<< 後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(5) | main | N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その57 >>
2017.05.13 Saturday

後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(6)完

0

     



    Pocket
     

    音声ファイルダウンロード先

     

    さて、これまで、5回に渡り、後藤敏夫先生の『神の秘められた計画』 をご紹介してきたが、今日で一応の集結としたい。今日はこの本が早すぎる遺言かなぁ、と思った部分について、拝読しながらつらつらと思ったことを、たらたらといつものように書いてみたい。

     

    後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(1)
    後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(2)

     

     

     

     

     

     

    現代社会における福音派のメッセージの限界

    これまでの会でも、前回も、後藤先生の記述をもとに、日本にやってきた聖書理解、ないし神学や、教会の在り方が、基本アメリカの神学校で生み出されたものを、日本風のカスタマイズ(現地化)をせずに、そのまま持ち込んできたということをお話してきた。それは、日本側の問題ということももちろんあるが、基本アメリカの聖書理解、神学理解が、普遍化を目指してくみ上げられてきたこと、聖書に関する”真理”といわれること、あるいは”真理”であると思われたことは、普遍的に成立すると考えられてきたこと、また、近代思潮や近代の諸学が、基本的に人間の個別性に着目するよりは、”普遍性”に着目されてきたこと、また”普遍性”があることがよいとされてきたこと等もあり、どこでもどの人でも同じように成立するはずだ、という思い込みによって、日本に持ち込まれてきたし、日本がそのまま輸入してきた部分がある。

     

    なに、これは、聖書理解に限らない、経済学なんかでも、そんな部分がある。アメリカで計量経済学が流行れば、それが持ち込まれるし、産業組織論が流行れば、それが日本に持ち込まれた。現実の政治経済の分野でも、アメリカ型のシステムが割と安易に持ち込まれてきた部分はないわけではないようにも思う。典型的には小泉純一郎元総理時代の竹中平蔵氏を中心として持ち込まれた改革路線は、基本アメリカ型の雇用流動型の社会のモデルとその日本型バリエーションであり、その結果として、現代の社会でもそうであるが、派遣労働者の就業分野の分野的な拡大とその量的拡大が行われ、その結果、派遣村と呼ばれる派遣労働者がホームレス化し終結し、改善を求めたような事例などや、奨学金の返済にすら苦労する若者の存在など、現在では、その構造改革と称された諸制度の改変による負の側面もようやく着目されてはいる。とはいえ、その改変が起きてしまうと、世の中は割と不可逆的部分があるので、制度の改変後の改変等(たとえば、奨学金の返済猶予など)が行われているものの、被害者はどうしても放置されたままになりやすい。

     

    私の考えでは、これら(引用者註 西海岸の神学校の教室からやってきた聖書理解)は時々に神学や聖書的メッセージの装いをしていても、アメリカの福音派の ―― そして、その影響を受けた世界の福音派の ―― ここ30年ほどの時代と文化の問題です。その背景には、急速に進行する世俗化、人間の全体性が失われ心理的に切り刻まれるストレスに見した競争社会、家庭の崩壊とも結びついた現代人のセルフイメージの低下、そしてポストモダンの思想や生活様式の多様化ということがあり、それ以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的なメッセージが、この世に生きる信徒の生活に対応しきれなくなった時代を反映しています。(『神の秘められた計画』 p.112)

     

    確かに、アメリカでは、もともと、国家が国教会を持たないという意味での、政治と宗教との分離と分化が推進されてきたものの、1960年代ごろからは、使われる紙幣にわざわざIn God we trustという一文をペニーと呼ばれる1セント硬貨から100ドル紙幣にまで刻印し、あるいは印刷して流通させているのである。そもそも、そんなことを書かなくてもアメリカ人はそれを当然と受け取っていたのが、世俗化が進み、神の存在が社会とその背景から消えたことで、それを日常使うものである効果や紙幣に書かなければいけなくなったのではないか、という疑念もある。ベトナム戦争に関与することで、自分たちの大義とその根拠に対する疑いを経験し、戦争が正義の戦闘とは言えない現実が広く知られ、アルコールより、影響力の強い麻薬などの薬物が社会に一定程度流布し、従来型の社会倫理が崩壊することを経験したアメリカ社会では、まさに、「以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的なメッセージが、この世に生きる信徒の生活に対応しきれなくなった時代」をこの50年の間に、経験したともいえる。

