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2017.05.15 Monday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その57

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    お久しぶりでございます。ここのところ、後藤先生の『神の秘められた計画』について、たらたらと連載してたので、こちらの方がずいぶんお留守になってしまいました。とはいえ、この連載をしている日には、マックスでも1日に600前後しかアクセスがなく、後藤先生の連載は、ほぼ1000近いアクセスがあったので、アクセス数だけで言えば、後藤先生の本の紹介の方が、皆さんお読みになりたかったみたいです。

     ところで、今日は15章の最後の部分、無教会派でも大事なものと内村先生がおっしゃっていたバプテスマについて、ライトさんが書いていることを見ながら考えてみたいと思うのですね。あと、本日はナウエンも出てまいります。

     

    バプテスマの起源と旧約聖書

    バプテスマの起源は、いろいろ調べているのだが、よくわからない。旧約聖書に根拠はありそうな気がするのだが、どうもそうでもないような感じもしている。ライトさんは、バプテスマについてのいくつかの原型が旧約聖書にあるのではないか、と以下の様に指摘している。

     

    ユダヤ人は古代も現代も、それを毎年、詳細に語り伝える。神がイスラエル人をエジプトから救い出した物語である。神は彼らを紅海を通して、荒野を通して、約束の地に導いた。いい方を変えれば、水を通して自由へ。興味深いことにその物語は、モーセをリーダーに据えることから始まった。

     モーセは幼いころ、ナイル川の芦のしげる河辺から救い出された。殺すようにとの命令を良心は受けたが、殺す代わりに防水を施した籠に入れて川に流した。モーセは(スケールが小さいが)水を通しての救いを通らねばならなかった。神はのちに、モーセを通してそれを達成した。(中略)

     

    これらの物語はさらにさかのぼる。それは想像において起こった。『創世記』第1章にあるように、神の偉大な風か、霊か、息が、ハトのように水の上を覆ったとき、水を分けて渇いた地を呼び出した時のことである。創造そのものが脱出(出エジプト)、バプテスマとともに始まったともいえる。水を通して新しいいのちへ。(『クリスチャンであるとは』pp.299-300)

    水を通して、という表現がある面重要だと思った。聖書の中に水のメタファーは非常にたくさん出て来るし、その水が持っている一定のイメージがあるようにも思うのだ。水とか、海といったものは、どうも旧約時代の人々にとって、人間にとって必要でありながら、それでも、不安を与えるものであったり、恐怖を与えるもの、あるいは理解不能なものであったのではないか、と思う。確証はないが、そういう印象を聖書の中から感じるのである。創世記の冒頭からして、そんな印象を与えている。

     

    京紹介する部分には、「水を通して…」という表現が出てきているので、ある意味で本日紹介する部分の主要な概念である。

     

    【口語訳聖書 創世記】
     1:2 地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

     

    なんとなく不安定なもの、被害を与えかねないもの、としての水がここにあるように思う。それに対して、地はある程度安定性を示す様な気がする。この辺の対比が何となく感じられるのは、ヨナ書である。その意味で、ヨナ書は個人的に非常に興味深い、と思っている。

     

    最初に、この本の翻訳者である上沼先生が本書を翻訳している時期に日本に来られたときの研究会に参加したことがあるが、その時のお話で、この創世記1章2節とバプテスマをライトさんが関連付けているという話をお聞きして、へぇ〜〜〜、と思ったことは確かである。そして、モーセがアスファルトで防水加工されたかごに入れられて流されたのを、バプテスマと関連付けておられる。さらに、それがのちにモーセの海割という形でイメージ付けがされる紅海の徒歩、バプテスマとをライト先生が関連させているのを見て、そんなことは考えたことがなかったなぁ、と思ったのである。

     

    Disney Animation のThe Prince of Egyptからモーセがナイル川に流されるシーン

     

    この創世記の記事をかなり強く意識した次のような文章をナウエンは The way of the heartという黙想についての文章で次のように書いている。

    The Word of God is born out of the eternal silence of God, and it is to this word out of silence that we want to be witnesses.(The way of the heart p.39)

    個人的日本語翻訳 神の言葉は、神の永遠の昔からの静まりの中から現れ出でたもので、それこそ、我々がじっと見たいと思っているものである。

     

    この部分を明石市でやっているヘンリー・ナウエンの読書会の準備のために読んだ時に、「そうだったよねぇ」と思ってしまったのである。そもそも、神の言葉は創世の初めの静まりから生まれたし、その静まりの中から出てきた言葉がこの地に形を与え、我々にいのちを与え、そして、この言葉、あるいは御子こそ、キリスト者がもっとも知りたいと思っていることである以上、やはり、そのエネルギーに満ち満ちた静まりということの大切さ、ということに思い至ったのだ。

