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2017.04.10 Monday

N.T.ライト著『シンプリー・ジーザス』を読んでみた(2)

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    先週末に引き続き、『シンプリー・クリスチャン』の中から、さらっとご紹介したい。今日は同書の後半の部分である。

     

    世俗の権威に相対する対抗的存在としてのイエス

    全開も少し触れたが、イエスは神の王国の到来をまちまちや村々で多くの人々に述べ伝えた。忘れてはいけないのは、イエスがそれを述べた時期に、このユダヤの地を様々の面で、実質的に支配していた人々がいるのである。イスラエルの北部では、ナザレのやや北側、ガリラヤのカナとナザレの中間地点にあるセフォリスという町に陣取っていたヘロデ・アンティパスであり、南の神殿は祭司長たちや大祭司が陣取り、ローマの支配下で、宗教的勢力として、ユダヤ人一大勢力となっていたのである。その中で、イエスはヘロデ・アンティパスの支配勢力の優勢な環境下で「神の国キタ〜〜〜〜」ということを言って、ふれ歩いた、ということになるらしいのだ。まず、ガリラヤで。

     

    なお、ヘロデ大王なきあと、ヘロデ王国の領土は、大きく3分割され、分割統治されていく。そのあたりのことはこちらのウィキペデイアの記述をどうぞ。このウィキペディアの記述は、コンパクトに纏まっていると思う。この記事をさらに要約すると、ヘロデ大王の死後、権力継承者の一本化に失敗し、挙句の果てに領土を3分割し、そして、適当に3分割された結果、この領土の支配者であったヘロデ大王の後継者の一人は、湿性の結果、当時の蛮族の地(今でいうおフランスあたり)に追放され、彼の支配地域の一部は、ローマの属州の僭主国から、ローマ皇帝の直轄領へ転落することになる。この政治権力の継承の失敗は、こういう転落の構図を作り出し、ローマのこの地域への介入を実現する口実を与えてしまったようなものであったらしいのである。

     

    中部方言で、「たわけ」という愚かしい行為をする人を総称する言葉があるが、それは、どうも「田を分ける」→「たわけ」となった説もあるらしいのだが、古今東西、権力継承権と財産の混乱というのは、リア王のお話ではないが、ろくでもないことしか産まないというのは、古今東西不滅の事実のようである。

     

    このあたりのことをあっさりと、ライトさんは次のように書く。

    セフォリスを首都として再建していたのもヘロデ・アンティパスだった。他方でユダヤ南部には、祭司長たちとその長である大祭司(毎年任命されていた)がいて、ヘロデ・アンティパスと同じくローマの後ろ盾により寡頭政治を行っていた。ローマ帝国はその広大な領土を円滑に統治するために、その地方の権力の代行者を登用して徴税や住民の統治を行わせていた。ヘロデ・アンティパスや大祭司は、「神が王となられる」と誰かが触れ回っていると聞きつければ、そこに直ちに危険な匂いをかぎつけただろう。(『シンプリー・ジーザス』p.132)

     

    当時の地図(ミーちゃんはーちゃん加筆)

     

    この辺、日本は西洋古典学が、基礎教養の内容として、あまりにも軽視されていて、ユダヤ戦記などを始めとするヨセフスの著作などは多くの人の知るところではない。そういえば、アメリカでも、特殊な全寮制の学校以外では、西洋古典学はやらないので、あまり、詳しくない人が多い。しかし、ヨーロッパになると、イタリアであれ、フランスであれ、北欧諸国であれ、西欧にとっての地理的辺境の地のブリテン島とその周辺諸島からなる連合王国であれ、基礎教育として、西洋古典をキチンと読ませる習慣はまだかろうじて残っていて、そういう教育課程であるので、ヨセフスなどの著作に触れる機会は、大学関係者などのインテリゲンちゃんたちの中では、このラテン語の西洋古典を教育を受けた伝統が、かろうじて残っているようである。

     

    ラテン語といえば、「チップス先生さようなら」という英語の原文を高校生くらいに読ませるにはちょうどよい英語の小説があるが、あの主人公は、時代遅れと揶揄されながら、三流のパブリックスクールという小金持ちの子弟を受け入れているような私立学校(本当のエリートは家庭教師が教えるらしい)でのラテン語の先生のお話である。

     

    余談が続いて、一体何の話だになってしまったが、要するに、このイエス時代の歴史背景は、距離的にも近いし、文化の基礎をなしている西ヨーロッパでは、ある程度知識が豊富であり、イエス時代のイスラエルの状態がどうであったのか、ということに触れる機会が、日本に比べ段違いに多い。このあたりの西洋古典の内容やレトリックが日本ではほとんど絶望的に知られていなくって、その中で聖書を読んでいても、当時の切迫した時代背景の中で、イエスが、「神の王国、キタ~~~~~」と言ったことが、実は、ものすごく政治的には、暴力的な発言をしたことになる、ということには、なかなか現代の日本人は、気が付かないように思う。

     

    【口語訳聖書 ルカによる福音書】
    8:1 そののちイエスは、神の国の福音を説きまた伝えながら、町々村々を巡回し続けられたが、十二弟子もお供をした。

     

    というところで触れられている「神の国の福音」というものは、当時のガリラヤ社会にとっては、第2次世界対戦中の中国大陸での「人民解放軍(赤軍・八路軍)、来たる」みたいな感じであったのである。

     

    「神の王国、キタ~~~」ということ(福音書でイエスが言っているとされていること)は、「神が王となられる」ということでもあり、それは、実際に僭主、あるいは僭王(そもそもろんとして、かなり胡散臭い王位継承者)であったヘロデに衝撃は走るは、祭司長や大祭司にとっては、アロンが大祭司の系譜を形成する以前の、神が民の中に直接出てくるという、出エジプト時代の世界に逆戻りということであり、彼らが何より生活基盤、権力基盤としているモーセ五書そのものから派生したことが、まるまる無意味になることを意味するのである。神様から、聖四文字なるYHWHから、ヘロデ王や、祭司長に対して、「あんた達、首。お役御免」と言われるようなものであり、一族郎党、権力を失い、一族郎党、露頭に迷う状態宣言をされるようなものなのだ。

     

    となると、もう、適当な口実を見つけ、闇から闇に葬るのが一番ということになる。そして、

     

    【口語訳聖書 ヨハネによる福音書】
     11:49 彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った、「あなたがたは、何もわかっていないし、
     11:50 ひとりの人が人民に代って死んで、全国民が滅びないようになるのがわたしたちにとって得だということを、考えてもいない」。
    となるのである。このカヤパの発言の背景には、上のような時代背景があるのである。

     

    イエスの言った「神の国、キタ~~~~~~」の真意

    当時のイスラエル、ユダヤの人びとにとって、「神の国、キタ~~~~~」は、もちろん、「世俗権力構造の大転換が起きるかも」という印象を当時の人達に与え、そして、とくに当時の権力者たちに恐怖の念を持たせてしまったようだ。イエスが王である、ということは、そもそも論として、「既存権力、粉砕」と言った中核派的な主張がメインでなく、「神とイスラエルとの関係がおかしくなっていて、それをきちんと回復する必要がある」ということであった。このことは、福音書のイエスの発言の中に見られる。そして、その関係のおかしさは、神とユダヤ人の関係だけではなく、「神と人間全体の関係がおかしくなっていて、その結果、人間同士の関係もおかしくなっているが、それは神のみ思いではない」ということであろう。同じ内容は、ローマ書やガラテヤ書など、パウロの書いたものの端々に現れているように思う。こっちの方は、同時期に出た『使徒パウロが何を語ったのか』というライトさんの著作で書かれている。

     

    余談(とは言え大事なこと)はさておき、イエスの語った神の国(より正確には、神の支配)とは何だったのか、について、ライトさんは次のように要約する。

     

    イエスのポイントは、神が王になられるとき、心の汚れの解決を提供して下さると言っているのだ。それは山上の説教(マタイ5章−7章)の言葉の端々に幾度となく現れるテーマである。神が王となられるとき、神は赦しの指針を携えてこられる。(同書 p.185)

     

    要するに、「心の汚れ(罪)からの回復が提供される」ということである。つまり、それは取りも直さず、神との関係がまともなものになる、ということでもあるし、本来の神のかたちとして造られたものが、神のかたちを取り戻す、という事でもあるのだ。神の赦しとその指針とは、正にこのことだ、ということである。そのためには、死と、悪と、罪に最終的に勝利する必要があるのだ。

     

    だから、パウロの第1コリントの最後のあたりでこのように書く。

     

    口語訳聖書 コリント人への手紙 第1
     15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
     15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
     15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
     15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
     15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
     15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
     15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

     

    まさに、神が王として地上に来られた結果としての、罪や悪やサタンや死というものへの神の大勝利を、上に引用した部分で、パウロは高らかに歌い上げたのである。パウロは、お葬式のときにご遺族を慰めるための聖書箇所として読むために、上のように書いたのではないだろう、とは思う。その意味で、上の文章は、毎週日曜日ぐらいの感じで、もっと頻繁に教会内でみんなで読んだ方がいい聖書箇所ではなかろーかと、個人的には思っている。

     

    現代では軽視されているイエスの勝利

    さて、先にも述べたように、イエスの「神の国、キタ~~~~~」宣言は、「罪や、死やサタンや悪に対する神の大勝利」を伝える呼び声であった。ところで、イーワンゲリヲンとは、もともと、ローマやギリシアで、自国の勝利とその勝利の結果、戦勝に伴う戦利品の庶民への割当があったり、戦争捕虜を奴隷として売っぱうって現金収入を手っ取り早く手にするとか、戦時捕虜に対する身代金回収ビジネスによって得られる豊かさが、自分たちの国と庶民にはそのオコボレがもたらされ、そのおこぼれをちょっぴりもらうことができることを期待させる、国民全員がワクワクするようなニュースのことであったのである。そのような戦勝報告が、当時の地中海世界では、大声で呼ばわれ、伝達されたのである。新聞があれば、いわゆる戦勝号外のようなかたちで伝達されたのである。エバンゲリヲンあるいは福音とは、JR西日本の500系新幹線の改造特装車両の元になったアニメ、ヱヴァンゲリヲンのことではなかったのである。

     

    500系新幹線を改修したエヴァ型新幹線 http://www.jiji.com/jc/d4?p=ire009&d=d4_yy

     

    せっかくなので、エヴァにちなんで、「残酷なニートのテーゼ」をみんなで歌おう!

     

    残酷なニートのテーゼ

     

    本来は、残酷なニートなテーゼからの脱出も、イエスの「神の国、キタ~~~~~~」宣言、それは、つまり、それがイエスによるエバンゲリヲンには含まれていたような気がする。だからといって、大人の人達がまともな生き方だ、と主張するような生き方ができるようにするという約束ではないような気がする。あくまで、エヴァンゲリヲンは、まずもって、神との関係の回復であり、そして、結果はあとからついてくる、ということのような気がする。その順番は間違ってはいけないと思う。

     

    余談はさておき、このキリスト大勝利のテーマについて、ライトさんは次のようにいう。

     

    無理からぬ事だが、現代の聖書学者の多くは、このテーマ(引用者註 悪やサタン)を軽視しようとしてきた。だが伝承の中で、これほど中心的な位置を占める事柄を脇においてしまっては、満足の行く研究の進展は望むべくもないだろう。もちろん現代の西洋社会の多くの人にとって、こうしたことは判断のつきかねる事柄である。この点で、現代の懐疑主義という強風が強い影響力を及ぼしている。(同書 p.217)

     

    ここで、近代社会を経由して生まれた現代では、視認可能性のあること、確認可能性、定量化可能聖があることが重視された。どういう状態であれば、科学的であるかはちょっと脇においておいて、「科学的であること」があまりに重視されてきたため、所謂「科学的」とされる計量可能性、定量分析可能性、あるいは、測定可能性がないものは、考慮の対象から排除してきた。なお、ミーちゃんはーちゃんも同罪であったことは認めよう。

     

    教会では、伝統的に重要なこととして、イエスの悪に対する大勝利、ということを伝えてきたが、そのことを現代のキリスト者とキリスト教界は、過小評価している、あるいは無視しているのではないか、とライトさんは言いたそうな感じがする。今みたいな悪の問題を無視しておいて、それで本当に聖書を読んだことになるのか、と言いたいようだ。そんな、お友達のMizotaさんが大喜びしそうな内容が大書してあった。w

     

    そう思っていたら、前回の記事についても、Facebook上で、ずいぶん突っ込んでいただいた。Mizotaさんのツッコミは、面白かったです。ありがとうございました。

     

     

    まぁ、本来まともに聖書を読む、ということを目標に始まったのが、西洋の学問、あるいは学であったが、近代に至って、学が学であるために、というよりは、学問が科学的な装いを身にまとい、至高の学であると一般に認識された科学のふりをするために、科学的に扱える範囲に対象を限定するというかたちで自らの探求の手を縛ってしまったのだ。それを学問のルールであるかのようにしてしまったのだ。

     

    本来聖書理解は、科学のようなつまらない方法のみで扱うべきではないにも拘らず、神から与えられたArt(アルテ)の対象としても対応していくべきものを、科学の範囲でのみ扱い、Art(アルテ)も扱うべき対象でもあるものに対して、アメリカでも、日本でも、世間から拒否されないように、世間から受け入れられようとし多様に思う。

     

    世間に擦り寄って、食い扶持を確保するために、科学のころも(拘束衣)を身にまとうことで、自らの手を縛り、科学のふりをしたのである。実に残念なことであり、その挙句の果てに、聖書無誤論だの、聖書無謬論だなどという、かなり無益な議論にかまけ、本来見るべきものを教会は見忘れ、本来パウロが高らかに歌いあげたように、本来賛美すべきことを押し殺して、科学的な方法のみに依拠しながら、つぶやいているのではないか、と個人的には思っている。

     

     

    ハンニバル・レクターが拘束された拘束衣(映画『羊たちの沈黙』)
    http://imgur157.rssing.com/chan-65525457/all_p1.html から

     

    その意味で、このようなことが詳しく解説されている本書と、その中でも、本書の10章は、このアクの問題を考える上で、極めて重要であると思うのである。

     

    なお、今、この悪の問題を考えてこなかったことに関しては、現在のキリスト者にも、その責任の一端はないわけではないが、それ以上に、この200年、いや、とりわけ100年の学問的思潮が悪いのであって、その子どもたちである、現代に生きる我々が、どう考えるのか、ということが今問われているということだろう。その意味で、ハリストス正教会の京都のサイト(リンクはこちら)の表現「古き良き伝統が いま一番新しい!!」という表現に見られるように、現代においては、正教会の聖書理解が、一周回って新しく見えてしまうのである。

     

    まぁ、しょうがない。おさぼりしたつけは払わねばならないのである。「なかったことに、なかったことに」という対応は、実にまずいように思うのである。

     

     

    移動神殿としてのイエス 

    N.T.ライトさんは『クリスチャンであるとは(Simply Christian)』でも、この『シンプリー・ジーザス(Simply Jesus』でもそうだが、天と地が合うところ、天と地が噛み合っているところ、という表現が大好きだし、多用されている。これに触発されて、お友達の大頭さんはインターロッキング音頭という楽曲の作詞をして、これまた、岩渕まことさんに作曲させ、関係者を巻き込んで、録音までしてしまっている。それで、満足せず、大頭さんのいとこの、飯田岳さんに言われたからと言って、N.T.ライトに電子メールまで送っている。もう、やりたい放題である。この辺の裏事情を知りたい方は、2017年4月中ないし5月上旬にはヨベルから出る予定の「焚き火を囲んで聞く神の物語・対話篇」という珍妙な本の6章を読んでほしい。(まぁ、ステマだ)w

     

    夜明けのうた インターロッキング音頭

     