     

    大量消費時代に適合的であった近代とそこでの教会

    それに、社会理念として、均質性や均一性の重視された大量生産大量消費社会が幅を利かせたモダン時代から、個別性に価値が移っているポストモダン時代では、企業も学校などの組織も、均一化の反省に立ち、個別化多様化に向かっている現実がある。1960年代初頭の日本の国民車カローラはセダンタイプのみで、せいぜい外装色の違い位であったが、現在では、カローラも多様化しており、内外装及び各種オプションを合わせるとカローラ1車種だけでも数万種類に達しかねないほど、多品種少量生産と販売段階での車両のカスタマイズ化が進められているのである。

     

    あるいは、歌謡曲も似たようなもので、昔は紅白歌合戦という年末行事の中で放送される歌謡曲やポップスはよほど変わった人でない限り、国民の大多数が放送中に流れる歌謡曲やポップスを歌えたものだが、今では、紅白歌合戦の視聴率自体が下がってしまっているの状態である。その中で、最低限の水準とはいえ、みんなが同じでみんなが同じようなナショナルミニマムで満足するような均質的な世界であったものが、個人個人の意見や主張が反映されたような、多様性が求められる社会になってきたのだ。つまり、カスタマイズすることに価値がある社会、あるいは、カスタマイズすることで、他者との違いを明確化する、あるいは、差別化することが重要である社会になってきたのである。

     

    昔は、学生服といえば男子は詰襟、女子はセーラー服と決まっていたものだが、今は、ブレザーで男子はズボン、女子はスカートといったものへと変わっている。そして、女子高では制服を変えることで受験の倍率が変わるなんてことは当たり前に起きるし、食品でも、様々な味付けのポテトチップスなんかが販売されている。定番商品だけの製造販売では、企業経営上、売上高が確保できないので、多様な商品を同時並行的に出しながら、新商品が生まれては消え、また、生まれたは消え、ということが繰り返されているのだ。

     

    女子高生の多様な制服 https://twitter.com/shiyge/media より

     

    多様な味付けの湖池屋さんのポテトチップス http://www.suruga-ya.jp/product/detail/655002777000 より

     

     

    こんな時代大量生産大量消費、みんなが同じ対応で十分だった、貧しさがそこはかとなく漂っている圧倒的欠乏が支配していた時代には、実は、「以前の「あれもだめ、これもだめ」という敬虔主義的福音派の道徳律法的なメッセージ」は、そこそこ有効に機能していただけのことかもしれない、と思う。ポストモダンな生き方が成立するのは、社会の所得階層(いやな言葉だが)で最も条件の悪い人まで、一定の価値にアクセスできるようになったからであって、食うに困る社会では、「萌え~~~」とか言っている場合でないのである。衣食住に大きな不具合や問題がないからこそ、ニートをやっていられるわけであって、食うに困ればニートなんかはやってられないのではないか、とも思うなぁ。

     

    その意味で、社会が豊かになった現状において、福音派が何を語るのか、ということが問われているということかもしれないと思う。従来の、「これが理想系です。普遍的価値です」という言説がほとんど意味をなさなくなった現代にあって、「どのような信徒のための神学を聖書テキストから紡ぎだすのか」が問われているような気がしてならない。

     

    同時代人としての思い、かも

    世俗の仕事の分野では、ドラスティックにテーマを変えたことがある。それは阪神大震災が目の前で起きた直後である。それまでは数理経済モデルを作っては、均衡解がどうのこうのというタイプの議論をしていた。阪神大震災が目前で起きている中で、そんなどうでもいい話は、本当にミーちゃんはーちゃんにとっても、どうでもよいことになってしまった。しかし、それまでは、そのような普遍化された課題に取り組むことを無批判に受け止め、その枠組みの中で普遍化された課題をこなすことを仕事としてきた。普通の人には、「どうでもいいことだろうなぁ」とは思いながらも、それをすることが自分の課題だと思い込んでそのタイプの研究に邁進してしまったのだ。「愚かだった」と今では少し思っている。
    あるいは、そのような研究を進める中で、その研究の世界を当たり前として受け入れ、それに僅かばかりであるとはいえ、ちょっこし疑問を持ちつつも、いつの間にかその中に捕囚されてしまった、という感じかもしれない。より正確には、自らをその方向に向け、捕囚されるように仕向けたともいえる。その意味で、竹中平蔵氏の経済理解の思想を共有している部分が、ミーちゃんはーちゃんにもある。その意味で、竹中平蔵氏の新古典派的な自由主義礼賛型の経済理解の片棒は担いだと思っている。ここで、後藤先生は以下のように記される中で、御自身の神学的な歩みにおいて、アメリカ西海岸で流行した神学にも多少無批判に追従していった「時代の子の一人」という自己批判を述べておられるのだろう、と思う。

     

    思いつくままに述べましたが、私が福音派キリスト教の現状を嘆いているように思われるとしたら、それは真意ではありません。それは私自身が同時代を歩んできた道でもあり、自分もまたそこに信仰生活の足跡を記した時代の子の一人です。(同書 p.113)

     

    これは、仕方がない部分があるのではないか、とも思う。というのは、後藤先生が若かりし頃は、インターネットもなければ、Facebookもなかったし、洋書は丸善か教文館の洋書部で買うものという時代であった。今みたいにAmazonもなければ、Kindleもない時代であり、そもそも、日本には、外貨がないため、洋書を輸入するというのは一大冒険事業であった。そして、1ドルは360円の時代であったはずである。

     

    その中で、漏れ伝わってくるものを必死に求め、福音理解そのものではなく、福音理解だとされたもの、あるいはアメリカで議論されている神学を理解するのに必死になっていたのが、日本のキリスト教会であったし、今もなお、そのような部分があるかもしれない。

     

    元々、日本のキリスト教は、アメリカの、そしてアメリカの西海岸の人々が伝道者としてかなり含まれてきたこともあり、西海岸のアメリカ人関係者の影響が強いと思う。さらに、アメリカ人にとって、マニフェスト・ディスティニィで西へ、西へと進んできたこともあり、フロンティアの消滅から数十年後にある神学的理解の広がりやフロンティアが、西海岸で止まってしまって、運動の行き先が見えなくなってきたところに、突然降ってわいたかのようにあらわれたのが、敗戦後の日本と韓国という地域であったようにも思う。ある面、アメリカの神学校の教室で語られるアメリカのコンテキストに合わせて、アメリカ型にカスタマイズされた神学理解がアメリカ人のユニバ−サル思考とも相まって、アメリカは世界の標準であるから、アメリカで成功したなら、日本でもそのまま行けるんじゃないか、的な形で伝えられたものの「消化」と日本での現地化への試みが始まったのが、ようやく最近ということなのだろう。確かに技術標準的にはかなりの部分においては、アメリカ型モデルが普遍的存在であったとは言えるが…

     

    早すぎる遺言、と思ったわけ

    本連載の冒頭で、本書は早すぎる遺言かなぁ、と思った部分は、以下の部分を読んでしまったからである。

    2016年の日本伝道会議の主講師は英国のクリス・ライトでした。それは福音派における今後大切な宣教論的な視点を、聖書全体の救いの物語に足場を置きながら、平和や環境等にかかわる社会的責任をも意識した、「包括的」(ホーリスティック)な福音の理解に求める意識によると思われます。しかし、そこでイエス・キリストという結び目をしっかり押さえないと、風呂敷を広げて福音派が者秋的行動や政治的発言をするということになりかねません。私自身は「全く排除的に(エクスクルーシフ)にイエス・キリストにだけ固着することによってこそすべてのものを包括的(インクルーシフ)に包む」(カール・バルト『教会教義学』「和解論」 1/1の訳者の「あとがき」)福音の世界を求めています。それは聖霊の力によって、御父のみ心を行って生きるということでもあります。すなわち「包括的」ということは、ただ神学的な認識の事柄ではなく、神の民の生き方にかかわる課題です。(中略)

    人の吐く息に乗せられ、成果を求める活動主義にあおられて生きてきた私たちは、霊性の泉に渇きました。ラルシュ・デイ・ブレイクにヘンリ・ナウエンを訪ねた福音派の指導者は、私が知る限りでも何人かいますが、どこかでナウエンは彼らについて「福音派の人々に会って、彼らはみんな神のために一生懸命働いているが、霊的には飢え渇いている」と書いていました。私もその一人であったかもしれません。しかし、新しく見出した泉から組んで飲みながら、なお何かに追われるように生きざるを得ない中で、魂の渇きを読書や異なる伝統の感想へのあこがれで癒すかのようでした。その意味では霊性ということも、イエス・キリストという中心と、隣人愛という新しい戒めへの信従を欠いては、生活に根を持たない自分探しや自己追及になります。(同書 p.115-116)

    特に、これ、早すぎる遺言もどき、と思ってしまったのは、なかでも、以下に改めて抜き出した部分である。

     

    しかし、そこでイエス・キリストという結び目をしっかり押さえないと、風呂敷を広げて福音派が社会的行動や政治的発言をするということになりかねません。私自身は「全く排除的に(エクスクルーシフ)にイエス・キリストにだけ固着することによってこそすべてのものを包括的(インクルーシフ)に包む」(カール・バルト『教会教義学』「和解論」 1/1の訳者の「あとがき」)福音の世界を求めています。それは聖霊の力によって、御父のみ心を行って生きるということでもあります。すなわち「包括的」ということは、ただ神学的な認識の事柄ではなく、神の民の生き方にかかわる課題です。

     

    神の民の生き方にかかわるという部分と、インクル−シブ ないし インクル−シフという語であらわされている部分である。確かに人が社会で生きている以上、社会の現実に向き合わねばならない、そのために祈らなければならないということは、パウロも書いているとおりであるが、時として人間は、行き過ぎは起きる。社会の現実があまりに重く、荒々しいがゆえに、そのことに心と目を奪われ、「神のかたち、神のすがた」としての回復を神の民に告げ知らせ、神の民にもたらすための共同体が教会であることを忘れ易いのではないか、とも思う。そして、自分たちだけのこととして神の民を考えているのではないか、そして、ともすれば、頭でっかちの神学的思惟に走り、その結果として、神の民と共に生きるということを我々が忘れやすいものである、ということへの危機感をこの文章から感じてしまった。

     

    確かに今の状況の中で、某M新聞が「」抜きで共謀罪と表現する法案の問題や、憲法9条の改正を思いつきで語っているといわれても仕方がないような政治家のビデオメッセ−ジが流れ、あるいは南ス−ダンの防衛省の活動記録のやばそうな話もある。そういう意味でも、政治的な発言や政治的な活動をしたくなる気持ちも一方で理解できなくはない。しかし、それが教会のメインの活動になってしまった教会にもいってみたこともあるし、福音派に分類学上は分類されるであろう、と思われる教会の中でも、そんな話が、礼拝の終わりにちょっとであったとはいうものの、そのような内容が語られるのを聞いて、かなりドン引きし、2度とそこに行く気をなくした教会もある。

     

    この前、正教会の講演会に行ったら、そこに来ていた人の食事の時の会話が、聞くともなしに聞こえてきたのを覚えているが、どうも、その正教会の講演会に来ておられた方が、もともと育った教会では、「SEALDsの活動で折角盛り上がったことをこのままで終わらせてはいけないので、それ運動が継続できるように支援せねば」というような教会での会話があり、そういうのに嫌気がして、正教会に来られたという話が聞こえてきた。確かに、「正教会は、そういうことはあんまり言わないので、そういう方には向いているかもしれないなぁ」と聞きながら思ったことを思い出した。
     

     

    教会が政治のことと無縁であるべきではない、と思っているが、ある方向でまとまってどこかの活動を一纏めとして支援したい、とか、教会を政治的な方向付けの道具にしたい、とかいうのは、ミーちゃんはーちゃんとしてはゴメンこうむりたい、と思う限りなのである。政治という大きなものを動かすと、確かに一気に効率的に物事が変わることは確かであるが、それよりも、個人的には、効率的でなくてもいいから、もうちょっと地に足のついた、人々の間に神の平和をもたらす活動をしたいなぁ、とは思っている。
    アメリカ海軍のSEALSの皆さん hristianitytoday.com/ から この人たちはSemper Fiが合言葉

     

     

    日本のSEALDsの皆さん http://blogos.com/article/116687/ から 国会前でデモとかもありましたね

     

     

