数回連載する予定の悪役レスラー篇である。悪役レスラーであるからこそ、裸の王様に、「王様は、裸ちゃうんか」といえるのである。

     

    まぁ、お約束の攻撃なのと、先にも述べたように、庫裏なのか、楽屋裏なのか、台所事情なのかは知らないが、裏事情はかなり知っているので、かなり、衝撃が弱まるよう、悪役レスラーのように、ちゃんと、緩めに攻撃をしている。それこそ、マジでやるときは、情報処理学会のラインスタンプよろしく、「この分野、素人なので、教えてほしいのですが…」といいつつ、青白い炎を立てて、聞きまくって、だめ出しする。

     

     

     

    しかし、神学とは、先にも述べたように、世俗の社会に生きる神の民のための営為ではなく、さらに、牧師室の本棚の肥やしを増やし、あるいは、今後のレンチン説教を量産するための在庫の積み増しを増やすためのものであるとするならば、実にナンセンスなことである、あるいは、意味ないじゃん、と思う。

     

    明石家さんまさんの「意味ないじゃん」 (2分37秒あたりから)

     

     

    今は、ミーちゃんはーちゃんは流浪の信徒ながら、いや、流浪の信徒であるがこそ思うことができるし、今は流浪の信徒であるからこそ言える。流浪の神の民、寄留の信徒であるがゆえに、怖いものは何もない。好きなことが言えるからこそ、好きなことを申し述べさせてもらいたい。それがご不満なら、どうぞ、PCの電源をオフになさるがよろしかろう。ブラウザのタブボタンを閉じられれば良い。あるいはブラウザの閉じるボタンを可及的速やかにクリックされたい。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 2,700
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:まぁ、いろいろございます。面白がって書きました、って感じ

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM