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2017.05.08 Monday

後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(4)

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    今日もまた、後藤敏夫先生の『神の秘められた計画』を読んでみて、つらつらと思ったことを書いてみたい。

     

    世の中、いろいろな教派があるけれども・・・

    日本でも、非常に多様なキリスト教会が日本全体の中には存在する。皆さんがお住いのそれぞれの具体的な地域(徒歩圏、自転車で行ける範囲、電車やバスで行ける範囲)には、そんなに多様性がないかもしれない。いや、実際にないことが多い。地方部では、一つの市町村にキリスト教会が一つないし0、ということも案外少なくないのである、というよりは、その場合がほとんどだろう。そうなると、いろんな教派は日本全体のスケールでは存在するが、実際に行ける領域、圏域ではほとんどないというのが実際なのだと思う。

     

    実際に、このブログでハリストス正教会のイースターとその讃美歌をご紹介したら、お読みになられた方がハリストス正教会に行きたいのだけれども、お近くにない、と残念そうにおっしゃる方もおられた。

     

    ところで、日本に、あるいは世界に、それらの多様な種類の教派とか教会群がなぜ存在するのか、というと、それは教会は神の支配の産物であると同時に、リアルな空間で存在する一種の社会的存在、あるいは歴史的存在でもあるからなのではないか、と思う。そのあたりのことに関して、後藤先生は次のようにお書きである。

    福音の理解に独自性とか、オリジナリティという言葉はなじみません。教会の歴史は、生ける神様の働きの歴史ですから、その森は実に奥深く豊かで、様々な色合いの霊性の花が咲き、信仰と愛の果実が実っています。これは新しいといわれるような聖書や神学の理解であっても、教会の過去の歴史に同じ理解を見出すことができるはずです。ただ、遣わされている時代や現実が違いますから、そこに飛び散るいのちの火花が違います。(『神の秘められた計画』 p.76)

     

    たしかに、福音にはオリジナリティはないはず、ではある。バプティスト派のイエスとか、カトリックのイエスとか、改革派のイエスとか、ルター派のイエスとかはないのである。あるいは、パブティスト派のための神の国とか、カトリックの信徒のための神の国とか、正教会の皆さん向けの神の国とか、ルター派の皆さんのための神の国とかはないのである。あるというなら、使徒信条の「我ら聖なる公同(小文字のカトリック)の教会」の部分を信じてないか、そのことに合意していないことになるのではないか、と思う。

     

    確かに、福音にオリジナリティはないが、福音の伝え方というか、福音の表現の仕方にオリジナリティは存在する。それは表面の違いであって内実の違いではない。丁度、毎日来ている服装が違うからと言って、服を着ている本人が短い期間をとれば、あまり変わらないのと同じである。それを、服装のスタイルの違いにばかり人間が目をやるから、違うように見えているだけのことである。

     

    もちろん、中学高校の風紀委員会担当の体育教官室の教員がいうように、服装の乱れは心の乱れ、という部分がないわけではないけれども、心が乱れていて、スカート丈を長くしたり、短くしたりはあるかもだが、学生服の内側に金糸でトラや龍の刺繍を入れることはあっても、また、「いくら前田敦子はキリストを超えた」という本が出たにせよ、学生服の外側に在学中に「前田敦子命」とかの刺繍を入れる人はいないだろう。

     

    http://www.tfm.co.jp/timeline/index.php?catid=1485&itemid=60380 より

     

    刺繍入り学生服 http://www.aoki2.com/aoki/sisyu/anniversary.html より 

     

    内側に竜虎の刺繍が入った学生服 http://thinkpink.ocnk.net/product/1042 より

     

    前田亜美 の刺繡を入れた学生服 http://www.yamatokanbai.co.jp/blog/index61.phpから

     

    この人が前田亜美さんらしい。初めて知った。http://akb48nensensou.net/archives/20777849.html から

     

    基本、日本人女性ポップシンガーが個体識別可能であるのは、夕焼けにゃんにゃん以前の中森明菜くらいまでである(年がばれるww)。

     

    ところで、「これは新しいといわれるような聖書や神学の理解であっても、教会の過去の歴史に同じ理解を見出すことができるはず」というところが心に留まったが、まさに、ヘブライの知恵文学作家の言葉ではないが、

     

    【口語訳聖書 伝道者の書】

     1:9 先にあったことは、また後にもある、先になされた事は、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。
     1:10 「見よ、これは新しいものだ」と/言われるものがあるか、それはわれわれの前にあった世々に、すでにあったものである。
     1:11 前の者のことは覚えられることがない、また、きたるべき後の者のことも、後に起る者はこれを覚えることがない。

     

     

    まさに斯くの如しというほかない。これは学問でも同じだと思う。

     

    大学生なりたてのころ、データベース論がご専門の先生から授業を受けることがあって、その授業の中で、その先生がギリシア哲学の先生と対話された時のことをお話されたことがある。そのデータベース論の専門家の先生が「どうだ、これはないだろう」と思ってギリシア哲学の先生にご自分の専門に関してお話された内容が、ことごとく「あぁ、それはギリシアの哲学者の・・・・にありますね」とか「それは、この本のこの部分にありますよ」などと返されて困惑したと同時に、「人間考えることは同じなんだねぇ」としみじみとおっしゃったことが忘れられない。

     

    要するにプログラミングツールと、OSと、アプリケーションソフトウェアが違うだけで、基本的なデジタル計算機に関するコンセプトは2500年このかた、ほとんど変わってないということなのだと思う。それと同じように、キリスト教というOSは西方神学とか、正教会神学とかはあるかもしれないけれども、キリスト教の基本コンセプトはそんなに変わっていないことなのだ、と思う。

     

    福音って法則とかマニュアルのようなものなのだろうか…
    福音は、神を信じて救われるためのものであるといういわれ方がすることがある。しかし、そんなものでいいのだろうか、とも思う。なんか味わいがないというのか、ディズニーランドのライドの施設が持つある種の雰囲気ような、割と薄っぺらいもののように感じることがある。それが悪いというわけではない。それが好きで好きでたまらない人たちもいるのだから、それはそれでいいと思っている。世の中複雑なものが嫌いな人がいるのだ。そら、新幹線に乗るまでの時間にとりあえず何か口に入れたいというような急いでいるときに懐石料理のようにゆったりと出されては困るわけで、名古屋駅のきしめん(これはなかなかおすすめ)のように、あるいは姫路駅のまねきの駅そば(これは中華麺が使ってあってなかなか画期的 情報サイトはこちら)のような速さ重視の食事がうれしい場合もあるし、そういうB級グルメが好きな人も世の中にはおられるのだ。それは間違っているということではなくて、どれも正しい。

     

    あるいは、子供向けの絵本の光の説明と、大学院生向けの専門書での光の説明が違っていて当然のように、提示の仕方は聞き手との関係もあるので、一意に定まらない、ということなのだと思う。

     

    そのあたりのことについて、後藤先生は次のように書いておられる。

     

    パウロは、よく福音派でなされるように、福音をただいくつかの法則にまとめられるようなものとは考えてはいません。神の「秘められた計画」とは何かと言えば、神の御子の受肉、受難、復活の福音からはじめて、「そのキリストにあって、ユダヤ人と異邦人、すなわち異なるものが互いに愛し合って一つになる神の創造目的に生きること」と言葉で説明できます。しかし、その神の「秘められた計画」は、ただの神学的な認識や人間が自分で持つことができる計画やプログラムではありません。(同書 p.78)

     

    パウロは、よく福音派でなされるように、福音をただいくつかの法則にまとめられるようなものとは考えてはいません」という非常に強烈な表現が出て来る。ただ、多くの福音派の方は、「よく福音派でなされるように」と書かれているように、あるタイプの福音提示しかご存じない方が多いので、ちょっとでも違う仕方で、あるいは、ちょっとでも違う視点から、福音(神がこの地に来ちゃった)が語られてしまうと、アレルギー反応を起こされる方も少なくないように思う。そして、「そんな話は聞いたことがない」とおっしゃり、中には、「そんな話は聞いたことがないので、あなたの聖書理解は間違っている」、とか「あなたの聖書理解は異端的」とか好きなことをおっしゃって下さる方も時々ある。ある面、決められた仕方で提示されるものにあまりにもならされているので、変わったものが来ると、おかしく感じるということなのだと思う。

     

     

    そして、「その神の「秘められた計画」は、ただの神学的な認識や人間が自分で持つことができる計画やプログラムではありません」と書いておられるが、これって、伝道というか福音の伝え方が一種のマニュアル化された結果、ってことじゃないか、と思ったのだなぁ、これが。ところが、「秘められた計画」というときの「秘められた」というのは単なる秘密にされたという意味ではなくて、それは神の神秘であるという説明がこの文章の前にある。そのいみで、神が我々の知性をはるかに超えたお方であるように、我々の知性では理解しえないものとしてお餅である、というような神の絶対性にかかわる部分として、神は神秘としておられるのだと思う。

     

    そういう神秘を人間にとって、何とかわかりやすくしたい、平易に説明できるものにしたい、そして、わかった気になりたいというのは人間誰しもが持つ感覚だとは思う。しかし、その思いは大事だし、それは学問をするうえでの出発点ではあるのだけれども、時に行き過ぎてしまって、説明しすぎてしまったり、簡単化しすぎてしまったりすることがある。それが、ディズニーランドのライドの書割みたい、あるいはお子様向けの説明みたいじゃないかなぁ、と思ってしまうのだ。先にも書いたように、お子様向けの説明だって役に立つのだ。お子様向けにはお子様向けのアプローチによる説明こそが、役に立つのだ。だって、パウロさんだって、聖書の中でそんなことを書いておられる。

     

    【口語訳聖書】コリント人への手紙 第1
     3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
     3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。

     

    しかし、いつまでもお子様向けのものだけで満足されるのも実に困ったものだと、パウロさんは言っているように思う。

    【口語訳聖書】エペソ人への手紙 
     4:11 そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
     4:12 それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
     4:13 わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。
     4:14 こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、
     4:15 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。

     

    問題はその辺だと思う。子供向けのわかりやすく、意図的に単純化されたもの、つまり「人間が自分で持つことができる計画やプログラム」しか聞いたことがないと、それが福音であると思いこみ、それしか知らないものでそれ以上のことを考えない場合も出て来るのかもしれない。また、ことに日本のような異教世界的が幅を利かせている様な伝道地では、信徒にも言葉で伝道することが進められたり、求められたりする傾向が強いので、そのためにも、単純化した福音理解が幅を利かせたのはわかるし、その必要性があったと思うのであるが、人間が罪の支配のもとにあるからなのだと思うが、それから一向に抜け出しきれないというのもまた、これまた困った傾向だと思う。そして、違う見え方が福音に対してあるとか、違う見方を述べたりすると、その単純化されたものとは違うので、すぐ異端だとか、お交わりできないとか言われてしまうのは、残念でしかないことだなぁ、と個人的には思うなぁ。

     

    誤解しないでほしいので、何度でもいうが、単純だから駄目だとか、複雑だからいいとか言っているわけではない。単純なものだって必要なのだ。ただ、それだけに捕囚されているのはどうか、そして、その理解がすべてだ、と思っていることはどうなのだろうか、ということを言いたいだけである。

     

    個人的にはアメリカが起点となっている学の世界で生活の糧を得ているし、アメリカ人の持つ世界観のような、なたで物を作るような世界観の単純さや素朴さ、朴訥さには円空仏のような印象もあり良いところもあると思っているのが、問題は、彼らがどのような状況でも、一つ覚えのように同じパターンで何でもやってしまおう、あるいは覆いつくそうとする一種の素朴さというか、強引さというか、無茶さ加減があるように思う。一番最初の日本の福音はトレーラハウス的であるというのもそれである。結局ワンパターンで「ほら、福音持ってきたよ、これでいいでしょ」風の雰囲気がかなり付きまとうのだ。そして、そのワンパターンにはまらないものに対して、「世界標準の福音でない」とか「間違っている」とか「閉鎖的だ」と怒り始めたりして、そのワンパターンの世界にはめようとしたりするのだ。個人的には「自分に合わせろ」と言いつつ、他者に対して「閉鎖的だ」と怒り、相手を変えようとし始める方が、よほど精神としては「閉鎖的」だと思うのだが。

     

    円空仏 https://www.amazon.co.jp/dp/4044001537 より

     

    ちょうどこの種の米国の標準に合わせよ、ということが政治問題化する状況が起きたのが、1980年代の日米通商摩擦のころで、米製自動車が売れないから、と言って自動車のハンドル規制がおかしいといってみたり、米製製品が売れないから、と言って、日本の商慣行が閉鎖的といってみたり、体重や食文化の違いを無視して、米製の市販薬を売るために規制緩和をさせようとしてみたり、挙句の果ては米製のバットがもっと売れるようにするために野球のルールがおかしいのではないか、といいだしたりしたことは、個人的に非常に印象的であった。

     

    また、最近の米国は似たようなことを言いだしている雰囲気があるが、今、世界の向上は、既に日本から中国に移り、その結果として中国の生産能力が向上することに伴い、米国の貿易不均衡は、対日不均衡よりも、対中国本土の不均衡の方が大きくなりつつあるので、不満のはけ口はそのうち中国に向いていくのではないか、と思っている。

     

     

    Chinaと連呼する大統領候補者時代のドナルド・トランプ氏

     

    個人的には、ワンパターンというのはどうにもいけませんねぇ、と思うのだが。その辺が、人間の罪の結果なのか、とも思う。

     

     

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

     

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