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2017.05.20 Saturday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その59

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    今日もライトさんの本を読みながら、つらつらと思ったことを、たらたらと述べていきたいと思っている。今日はクリスチャンとして生きることをどのように考えるかの部分である。

     

    クリスチャンの生き方の出発点と様々なクリスチャンの生き方の理解

    ライトさんは、これまでライトさんが本書で触れてきた、汎神論的世界理解(選択肢〈1〉)、理神論的世界理解(選択肢〈2〉)、神と人が共住する世界理解(選択肢〈3〉)での理解の枠組みで、クリスチャンとして生きるのかを説明・整理しようとする。汎神論的世界理解と、理神論的世界理解のもとでのキリスト者の生き方については省略し、この地にあって、我々の中にあると言われた神の支配、神の国の中にあって神とともに生きるという生き方について述べてみたい。

     

    【口語訳聖書】 ルカによる福音書
     17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
     17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

     

    つまり、イエスは、神の国は、実にあなたがたのただ中にあるとおっしゃっておられるのだ。そうだとしたら、今、我々のただ中にあるこの神の国の国民として生きるということはどうなるか、について、ライトさんが書いておられることを見ていきたい。

     

    クリスチャンにとっての選択肢<3>は、天と地だけではなく、未来と現在が重なり合い噛み合わされている。その結びつきは、神の霊の力強い働きを通して、単なる想像上ではない現実のものとなる。そのことは、クリスチャンならではの生き方の出発点となる。
    その生き方は、単に私たちの内面深くに触れる、というものではない。また、遠くにいる神から来た命令を守る、というものでも全くない。それはむしろ、人間としての新しい生き方であり、イエスによって形作られる人間としての生き方、十字架と復活の生き方、霊に導かれた道である。それはやがて神がすべてを新しくして私たちのものとする、はるかに豊かな、喜びに満ちあふれた人間の在り方を、今ここで先取りする生き方である。(『クリスチャンであるとは』p.311)

     

    クリスチャンにおける神の国民の生き方は、「単なる想像上ではない現実のもの」である、とライトさんは書く。ただし、そこには、必要不可欠な要素として、「神の霊の力強い働き」の存在があることをもきちんと書いておられる。なぜ、神の霊(神のいぶき、神の息)の存在が大切かというとイエス様ご自身が、

    【口語訳聖書】マルコによる福音書
     7:14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた、「あなたがたはみんな、わたしの言うことを聞いて悟るがよい。
     7:15 すべて外から人の中にはいって、人をけがしうるものはない。かえって、人の中から出てくるものが、人をけがすのである。
     7:16 〔聞く耳のある者は聞くがよい〕

     

    と言っておられるからである。我々は、人から出てくるものは、結果として人を汚すのであり、神からくるものは、つまり、神の霊の力強い働きは人を汚さず、人を美しい生き方をせしめるのである。それは神の霊による聖書であるかもしれないし、実際の神の霊の働きに関しては色々お考えがあるかもしれないが。個人的には、神の霊を受けられた聖書テキストという理解のウェイトがかなり強いが。

     

     

    そして、クリスチャンとしての「その生き方は、単に私たちの内面深くに触れる、というものではない。また、遠くにいる神から来た命令を守る、というものでも全くない」と書いておられる。私達の内面深くに触れるという理解は、霊肉二元論的な理解として、あるいは政教分離的な生き方として、現代に生きるキリスト者のかなりの部分の人々に受け入れられている理解ではないか、と思う。どうも、その二元論的、あるいは、理神論的世界理解(選択肢〈2〉)は、どうも聖書からのものではないのではないか、ということをライトさんはここで書いておられるように思う。

     

     

    従来の考えに変わり、神と人が生きるという生き方がなぜ大事か、というと、神の国が、神の支配が、この地に来ているからなのだろう、と思う。神の支配とか、神の国とか言うと、近代的な国民国家観に慣れた、と言うか国民国家理解に飼いならされた、あるいは国民国家理解しか知らないためについそういう方向性で考えてしまう現代人がいるように思う。


    特に、クリスチャンとしての生き方は、「人間としての新しい生き方であり、イエスによって形作られる人間としての生き方、十字架と復活の生き方、霊に導かれた道である」と言うのはその通りだと思うし、「罪に支配されて形作られてきた人間としての生き方」が、「イエスによって(支配され)形作られる人間としての生き方」に転換することであるのだろう。そして、アルファである創世記に於ける生き方、すなわちオメガである終末で実現する「はるかに豊かな、喜びに満ちあふれた人間の在り方を、今ここで先取りする生き方」が「いまここで」というのが大事なように思うのである。この地上のせいにおいても、オメガで実現するはずの喜びと豊かさを味わうことができるのだ。

     

    このような部分については、以下で紹介するヘンリ・J.M.ナウエンの「いまここで生きる」が大変参考になろうか、と思う。この本では上に焦点を合わせつつ、神とともに生きる生き方がもたらすものが、素朴な言葉で語られており(もともとの英文のテキスト Here and Nowも、やさしい英語で、読みやすい。内容がどの程度理解できるかは別として)、大変参考になると思う。なお、この本の翻訳には、英文と日本語訳文を読み比べたものとして、苦情はまったくない。

     

    巡礼行としてのクリスチャンの生き方

     カトリック、正教会、聖公会などの伝統教派では、巡礼校ということが一定程度残っている。巡礼をすることで行き方を見直すのである。よくある巡礼する場所に行くことそのものが目的ではなく、巡礼をする中で、その人の人生と神との関係を見直していくことが巡礼の目的であるし、そして、旅の同行者と同じように、人生の同行者が生まれては消え、去っては加えられていくという経験をするからこそ、このような巡礼行が大事にされたのだろう。そして、実際に旅をすることを通して「イエスが言った、私が道であり、生命であり、真理である」ということを体験していくのだろう。

     

    以下の動画は、星の旅人たち 英語タイトルは The wayとタイトルされた映画の動画であり、その理解の一端を知ることができるかもしれない。いい映画だとは聞いていたが、未だに見たことはない。

     

    星の旅人たち (英語タイトルは、The Way) の予告編

     

     

    その巡礼行として人生を見る生き方について、ライトさんは次のように書く。

    クリスチャンとして生きるとは、キリストともに死に、キリストとともにもう一度よみがえることを意味する。それはすでに見てきたように、バプテスマが意味する根底にあるものであり、クリスチャンの旅(pligrimage)の始まりでもある。というモデルは、とても役に立つ。というのは、バプテスマというものが、エジプトを脱出し、約束の地に入ったイスラエルの子孫たちという響きを呼び覚ますからだ。今や世界のすべては神の聖なる地である。(同書 p.312)

     

    確か、フィリップ・ヤンシーも、彼が教会遍歴をしていた時に、この巡礼行のようなことを感じたことを『隠された恵み』の中に書いていたことを思い出す。工藤信夫さんからは、「ヤンシーのように教会巡り、巡礼行をミーちゃんはーちゃんは、しないのか?」とは言われたけど、意図したわけではなかったものの、ヤンシーと同じような巡礼行をすることになった。w

     

    こういう生を生きるということは、Oh the Deep, Deep Love of Jesus の歌詞のように生きる、ということなんだろう。以下の動画の歌詞が表現しているように、バプテスマはイエスの愛に浸されることを見ずに浸されることで表象しているのかもしれない。そうお思うのは、ミーちゃんはーちゃんが完全浸礼派の教会で過ごしたからで、まぁ、それは象徴にすぎないので、別に完全浸礼式でないと正式なバプテスマを受けていないというほど、完全浸礼式原理主義者ではない。

     

    Oh the Deep, Deep Love of Jesus(こっちのほうが好きかな)

     

     

    この賛美歌には、

     

    Underneath Me 私の下からも
    All around Me  私の周りすべても
    is the Current     流れが存在する
    of His Love   神の愛の海流のような
    Leading onward 前を進みゆかれ
    Leading Homeward 神の家に戻るように導きゆかれ
    to the glory      神の満ち満ちた栄光の
    rest above   平安の満ちる神の家に

     

    まるで、アイルランドの守護聖人 聖 Patrick の祈りのようだ、と思ってしまった。

     

    https://www.etsy.com/listing/176571687/st-patricks-breastplate-prayer から

     

     

    その祈りのテキストを用いた現代英国の作曲家John Rutterの聖 Patrick の祈り

     

    これも面白いけど Oh the Deep, Deep Love of Jesus という賛美歌

     

    ライトさんは、上の引用文でも紹介したように、「今や世界のすべては神の聖なる地である」と書く。まったくもってそのとおりだと思う。我らは、天国に向かって一方的に歩むのではなく、この神の聖なる地を歩む中で、神との関係を「いまここで」深めていくように招かれているのではないだろうか。

     

    人間性の肯定としての新しい創造

    かなりの部分の日本人のプロテスタント派のクリスチャンは、かなり真面目な人が多いので、自分自身を肯定するのがあまり上手とはいえない人が多い。もう十分いい人なのに、まだまだだ、まだ努力しないといけない。もっともっと、父なる神を喜ばせることをしなければいけない、という人々もいるし、もっともっと神を喜ばせるように努力しなさい、教会に来なさい、奉仕しなさいという牧師先生もいないわけではない。

     

    しかし、神は人間がどのような人であれ、どのようなことをなさなかろうが、神の前に自分の不甲斐なさ、罪を認めていくならば、そんなこととは全く無関係に、神とともに生きようとする人には、人間性の肯定、人間の生の肯定をしておられるのである。それが一番良く現れているのが、十字架に一緒についた強盗へのイエスのことばである。

     

    【口語訳聖書】 ルカによる福音書
     23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
     23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
     23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
     23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。

    あるいは、祈りについて、パリサイ人と取税人の祈りについてのたとえである。

     

    【口語訳聖書】 ルカによる福音書
     18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
     18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
     18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
     18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
     18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

     

    そのことについて、ライトさんは次のように書く。

    再発見 新しい創造は、私たちの人間性の否定ではなく、再肯定である。そこには非常に多くのことがあり、中には私たちの直感に強く反したり、当初当惑したりするものもあるだろう。そのことへのクリスチャンにふさわしい応答は、「Yes(然り)」である。イエスの復活が私たちに見せてくれる通りのことである。クリスチャンとしての生活は、単に世界の現状の内的真理を発見するためでもなく、現在と異なる世界に波長を合わせ、現実世界と全くかけ離れた生き方を学ぶためでもない。そうではなく、イエスの復活がその開始となった、神による新しい創造において、最初の創造でよかったもののすべてが再肯定されるのを垣間見ることである。(同書 p.313)

     

    上の引用文の中で一番面白かったのは、次の一文である。

    クリスチャンとしての生活は、単に世界の現状の内的真理を発見するためでもなく、現在と異なる世界に波長を合わせ、現実世界と全くかけ離れた生き方を学ぶためでもない。

     

    実に近代のプロテスタントクリスチャン、あるあるである。「世界の現状の内的真理を発見する」という一文を読んだ時、「あ〜〜〜こういう人、多いよねぇ」とは思ったし、こういうキリスト者観を持つ人々の割合は、案外大きいのではないかと思う。「内的真理を発見する」を重視するとどうしても、どうしても、内向きになり、挙句の果てに神に向かっていくことすら忘れかねない危うさがある。さらに、「現在と異なる世界に波長を合わせ」ということを言い出しかねない人もいるのは、想像がつく。そして、その波長、周波数を合わせているうちに、本来神でないものに波長が合ってしまって、共振現象を起こして、破壊的なダメージを受ける人がおられるようだ。

     

    風の周波数とドンピシャあったために落橋するTacoma Narrow Bridge

     

    もう一つカラー版でTacoma Narrow Bridge。(1940年の撮影である こりゃ戦争に負けるのは無理ないと思う)

     

    このブログでも紹介したかもしれないが、風の波長と構造体としての波長がドンピシャあってしまったために落橋の憂き目にあったのが、Tacoma Narrow Bridgeである。波長が合うことによる揺れは、最初大したことはないような感じがするのかもしれないが、波長がどんぴしゃり合うと、ろくでもないことになる例である。本来目を向けるのは最初の創造であり、良かったものすべてであり、その創造者なる方だけに目を向け、この地と関わる生き方をするほうがいいのかもしれない。

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

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