     

    我々は静まりというとエネルギーが落ちた状態、まったく動きがない状態を思うが、誰かの指導の下(きちんとした指導のもとやった方が絶対に良いです)、少し静まることをやってみると分かるのだが、静まっているときの方が、こころの中のエネルギーというか、ある種のエネルギー状態が高まるという経験をすることが少なくともミーちゃんはーちゃんには起きることが多い。それは確実にそうである。

     

    まさに、そのことを次の詩篇は表しているなぁ、と思う。
    【口語訳聖書 詩篇】
     19:1 もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
     19:2 この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
     19:3 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに、
     19:4 その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。

     

    近代語として、近代的な理性による言語表現としてこの詩篇を読むときに、この部分はイミフ(意味不明)に見える。たわごとに見えるが、これは恐らく、創世の初めの地が形なかったころの三位一体の神のシネルゲイア、神の愛のダイナミズムが満ちあふれている状態を表すには、これしかなかったのかなぁ、と思う。人間の言葉で表しえないがゆえに、人間の理解を超越している神秘であるがゆえにこういう表現になってしまったのだろうと思う。

     

    ところで、この記事を書く前に、知り合いのクリスチャンから、今度自分が参加しているコーラスグループで、ヘンデルのエジプトのイスラエル人という楽曲をやるのだが、その中に、

     

    イスラエルの子らは割れた紅海を歩いて渡り切り、助かったし、 エジプトからも無事逃げおおせられた。 でもエジプトの馬と乗り手は大水に呑み込まれて沈んでいき、 海の藻屑と化した」「エジプト人は打ち破られたが、 イスラエルの子らは助かった」
    という表現があるのだが、なぜヘンデルはそこまでそのことにこだわったのだろうか? という質問が個人的に寄せられた。「はてさてどう答えたものか、と迷いながらも、とりあえずたぶんこうかなぁ」と思ったことを答えておいた。だいぶお困りの様だったので、「そんなもん、わかりませんの」とか「ヘンデルさんに直接聞いてくれろ」だのは言わなかったけれども。

     

     

    ヘンデル作曲 Israelite in Egypt

     

    個人的には、キリスト新聞社の無料アプリ、「モーセの海割」のほうが、ヘンデルのこの曲よりはなじみが深い。但し、結構面倒なゲームでもあるのと、シューティングゲーム系のアクションゲームはあまり得意ではないので、レベル6で止まってしまったので、割と早い段階で、遊ぶのをやめてしまった。

     

    https://twitter.com/bible_hunter/status/681354248429293568 から

     

    尚、その後継版で、今、教派擬人化マンガのピューリたん(ピューリタンではない)のアプリのためのクラウドファンディングをしているので、よかったらパトロンになることをご検討いただきたい。なお、この一文は、ツレとしての協賛である。

     

    https://camp-fire.jp/projects/view/1333 より

     

    バプテスマをどう考えるか問題と教会

    この記事の前の後藤先生のお書きになられた本を紹介する際に、後藤先生がおられる団体(召団)のことに少し触れた。恐らく、召団というのは、エクレシアというギリシア語の本意に近くあろうとして、その特殊な語を使っているのだろうということをご紹介した。そして、ミーちゃんはーちゃんが長らく参加していたキリスト集会派も自分たちの集団のことを教会とは呼ばず、「キリスト集会」と呼ぶ。それは、エクレシア、即ち、「呼び出された市民たち」という当時持っていた語感を何とか表現したいという苦肉の策であったと思っている。いずれにしても誤解を招きやすいことは確かだ。個人的には、「教会」と人々も理解しやすい、誤解を招きにくい一般的な名前で呼んでおいて、それでその実体とは何か、ということを明確にご説明した方が、混乱が起きなくてよい、とは思っている。

     

    余談に行き過ぎたが、水を通り抜けるという、このバプテスマとバプテスマを受けた人々についてライトさんは次のように書く。

     

    ヨハネは、罪を告白してヨルダン川でバプテスマ(文字どおりには「水に浸された」という意味)を受けさせるために、ユダヤの荒れ地から民を呼び出した。水を通して神の新しい契約に。彼らはきよめられた民、新しい契約の民、神が到来して解放する備えのできた民であった。(同書 p.300)

     

    ここで、ライトさんは、洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)がユダヤの荒れ地から民を呼び出したの部分の原文は、He called people out into the Judean wilderness であるので、当時のユダヤ人がユダヤが荒れ地であったわけではない。ユダヤの荒れ地、荒野にいた洗礼者ヨハネが民を呼び出したのである。この呼び出した、あるいは呼び出された、ということを表現しているのが、ギリシア語でのエクレシアという言葉であり、それを日本語表現がしにくいので、召団であったり、集会であったり、多くの場合は教会と呼んでいる様に思うのだ。その意味で、神の新しい契約に呼応するもの、という意味がキリスト者、あるいは、クリスチャンには含まれると思う。

     

    ところで、先ほど紹介したナウエンのThe way of the heartと題された本は、砂漠の師父と呼ばれる、エジプトの人里離れたところで修道生活している人人の沈黙、黙想生活 Silence が、ことばが力を持ちえなくなってしまった、ことばが薄っぺらくなってしまった現代社会においてどのような現代的な意味を持つのか、ということに関する優れた書籍であると思うが、その中に、

     


    By entering into the Egyptian desert, the monks wanted to participate in the divine silence. By speaking out of this silence to the needs of their people, they sought to participate in the creative and recreative power of divine Word. (The way of the heart p.48)
    エジプトの荒野に移ることで、これらの修道者たちは、神の神聖な静まりの中に関与しようとしたのでした。この修道者たちは、静まりの中から、人々のニーズにこたえることで、彼らは、神の言葉の力の創造的、そして回復させる力に関与しようとしたのでした。

     

    という表現がある。ここで、Creative and Recreative powerとナウエンは書いているが、実は、キリスト者の生活に現われるもの、すなわち、目標や目的とすべきものではないものの、信仰生活の結果として現れるものが、個人的には、自分自身に対する神から与えられるCreative and Recreative Powerなんだろうと思う。そして、その力を我々に与える為にメシア、あるいはキリストとも呼ばれる御子をこの地に遣わし、そして、その御子の声に応召して出ていくものが神との間の相互関係を結ぶために、そして、従来の状態から解放するためのCreative and Recreative Powerがキリストが呼び出すその声に応召した我々に与えられるのだろう、ということだと思う。

     

    ただ、ライトさんがここで「備えのできた民」原文ではready forであって、そうなっているということではないように思う。我々は神ではないので。

     

    バプテスマと聖餐と出エジプトとのつながり

    ほとんどすべてのキリスト教会でもバプテスマと聖餐はサクラメント(聖なる儀式、ないし聖典礼)と認めているものであるが、内村先生だって、バプテスマは認めているのである。ただ、それが、宣教師とか牧師の占有物の様にして信徒圧迫の道具に使われていたるから激おこぷんぷん丸か激おこスティック(Ry になられ、既存教会に対して冷淡になられただけで、バプテスマは大事だ、という理解であったらしい。

     

    https://blogs.yahoo.co.jp/donguri_kuma/26464479.html から

     

    https://blogs.yahoo.co.jp/donguri_kuma/26464479.html から (このプーチンさんの画像はわかりやすい)

    さて、バプテスマが出エジプト(最初の出エジプトでの紅海横断事件)

     

    個人的には、聖餐式マニア(くどい)なので、聖餐と過ぎ越しの祭りとエジプトでの長男虐殺事件と出エジプト記の記載は聖餐とばっちりつながっていたが、イスラエルの紅海横断事件(モーセの海割事案)と出エジプトのつながりは、あまり強固なものではなかった。しかし、今回この本を読んで、あぁ、ライトさん、そこ、出エジプトとそのほかの旧約聖書のコンテンツを重ねてみていくのねぇ、とものすごい層の重なりを見るその姿には、本書を最初に読んだ時には驚きを感じざるを得なかったことをここに告白しておく。

     

    (引用者註 イエスが)その働きの初めに受けたバプテスマ、そして働きの最終段階で注意深く計画された最後の晩餐は、両方共が最初の出エジプト、つまり水を通り抜けること、またその背景にある最初の創造そのものを抜け出て、新しく規定された現実、即ち新しい契約、新しい創造としてのイエスの死と復活を指し示している。そして、その刷新を完成するためには、単に水を通って向こう側に出るというのではなく、さらにいっそう深い洪水を通り抜けなければならなかった。バプテスマですでにあらわされている何層にも重なる意味はすべて、今やイエスの死とよみがえりという出来事を中心に据えることになった。水を通して神の新しい世界へ。(同書 p.301)

     