    ナウエンと出会った福音派の人々の印象

    後藤先生とも関係の深いナウエンの言葉、即ち「福音派の人々に会って、彼らはみんな神のために一生懸命働いているが、霊的には飢え渇いている」というような表現を引用しながら、福音派の人々が、結局は、Doingで自分の心の空虚さを埋めており、Beingすらできていないこと、Becoming(神のかたちの回復)というところまでも行かないし、DoingがBecomingであるかのように錯覚しているのかもしれない、ということは、肌感覚として感じるところがある。

     

    『キリスト教のリアル』でも触れられているが、キリスト教界の福音派の牧師はほとんど休めていない。年に一度もまともに教会を離れられない牧師が多いようである。これは、もはや、福音派型キリスト教界の病理ではないか、とでもいいたくなる。それは、日本がまだまだ伝道地である証拠の一つなのだと思う。そういうこともあるのであろう。後藤先生は、先の引用部分の最後に、次のように書いておられる。

     

    しかし、新しく見出した泉から汲んで飲みながら、なお何かに追われるように生きざるを得ない中で、魂の渇きを読書や異なる伝統の感想へのあこがれで癒すかのようでした。その意味では霊性ということも、イエス・キリストという中心と、隣人愛という新しい戒めへの信従を欠いては、生活に根を持たない自分探しや自己追及になります。

     

    本来、魂の渇きは、神の霊 聖神の臨在のみが、静まりの中でこそ癒しうるものではないか、とは思うのだ。そのような伝統の中にちょこっとだけ身を浸してみたときに、それは思った。正教会の伝統、カトリックの伝統、聖公会の伝統に身を浸す時、確かにそれは癒された。そして、そこでは、イエス・キリストという中心は、十字架という象徴によって、有り余るほど示されているのだが、その象徴性を宗教改革時代の人々が嫌ったためか、宗教改革から500年を経過しようとする現代の日本の福音派の人々のうちには、その象徴性をかなり厳しく批判する人々もおられる。象徴という理解やそれがもたらすものが、福音派の理解の中では存在しない、あるいは、その理解が極めて薄いので、それが理解できないこともあるんだろう。さらに、そのイエス・キリスト故の隣人愛とイエスが直接おっしゃっておらえるにもかかわらず、互いに愛し合うことというイエスの新しい戒め、あるいは、愛の戒めの理解がどうも薄いためか、教会外へのキリストの愛の溢れが薄いような気がする。そして、教会外への神の愛の溢れは、伝道という言葉によるキリストの存在の表明に代わっているのではないか、それしかないと誤解しているのではないか、と思うのである。

     

    正教会の伝統、カトリックの伝統、聖公会の伝統に身を浸す時、キリストを中心としつつも、素朴に、朴訥に神の愛の溢れを届けようとする姿勢を強く感じるが、いわゆる福音派の教会の中に、そのような朴訥な溢れは、家庭問題が解決しますとか、教育問題が解決しますとか、親子関係が解決しますというような形でしか印刷物を通しては聞こえてこず、そうなると、倫風をくださる団体や、天理教とあまり変わらず、もっと言うと、炊き出しなんかをしておられ、社会の困窮する人々にリアルな福音ともいえる温かい食事を届けておられる皆さんのほうが、どれだけの人々に幸せを運んでいるのか、ということを考えると、ことばによって福音を述べるだけでよかったのだろうか、と疑問に思ってしまうこともある。とはいえ、ミーちゃんはーちゃんにある定まった見識があるわけではない。

     

    この前、福音主義神学会西部の 春季研究会議 (その概要はこちら 『福音主義神学会 西部部会・2017年度春季研究会議』でしゃべってきた)で話した時には、時間がなくて、十分触れられなかったが、白波瀬さんの『貧困と地域』の中で、古くからこの地域にかかわってきた教会では、活動を始めた宣教師たちが、伝道を主目的にしたのでは活動がうまくいかないことを割と早い段階で見て取って、それを放棄したものの、後発組の教会群はどこかで伝道中心的な側面があることを述べておられる。このあたりのことにも、福音派的な教会の愛の溢れのある種のぎこちなさが表れているのかもなぁ、ということを思ってしまうのである。

     

     

    言葉や語ることが、もはや、現代社会で機能不全に陥っているのではないか、とナウエンは、The way of the heartの中で、次のように書いている。

     

