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2017.05.06 Saturday

後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(3)

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    今日も後藤敏夫先生のお書きになられた『神の秘められた計画』を読みながら考えたことを、たらたらと書いてみたい。本日は後藤先生のテキストをもとに教会についてのことに関して考えてみたい。

     

    人々の間の壁や断絶を超えていく教会

    個人的には聖餐マニアでもあるので、聖餐は、教会の中で、非常に重要だと思っているのであるが、プロテスタント派では、なかなか、この大切さが認識されてはいても、諸般の経緯により、回数が少ないのが、かなり残念である。いま、アングリカン・コミュニオンに行き続けているのは、結局毎週少なくとも2回は、聖餐式をしておられるのと、とりあえず他のキリスト教会で洗礼を受けた人にも聖餐にあずからせて下さるからである。その聖餐が、人と人との壁や断絶を超え、そして、教会が人と人の間の壁や断絶を超えていくという側面について、体験することができるように毎回思う。そして、それがいいなぁ、と思っている。この教会について、後藤先生は次のように大事なポイントを書いておられる。

     

    ペンテコステのペテロの宣教は、ただ個人の罪の許しだけではないのですね。罪を許されて、近くにいる人も、遠くにいる人も、主イエスの弟子たちの交わりに加わりなさい、というメッセージでした。それを聞いたものの多くはエルサレムに巡礼に来ていたユダヤ人です。しかしそこで起きたことは、聖霊が力を持って臨むとき人間を隔てる民族、文化、言語の壁が破られ、遠く隔てられて生きていたものたちが、一つの新しい神の民(共同体)になるということのしるしであり、前触れでした。アダムの罪によって傷ついた人間の愛の交わりが聖霊の新しい創造によって回復します。これがキリスト教会の誕生であります。(『神の秘められた計画』 pp.69−70)

     

    これを読みながら思ったのは、小文字のカトリック教会という、ことばである。これは、山崎ランサム和彦さんがブログ記事 小文字のキリスト教 で、最初にお書きになられたことではあるが、実は、我々が使徒信条を唱えるときに、聖なる普遍の教会、あるいは、聖なる公教会、あるいは、聖なる公会、あるいは、聖なる公同の教会といっているものである。普遍、公、公同というようなことばが用いられているものの、その心は、人と人を隔てているものを超えていくというのか、隔てられていた人々を包摂していくという存在としての教会ということなのだろうと思う。それを、「罪を許されて、近くにいる人も、遠くにいる人も、主イエスの弟子たちの交わりに加わりなさい」ということだ、ということを後藤先生はご紹介しておられる。

     

    今行っているアングリカン・コミュニオンの教会がとても気に入っているのは、ここ数か月はいろんな人が来られ始めて、日本人も、台湾人も、ルワンダ人も、米国人も、英国人も一つの聖餐の食卓に「信仰を持って近づきなさい Draw near with faith」と招かれて、そして、イエスのからだとイエスの流された血を示す杯とそのための時間と空間をリアルにシェアするところが何とも言えず良いなぁ、と感じているのである。「一つの新しい神の民(共同体)になる」ということが現実になっていることが目前で広がっている感じだと思う。聖餐式では、正に神の国の試食をして味わっている感じがするのである。

     

    天の苦の聖徒の聖餐

    http://www.bicolstandard.com/2015/10/communion-of-saints-heaven-earth-purgatory.html から

     

    水曜日の夜の聖餐式にお伺いしているときには、世界中から来た海員たちが和んでいる姿を見るのである。つまり、一時的にではあるが、フィリピン人もいれば、ロシア人もいる、ウクライナ人も、中国人も、インドネシア人も、オーストラリア人も同じ時間と空間を共有しているという状態が生まれているのである。こういう世界を見ると、あぁ、天の国というのはこういう感じかなぁ、と思うのである。まぁ、聖餐に参加する人が少ないのは残念であるけれども。

     

    One Bread One Body という讃美歌

     

    そして、後藤先生は、「アダムの罪によって傷ついた人間の愛の交わりが聖霊の新しい創造によって回復します」とかかれているが、人間の愛の交わりこそ、聖書のいうシャロームなのだと思う。しかし、前回も書いたように、現実の個別教会の中には、混乱があるし、痛みがあるし、傷つけ合いがある。神が与え給うた理念系である「聖霊の新しい創造」で誕生したはずの教会が、本来の姿としての理念どおりに機能しえないのは、人間が現実には、なんといっても、まだ罪の支配の中にあるからなのだろう。

     