    さて、妙な本のステマはさておき、イエスがWalking Shrine、あるいは移動神殿(あるいは、まさに。出エジプト記における移動型の会見の天幕、神殿の原型のような存在)であったことに関して、ライトさんは次のように書く。

     

    天と地が結ばれようとしている。しかしそれは、エルサレムの神殿においてではなかった。結合点は目に見えるところにあり、そこで癒やしがなされ、パーティが祝われ(天使たちが天で祝い、人びとが地においてそれに参加したのを思い出そう)、赦しが実現していた。言い換えれば、その結合点とは、イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった。生きて呼吸する人間が、神の住まわれるところだった。(同書 p.237)

     

    天と地が交わるところ、結合点とは、すなわち、ライトさんの表現を取れば、「イエスのいた場所であり、イエスの活動そのものだった。イエスはいわば歩く神殿だった」ということになる。これは、非常に重要な表現である、と思う。前回の連載でも触れたが、ここでも、正に、出エジプトのテーマ、「神と人がともに歩む」あるいは「神の国キタ~~~~~~」が実現していたのだという。つまり、イエスこそ、神の国であったし、神の国の象徴と存在そのものであったし、イエスがこの地に来られた結果、我々、生きて呼吸する人間は、神の養子として、神の霊が住まわれるところになり、神のかたちが回復しかけているような存在(テオシスになれる存在)となった、と考えることができるのかもしれない。

     

    それは聖書の記述で言うと、

    【口語訳聖書 ローマ人への手紙】
     8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
     8:10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
     8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
     8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
     8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
     8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
     8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。

    だったり、

    【口語訳聖書 コリント人への手紙 第1】
     6:19 あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。

    ということのようである。

     

    そして、ライトさんは、イエスが存在することで、当時のユダヤ人社会の中で「結合点は目に見えるところにあり、そこで癒やしがなされ、パーティが祝われ(天使たちが天で祝い、人びとが地においてそれに参加したのを思い出そう)、赦しが実現していた」という。そして、この天と地が交わる結節点として、現在のキリスト者である我々は、この地上に生活しており、多くの人の「目に見えるところに」存在するわけだし、自分自身は不甲斐ないがゆえ、罪を犯すゆえに、我々において罪の「癒やしがなされ」ているわけであるし、毎週日曜日、ないしは毎日、聖餐式という神と人との和解がなったという「パーティが祝われ」、神と人との和解というかたちで、日々「赦しが実現」しているのである、とライトさんは、ご主張なさっているようである。それ故、個人的には「聖餐は大事だ」と繰り返し繰り返し、誰がなんと批判しようとも、ミーちゃんはーちゃんは主張したいのである。

     

    福音の汽車に乗ってる、天国行きに?

    それ、大丈夫すか?

    ところが、この200年の間に、人々はキリスト教理解、聖書理解、イエスの主張の理解を、歴史的な経緯の中で、キリスト理解に関する歴史的な社会の変遷の中で起きてきた諸般の構造により、とりわけ、悪や、罪が社会に、そして、個人にもたらす罪の結果乗り会に関して、、キリスト教界にあっても、イエスの主張のその理解までも歪ませてしまったのかもしれない。その結果として、いまはイエスの主張が誤解されていること、本来のイエスの主張とは違った内容、あるいは誤解されたまま、教会でも語られていることに関して、ライトさんは次のように書く。

     

    第一の間違った見方は、人びとに「天国に行く方法」を教えにイエスがこの世に来られたと考えることである。この考え方は、何世代にもわたって西洋世界で絶大な人気を誇ってきたが、それは全くの誤りである。イエスの公生涯の核心は、神は天におられ、人は死んだあと「地上」を離れ、天国の神のもとに生けると教えることではなかった。イエスが語ったことは、神はまさに今ここで、「地上」において支配をはじめられたのであり、人びとはこの事の実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際に起きているしるしを認識すべきだ、ということだった。(同書 p.256)

     

    『福音の汽車』という子供向けの賛美歌がある。この賛美歌は、鉄ヲタ予備群の男児の幼稚園児や小学生男子が好きな賛美歌であり、そうであるがゆえに人気があり、子供向けキャンプで幼稚園児から小学生低学年男子までが歌うのが好きな賛美歌である。歌詞は、こんな感じである。

     

    福音の汽車に乗っている

    天国行に ぽっぽ

    罪の駅から出て もう戻らない

    切符はいらない 主の救いがある

    それでただゆく ぽっぽ

    福音の汽車に乗っている 天国行に

     

    ある時、これを子どもたちが歌っているところに、子どもの父兄のキリスト者でない方が通りかかり、「なんか嫌な絶望を感じる曲ですね」とおっしゃった方があるそうだ。すると日曜学校の先生をしてた方が、キョトンとして「どうしてです?」と聞いたら、その信仰者でない方は、「だって、まだ小さく将来のある子どもたちが、この地での将来に興味がなく、死亡することを楽しみにしているような、絶望的な内容じゃないですか」とおっしゃったことは以前、このブログでも紹介した。ヘタをすると、イエスの主張の天の国の理解もそのように現代の日本のキリスト教界では、理解されているかもしれないのだ。

     

    福音の汽車

     

    現代の日本語の天国の語感で考えると、老い先短いご老人の皆様方には、この賛美歌は都合がいい賛美歌かもしれない。子ども賛美歌ではなく、老人賛美歌として賛美歌集を作ったらいいかもしれない。

     

    多くのキリスト者でも、天国というと死んだあと行くところ、という理解が蔓延しているのではないだろうか。そのことに対し、ライトさんは、「本当にその理解でいいのか」どころか、「それは全くの誤りである」とまで、言い切っておられる。現在の教会は、下手をすると「さぁ、どうする?私たち」の世界である。

     

    この100年、このような誤った天国理解を、日本の教会は振りまいてきたのかもしれないのである。

     

    そして、本来、語るべきだったかもしれない内容は、「イエスの公生涯の核心は、(中略)神はまさに今ここで、「地上」において支配をはじめられたのであり、人びとはこの事の実現のために祈るべきであり、またイエスご自身の働きのうちに、それが実際に起きている」ということであった。

     

     

    再臨とイエスと裁きと人間としての回復

    終末というのは、神の怒りの結果、神の裁きの結果としての人間と人間世界の破壊のイメージなのか、神の「さとし」としての裁きの結果、悪への錨と破壊とそれによる悪からの解放という意味での回復のイメージなのか、未だによくわからない。破壊があって、新しい別の空間としての回復がある説(典型的には、古典的ディスペンセイション説関係者)もあれば、この地球での回復のイメージ説も基本的にはある。基本的にわからない世界は、無理に解釈して、行き過ぎをしないことにしている。ずるいといわば言い給え。人間は、そもそも神ではないのだ。イエスですら、それは父のみが知っておられると言っておられるではないか。それを人間ごときが、世界情勢から勝手な当て推量して良いものではないだろう。こういう一時的な世界情勢の状況から将来予測に関する知的パズルをしたい方は、なさればよい。

     

     

    ところで、終末と人間の回復に関しては、ディスペンセイション主義の方々も、他の方々も、最終的な部分については、ほぼ同じことを言っている。回復される人についての限定の仕方と、最終的な回復がどこでどのようなステップで実現するかの考えが、かなり違うけれども、「終末において、回復がある」ということについては、一定の理解についての合意があると思う。

     

     

    その再臨について、ライトさんは次のように行っている。

     

    再臨を語るとは神の新しい世界のすべてを語ることなのである。その新しい世界は、ヨハネ黙示録21章から22章、あるいはローマ書8章で展望されている世界であり、その中心にイエスがいて、神の正しい、優れた、癒しに満ちた支配を執り行う。イエスは真の人間であり、創造主のイメージを反映する人間としての適切な役割(創世記に描かれている役割)がついに彼において果たされ、優れた実り多い秩序が全被造世界にもたらされる。それこそがイエスの「来臨」と「裁き」を意味するものである。(同書 p.351)

     

    個人的には、正教会とか、ここでライトさんが言っているような、古い伝統のほうが、納得的かもなぁ、という程度の理解である。神ではないので、動向議論してもしょうがないと思っている。ただ、 大阪ハリストス正教会での講演会に参加してきた(異様に長いので閲覧注意) でもご紹介しているようなテオシスの理解のほうが、終末へのプロセスというのか、再臨とその後の神により回復された世界を考える上で、個人的に意味を成すかもなぁ、とは思っている。

     

    というのは、「創造主のイメージを反映する人間としての適切な役割(創世記に描かれている役割)」という、「地を支配する」あるいは、「この地を責任を持ってケアする」という役割の回復があることを考えると、まさに、神がこれらを見て「良かった」と言われた世界が実現するように思うのである。そのために、イエスが、回復を伝えに来た、あるいは、「裁き」(諭しや回復)をもたらすために来たと理解するほうが、本来あるべき姿への回復を考えると、断絶ができないため良いように思うのだ。

     

    ただ、日本語での「裁き」というのは、裁判所やお白州のイメージと分かちがたく結びついていることを考えると、この語を用いるとしても、かなり丁寧にこの「裁き」という語の持つ内容を説明しないと、ことばだけが独り歩きするように思うのだ。それこそ、「福音の汽車」の賛美歌でも、語の意味が独り歩きしてしまった結果、本来、神の国は、全く別のことなのに、死んだら行くところならまだいいが、西方浄土や、極楽みたいなものとして理解している場合が案外多いような気がするのだなぁ、これが。まさに、Lost in Translationの世界でしかないのかもしれない。

     

    裁きというと、大岡越前守とか、遠山左衛門丞が見得を切るお白州
    http://mamechishiki.aquaorbis.net/mamechishiki/oooka-sabaki0110/

     

    人間への関与としての赦しと回復

    この赦しと回復(主の祈りで祈っているはずの主要な内容だ、とは思うが)ということが、完全な形で起きるのが、終末であるし、そのために、イエスは、過去だけでなく今も人間に、聖霊(聖神)なる方を通して関与しておられるのであろう。過去の一発大逆転で終わりだったら、それこそ、イエスの存在すら、必要ないことになるのではないだろうか。聖書は、そんなことを言っていないのではないだろうか。

     

     このあたりのことと、教会をどう捉えるかに関して、ライトさんは次のように書いている。

     

    イエスが過去に働かれ、今も働いている仕方は、赦しと回復とを通じてであることを忘れてはならない。ヨハネの福音書の21章15−19節にあるイエスとペテロの印象的な会話は、愛と信頼の極みを示している(もし当時新聞があったら、イエスが逮捕された夜のペテロの情けない行動は、名前入りで記事になっていただろう)。教会は偉大な仕事をする完璧な人々の集まりだと考えるべきではない。それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法で、イエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである。(同書 p.384)

     

    しかし、ライトさんが書いた「(もし当時新聞があったら、イエスが逮捕された夜のペテロの情けない行動は、名前入りで記事になっていただろう)」という表現は面白いなぁ、と思った。今だったらスマホで録画した内容が、Youtubeにアップされ、動画が全世界でアクセス集中、とか、Twitterで炎上とか、BBCとかCNNで、実名入り世界同時テレビ放送って書くのが普通だと思う。でも、新聞(原文では、Newspaperとなっていたが、The SUNなどのタブロイド(日本ではスポーツ新聞がそれに近い)のことかも?)が出る辺りが、やはり文字の人なんだなぁ、と思った。

     

    The Sunのトップページの例 https://www.yahoo.com/news/brexit-press-voting-034643656.html から

     

    冗談はそこまでにしておいて、大事なのは、この文章である。

     

    それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法で、イエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである」基本的にきよめられた人の群れでもなく、立派な人の群れでもなく、祝福された立派なお金持ちの群れでもなく、逆に、罪赦された罪人(現実にも罪人であることをみずから認める人びと)の群れ、というのは、実際的にも、そうだと思うし、Anglican Communionの式文的にも、確かにそうなっている。特にいまレント中なので、毎週水曜日、ある式文の一部を(以下にお示しする)を声に出して、読んでいるから、左様思うのかもしれない。太字の部分は全員で読む。以下はレント期間中の今読んでいる式文のごく一部である。

     

    Lord God,
    we have sinned against you;
    we have done evil in your sight.
    We are sorry and repent.
    Have mercy on us according to your love.
    Wash away our wrongdoing and cleanse us from our sin.
    Renew a right spirit within us
    and restore us to the joy of your salvation,

                

    through Jesus Christ our Lord.        
    Amen.

     

    Lord Jesus Christ,
    we confess we have failed you as did your first disciples.
    We ask for your mercy and your help.

     

    Our selfishness betrays you:
    Lord, forgive us.
    Christ have mercy.
                
    We fail to share the pain of your suffering:
    Lord, forgive us.
    Christ have mercy.
                
    We run away from those who abuse you:
    Lord, forgive us.
    Christ have mercy.
               
    We are afraid of being known to belong to you:
    Lord, forgive us.
    Christ have mercy.

     

    この祈祷文の内容はまさにライトさんの上の文章と全く同じである。

     

    ところで、「それは罪赦された罪人たちが、あらゆる方法で、イエスの王国のために働くことで、返しきれない愛の負債を返済しようとしている集まりである」と訳出されている部分には、実は、かなり、大事な文章が英文では続いているのだ。それは、

     

    knowing themselves to be unworthy of the task.

     

    という一文である。日本語に変換するとすれば、「彼らみずからが、その神の御業に関与する価値が無いことを深く認識しつつ」、あるいは、「みずからが卑しい土の器であることを深く思い巡らしつつ」と言った感じである。まぁ、これは、日本語訳の文章としては、なくても確かに意味が通じるが、しかし式文から考えるに、

     

    We are afraid of being known to belong to you:
    Lord, forgive us.
    の部分と対応しているように思うのだ。もし、この省略された部分の理解がないと、教会内平和を実現するのは、かなり難しいかもなぁ、と思う。というのは、この部分の理解が欠落していると、日本でも時々お見かけする、ある教会群の中に見られるように、「愛の負債返済競争」、あるいは「奉仕をどれだけこなしたか競争」のような無意味な競争になりかねないからである。

     

     

    さて、今回、チラ見せをしたのだが、個人的に、この本は誰に読んでほしいかというと、イースターの教案をお書きになられる皆様、そして来年の2月には、イースターの準備を始められる日本中の日曜学校の先生方、将来のキリスト教会の構成員となるであろう次世代の人々を育成する、という重要な責務である、日曜学校の担当にあたっておられる皆さん、あるいは、そのことを祈っておられる皆さんに読んでほしい。そして、日曜学校の教育レベルを向上させてほしいのである。

     

    あるいは、この本は、なんだかキリストや信仰生活に対してモヤモヤっとした違和感を感じておられるキリスト教界の構成員の皆様、とくにお若い皆様に読んでいただきたい。自分が信じてきたこと、どうも教会生活になんだかなぁ、と違和感を感じている皆様に読んでもらいたい本である、と思っている。その違和感の解消に、本書を読むことは、確実につながるだろう、と思っている。

     

    詳細の議論は、『クリスチャンであるとは』の連載を終え、Facebook上でのライト読書会がもう少しすすんでからするけれども、今回は、ざぁ〜〜〜〜っと、ご紹介した次第である。

     

    タラタラと書いたものを最後まで辛抱強くお読みいただいた読者諸賢に、深甚なる感謝の意をここに表すものである。

     

    次回から、『クリスチャンであるとは』の連載に戻します。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    N・T・ライト
    いのちのことば社
    ¥ 2,592
    (2017-04-10)
    コメント:まだ全部、読んでないけど良さげ。英語版は読んだけど。

    評価:
    Tom (Dean of Lichfield) Wright,N. T. Wright
    Lion Books
    ¥ 938
    (2003-10-24)
    コメント:字は小さいけど薄くて読みやすいかも。

    評価:
    N.T. ライト
    あめんどう
    ¥ 2,970
    (2017-04)
    コメント:おすすめしています。

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