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2017.04.24 Monday

『福音主義神学会 西部部会・2017年度春季研究会議』でしゃべってきた

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    いろいろお世話になっている方からチャレンジを受けたので、「おうさ」といった手前、ガチの神学論文への応答を神学的知識を用いないで応答する(といってもちろん、ラウシェンブッシュ先生登場するは、カンポロ先生登場するは、ライト先生登場するは・・・ではあったが)、応答した論文のようなものをここに記載しておく。一応、論文は書いたが、それを文字通り読むというような野暮なことはそもそも論としてする気がないので、面白おかしく発表した。発表用のスライドは最下部につけておく。

    応答論文 「現代社会における「諸力としての罪」の露頭」

    「諸力としての罪 副題:ユダヤ黙示思想の文脈の中のパウロから考える」への応答

    by ミーちゃんはーちゃん


    はじめに ― 応答者としての迷い
    山口論文を拝読した時、このような学術的に完成度が極めて高い神学論文に、果たして応答する能力が一般信徒の応答者にあるのだろうか、と正直当惑した。せいぜいこの論文の表面を撫でる程度、と言うのが初見での応答者の偽らざる心境である。
    とは言え、挑戦を受けたからには応答してみたくなるのが、そもそも「諸力としての罪」の影響下にある人間である応答者の悪いところであり、そのようなものの不完全な応答であることを、まずご理解、ご諒解賜りたい。


    山口論文を読んだとき、最初に素朴に思ったことは、「あぁ、さすが、N.T.ライトの『シンプリー・ジーザス』の共訳者…」であった。本ブログでも今月上旬、このことに少し触れた

     


    N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読んでみた(1) (04/08)


    N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読んでみた(2) (04/10)

     

     

    が、本論文を理解する上での手がかりになるのが、『シンプリー・ジーザス』の後半部分ではなかろうかと思料する。同書の中で、N.T.ライトは、かなりのページを割いてこの罪と悪の問題にも触れている。しかし、それにあえて触れることなく、終末論的パウロという別の視点から、山口氏は罪について論を展開しておられる。


    このため、応答者は、同書を補助線とせずに、いかに山口論文に応答するかを迷った末、応答者としての責務を果すため、社会科学の分野の視点から「諸力としての罪」の現実世界での『露頭(現れた場所)』の一部のご紹介とその周辺を考察してみたい。「諸力としての罪」とその罪からの解放、そして十字架との関わり、あるいは罪論の問題への神学的応答は、本応答者の手にあまる。よってご専門の先生方にお任せ致したい。

     

    経済学とは何だったか 諸学の神学からの乖離
    まず、その諸力としての罪の露頭を、経済の分野に求めてみたい。


    経済学はオイコノミアと以前は呼ばれ、そもそもは社会をどのように倫理的に運営できるかの学問であり、この世界のケアをするための学問であった。ジョナサン・エドワーズの時代には、神学部での牧師教育課程の最終学年に履修する科目として、経済学(政治経済学Political Economics)が設定されていたが、19世紀から20世紀に入り、経済学は一つの学問分野として独立し、神学と無縁の立場を取りはじめる。特に1940年代以降、数理経済学が隆盛し、今ではほぼ一部の分野を除き数学的素養を必要とする学問体系となっている。これまた、本来の目的を忘れて己の設定した目的に向かって突き進む、正に的外れ(ハマルティア)であり、経済学の発展史そのものが罪の学問世界での露頭となっているように思われる。


    なお、本来の目的からのズレについて科学も同様であり、自然神学として始まったものが、一部では神を否定する方向性にまで至っている。これらの学問世界での罪の露頭としての大学の実相に関しては、ハワワースが『大学のあり方』で批判的に述べているところではある。


    なお、経済学での「諸力としての罪の表れ」を表す経済学用語には、「市場の失敗」「組織の失敗」「合成の誤謬」「トレードオフ」「囚人のジレンマ」「不可逆性」などと言った語の概念があると言えよう。この類の諸概念にご関心をお持ちの方は、経済学の学部の専門課程の初級テキスト、例えば『マンキュー経済学 I ミクロ編』『スティグリッツ ミクロ経済学』等をご参照頂きたい。

     

    近・現代政治経済事象に現れた諸力としての罪
    山口論文では、黙示に関する研究者のエルンスト・ケーゼマンとクリスチャン・ベカーが両者とも、ナチス・ドイツによって引き起こされた悪夢のような現実を「諸力としての罪」の表れ(露頭)と理解していることを、“個人の罪を超えた社会的・構造的な罪と悪”(山口 p.16 )とし、さらに、” 日本の教会がしっかりと対峙できなかった日本の軍国主義“の問題も「諸力としての罪」の一つの現われではないか、とご指摘である。


    より現代的な課題として、” 21世紀においてもナショナリズムが再び盛り上がりを見せ、大きな波紋”(同 p.20)が社会に巻き起こっていること、さらに、その背景に、”極端な経済格差を生み出す経済のグローバリズム“があり、イギリスの聖書学者のリチャード・ボウカムの

    経済のグローバリズムを背後で支える全ての市場を支配しようというイデオロギーは、イエスの宣べ伝えた、互いに仕えあうことを特徴とする「神の王国(神の支配)」とは真っ向から対立する


    という表現を引用しつつ、罪と経済の関わりを紹介しておられる。


    このグローバリズムが支配する経済現象に関する応答者の理解を、少し紹介してみたい。1960年代以降の開発経済学とそれに支えられた経済開発の分野では、発展途上国の経済発展に資するという美しい理由のもとで、比較優位論に基づく収奪行動が行われてきた。開発経済学は、このような収奪を理論的に正当化するに資してきたとも言える。

     

    近年の経済開発は、19世紀から20世紀初頭にかけての植民地経営という国家主導のプランテイション経済制度に代わって、先進国の銀行シンジケート団や政府援助ODAなどを介した、経済援助の美名のもとでの先進諸国の経済的実効支配の下に、発展途上国とその国民を捕囚する制度を固定化してきたともいえる。

     

    労働市場に現れる諸力としての罪
    一方で、この比較優位論は先進国からは単純労働力市場の雇用の場が海外の低廉な労働力が豊富な途上国へアウトソーシングされることで、先進国労働市場での単純労働力は、国内向けの対個人サービスを中心とした過酷になりやすい職場のみで必要とされることになる。その結果として、先進国に存在する単純労働力にとっての労働市場は、短期の不安定な雇用形態である非正規雇用の従事者(例えば、派遣労働者)を大量に生み出したし、我が国では研修生制度という美化がされながら、発展途上国からの実質的移民労働力が必要とされた。米国では、不法移民がその単純労働力の供給主体となった。このような移民労働力が提供された結果、先進諸国においてもNEET(Not in Education, Employment or Training)層やホームレス、若年失業者層を生み出し、社会の不安定要因を内在化させることになる。それが、移民排斥運動、ヘイトクライム・ヘイトスピーチなどの諸混乱を、先進国社会において生起せしめていると考える。


    我が国では、自身がニートであることをみずから揶揄し、自宅警備員と称して自らを揶揄する歌が若者の中でもてはやされている。以下では、『ヱヴァンゲリヲン』と呼ばれるTVアニメの主題歌に載せた『残酷なニートのテーゼ』という替え歌を紹介しつつ考えたい。

     

    『残酷なニートのテーゼ』に現れた絶望とヘイトスピーチ社会
    『残酷なニートのテーゼ』という替え歌の歌詞は以下のようなものであり、ある種、現代の『貧窮問答歌』ともいえよう。

     

    残酷な社会の底辺 青年よニートになれ
    老いた親が今部屋のドアをたたいても
    画面だけをただ見つめて微笑んでるあなた
    暇を潰すのものレスする事に夢中で
    就職さえままならない痛いだけの日々
    だけどいつか気付くでしょうその暮らしには
    はるか未来目指すための夢が無い事
    残酷なニートのテーゼ 窓辺からやがて飛び立つ
    ほとばしるやる気の無さで両親を裏切るなら
    このドアを未だ出られぬ青年よ ニートになれ

     

    残酷なニートのテーゼ


    実に、救われることのない歌詞であるが、その歌詞を面白おかしく自虐的に歌わざるをえない青年層が日本に一定数存在することは確かであり、似たような歌詞のものに、『宇宙戦艦ニート』、『ニート自宅警備員の歌』、「ハローワークいこう【弟の姉】」、『乞』などがあり、結構傑作揃いである。才能の無駄遣い、という説は十分に認めたい。

     

    『宇宙戦艦ニート』

     

     

    『ニート自宅警備員の歌』

     

     

     

    『ハローワークいこう【弟の姉】』

     

     

    『乞』

     

    では、現代のニートなどの非就業状態の若者たちが、所謂3K職場と呼ばれるようなスキルを要しない、不安定な低賃金の職種の非正規雇用者として就業するか、というと実はそうではない。それは、高度経済成長期に蓄積された親世代、祖父母世代の世帯資産により、自宅での生活を前提とした場合、「自宅警備員」、「ヒッキー(引きこもり傾向の生活スタイル)」等と称する生活形態がかなり容易に、実現可能であること、同じく高度経済成長、バブル経済を経た日本では、都市部での生活保護での給付金額のほうが、定職であっても勤労所得による収入を上回るという皮肉な逆転現象が存在するからである。同様の事象は、欧米先進国においても発生しており(一時期の英国病など)があり、一定数の若者が仕事につかず、いわゆる才能と若さの浪費に近い状態に捕囚されている。そして、その才能と時間消費のはけ口としての活動が、マイルドヤンキーと分類される人びとによる、ヘイトスピーチへの参与などにつながる傾向もないわけではない。


    更に山口氏は、

     

    個人のレベルでも「諸力としての罪」という認識は信仰生活の実践面に大きく関係してくる。若い信仰者の方々と話していると、「自分は救われたのに、なぜ罪を犯してしまうのか?」と悩んでいる方が少なくない。(山口 p.20)

     

    と指摘した上で、それは、

    キリストにある者はその支配から解放され、もはや「罪」の下にはいないが、「罪」は滅んでしまったのではなく、キリストにあって「罪」の支配から解放された人々を、今でも自らの支配下に再び取り戻そうとうごめいている。

     

    という社会の構造を述べておられる。先にも触れた社会全体に存在する『諸力としての罪』の結果として、これまでも、現在も被造世界の機能不全という、罪の結果と深く関係しているのではないか、と思料している。というのは、先に紹介した『残酷なニートのテーゼ』に示された若者にとっての“希望なき社会”とかかわらざるをえないことが影響するからである。それを個人の問題としてはならないだろうし、それは現代的な問題ということでもない。

     

     

    『ラウシェンブッシュのキリスト教と社会の危機』を手がかりに
    110年ほど前、非英語話者ばかりの中欧圏からの移民を受け入れることになったニューヨークのヘルズ・キッチン地区で奉仕したバプティスト派の牧師であったウォルター・ラウシェンブッシュの新訳『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』から一部を紹介してみたい。

     

    永遠の命がキリスト教的希望の前面に出てくるにつれて、神の国は背後に退いていき、それとともにキリスト教の社会的能力の多くも失われた。(中略)永遠の命は個人的希望であり、この世のためではなかった。(キリスト教と社会の危機 p.212)
    そして、「もしどこか古代ヨーロッパの教会の石畳の下に埋葬された聖人たちがよみがえって、近代の説教を聞くことができたら、彼らは自分たちの福音がひっくり返されたと思うだろう。」(同書 p.252)


    とも主張している。

     

    ラウシェンブッシュ


    なお、福音派左派と目されるトニー・カンポロは、同書での応答として

    キリスト教国アメリカのかなりの部分が、神の国はあの世にしか属していないと考えたのだ。(同書 p.132)

     

    とさえ現在の教会について批判しており、教会がこれまで、自らのこの地における神の王国に関与するために、本来差し伸べるべき手を必要以上に縛ってきたのではないか、と指摘しているように思われる。

     

    Tony Campolo

     

    聖書における人間への神の指示
    その意味で、どのように神の国がこの世で実現するのか、そのために生きるということは、どういうことか、神が被造世界に対し、創世記1章で神が言われた「この世界をケアせよ」、そして「見よ、それは良かった」という状態を、現代においてどのように少しでも実現しようとするのかということを、西側のキリスト教界の世界は少し忘れているのではないか、と愚考する。そして、教会(と教会を構成しているはずの神の民)が「神の国とその義」を求め、キリスト者がこの「諸力としての罪」の世界にどのように対抗していくべきか、さらに言えば、教会とそれを構成する教会員が、積極的にこの地において、頭なるキリストがもたらそうとした、「神の平和と神の義」を第1に求め、その「神の国と神の義」を継続的にもたらす民としての生き方を教会員がこの世界において示せなくなっている可能性はないだろうか、ということを真摯に検討する必要があるのではないか、と世俗の社会を生きる個人として愚考している。


    福音は、本来人びとに希望を与えるはずのものであるし、「残酷なニートのテーゼ」などの替え歌を口ずさみつつ、自身の絶望を自虐的に歌う人びと(若者)に対して、「本来、この地は希望に満ちたものである」と、神の福音は宣言しているはずであった。神の希望、神の福音に関与するための着実な歩み方があることをキリスト者の存在を通して示すように生きることに、神が信徒を招いておられるのではないだろうか。その意味で、ラウシェンブッシュの時代よりも、現代の教会のほうが、「永遠の命がキリスト教的希望の前面に出てくるにつれて、神の国は背後に退いていき、それとともにキリスト教の社会的能力の多くも失われた」というラウシェンブッシュの当時の社会の状況に関する指摘を、現代的課題として真摯に捉える必要があるのかもしれない。

     

    ソーシャル・キャピタルと教会
    実際、現代の行政学や社会学におけるソーシャル・キャピタル論のテキスト的存在であるロバート・D. パットナム『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』(全24章)という書籍の第4章全部という、かなりの紙幅を割いて、もともと米国において教会という宗教組織が、ソーシャル・キャピタル(社会を円滑に動かすための非組織型人間関係資本)が米国では教会を中心に形成されてきたものの、それが近年急速に毀損し、その価値が低下していることを、豊富な統計資料を利活用して、定量的に示している。同書で示された協会におけるソーシャル・キャピタルの毀損は、アメリカの教会が神の国を背後に退かせすぎた結果なのかもしれない。そして、現代のキリスト教会は、とくに日本のキリスト教界は、賀川豊彦がキリスト教精神に立脚しながら、戦前の日本の社会で示そうとした神の国とその義を、本来キリスト教会が蓄積してきたはずの人を支える社会的機能及び社会的資本をも失ってしまったのかもしれない、と愚考する。


    最後に、ある個人的エピソードを紹介して、参加者の皆さんへの問いとしたい。

     

    以下は、応答者が数年前に参加したことのある、神戸市内での福音派を中心とする信徒中心のある集まりでのエピソードである。おそらく、この福音主義神学会の構成員の何人かの方とも関連の深い教会の教会員の方と思われる20代の女性信徒の方が「なぜ、教会は、貧しい人への対応をしないのか。私の祖母は天理教を信仰しているが、そういう貧しい人々や困った人びとへの支援はしている。しかし、どうしてそれが教会ではできないのか?」とその座談会の席上で、他の参加者に疑問をぶつけておられたことが忘れられない。この若い女性信徒の素朴な問に、この学会の先生方が、どのように聖書全体からお答えされるのかが、現在、問われている重要な問いの一つのような気がしてならない。


    社会を良くしたい、あるいは「神の国の義、神の国の美しさ、善をこの地にもたらしたい」と考える人びと、神の民は、案外教会の中やその周辺に、潜在的におられるのである。そうであっても、我々は何ら工夫もせず、「神の国はこの世のこととは無縁だ」、と引き続き、神から与えられた自らのタラントを退蔵するように教会はその信徒に薦めるのだろうか。社会にあって教会が神の民として整えられることに関してどう考えていくべきかについては、最近邦訳されたリングマの著書『風をとらえ、沖へ出よ』でも述べられているが、同書は直接の成功の方程式を読者には与えないものの、教会と社会の問題を考える際に参考になる一書と愚行する。

     

    参考文献
    小池 和男(2005),『仕事の経済学 第3版』, 東洋経済新報社, 東京.
    作者不詳, 『残酷なニートのテーゼ』, https://www.youtube.com/watch?v=TTkGmtzKtZU
    作者不詳, 『宇宙戦艦ニート』, https://www.youtube.com/watch?v=upAZcvTbUK0
    作者不詳,『ニート自宅警備員の歌』, https://www.youtube.com/watch?v=Ame-TYT3jGU
    作者不詳,『ハローワークいこう【弟の姉】』, https://www.youtube.com/watch?v=688_XUJCm1g
    作者不詳,『乞(こい) 【原曲:星野源「恋」】』, https://www.youtube.com/watch?v=RcTKMh4CFDc
    白波瀬 達也(2015),『宗教の社会貢献を問い直す―ホームレス支援の現場から (関西学院大学研究叢書) 』, ナカニシヤ出版, 京都.
    白波瀬 達也(2017), 『貧困と地域 - あいりん地区から見る高齢化と孤立死 』(中公新書), 中央公論社, 東京.
    ジョセフ・E. スティグリッツ・カール・E. ウォルシュ(2013), 『スティグリッツ ミクロ経済学 (スティグリッツ経済学シリーズ)』, (藪下 史郎ほか共訳), 東洋経済新報社, 東京.
    アマルティア・セン(2002), 貧困の克服―アジア発展の鍵は何か (集英社新書) 大石 りら (訳),集英社, 東京.
    ロバート・D. パットナム(2006),『孤独なボウリング―米国コミュニティの崩壊と再生』, 柴内康文, 柏書房, 東京.
    ジェイムス・バード(2011),『はじめてのジョナサン・エドワーズ』,(森本あんり訳), 教文館, 東京.
    スタンリー・ハワワース(2014),『大学のあり方―諸学の知と神の知』 (青山学院大学総合研究所叢書), (東方敬信監訳), ヨベル, 東京.
    N.グレゴリー・マンキュー(2013), 『マンキュー経済学 I ミクロ編(第3版)』(足立英之ほか共訳), 東洋経済新報社, 東京.
    ニューヨークタイムズ (編集),, 『ダウンサイジング オブ アメリカ―大量失業に引き裂かれる社会』(矢作 弘 訳), 日本経済新聞社, 東京.
    ウォルター・ラウシェンブッシュ ポール・ブランダイス ラウシェンブッシュ(2013),『キリスト教と社会の危機. 教会を覚醒させた 社会的福音』, 山下 慶親 (訳), 新教出版社, 東京.
    チャールズ・リングマ (2017), 『風をとらえ、沖へ出よ』, (深谷有基 訳), あめんどう, 東京.
    フィリップ・ヤンシー(2016)、『隠された恵み』,( 山下 章子訳), いのちのことば社, 東京.

     

     

    応答用スライド

    それで、発表で用いた応答のスライドがこちら。別にふざけているわけでないが、わかりやすいので、いろいろ仕掛けてある。Start Preziという画面中央のボタンを押すと始まる。始まったら、最下部の → をクリックすると進むし、←をクリックするとひとつ前に戻る。遊んでみてほしい。w

     

     

     

     

     

     

     

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