    本書の後半でも書いておられるが、後藤先生もこの現実に直面し、真面目な方であるだけに、相当消耗されたのではなかったか、と思う。その消耗からの隠れ家というか、その消耗からの逃れの場所が、今おられるところだったのではないかなぁ、と思う。狭いキリスト教界隈のこと、普通の教会からはあるていどの距離をとる、あるいは断絶するという意味で、外国に行くか、そこしかなかったのではないか、という部分があったのではないか、と思うのだ。

     

    後藤先生は、様々な人々が食卓を共にすることについて、次のように書いておられる。

    (引用者註 使徒言行録)10章に画期的な出来事が記されています。エルサレム教会の指導者であったペテロが、異邦人コルネリウスと食卓を共にしたのです。異邦人と共に食卓に着き、同じものを食べることは、ユダヤ人にとって最大のタブーでした。当時のユダヤ人だけではありませんね。例えば、1960年代の公民権運動以前のアメリカ南部で、最大のタブーは、白人と黒人(アフリカ系アメリカ人)の結婚、次は白人と黒人が同じ食卓につくことでした。それは命の危険を意味しました。今も心の深いところは変わらないでしょう。イエス様が当時の社会で「罪人」と呼ばれた人々と一緒の食卓について、同じものを食べたことの意味を考えてください。( pp.71-72)

     

     

    1960年代的な状況について描いた映画に、「招かれざる客 英語タイトル Guess who’s coming to dinner?」という映画があるが、まぁ、相当当時はひどい状況である。まぁ、昨年も割と自由な雰囲気のあるワシントン州の州都オリンピアでも、人種の違う男女が付き合っているからと言って襲撃事件が起きたのである。聞いた時、ちょっと驚いたが。

     

    招かれざる客のワンシーン

     

    ここで、ペテロという福音書の中で特別な存在(代表的人物)として描かれている人物が、外国人であるコルネリウスと食事をする(つまり仲間となる、同じような存在の仲間、社中となる)ということで物議をかもした例を取り上げて説明されておられるが、新約聖書中には、イエスについてかなり批判的な言説がなされたことが記載されている。

     

    【口語訳聖書 ルカによる福音書】
    7:34 また人の子がきて食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。

    というイエス自身の言葉とされる表現が出て来る。このなかで、「取税人、罪人の仲間だ」という批判をイエスは受けておられるし、また、このご発言の前に出て来るローマの百人隊長(センチュリオン 百卒長)が言っているこの言葉が印象深い。

     

    【口語訳聖書 ルカによる福音書】
     7:6 そこで、イエスは彼らと連れだってお出かけになった。ところが、その家からほど遠くないあたりまでこられたとき、百卒長は友だちを送ってイエスに言わせた、「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんように。わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。
     7:7 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。

     

    「私の屋根の下にあなたをお入れする資格」というのは、このセンチュリオンというか百人隊長の庇護下にイエスを置く資格、つまり、イエスがこの百人隊長のクリエンティスとする資格、あるいは、このセンチュリオンというか百人隊長が、イエスのパトロン(庇護者)になるということはできないということでもあるし、それを突き抜けて、イエスを仲間として、共に時間と空間を過ごすという資格すらない、ということを自ら公言している様な気がする。この外国人のセンチュリオンがイエスを自宅に迎え入れるということは、暴動すら起こしかねない、というほどの出来事だったのかもしれない。さらに言えば、ここで、イエスを「迎えに上がる」ということは、イエスと時間と空間を共有することを公的空間で実現するということであり、まさに友であることを示すことが、イエスに迷惑がかかるから、申し訳なくてできない、と百人隊長がいっているように思えてならない。

     

    今、それほどの方が、「我々とともにおられる」ということを考えると、空恐ろしさすら覚える。

     

    キリスト教のリアル・聖餐のリアル

    『キリスト教のリアル』という面白い本がある。この本に関しては、こんなもの、キリスト教のリアルではない、といううわさ話が聞こえてきたことがある。この本に出て来るのは司牧の話であって、信徒の話はほとんどない、とか、聖霊様の話が出てこないなど、まぁ、言いたいことをおっしゃる方はおられるが、まぁ、それはいい。どんな感想を持つかは、個人のご勝手であるし、ご自由だとは思っているのである。

     

