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2017.05.01 Monday

後藤敏夫著 『神の秘められた計画』 福音の再考 − 途上での省察と証言 を読んでみた(1)

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    この本が出た、というのは、知っていた。読んでみたいと思っていた。そして、新学期のバタバタで振り回されているうちに買いに行く時間と読む時間を失っていたのだが、今回、福音主義神学会西部の研究会議で販売していたのを見つけたので、購入し、読んでみた。薄い本であるが、印象深かった。

     

    日本型キリスト教福音派の自省録

    この本を何と表しようか。早すぎる遺言、とでも呼ぼうか。あるいは、キリスト教日本型福音派にとっての自省録と呼ぼうか。そういう感じの本であった。

     

    この方のブログは読んでいる。なぜ、後藤敏夫先生が、キリスト教界であまり芳しくないうわさがながれている、今おられるようなキリスト者集団(召団 と呼んでおられるところ 恐らく、ギリシア語でのエクレシアの独自訳語であり、キリスト集会派が集会と呼び、日本の多くのキリスト教界関係者が教会と呼ぶもの)におられるのだろうか、ということは後藤先生のお書きになっているブログで薄々とは想像していたが、それがより明確に、そしてかなり明らかにされた感がある本でもあった。その点でも印象深かった。後藤先生にとっては、そうしかならなかったし、それでよかったんだ、と、今は思っている。今、後藤先生がおられるところは、無教会の流れをくみ、キリストの幕屋の系譜の中にある、ドイツ文学者小池辰雄さんが始めたグループの後継団体の一つであるらしい。

     

    無教会の華麗なる人脈

    この本には、ミーちゃんはーちゃんも知っている何人かの尊敬するキリスト者の名前が出て来る。ドイツ文学 小池辰雄さんや、直接お会いしたことすらないけど、私淑してやまない旧約聖書学者の関根正雄先生(関根先生は、体験主義に嫌気がさしてこの集団から離れたらしいけど)のお名前も本書の中で見て、「え、そうだったの?」と思ってしまう。

     

    この本を買ったのは、先にも述べたように、塩屋の神学校で開催された福音主義神学会西部研究会議であるが、その会場提供しておられた神学校の母体となった集団を創始したバクストンなどの名前も出て来る。N.T.ライトの名前や、今年の福音主義神学会での基調講演とその講演への応答の中でも、名前が何度も出たアウレンという人の名も出てきた。キリストの幕屋と無教会主義教会の関係は、いろいろと突っ込んでくださる手島イザヤ先生からお伺いすることがあったのだが、そのあたりの関係について、この本の中での記述に触れながら、なるほどなぁ、と思ったのである。

     

    日本の福音派には、あまり知られていなかった正教会的理解

    この本には、水谷先生というお名前が何度も出て来る。しかし、その水谷先生は、ミーちゃんはーちゃんと遊んでくれる水谷潔先生ではない。即ち、大頭眞一先輩が、『焚火仲間』と勝手に呼び、勝手に『焚火を囲んで聴く神の物語 対話篇』での対話者に指名されてしまった水谷潔先生のことではない。今、後藤敏夫先生がおられるところの召団の代表の方のことである。その水谷先生の立場からの現代日本の福音派に対するご批判を、後藤先生は、こう要約する。

     

    福音派に対する水谷先生の批判は、その人間中心的・実利主義的(ご利益主義的)な福音と信仰の理解に向けられます。即ち、信仰は「私のため」のものか、「神のため」のものか、ということです。救いの福音とは、、罪を許された私(たち)が天国に行くためのものか、罪ゆるされた私(たち)が神の創造目的に相応しい本来の自己を回復して、神の喜びと栄光に生きるためのものか、ということを徹底して問います。「私のため」であること自体が否定されるのではありません。ただ「私のため」とは、救われたものとして、自分の人生を好きなように生きる自己充足や自己実現のためということではありません。神に喜ばれるような自己犠牲の愛(十字架を負った人生)を生きる様に、サタンの支配から買い戻されたのだというのが「召団」の福音です。(中略)
    そういう「福音派の福音」への問いかけはまったく正当なものだと私には思われます。そしてその批判は、さらに深い神学的な問いをはらんでいます。それは「イエス様は私たちの罪のために十字架で死なれました」、「イエス様を信じれば一度限りすべての罪は許されます」、「イエス様を信じて天国に行きましょう」という福音派の宣教のことばが、救われたものとして主イエスに従う生き方を生み出さないということです。恐らく、こころある福音派の牧師の多くが、どうすれば罪を許され救われるかという福音を語りながら、私たちは何のために巣食われたのかというクリスチャンの生き方について、伝道活動の務め意外には十分に語りえていないもどかしさを感じているのではないでしょうか。信徒もまた伝道説教にもっとも恵まれるという状態から、なかなか成長できないでいるかもしれません。(同書 pp.24-25)

     

    しかし、こう書かれてしまうと、福音派の方々としては、なかなか手厳しい表現だなぁ、と感じるかもしれない。それだけ正鵠を射たご批判だと思う。この部分を読みながら思ったのは、これ、ハリストス正教会(ロシア正教会系の日本ハリストス正教会)の聖書理解とよく似ているのではないか、とういことである。ここで批判されている、「この地にあって、神の民として生きる」という部分は、ハリストス正教会の信徒への勧めではないか、とも思った。あるいは、砂漠の師父の教えとほぼ同じではないかなぁ、と思ったのだ。最近ちょくちょく出入りしているハリストス正教会での聖書理解(あえて言えば神学)からの、いわゆるアメリカの福音派の影響を強く受けた、日本の福音派神学への批判と、批判されかねない視線のベクトルと同じような気がする。この問題は福音派の片隅の教派で長らく人生を過ごし、そこでかなりの期間、講壇にも立ってきたものとしては、正面から受け止めたいと思っている。ハリストス正教会あるいはコプト正教会でのバプテスマ『異端者帰正式』を受けることをこの数年のうちに、何度か考えたことがないとは断言できないもの(実際、ハリストス正教会の帰正式に、心が揺らいだことがあるもの)としては、このギリシア正教会系、あるいはビザンツィン型のキリスト教の伝統の神学を対象とした時に、自らの聖書理解からどうこたえるのか、ということは大きな問いである。それで、結局、今は、聖公会の英語部に寓居しているのだけれども。

     

    2017年4月の福音主義神学会西部の研究会議での基調講演論文に対する応答で、ある応答者の方が、「Missio Deiとかちょっと変わった神学があるが…(大意)」とご批判めいたご発言をされた方もあったが、それは、自分たちの聖書理解の伝統、ラテン的伝統とはMissio Dei(神の宣教)の理解は違う、あるいは相いれない、と思っておられる、ということのようでもあるようだ。また、Missio Deiの概念を批判的な視線を向けることで、Missio Deiからの批判を回避しようとしているように、ミーちゃんはーちゃんには思えた。まぁ、御発言者のご本人の思いは別のところにあるのかもしれないが。

     

    勝利者キリストという忘れられたキリスト理解
    ここで、今回の福音主義神学会西部の基調講演論文でも取り上げられていた、スウェーデンのルター派の神学者、グスタフ・アウレンの所論を取り上げながら、現在後藤敏夫先生がおられるところの召団の聖書理解を位置づけようとされている。その意味で、この薄い本も、福音主義神学会西部の基調講演の理解への補助線を与えるものだと思う。あの講演について、思いを巡らしておられる、あるいはあの基調講演論文と対話しようとしておられる皆さんには、是非とも本書も読まれることをお勧めしたい。

     

     

    その部分から引用する。
    アウレンは、自ら属する西方教会の伝統にあるアンセルムスやカルヴァンの理解に代表される贖罪論は、新約聖書の本流にはつながらないとします。そして、十字架の出来事の中に、刑罰代受よりも悪の諸力に対するキリストにおける神の勝利を見ます。アウレンはその贖罪論を古代教父(とりわけエイレナイオス)に見出し、更にその復興をルターの中に見ます。そしてそれが教会史の最初の100年間に支配的であったと考えられることから「古典的贖罪論」と呼んでいます。
     水谷先生は、アウレンが語る「勝利者キリスト」(Christus Victor)の贖罪論に立っています。即ち、西方の教会の伝統にある合理的で法的な「刑罰代受説」(満足説)の贖罪の理解よりも、神がキリストにおいて悪魔の支配に勝利するという、ある意味では法的には合理的に説明しえない二元論による贖罪論に立っているのです。(同書 p.27)

     

    エイレナイオス http://365rosaries.blogspot.jp/2010/06/june-28-saint-irenaeus-of-lyons.html から

     

    ここで、「勝利者キリスト」の理解を、「法的には合理的に説明しえない二元論による贖罪論」と解説しておられるが、「それは本当に二元論と呼んで、よいのだろうか」という素朴な疑問がある。神か悪魔かのどちらかの勝利という対立軸というよりは、もう少し多元的・多面的なものの中でとらえる「勝利者キリスト」の方がアウレンの主張により近いのではないか、とは思うが、何せ、原著のアウレンを読んでいないので、何とも言い難い。なお、アウレンはオンディマンド版で入手が可能らしい。
    ここで、スウェーデンという国の位置が重要である。即ち、スウェーデンのお隣は、もうハリストス正教会のご先祖様のロシア正教会の土地、ロシアである。あのロシア革命と共産主義支配の中で迫害され続けてもなお残った、ロシアの素朴なお婆さんたち、すなわち、バブーシュカ、が素朴に維持し続けた、ロシア正教会の信仰を考えると、勝利者キリストという理解は、キリスト教が本来持っていたある種の強靭さの根源を残しているのかもしれない、と思うのである。この辺は『隠された恵み』というフィリップ・ヤンシーの本に出て来る。あるいは、ローマ帝政下で迫害され続けたにもかかわらず、残存し、挙句の果てにローマ帝国をキリスト教国に変えてしまった挙句にコンスタンティヌス型キリスト教と後世のヨーダー先生に揶揄されるまでになった、古代キリスト教が持っていた、ある種の強靭さの背景にあるのが、この勝利者キリストということなのかもしれない。

     

    残念ながら、日本の多くの福音派のキリスト教会には、この「勝利者キリスト」のエッセンスのようなものがあるかといわれたら、ほとんど無いのかもしれないなぁ、と思う。それだけに、日本型の福音派の多くのキリスト教理解には、ある種の強靭さというか、問答無用のむちゃくちゃさがないのかもしれない。その結果として、迫害もないのに、ぼろぼろと救われた人たちが教会から3年から4年で抜け落ちていくのかもしれない、と思ったりもする。小手先の方法論の議論は喧しくなされるが、本質的な部分に大きな欠落というか落とし穴があるのではないか、という感想をミーちゃんはーちゃんは持ってはいる。そして、それが勝利者キリストという理解なのかもしれない、と思う。

     

    トレーラーハウス型の日本伝道

    日本には、すでに出来上がった西欧近代の教会がそのまま、大きな変更もされることなく持ち込まれてきたし、日本の福音派は、戦後アメリカ、ないし現代アメリカの教会の様式論と運営論と神学に大きな反省をすることなく、そのまま持ち込まれてきたようにも思う。ちょうど、アメリカのトレーラーハウス(移動式住宅)よろしく、アメリカから車輪を付けたまま自動車運搬船で輸入し、それを日本の大地においた感じなのが日本のかなりの部分の福音派の教会なのではないか、と思う。だからこそ、日本の大地におかれているだけで、根が張っていないし、イエス様の種まきのたとえの道路に落ちた種ではないが、風が吹けば吹き飛んでしまう、という部分ではないか、と思うのだ。なお、なんちゃら伝道大会などの動員型の伝道なんかは、まさにトレーラーハウス型の伝道で、アメリカから有名人やその子供をトレーラー・ハウスのトップ・セールスマン(現代アメリカ英語では、トップ・セールスマンのことをエバンジェリスト(伝道者)と呼ぶ…w)よろしく、呼んできて、日本という国情も考えもせず、カスタマイズもせず、米国のものをそのまま持ってきて、ドンと置くような形の伝道であり、トレーラーハウスは、根付くこともできない設計になっており、根付いてもいないし、日本ではメンテナンスが限られるので、数年でぼろぼろになるというのが、3〜4年でぼろぼろになり、結果として教会から信徒がぽろぽろと落ちていくという姿と重なってもしょうがない。

     

     

    トレーラーハウス
    http://starhomeusa.com/blog/brand-new-mobile-home-owner-finance-house-trailer/

     

    手入れされてないトレーラハウス
    https://www.colourbox.com/image/old-grunge-trailer-with-windows-image-2314567

     

    神化の神学

    日本では、ハリストス正教会をはじめとするビザンツ型の聖書理解の体系が、亜使徒大司教 聖ニコライにより持ち込まれはしたものの、大津事件や日露戦争や不幸な諸条件が重なり、普及しなかったのであるが、近年の霊性、黙想や観想、砂漠の師父の思想と実践を中心とした霊性あるいはキリスト教型スピリチュアリティへのキリスト教会の人々の中でも、関心の高まりもあり、関心を寄せる人々は増えているが、これを義認論が強い西方の神学にくっつけてしまうと、神学的フランケンシュタインになるのは、以前にもこのブログ記事  神学的フランケンシュタインの登場は要らないかもで触れたとおりである。

     

    東方教会の神学者メイエンドルフによれば、東方には神化の神学はあるが、義認の神学は育たず、西方には義認の神学はあるが、神化の神学は育たなかったといいます。西方の伝統に育った水谷先生には「義認」の信仰とともに、不思議に東方的な「神化」の信仰があります。そこではむしろキリストを信じたものは、神の最高法廷で一度限り無罪の判決を受けるという、聖書に基づいた(ローマ3章等)、西方の法的で合理的な「義認」の信仰は、宣教の前面からは後退して薄くなる印象すらあります。(同書 p.30)

     

    ここで、重要なこととして出て来る東方型(あるいはビザンツ型、ビザンチン型)のキリスト教での「神化」(あるいはテオーシス)の概念は、本ブログのこの記事  大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意)  を酸そうされたい。

     

    この部分を読みながら、西方で義認論的な理解が広がった背景に関して、「あぁ、そういう側面があるかもなぁ」と思ったのは、ローマ社会が、割と古くから、社会の基盤の形成に大きな役割を果たしたのが、法であり、その法律を作りあげるのが、議会ではなく、個別の法律闘争、あるいは裁判の弁論および裁判の判決であり、法律論争とその弁論に基づく判決結果による法体系を発展させてきた社会を背景としていることが決定的に効いているかもしれない、と思ったのである。

     

     

    ローマのレトリック、修辞法を学ぶ人が必ず読むラテン修辞家として有名なカトーにしても、キケロ(英国風にはシセロ)にしてももともと法廷で論理と修辞を展開する弁護士であったし、修辞学の名文家としても有名で、今も尚、その作品が西欧では読まれているユリウス・カエサルも、もともと政治家になる前は弁護士(あるいは修辞家)であった。ローマは、上院とか下院で、成分法を発布するのではなく、判決が法的拘束力を持ち、実効法になるのである。アメリカの法制度は、そのローマ法体系の影響を強く受けている。だからこそ、ローマ法体系の影響力の強いローマ帝国の西半分が覆っていたラテン帝国ないしラテン文化圏では、義認論のような法的解釈が人々に伝道するうえで整合的かつ説得的であったため、義認の神学が異様に発展し、普及していったのかもしれないなぁ、という印象を持った。オバマ前アメリカ合衆国大統領に見られるように、アメリカ合衆国大統領には、法曹関係者、弁護士上がりの人がやたらと多い。

     

    カトー https://en.wikipedia.org/wiki/Cato_the_Elder から

     

     

    キケロ または シセロ https://en.wikipedia.org/wiki/Cicero から

     

     

    ローマ帝国地域の政治文化と

    キリスト理解と、現代アメリカ政治

    ところが、ギリシアを中心としたオリエント、あるいはローマ帝国の東半分が覆っていた、ビザンチン帝国ないしギリシア文化圏(ビザンチン文化圏)では、法律の制定は、民会という疑似議会制的民主主義政体によって定められたり、もっと、オリエントの東側(たとえば、ペルシャあたり)に行くと、王様がいて、その王の発布する法律、王が発することば、あるいは王の判断した結果が法律となっていく文化がある。そのような文化的背景を持つ人々には、人間と人間がやり合って無罪か有罪かを争う法廷闘争的な理解の体系よりも、高いギリシア的な徳を持つ政治家となり市民会(民会)での発言権を持つ人(哲人とか、徳を備えた人)になることが重要とされたことのためか、神化の神学のほうが、人々に伝道するうえで、成功的かつ説得的であったため、神化の神学が異様に発展し、義認の神学の影が薄くなったのかもしれないなぁ、と思う。

     

    他国の大統領を例としてとるのは、確かに申し訳ない限りではあるが、わかりやすそうなので、霊にとって考えてみたい。

     

    原罪の某国 特朗普 大統領(中国語表記にしてみました…)は、選挙戦期間中からも、ギリシア的な「徳」を持った人とはどうも言いかねるように思ったのだが、ある面、米国の中西部の市民的な徳(努力してがんばることで評価を受け、自ら富を作り出し、自己と他者のためにそれを用いる、という意味では、中西部市民的な徳はあるような印象を与えることには成功しているとは思う)を表明した人物であり、どちらかというと、義認論的というよりは、神化的なスーパーマンとしての勝利者キリストに近い側面が皆無だとは言い難いが、個人的には、あのタイプのキリストさまは勘弁してほしい、と思っている。なお、キリストは王という意味であるけれども。それこそ、 特朗普 現美国大統領(中華風に表現してみましたw)は、ある面、不動産屋のキリストだった、といえばそうも言えなくはないのではある。

     

    https://www.vice.com/en_us/article/donald-trumps-real-estate-tycoon-is-a-warning-from-history-950 より

     

     

    こう見てみると、義認論的オバマ VS 神化論的特朗普 という対比でとらえると分かりやすいかもしれない。東方正教会での神化の理解が誤解されるのは嫌だが。

     

    あと、日本でメイエンドルフの神学書をお訳しになられたのは、ルーテル学院大学・日本ルーテル神学校の教授でもあられたバランスの取れた先生である鈴木浩先生である。確かメイエンドルフは、大阪ハリストス正教会の松島司祭から何度かそのご高名はお伺いしたことがある。

     

    あと、この部分の最後の部分の「西方の法的で合理的な「義認」の信仰は、宣教の前面からは後退して薄くなる印象すらあります」を読みながら思ったのは、20世紀初頭に活躍したウォルター・ラウシェンブッシュの次のことばである。

     

    永遠の命がキリスト教的希望の前面に出てくるにつれて、神の国は背後に退いていき、それとともにキリスト教の社会的能力の多くも失われた。(中略)永遠の命は個人的希望であり、この世のためではなかった。(ウォルター・ラウシェンブッシュ著 『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』 p.212)

    ラウシェンブッシュの場合、義認論を起点にした聖書理解とその結果としての天国へ行くことの重視が、前面に出過ぎていた19世紀末から20世紀初頭にかけての当時のアメリカのキリスト教世界に対して、預言者的な反対意見を述べた人物であり、当時のキリスト教会に巨大な岩を投げ込んだ、といっても良い人物である、とは思う。現在の社会福祉を中心として、地に平和をもたらそうとする”社会派”と総称されるキリスト教の思想的基礎を与えた人物であり、先に紹介した著書『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』は、社会的福音の出発点となった本である。彼の場合は、バプティスト派の牧師であることもあり、明確な神化の概念の影響は出てこなかった印象があるが、人が人であることの回復、あるいは、人が神のかたちであることの回復を狙ったという意味で、後藤先生がおられる召団の聖書理解と共通する部分を持っているように思える。しかし、「社会派」と呼ばれる人に影響を与えた概念が、いわゆる福音派にあたる教会集合(ここの場合は、集合論的な意味で集合という語を用いている)の牧師から出ているのが面白い。

     

    こう考えると、アウレンが指摘しているように”勝利者キリスト”的な理解は、16世紀のルターにもみられ、20世紀のラウシェンブッシュにもみられ、そして、ビザンツ系あるいは、ビザンツィン系、あるいは正教会系(個人的にはコプトやエチオピア正教などを含む正教会系の神学と呼びならわす方がよいと思う)の神学や、カトリック教会の実践にもみられるということを考えると、案外大事なことだとは思う。それが福音派の教会で、ほとんど認識されていない、気にされていないのは、バランスが欠けているのかもしれないなぁ、あと思う。

     

    神のエイコーンとイミタティオ・クリスティ

    人間は、神のかたちであり、それが完全にダメになっている(全的堕落)というのが改革派系の聖書理解では強く見られるような気がする。全くダメになっているから、キリストに頼るしかない、という一種の法廷論的罪理解なのだが、正教会系の人間理解はどうもそうではないらしい。罪の結果、だめになっているけれども、また、この地でも回復する可能性があるというところが正教会系の神学や聖公会の祈祷書には、あるようであるし、だから、聖人伝とか聖人が大事にされるのだろうと思う。個人的には、どちらかというと、この正教会系の人間理解の方が、なんとなくだけど、絶望がないのでいいかなぁ、と思っている。

     

    ところで、この神化の信仰について後藤敏夫先生は、次のように言う。

    ある神学者が東方教会の「神化」の信仰は、西方教会的にいえば「キリストに倣いて」(イミタティオ・クリスティ)になると語っています。「召団の福音」においても、福音による救いは、義認による罪の緩しを焦点とするよりも、人間が創造された目的である「神のかたち」(エイコーン)の回復にあります。それは聖霊の新しい創造に与ってキリストを模範として生きることにあります。そこでは最初の創造に追って与えられた良い面を教育によって開花させるという面も強いように私には感じられます。(同書 pp.30-31)

     

    イミタティオ・クリスティは、トマス・ア・ケンピスという人の本のタイトルでもある。これは岩波文庫で「キリストにならいて」というタイトルで出ているので、気軽に手に入る本ではある。詳細はご自分でお買い上げになるか、ご近所の図書館でお借りになって、お読みいただきたい。公立図書館にはおいてあるだろう。

     

    ここで、キリストに倣う生き方をするように召されていると召団では教えておられるとご指摘であるが、正教会的伝統や古いカトリック的伝統、アングリカン・コミュニオンでは、いきなり、キリストに倣うのは、無理なんで、もうちょっと身近な存在としての先輩としての諸先輩、あるいは諸聖人を尊敬して、キリストに倣おうとした人のかけらからのかけらでも難しいので、過去の先輩、あるいは、聖人に倣おうとしているということであって…、ということらしい。その意味で、聖人は、信徒教育のためなのだ。エジプトのマリアがどこでもドアを持っていた疑惑とかに注目するのではなく、あまりに罪深い女性であったけれどもキリストに出会って(Encounterして)、真実の罪の悔い改めをしたことに注目すべきなのだろう。

     

    しかし、この辺の伝統を宗教改革の時に、プロテスタント派では一挙にブルドーザーで破壊して、そのまま谷底にごみとして突き落としてしまった感があるので、このあたりの「神化の神学」は、プロテスタント派ではないところが多い。

     

    この種の概念がプロテスタント派で残っているのは、メノナイトとアーミッシュくらいではないか、と思う。ただ、メノナイト系教団の偉い先生なのに、自分では、「えらくないよぉ」とおっしゃっておられる方で、月1回以上ミーちゃんはーちゃんがお会いするメノナイト系の某教団の偉い先生に聞いたら、「もう、日本のメノナイトは、普通の福音派の教会です」と身も蓋もないことをおっしゃっておられた。その割に米国の教団からは、「日本のメノナイトは、本当にメノナイトらしい教会だから、もっと頑張れ」といわれるので、そのたびごとに何とも言えない気持ちになる、ともおっしゃっておられた。正直な方なので、この方は大変尊敬している。

     

    そんなことが重要なのではなくて、重要なのは、その意味で、「最初の創造に追って与えられた良い面を教育によって開花させる」ということであり、そして、教育というよりは教会での礼拝や聖書からの説教を含むMinistryにより、本来の神のかたちに戻していく、という部分なのだと思う。それが、今では、ここでも何度か揶揄してしまったが、「信徒が聞いてくれるから」、「信徒が喜ぶから」ということを口実として、讃美歌大会付きキリスト漫談大会にしてしまっている教会もなくはない、ようだけど。それでは、このタイプの教会に食傷して、本家の正教会系理解に流れるのではなく、召団に流れる人がいてもやむを得ないのかもしれない。日本で、正教会系の神学があまりに知られてないのが残念でならない。

     

    普通の教会に飛び込んでくる営業のオジサン(時々、いるから不思議である。よほど教会が金持っていると思われているのかもしれない)が教会についておっしゃるのは、この教会は、カトリックですか、プロテスタントですかは、おっしゃるけど、コプトでいらっしゃいますか?グルジア正教会で?エチオピア正教会で?といわれることはないし、長らくキリスト者である方でも正教会の名前を聞いたことはない人が多いだろう。もっと言えば、正教会系の聖書理解のちょっとした知識でもいいので、それを持っている人はほとんどいないかもしれない。

     

    実に残念なことである。

     

     

    ニューパースペクティブ

    あるいは(パウロ研究をめぐる)新しい視点

    数年前から、福音主義教会の関係者で、N.P.P(N.T.Tではないし、T.P.Pではないし、P.P.A.Pでもない)という語がはやっている。PPAPは一部はやっている教会があるかもしれない。ところで、N.P.PはNew Perspective on Paulという概念の英語表記の頭文字だけ取り出した表記法であるが、この分野にお詳しい伊藤明夫先生の一昨年の福音主義神学会東部でのご講演によると、もはや新しいとも言えない30年くらい前のもう古くなってしまったパウロ理解のことらしい。その概念とそれが伝道理解にどう影響するかについて、後藤敏夫先生は次のようにお書きである。

     

    ニューパースペクティブは、「義認」を個人が信仰によって罪を許されるというよりも(それも含みますが)、イスラエルとの契約とそのメシアによって世界を救う神の計画に罪人を招き入れる行為として考えます。最近、日本にも紹介されるようになった英国のN.T.ライトもニューパースペクティブに立つ神学者です。日本伝道会議においても、N.T.ライトの義認論をめぐって議論があったようです。私は聖書理解としてはニューパースペクティブに共感するところがあります。そして、それは伝統的な福音の理解と必ずしも矛盾しないと考えています。ただニューパースペクティブに立った場合、それが99%未信者である日本の国で、どのように人々をキリストを信じる悔い改めと救いに招き入れる地域教会の伝道メッセージになるのか、なおはっきりとそのアウトラインが見えてきません。(同書 p.32)

     

    大事なのは、多くの福音主義関係者の教会において、ニューパースペクティブ、ないし、N.P.Pを白眼視ならまだしも、敵視されている感じがする。誤解されているように思うのだ。そもそも、そういう白眼視したり、敵視している皆様は、そのオリジナルをまじめに読んで、それを自己の信仰理解の参照枠と比較して、対話してみようとしたことがおありなのだろうか、とちらっと思うのである。どうも、議論の立て方から見るに、「読まずに、あるいは、読んだうえでキチンと対話せずに、表面的な批判してはおられないだろうか?」というような疑惑がある。あたかも、ニューパースペクティブが義認を含まない、義認を排除しているかのような(たしかに義認の理解というよりは、表現の仕方が従来とは違うので、そのように見えるかもしれないが、注意深く読めば神が義と人間を認められる、ということが全く含まれていないということにはならないことには気がつくはずだとは思うのだが)勢いで物言いをしてくる方々がおられる。そして、鬼の首をとったかのように、ものをおっしゃる方がいる。実に残念なことである。まぁ、第6回日本伝道会議でも、ライトの義認論をめぐって、神戸の福音ルーテル神学校の橋本先生と、巣鴨聖泉キリスト教会の小嶋先生とが対話しておられたが、敢えて、問題を先鋭化するために、橋本先生は異なる立場をとられたということを聞き及んでいる。しかし、あの時は、橋本先生が開始日時だったか開始時刻を間違えて、青谷から、会場であったポートアイランドまで、「15分で着く」と橋本先生は司会者の方に言われたようだが、そんなもん、エジプトのマリアの聖人の能力の一部をお持ちであるか、「どこでもドア」か「タケコプター」でもない限り無理である。案の定、開始時刻に送れて、宮本武蔵の様に遅れて到着されて、落ち着くまでしばらく時間がかかったのがかなり残念であった(ミーちゃんはーちゃんは現場にいたので、目撃者証言であるw)。まぁ、意図せずにの遅刻であったらしいが。

     

    後藤先生がここで、「それは伝統的な福音の理解と必ずしも矛盾しない」と、おっしゃるように、ミーちゃんはーちゃんもそう思う。完全にその点では同意である。正に『御意』と申し上げたい。

     

    しかし、西欧化しつつも、宗教の沼状態でいろんな宗教をぶち込んで闇鍋にしたような日本社会の中で「人々をキリストを信じる悔い改めと救いに招き入れる地域教会の伝道メッセージ」となるのか、と御懸念を表明しておられるが、個人的には、キリスト者の存在自体が、地域社会への伝道メッセージになり、キリスト者が読んだ聖書メッセージが聖書メッセージとして多くの人々に聖書として読まれることになるはずである、と信じているので、後藤先生ほど個人的には心配はしていない。確かに、これまで伝統的に福音派のキリスト教会が実際に行ってきたような方法で伝道メッセージを語るだけという形として、維持はされなくはなる部分があるかもしれないとは思うのである。

     

    聖霊を内住させる信徒が聖書として、ことばを内住させている信徒が人々のところに伝道メッセージを、イエスがこの地上を歩まれたように持っていくことも、これまでの教会で語られることば(説教)による説教と同様に重要になるというだけで、従来その教会内でのウェイトがほぼ0だったものが多少は増えるという程度の事である。もう少しいうと、信徒に読まれた聖書が、信徒の生き方に反映され、多くの人々にキリスト者の具体的生活を通して読まれることになる部分が出て来る、ということになるのだろう。ちょうど、日本のキリスト集会派の源流の一つとなったジョージ・ミュラーの孤児院伝道が孤児だけに影響したのではなく、チャイナインランドミッションやハドソン・テーラーそして、中国で死去したエリック・リデルにも影響を与え、説教という手法を通じて、ことばによる福音を述べ伝えていったように。なお、エリック・リデルがとり合えられた映画『炎のランナー』でのリデルの説教のシーン。
    エリック・リデルの説教のシーン

     

    そのニュー・パースペクティブに立つ伝道のアウトラインは、見えないだろうし、安定しないだろう。あるいは、安定させてはならないようにも思う。というのは、個別の教会が相手をする社会という相手と、そこに出て来る、諸相としての罪の問題の表れががそもそも論として、時代により、社会により変わっていくからでもある。あるいは、状況依存的に現実対応する中での伝道となるので、その多様性が存在するため、一種の汎化されることことで、どこでも成功する成功の方程式のような伝道方法のアウトラインは見えないものなのであろう。であるからこそ、リングマは、『風を受け、沖へ出よ』の中で、柔軟に対応していく必要があることを強調しているようにも思う。

     

     

    この本の紹介、今週いっぱいどころか、来週くらいまでかかりそうだ。いきなり、長期連載決定になってしもた。すまん。

     

    次回へと続く。

     

     

     

     

     

     

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    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:高いけど、面白いです。

    評価:
    チャールズ・リングマ
    あめんどう
    ¥ 1,944
    (2017-01-30)
    コメント:お勧めしています。

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