    その意味で、プロテスタントでも重要視されているサクラメント(聖典礼)でもあるパブテスマも聖餐も出エジプト並びに旧約聖書の記述で考えることは重要だと思う。ただ、プロテスタント、特に福音派では聖餐式は重要だといいつつも、その割に聖餐の扱いが薄いのが個人的には気になる。その意味で、伝統教派や正教会がいいなぁ、と思うの。特に、正教会がは、司祭や輔祭の方々の衣装がユダヤ神殿の祭司の服装のレプリカになっているところだったりはする。ただ、これからの夏に向かう時期にあの重たい衣装で1時間半、立ったまま、聖書を持って動いたり、香炉を振り回したり、というのは、相当の難行苦行(ミーちゃんはーちゃんなら、体重が確実に2Kgは減るのではないかと思うので、ご同情申し上げたくなる。

     

    しかし、これもまた、旧約聖書の記述とサクラメント(聖典礼)の関係性を考えるうえでは非常に重要だと思うものの、ここで言われていることは、サクラメントと旧約聖書のつながりだと思う。このあたりのことをきちんと考えているキリスト者が、どの程度、いわゆるプロテスタントや福音派の信徒としてのキリスト者にいるか、と自分の過去も含めて反省しながら考えると、ちょっとその数字を考えるのは恐ろしい。やはり旧約聖書は大事だし、そのテキストが持っている意味を(できれば、ヘブライ語のテキストに基づきながら)じっくり、ゆっくりでいいので味わうことは大事だなぁ、と個人的には思う。

     

     

    「お受洗」は到達点でなく、出発点

    しょうもないことも書きながら、重要なことを述べておられた水谷潔さんが、しょうもないことを書かなくなって久しい(Facebookでは、ドラゴンズネタ満載記事をごくまれに書いておられるのをお見かけするが)。ただ、この種の実は高等なおふざけは、大事だが、表面的なことを重視される傾向の強い真面目な方にはどうも癇に障るところがあるらしい。わかる人だけがわかればいいし、自己を批判的に見る能力醸成のためにも、こういう文化を育成することは大事だと思う。その意味で、最近何より、うれしかったのは、後藤敏夫先生がご自身のブログ記事 川向 肇さん(ミーちゃんはーちゃん様)への感謝 でミーちゃんはーちゃんのくだらないことも多いブログ記事に対して「 その遊び心や諧謔も楽しんでいます 」という表現を頂いたことである。

     

    話が余談にずれたが、しょうもない表現をしながら重要なことを書いておられた水谷潔さんの記事の中にお受洗という言葉がある。この辺の記事が 信徒代表金子です!(信仰継承編) が参考になるかもしれない。この信徒代表金子は、生徒代表金子という昔はかなり流行った一発屋のギャグのパロディである。以下に生徒代表金子の動画を張っておく。一発屋といわれながらも今も微妙に残っているダンディ板野とか、スギちゃんというのは面白い存在だと思う。

     

    水谷さんのブログの元ネタ 生徒会長金子 の動画

     

     

     

    上記の生著会長金子のスピーチに出て来る『羞恥心』の皆さんで、羞恥心

     

     

    (マクドナルドのCMでのダンディ氏)

     

    なんか上の部分は、「平成お笑い史を振り返ってみた」風になってしまったが、それが本意ではない。

     

    本論に戻すと、受洗の意味が十分に理解されていないことや、信仰の意味が十分に理解されていない事例があることについて、ライトさんは次のように書く。

     

    ごく初期のころから、バプテスマはクリスチャンからなる家族に入るしきたりのように見なされてきた。「ボーン・アゲイン(新しく生まれる)」という考えとも結びついた。もちろん、水のバプテスマを受けた誰もが、キリストにあって救いの神の愛を知り、それを経験し、問題がすっかりなくなり、生活が変えられたということではない。パウロは様々な場面で読者に、バプテスマによって自分たちに起こった真理を、普段の生活で実現していく責任について思い起こさせている。(同書 p.302)

     

    バプテスマは多くのキリスト者にとってどんな意味を持つのか、ということについて、上の記述では、ライトさんは「水のバプテスマを受けた誰もが、キリストにあって救いの神の愛を知り、それを経験し、問題がすっかりなくなり、生活が変えられたということではない」と大書しておられるが、この背景には、このようなバプテスマ理解というか、クリスチャン理解の人が結構いるということなのではないか、ということだろう。個人的にも、このタイプのパプテスマ理解というか、バプテスマの説明に出会ったことは少なくはない。

     

    ライトさんが言いたいのは、受洗はゴールではなくて、出発点であって、さらに、なにに向かっていくかが大事であって、それは、神の民としてその人が読んだ聖書が、その人の存在を通して読まれていくことになるということが、伝道の一つであり、神の義と平和を地にもたらすことでもあると思うのだ。そして、真理である神の存在と神の御思いをどう地にもたらし、そして、「人々が神が創造された時の神のご計画でもあった本来の神の似姿を取り戻すことに自分たちが関与していくか」を考えながら日々の生活を歩む、ということなのだと思う。

     

    その意味でクリスチャンとなることも大事だが、クリスチャンになった後、まともな人間になる、本来、神が人間を作った神の似姿を回復する、あるいは、キリストの弟子として整えられていく、ということが大事なのだと思う。弟子訓練と呼ばれるものをを受けるということではなく。

     

    この辺の理解が多くのキリスト者に共有されていってほしいなぁ、と思う限りである。福音主義神学会東部の大坂先生から聞き及んだ話では、今年のお茶の水の全国集会ではこの辺がテーマになる模様であるが、今年は一日で終わらないらしいので、世俗の業務との関係で、とてもいけそうにないのが残念である。

     

    次回から16章のご紹介をいたします。 次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

     

    コメント
    朝このブログを読んでから、ううむと考えさせられておりました。5年半前の自分の受洗前後のことは、事あるごとに思い出します。
    受洗を迷っていた時、ネット上のみの知り合いでメールをやり取りしていた他県の牧師先生が「貴女は早く受洗なさって、神様のために働いて下さい。」とバシッと与えて下さった言葉は、受洗の意味を自己都合のみで考えようとしていた浅はかさに気付かせて下さいました。
    また、このブログを紹介して下さったH氏がキネ研でお書きになったコラム、「クリスマスに考えたいこと」は、最後の一文「これがキリスト教です。」という高らかな宣言と共に私の迷いの根幹を吹き飛ばし、受洗への決意を固めさせてくれました。
    受洗=教会生活の始まり、という図式の中で、私は価値観の違う人とも教会という神様の宮で共に歩んでいくことができるのかという不安が大きかったのです。
    H氏のコラムは、その不安や疑問に希望の答えを与えてくれるものでした。

    が、受洗から1年半ほどで、私は牧師先生の言動への不信感から教会に行けなくなりました。
    それでも、その教会に通っておられた引退牧師の方が、そこを出たのは貴女の信仰のために良かったのだと励まし、いくつかの教会を紹介して下さいました。そして転会して今の教会にいます。

    受洗はまさしく信仰生活の始まりであったし、教会生活はもちろん良いことばかりではありませんが、「神様のために働いて下さい。」という言葉を思い出しては受洗を決めた時の気持ちに立ち返り、スマホに保存しているコラムを何度も読み返しては、反省し希望を新たに紡いでいます。
    • リリィ
    • 2017.05.15 Monday 23:20
    Lilyさま

    御清覧、コメントありがとうございます。

    いやぁ、何事でも知らない世界に飛び込む、というのは大変ですよねぇ。ストレスかかりますし。いろんなことで自分が小さく感じられたり、不安に感じられたり。ミーちゃんはーちゃんは、あんまり、そういうことには鈍感なんで気にしたことはあまりないです。かえってワクワクする方で。家人には逆な人が居りまして、同じことを延々と暮らすほうが安心、というものもおります。そういうものにとって、新しい経験は教父ですらあるそうで。

    Hさんはお知り合いなので、Hさんが書かれたことが一歩をすすめるために有効であったということをお聞きして友人として大変うれしく存じております。

    受洗した教会というのは、我が故郷のようなもので、思い出深いものがありますよね。本当に。私も今の協会のように漂着するように流れ着きましたが、そんなことは、10年前には全く思いもよらない事でございました。しかし、当初はなぜ私を漂流させ給うのか、と碇半分でヨナのように神に問い続けヨナ書2章のヨナの祈りのようでございましたが、今はこれもまた楽しからずや、と思い漂流生活、あるいは遊牧生活を続けております。おそらく、家に帰る旅、pilgrimageなのだと思っております。
    家に帰る旅につきましては、あめんどうさんから出ているナウエンの「我が家への道」Finding my way home https://www.amazon.co.jp/dp/4900677140 が大変よろしかったです。

    これからも、「なぜ、神よ私に・・・」と問いたくなる日々もございましょうが、ぜひ、ゆったりとお構えになって共に、我らが家(イエス様が私の父の家 oikos というギリシア語で呼ばれているもの)に向かわれる旅を続けられますように。

    御清覧コメントくださり、ありがとうございました。 


    • ミーちゃんはーちゃん AKA かわむかい
    • 2017.05.16 Tuesday 05:00
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