    あの本は、より正確に言うと、『キリスト教会指導者のリアル』か『キリスト教司牧のリアル』という感じの方がいいかもしれない。しかし、流石にそれではマニアックすぎて買う人がいないだろう。本は売れてナンボである。だからこそ、キリスト教のリアルなのであって、ということかなぁ、ということで落ち着いたタイトルではないか、と思う。大体、普通の日本人に「聖霊様」とかいったところで、「何それおいしいの?」とハナクソをほじられながら言われるのが落ちである。その意味で、この本はある程度、キリスト教に関心があるというちょっと普通ではない、そこそこ普通の日本人を対象とした本なのであって、コアな聖霊様のファンの皆々様方には、そのような本がたくさんあるので、そういう本を読まれるに限るのである。なに、ミーちゃんはーちゃんは、聖餐と教会のコアなファンであるので、この『キリスト教のリアル』とか、下部に紹介する赤木先生の本とかマクグラス先生の本なんかは、とてもおいしいと思う。

     

    聖餐は、確かに象徴である。しかし、それと同時に、そこは現実社会にあるという意味では、リアルな場なのである。先にも述べたように、国境という壁、国籍という壁、言語という壁をぶち破って、リアルに存在するキリスト者が共に象徴としてのパンとブドウ酒(ぶどうジュース)を通して、キリストを内に受け取るというリアルな場なのである。福音書が読まれ、福音を伝える聖書と福音を伝えらるものが一つの場所にいて、それぞれ異なる自らの不甲斐なさを神の前に悔い改めることを神の前に認めながら、共にキリストにあるめぐみを分かち合い、ともに与る聖餐が裂かれるリアルな場が存在するのである。そして、パンというリアルが、人間というリアルとぶつかり、ぶどう酒というリアルが、人間というリアルとぶつかることで、キリストというリアルが、人間というリアルとぶつかった、ぶつかっているということを示す場が聖餐という場なのではないか、と思うのだなぁ、これが。

     

    そこでは、日常世界では分断された人々が、一つに集まることで、神の民が一つであるということを小さいレベルで覚えることにもなるように思う。まさに、「神の御国、いまここでちっちゃいレベルでキタ〜〜〜〜〜」ということを覚えることだと思うのだ。聖餐はインターネットでできないし、司祭から、牧師から、または隣の信徒から、イエスの死と復活の象徴するパンをもらうことはインターネットがいくら技術的にスペックを上げたとしてもできない話ではないか、と思うのだ。神の国、ないし神の支配がこの地にぶつかる音こそが、福音宣教だ、と個人的には思っている。その意味で、聖餐式はそれこそ福音宣教のかなり有効な方法なのではないか、と思うのである。それが軽視されているのがねぇ…。

     

    人と人の壁とその間を埋めることに関して、後藤先生は次のように書いておられる。

     

    ユダヤとサマリアの間には、民族的な、宗教的な憎しみや蔑みの厚い壁がありました。今もあります。エルサレムから地の果てにも、また地の果ての人々の間にも、互いを隔てる壁があります。一つの地域にも、差別や蔑みに隔てられた人々が生きる地の果てがあります。そこでイエスの証人になるということは、自分は安全圏にいて、離れたところからスピーカーで福音をつたえるというようなことではありません。福音を伝えるものは伝えられるものとともに立ち、共にめぐみを分かち合い、キリストにあって互いに愛し合って一つになる聖霊の新しい創造に共に与っていく。その過程で、クリスチャンも神の国にふさわしいものに変えられていくことが今日も求められている福音宣教であり、それが人類の救済につながる聖霊の贖いの力による御国の前進なのです。(同書 pp.74-75)

     

    ところが、下の動画でご紹介する人々は、お正月の初もうでの人々に、神の言葉を聞かせようとして、離れたところからラウドスピーカ―で聖書の言葉を切り取り、細切れにしたものをご配布くださる。分かち合うのではなく、「聞け。聞かねば、呪われるぞよ」と一方的に只々聖書から切り出された多様な文言が繰り出される。個人的には逆効果ではないか、とも思うが、それでも、その一方的な聖書テキストの細切れのような言葉を通しても、神のことばと出会い、キリストと出会う人たちもいるのだから、不思議なものである。人知をはるかに超えたキリストの愛、とはこのことか、とも思う。


     

    たしかに、後藤先生の言われるとおり、「福音を伝えるものは伝えられるものとともに立ち、共にめぐみを分かち合い、キリストにあって互いに愛し合って」いくことは大切だと思うが、多くの一般の人々には意味不明に近い、教会用語で教会話法に従って、教会会話や教会説教が教会では語られる。中央官庁では、多くの一般の人々には、意味不明に近い、官庁用語で官庁話法(東大話法ともいう)に従って、官庁政策が語られるし、国会議員は官庁用語の解説を時々は官僚に求めるのである。時に国会という場で。それで通じているということになっているのであるから、法案がどんどんと通っていくことになる。まぁ、議員だって、そのかなりの部分は、官庁話法話者である元官僚上りが多いのが現実ではあるけれども。

     

    しかしそれは、国民と共に立っていることにならないし、恵みを分かち合っていることにはならない。それと同じことは、学問と世俗社会の間、特にマスコミの間で起きる。それが起きたのが、あの、何人もの科学者の人生をつぶしてしまった、STAP細胞事件だと思う。研究関係者や大学関係者は、研究者仲間のコミュニケーションが主になるので、一般に世間一般とのコミュニケーション能力を持たないことが多い。そして、そのコミュニケーションの輪の中に入っていくためには、忍耐を要する研究というものが要されるのだ。それは仕方がないことだと思う。それを、その忍耐をせずに簡単にわかった気になって、テレビや新聞で解説するから、そして、その中途半端な解説で分かった(分かち合えた)気になる人々が世の中には、多いから困ったものなのだけれども、世の中そんなに甘くない。しかし、これまでの学問の関係者には、その分かち合いや、伝えらえるものと共に立ち、という視点が割と薄かったこともまた、学の側は、現在では少しだけ反省を強いられているようには思う。

     

    これは、教会もまた同じだと思う。分かち合うためには、メディアないし、場あるいはフィールド、圏、公共圏、スフェアが必要なのである。その場とかフィールド、圏といったものはリアルなものの場合もあるだろうし、バーチャルなものの場合もあるだろう。これまでは、リアルな教会という場しかなかったが、そのリアルな社会の中に、既にバーチャルな世界が突入し、リアルな社会のバーチャルな社会が突き刺さっているのだ。Pokemon Go!というゲームを知らない人はこのブログの読者にはおられないとは思うが、あれはまさに、バーチャルがリアルに進出してきたのである。携帯電話という存在も、ある面、不完全な形ながら、バーチャルがリアルに突入しているのだ。

     

    ユビキタス社会といわれてから、もう10余年である。いつでも、どこでも、情報通信のお世話になる社会が到来しているとすれば、それを無視することは、それを用いる人々と共有する場にともに立たない、シェアしない、ということになるだろうし、そのような態度は果たして宣教や伝道をしようとしているといえるのだろうかなぁ、とは思う。

     

     

    その意味で、キリストと人がぶつかり、神と人が、そして、人が人とが神にあって愛を示し合うために向き合う場所が教会なのかもしれないなぁ、と思うのである。教会は結婚式のときに家族についての愛を語る場所ではなくて、いつも愛を語る場所であって、その一環として教会があるのではないかなぁ、と思うのである。

     

    Pokemon Goの画像 

    http://www.redbull.com/jp/ja/games/stories/1331807631384/pokemon-go-tips-red-bull-games より

     

    インターネットやウェブサイトという概念は、1990年代までは存在しなかった。しかし、今では、それは社会基盤にすらなっている。確かに、それは我々にとって比較的新しいものである。そして、従来はなかったから、と言ってそのようなアプローチを無視するのであれば、聖書といえば、羊皮紙に筆者生が転記する聖書であり、これまでに印刷聖書はなかったからと言って無視した人々と同じ命運が待っている。キリスト教会ですら、ヘブライ語聖書の時代にはなかった。エルサレムにある神殿ですら、ある時から現れたのである。

     

    まぁ、これからこのような社会とどう付き合うか、についてどうされるかは、それぞれの方お一人ひとり、それぞれの教会ごとに個別に突きつけられている問題でもあるし、それは教会として、まじめに神学すべき内容であるのではないかと思うのだ。

     

    現在は、ある面で過渡期ではある。ただ、先にも述べたように、バーチャルは、リアルを覆いつくすこともできないし、リアルはバーチャルを覆いつくすこともできない。必要なのは、リアルな孤立国、孤島同士をつなぐ人やその場、リアルとバーチャルをつなぐ、ブリッジする、あるいは架橋する人とその場が必要なのだと思うなぁ。

     

    そもそも、教会はデジタル的なバーチャルではないといえ、フィジカルでない、物的でないという意味でバーチャルなものについても、言語で扱うにせよ、物的なもので扱うにせよ、身体的なもので扱うにせよ、扱っているのではなかったろうか。それなのに今になって、バーチャルなものは…とか言い出すのは、個人的には理解に苦しむのだなぁ。これが。

     

     

    次回へと続く。

     

     

     


     

     

     

    評価:
    赤木 善光
    教文館
    ¥ 8,100
    (2005-11)
    コメント:高い本だけど、たまらん位面白かった。

    評価:
    価格: ¥ 3,240
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:DVDの内容が面白かった。もちろん、本文もいいけど・・

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