    All this is to suggest that words, my own included, have lost their creative power. Their limitless multiplication has made us lose confidence in words and caused us to think, more often than not, 'They are just words.'
    (中略)
    The result of this is that the main function of the word, which is communication, is no longer realized. The word no longer communicates, no longer fosters communion, no longer greates community, and therefore no longer gives life.  The word no longer offers trustworthy ground on which people meet each other and build society.(The way of the heart, pp.37-38)  

     

    また、このようにもナウエンは書く。

    During the last decade, many discovered the limits of the intellect. More and more people have realized that what they need is much more than interesting sermon and interesting prayers. They wonder how they might really experience God. (同書 p.64)

     

     

    そして、静まることの重要性に関して、ナウエンが書いている次のことばは、このThe way of the heartの中でも白眉であったように思う。

     

    The Word of God is born out of the eternal silence of God, and it is to this word out of silence that we want to be witnesses.(同書 p.39)

     

    そして、静まりの中で神の言葉を聞くということが、人々を支えるために求められていることについて、ナウエンは同書の中で次のように書く。にぎやかな賛美ではなく、人々を支え、必要に応じるための準備としての沈黙の重要性について述べているように思うのである。

    By entering into the Egyptian desert, the monks wanted to participate in the divine silence. By speaking out of this silence to the needs of their people, they sought to participate in the creative and recreative power of divine Word. (同書 p.48)

     

    さらに、ロシアの神秘主義者の次のようなことばをナウエンは引用している。

    We find the best formulation of the prayer of the heart in the words of the Russian Mystic Theophan the Recluse: 'To pray is to descend with the mind into the heart and there to stand before the face of the Lord, ever-present, all seeing, with in you.' (同書 p.65)

     

     

    これらの文章を読みながら、ことばで語ることが、ことばを中心とした伝道だけに偏ることが伝道ではない、ということに割と最近に思い至って日々を過ごしているものとしては、我々が宗教改革以降、どこかに忘れてきたものを再発見し、後藤先生のお言葉を借りれば、「新しく見出した泉から汲んで飲みながら、なお何かに追われるように生きざるを得ない」生活から離れる必要がそれぞれあるのかもしれない、とも思うのだ。もし、我々がエジプトの山に置き忘れてきたのなら、やはり、そのエジプトの山に置き忘れたものを取りに行って、再発見しないといけないのかもしれない。

     

    置き忘れてきたものが生み出すものは、ナウエンの言葉を借りれば、ことばなきコミュニケイション、あるいは言葉が限られるが故のコミュニケイションであり、共食であり、その一つのかたちである聖餐であり、共同体であり、コミュニティなのだと思う。どこかで、我々は、神との関係をMe and My Godにしてしまったのであり、Us and Our Godという側面をわすれてきてしまったのかもしれない。後藤先生が本書のタイトルとして選ばれた「神の秘められた計画」と呼んでおられるのは、言葉を使わない敢えて無言のうちにあって、神の臨在を多くの人々とともに味わう中でのUs and Our Godという関係の中において、初めて生まれるある種の感覚のことかもしれないなぁ、と思う。

     

    ということで、アップデートする仏教ではないが、これからの福音派 2.0というか、アップデートされるべきこれからの日本でのキリスト教の宣教 2.0 の方向の御示唆を頂いた気がする。個人的には、多少後藤先生と歩みが似ているにしても、後藤先生がおられる共同体をべた褒めする気にもなれないし、ある程度の距離をとりたいような気がするけれども。

     

    とはいえ、この本をお書きになってくださったことについては、一読者として非常に感謝している。後藤先生、ありがとうございました。本当に。そして、先生と先生のご家族の上に神の平和が豊かにありますように、と祈っております。

     

     

     

     

    評価:
    後藤 敏夫
    いのちのことば社
    ¥ 1,188
    (2017-04-21)
    コメント:大事なことが書いてあった。

    評価:
    価格: ¥ 842
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:これでもリアルとは言えないほど、リアルはすごいらしい。推して知るべし。

    評価:
    価格: ¥ 864
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:非常に印象深い。特に、プロテスタント派の新規参入組が伝道重視であるのに古くからのキリスト教会は伝道という色気がないことなどが記載されている。このあたりがヒントになるかもしれない。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM