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2017.04.15 Saturday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その51

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    さて、今日も今日とて、いつものようにN.T.ライトさんの『クリスチャンであるとは』を読んで思ったことをタラタラとご紹介していきたい。今日は、聖書に関する章の、聖書をどう読むか問題についての部分である。

     

    以前にも別記事でかんたんに触れたように、この部分では、最近相次いで出た、藤本満さんの『聖書信仰』と聖書神学舎の皆様の『聖書信仰とその諸問題』という『聖書信仰』の対話本というか、対論本が出ている。で、何が違うかというと、何も違わないように思う。お互いに「信仰にとっては聖書はとても大事だ」というご主張であるが、その細かなお作法がちょっと違うだけのようにしか、素人目には見えない。わざわざ、本を書くほどのこともあったのかなぁ、というくらいの感じではないか、と思ったのである。まぁ、玄人筋の皆さんには、その細かなお作法が至極大事なのかもしれないが。信徒レベルのミーちゃんはーちゃんにとって、その細やかなお作法の違いの味わいまでは、よくわからなかった。

     

    まぁ、よくわかったのは、前に出た『聖書信仰』は、聖書を一連の大枠で描いた物語として読むこともできる(ライトさんはこっちに近いかなぁ)という立場と、後から出た『聖書信仰とその諸問題』は、聖書は細かく文字単位まで考えられていて、一語一語真実なものとしてカリカリにして読んだほうがいい、というお立場というか、お作法と言うかであり、両者の違いは焦点のあてかた、聖書に対する視点の違いだと思う。

     

    大枠で捉える方は、マクロ的という感じであるし、後から出版された本のほうが、よりミクロ的な物の見方をしている感じである。そもそも経済学でも、マクロ経済学者とミクロ経済学の専門家は同じ経済学者の中でも行っていることが違うし、そもそも、マクロ経済学にも色々流派があって、意見がまとまっているとはいえない。その程度の違いなのかなぁ、と思った。マクロ的な見方は、「森を見て木を見ず」になりがちだし、ミクロ的な見方は「木を見て森を見ず」になりがちなので、どっちが正しいとかは、一概にいえないと思うのだ。二つともが必要なのである。それをどっちか、とか、どっちかが優れている、という議論にするからややこしく成るように思うのだ。

     

    以上、このシリーズにとっては、どうでも良い議論はさておいて、本論に入っていこう。

     

    聖書を読むというのは、実は結構大変なことかも

    ありがたいことに、今、聖書は日本語で読めたりする。羊皮紙に書かれた巻物のヘブライ語聖書や、ギリシア語聖書の羊皮紙やパピルスの断片を読まなくてもいい、もうこれだけで本当にありがたいことなのである。では、その聖書をどう読むのか、について、ライトさんは次のように書いている。

     

    それでは、聖書はどのように解釈すべきだろうか。ある意味で、本書の全体がその問いに対する答えである。満足の行く答えをえたいなら、それぞれの書、それぞれの章、それぞれの語を考慮することが求められる。コンテキスト(文脈)、特定の文化における意味、その書全体の中での位置づけ、テーマ、聖書の文化と時代の中での流れ、ことばそのものがもつ意味の範囲と広がり、それらのすべてが大切になる。それだけ価値が有ることなので、熱心さと注意深さをもって取りかかる必要があり、しかも膨大な作業になる。しかし今日では、それに取り掛かるためのあらゆる励ましと助力が得られる。(『クリスチャンであるとは』p.270)

     

    なんか、もうまるで、聖書神学舎の先生方が書いておられることにそっくりであるし、聖書神学舎の先生方が、お好きそうな立場ではないかなぁ、と思う。一語一語吟味して、誤りなき聖書の言葉としてお読みなさいな、とおっしゃっているのである。ライトさんは、聖書神学舎の先生方の強い味方かもしれない。きっとそうだ。いや絶対にそうだ。

     

    まぁ、素人衆の一角を確実に占めているミーちゃんはーちゃんは、その昔、説教の真似事のようなことを大学生くらいからしていた。この数年前まで、説教の真似事を毎週に近い頻度でしていたことがある。

     

    大学生の頃の真似事はたしかにひどかった。素朴に認めたい。大学生の頃は、こんなライトさんが言うような、「ことばそのものがもつ意味の範囲と広がり、それらのすべてが大切になる。それだけ価値が有ることなので、熱心さと注意深さをもって取りかかる必要」なんてことはガン無視で、もう、感想文に毛が生えた程度のことしかしてこなかったのだ。若気の至りである。そういうスタイルが当たり前のグループだったから、よくも「まぁ、いけしゃあしゃあとやっていたものだ」と自分自身、深く反省しているし、穴があったら入りたいくらいである。

     

    とはいえ、25年位前からは、注解書を買いあさり、辞書を買いあさり、Interlinearと呼ばれる、英語とヘブライ語、またはギリシア語聖書が両方並んでいる聖書を買いあさり、文法書を買いあさり、Strong番号付きのコンコルダンス(これらは英語の書籍だと異様に安い)をボーナス一年分以上の資産をつぎ込んで買い、ひとしきり揃えた頃に、ネットの時代到来である。重たい本がなんと、ほぼ、英語であれば全部ただで揃うではないか。もう、アホらしくなってきた。

     

    ちょうどアホらしくなってきた頃に、もともといたグループから、「ちょっと教会からお休みをとってください(要するに、教会に来ないでほしい)」、って言われたので、「ヒャッハ〜〜〜〜〜」と言いながら、あちこちの教会に遊び(研究)に行っていたら、何となく今だいたいいっつも参加している、Anglican Communionの教会に漂着、漂泊することになった。人生とはわけがわからないものである。

     

    そんなどうでもいい話はさておき、まぁ、そういうボーナス1年分以上の資産を揃えて、一時期はネチネチと聖書を読んでいた時期がある。とは言え、普段は、新改訳聖書第2版を中心、その後新改訳聖書第3版を中心に、そしてある時期からは、新共同訳聖書を普段読みの聖書にし、そして、時々口語訳聖書を使い、K.J.V, N.K.J.V, N.I.V, A.S.V, R.S.V(これ、様々な英語の聖書のバージョン)なども時々それらを相互に参照し合いながら、説教の真似事をしていたが、今は、そんなことをしなくなって良くなったので、実に充実した人生が過ごせている。実に感謝なことである。

     

    上に引用した部分で、「しかし今日では、それに取り掛かるためのあらゆる励ましと助力が得られる」と書いているが、ネットでは実際にそうだなぁ、と思う。英語が使える人にとっては、たしかに、その通りである。先にも述べたように、英語が使えれば、当条件付きではあるが、聖書研究のための思料はほとんどただで手に入る。いろんな聖書翻訳や、辞書や、ある聖書のギリシア語やヘブライ語の単語やその語根や、その語が他に使われているのが、聖書のどの箇所で、何回、どのような位置で用いられているのか、ということがあっという間にわかってしまう。もう、日本語聖書で、この訳語がこれだけの回数、使われているから、この単語はこの部分での著者にとって大事なことに違いない、とか、もうわけの分からない議論はほとんど無意味になってしまった。ただし、英語ができる限り、という条件付きではあるが。実にありがたい時代になったのである。

     

    一応念のため、そのような英語でのお助けサイトをご紹介しておく。個人的には、BibleHub というのを愛用している。とはいえ、まぁ、聖書のギリシア語の底本にはいくつかあるので、これがすべてではないし、それぞれ癖があるので、自己責任でご利用いただきたい。

     

    http://biblehub.com/

     

    http://www.biblestudytools.com/

     

    文字通り(リテラリー)と象徴的(メタフォリカル)の混乱

    聖書を文字通り読む、字義的解釈がいいのか、聖書を象徴として読み、象徴的解釈をし、その部分の表現が指し示そうとしていることはなにか、何に対する象徴として書かれているのか、を考えながら解釈することが良いのか、というこれまたナンセンスが議論がある。なぜにナンセンスかというと、1キロメートルと10キロメートルのどちらが美味しいか、という議論とよく似ているからである。無論、答えはどちらも美味しくないのである。そもそも、測定しようとする単位系が違うのである。
    しかし、現代では文字通りと言いながら、象徴的に解釈している場合もあるし、象徴的と言いながら、比較的文字通りの解釈を用いている場合もある。基本的に象徴的 V.S. 字義的みたいに対義語のように理解しているが、本来、対義語とするのがまずいのかもしれないのである。そもそも議論する次元がおかしいのである。
    幾何的表現図解をすれば、このような感じだろう。
    図1 象徴的・字義的に関する幾何的図解
    本来解釈に完全に象徴的解釈と字義的解釈が分離可能かというと、かなり怪しいと思う。文字にした瞬間に対象は文字や文章という記述方法により象徴として、対象が表現されるので、厳密な意味での象徴的解釈と字義的解釈という次元に展開できないからである。上の図では、両方共の方向性が北側(上方)に矢印が指しているけれども、その両者は一致していないことで示している。逆に言えば、ベクトルが違うことで、上の図のAのように無理やり展開はできるけれどもそれは、かなり無理がある感じの次元展開の仕方であると思う。
    このあたりは記号論理学などの初研究を参照しないと、バクっとしたことは言えても、厳密な話はできない。このあたりのことを厳密にやろうとすると、書き手のミーちゃんはーちゃんも、読み手のみなさんも知恵熱が出ることを覚悟してほしいし、このためには大学の理系の論理学とか、集合論が理解できる程度の数理的な基礎素養が必要だと思う。まぁ、ここでのライトさんの書いている内容を理解する上では、そこまでの厳密さと数理的素養は要求されないように思うけど。

     

    では、ライトさんはなんと書いているかというと、こんなふうに書いている。

     

    最近ある講師が、かなり強調してこう言っているのを聞いた。「ある人達は聖書を文字通り(字義的)(英語ではリテラリー)に取りますが、私たちは聖書を比喩的(メタフォリカル)に理解します」。この「文字どおり」とは、どのような意味だろうか。「比喩的」とは、どのような意味なのだろうか。そもそも、このような問を掲げることは役に立つのだろうか。

     大雑把に言えば、この設問は役に立たない。この古ぼけた区分、「文字通り」と「比喩的」という語をいくらかでも役立てたいのなら、はじめにそれらの意味をはっきりさせたほうが良い。

     皮肉なことに、その意味からすると、「文字どおり」と「文字どおりに」という言葉は、あてにならない様々な使われ方をしている。「文字通り」というのが、実際には比喩的な意味であることが割りとある。(同書 p.271)

     

    ライトさんは面白いことを言っておられる。「「文字どおり」と「文字どおりに」という言葉は、あてにならない様々な使われ方をしている。「文字通り」というのが、実際には比喩的な意味であることが割りとある」。これを見て、もう大笑いするしかなかった。顔を真赤にして、比喩的な解釈をしながら、自分自身は、「これこそ字義的解釈である」ということは、案外、よくある話なのである。そもそも、形容詞(「字義的」あるいは「比喩的」)の意味が、そもそもは、言語という定量化に適さないものを対象に、数値化・定量化できたりするはずがない。そうであるにも拘らず、こういう概念を振り回すのは、本当に無益だと思う。

     

     ところで、キリスト教業界では、用語の定義をかっちりとした上で、きちんと対話するということはあまりないように思う。用語の定義をいい加減にしたまま、つまり、座標系と原点をきっちり定義しないまま、議論するから堂々めぐりするのである。

     

    個人的に好きなSciFiに『地球人のお荷物』というクマ型宇宙人に関するコメディタッチのSci.Fiがあるが、その中で、このクマが人間の歴史や物語にでてくる有名人の物まねを、幼稚園児のような知能ですることでのドタバタが描かれているのだが、その真似方が幼稚園児程度の、いい加減なものという設定になっている。その中で、クリストファー・コロンブスを描いたものがあるが、それが傑作なのである。

     

    コロンブスがアメリカ大陸(性格には、カリブ海諸島)を発見する真似をするホーカーたちのエピソードで、自船の位置がどこにいるかがわからなくなっていて、それでも、乗組員を不安に陥しいれないために、自船の当日の出発地の位置をちょくちょくごまかすので、結局どこまで来たのか、どこが自船の位置なのか、がわからなくなって、堂々巡りしていて困ってしまうというような話がある。用語の定義をせずにする議論は、このホーカー(宇宙人)たちの所在地をごまかしながら航海しているようなものである。

     

    定義をきちんとしないままの議論は堂々巡りするし、あるいは、座標系とその原点が勝手に日毎に変わるような海図を使う限りは、堂々巡りになり、迷ってしまうような結果を見るのは、かなり自明である。キリスト教業界の議論は、割りとこのタイプで無意味な混乱がお消えいるような事例が多いようなきがする。残念だけど。私の言っている救いと、別の人が言っている”救い”の内容は、かなり内容的に違う(座標系が違う)のだけれども、それを同じ言葉である、同じ”救い”が使われているからということであっても、同じだということにはならないのに、無理やり”同じ”だとして議論をするから、内容的に議論が噛み合わないまま、なんとなく無益な時間が流れているようなきがする。そもそも、座標系が違うので、まず相互に、お互いの座標系が異なっていることを、出発点で認めないとまずいように思うのである。

     

    進化論 対 創造論

     以前にも触れたと思うが、アメリカでは進化論と創造論に関して、1925年にアメリカ南部のテネシー州でスコープス裁判が開催されて、学校で聖書に忠実に見える創造論を教えるべきなのか、聖書の内容と一致しないように思える進化論を教えるべきなのか、という議論になり、ラジオ中継はされるは、新聞では当時揶揄的な記事が毎日掲載されるは、全米を巻き込んだ大騒動になったのである。

     そのあたりのことに関して、ライトさんは次のように書いている。

     

    「創造論対進化論」ということでなされてきた議論は、とくにアメリカ文化の中で、それに絡めてたのあらゆる議論もなされるようになった。そのことは、聖書の他の箇所について真剣な議論をすべき時に、それを著しく疎外させる要因になってしまった。(p.272)

     

    進化論か、さもなくば、創造論か、というような立論の建て方は、有罪か無罪かに徹底的にこだわるようなアメリカの文化に根ざしていることは間違いがない。白と黒しかなく、グレーを排除するような二項対立的な議論である。この二項対立的な枠組みの中で、議論を戦わせるというのは、非常にアメリカ的なディベートのお作法というのか、裁判のアルテなのである。アメリカ人も、この二項対立的な議論ではまずいということは薄々みんな気がついていて、法廷での議論でも、二項対立的に対応できないものがあることに関して、あるいは、それが完全でなく、割り切れないものがあることに関して、Law and Orderなどのシリーズで、「時々、あぁ~~~~」と煮え切らない結果、すなわちアメリカ人の好きな Justice has been served という結果で終わらないような結果を見せることもあるのである。

     

     

    (アメリカの模擬法廷のテレビ番組の女性判事風の人)

    https://memegenerator.net/instance/58995060/judge-judy-justice-has-been-served から 

     

    Judge Judyの出演したJudysmという番組か何かのCM

     

    日本人には、アメリカ人の裁判好きさの加減はわからないだろうが、上の動画のように、模擬裁判をやってテレビドラマ風のテレビ番組まであるほど、比較的簡単に白黒つけるのが好きな人たちだからこそ、今、トランプの白黒つける決着方法が、受けてしまっているのだろうと思う。その意味で、日本でフォーマットと言うかテンプレが作られ、海外に輸出された番組としては、料理の鉄人、アメリカではアイアン・シェフがあるが、あれは料理の味で白黒つけ、料理でやるプロレス風なところが面白かったので、アメリカ文化にフィットしたから、輸出されたのだろう。

    Iron ChefのTrailer
    料理の鉄人

     

     

     

    まぁ、このIron Chef という番組は、世界で最もお馬鹿な番組、とアメリカでは言われていたが、結構アメリカでの視聴率はあったみたいである。アメリカは日本じゃないので、お好きにやられればよろしい。

     

    次回へと続く。

     

     

    評価:
    価格: ¥ 2,700
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:おすすめしています。

    評価:
    ポール・アンダースン,ゴードン R.ディクスン
    早川書房
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    (1972-09)
    コメント:めちゃくちゃ面白かった、天野さんの表紙も素敵。

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