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2017.04.12 Wednesday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その50

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    さて、直近2回は『シンプリー・ジーザス』のスニーク・プレビュー風のご紹介だったので、今回から、いつものペースに戻したい。ということで、今日から暫く『クリスチャンであるとは』の連載に戻りたい。

     

    霊的生活のためのメソドロジー(方法論)

    もともと、キリスト教会におけるS K学会のような教会に通っていた。ある種の神秘主義を内包しつつ、結構、伝道方法については勢いが良く、大きな声で賛美をすることを良しとするグループであったため、教会での時間は、結構賑やかななグループ(ただし、賛美中のハレルヤー、アーメンはなかった)にいた。そんな信仰形態であったが、ナウエンの世界に触れ、正教会の世界に触れ、砂漠の師父の世界に触れ、神秘的傾向を強めていて(← いまここ)、このような霊性の世界にかなり傾倒しているものとしては、ここでライトさんが書いておられるような世界観はすごくすんなりと、ああそうだね、と思う。とは言え、ある聖人のように空を飛べたり、瞬間移動はできないし、殉教する準備もできていないのが、みーちゃんはちゃんではあるのだけれども。

    霊的であるための方法はどれも、祈り深く聖書を読むことを中心に発達してきた。福音主義においては「静思の時」という時間を持ち、聖書を読み、神の声に耳を傾けるのを大切にしてきた。そこで福音派の多くの人たちは、聖ベネディクトや他のカトリックの教師たちが、「レクチオ・ディヴィナ」として知られる、とても良く似たシステムを発展させてきたことを知って驚く。こうした黙想的手法で祈り深く聖書を読み、その物語に登場する人物に「なること」を求め、物語が展開する中でどうなっていくか、その様子を見たり、じっとまったりしながら、自分に何が語られ、求められているのかを、心を開いて受け止めることである。(『クリスチャンであるとは』p.266)

     

    もともとは、静思のときとかは、ナウエンがThe way of the heart (p.49−50)で次のように書いているように、普通の現代人として、結構困難な経験をする事が多いようである。

     

    The way of the heart(p.49−50)

     

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    我々の重大な問題の一つは、我々がこのおしゃべりが止まらない社会に射るために、静まることが非常に恐ろしいことの一つになっていることだ。多くの人々にとって、静まることを経験することは、イライラしたり、神経質にしてしまうのだ。多くの人々は、静まることを豊かで、満ち満ちた経験として感じるのではなく、むしろ空虚で虚ろなものと感じてしまうのである。彼らにとって、静まることは、口を大きく開けた迷宮が彼らをあたかも飲み込もうとしているかのように感じるのだ。司式者が、礼拝の最中に「これからしばしの間静まりましょう」というやいなや、人々は、落ち着きがなくなり、”一体これはいつ終わるのだ”という思いのみにとらわれてしまうのだ。多くの司式者は、礼拝の最中に静まりの時を持つと、静まりが、人びとにとって、神のもの、というよりは悪魔的なものとなり、司式者は話し続けてほしいというような会衆からの無言の圧力を感じるようになる。まさに不安真理が生まれることを避けるため、様々な儀式で静まることが避けられることになる。

     

    黙想とか、静思のときとか、ミーちゃんはーちゃんにとっても、ほんとうに恐怖でしかなかったのであるのだけれども、ある程度レクティオ・ディビナを繰り返し試み、正教会の教会で見学させてもらい、アングリカン・コミュニオンの教会に行くことで、この世界に慣れてくると、この身体性を伴ったスタイルの礼拝のほうが、現在では、案外心地よかったりする。

     

    昔はやっていたのだけれども、声を出して祈り合うようなデヴォーションとかは、根本的に苦手である。なんか、人の目を気にして、下心というか、色気が出てしまうからである。その意味で、まだまだ、静まりの時間が圧倒的に不足しているのだろうと思っている。

     

    ただ、黙想とか、霊操とかは、一人でやると、非常にまずいような気がする。きちんとした指導者の指導のもとやらないと、それこそ自殺者が出たりする騒ぎになる、ちょっとヤヴァい領域の話なので、あまりかんたん日本があるから、と言って、手前勝手にやらないほうがいいと思うし、また、よほど気をつけておかないと、もともともっている聖書理解の体系を壊しかねなくなるので、数冊、書籍を読んだくらいで、自分勝手にはやらないほうがいいと思う。

    メソドロジーや包丁や、テクノロジーは便利ではあるけども、そこに危険性はあり、あまり深く考えもせずにやるとろくなことは起きないと思うのは、これらの技術と同じだと思うなぁ。

     

    レクティオ・ディヴィナに関しては、来住司祭の「 目からウロコ聖書の読み方 レクチオ・ディヴィナ入門 」がわかりやすくて良いと思う。基本的なことがきっちり書いてある。あと、英語を読める皆様には、The way of the heartをおすすめするが、こちらは、もう少しわかりにくい。まぁ、このあたりのことをきちんとしたいと思えば、黙想の家とか沈黙の修道会や静まりのセミナーがあるので、そこで、ちゃんとした人の指導を受けながらやる方がいいし、おそらく、普通のプロテスタントの信徒さんが行くと「なんじゃ、こりゃ〜〜〜〜〜」になると思うので、あまりおすすめしない。ただ、霊性を養うための方法論として霊操にしてもレクティオ・ディヴィナにしても、ある種の方法論が確立されていることは確かである。

    仏教学の若手の研究者の魚川さんによれば、仏教では解脱(≒成仏、悟りを開く)のためのメソドロジーが確立していて、それが仏教思想のある部分を占めているらしいので、その意味で身体性を持った霊性には、確かにメソドロジーは必要なのだと思う。その辺、伝統宗教には、このような身体性を伴った修養の方法論、断食とか瞑想とか、それに類似する方法論はあるように思う。仏教における解脱については、魚川さんの『仏教思想のゼロ・ポイント』を参照されたい。
    ただ、繰り返すが、このタイプのものの中には、非常に魅力的であるがゆえにかなりヤヴァいものがあるので、一人で勝手にやらないほうが良いとは思う。人は繊細な(Fragile)被造物だからである。

     

    ところで、「こうした黙想的手法で祈り深く聖書を読み、その物語に登場する人物に「なること」を求め、物語が展開する中でどうなっていくか、その様子を見たり、じっとまったりしながら、自分に何が語られ、求められているのかを、心を開いて受け止めることである」とライトさんは書いておられるが、こないだの日曜日のレントの最終日曜日(棕櫚の主日)で、マタイ福音書28章を、登場人物に分けて、礼拝参加者一人一人に、聖書の中の登場人物の言葉が割り当てられて、読むということを説教の代わりにしたのだが、実に印象深かった。まさに、聖書の出来事のシーケンスに自分自身が参加しているかのような気がしたのである。自分がその中の役割、それが群衆であれ、百人隊長であれ、ユダであれ、名もなき女性の召使であれ、その担当部分の声をだして読むことでイエスの受難のシーケンスの中に入っていく感覚がしたことは確かだ。基本、アタマ派の理性がかった人間なので、そこまで深入りしなくて終わっただれけども、「ある人達は、この世界は深入りしそうになるなぁ」と思ったことは確かだ。

     

    受難のシーケンスに参加者が参加していくことを音楽でやったものが、マタイ受難曲の世界になるのだろう。


    マタイ受難曲(長いので、ご関心のある方は全編どうぞ)

     

    説教とその意味

    個人的には、究極の平新と主義の教会にいたので、2年くらい前までは、月に3から4回、40分から1時間近い説教の真似事のようなものをしてきたが、もう説教しなくなって、もっぱら、説教者の説教や式文に養われる立場に身を置くようになって初めて見えてきたものがあるし、説教を見つめるというその余裕が与えら得た生活を過ごしている。今も「我が信仰の父祖はさすらいのアラム人」と言いながら、放浪生活をしているが、その放浪生活は説教やキリスト教を見直すための余裕のために、神が与えられた時間であったと思いつつ、その時間をエンジョイしている。こういう経験をする時間がない説教者の方には、本当に申し訳ないと思っているが。実際、現実に、普通の日本の教会の牧師さんに、こういう贅沢をするための時間的、業務的余裕は、ほとんどないと思う。もう、真剣に神の哀れみを乞い願わざるをえない状況である。

     

    教会の歴史を通して説教者は、もともと書かれたコンテキストで聖書が何を語っているのか、そして、それぞれの置かれた時代でどのような意味を持つのか、という両面を伝えるように努めてきた。実際そのことが、説教を語ることの中心であったと行っても過言でない。(同書 p.266)

     

    そもそも、聖書は、ヘブライ語とか、ギリシア語で書かれていて、後にラテン語で訳されたものであった。そして、宗教改革前後に、プロテスタントはでは、各国語に翻訳された聖書は、そもそも、一般人には、意味不明であったし、ここのところ繰り返しているように、逆に翻訳されてしまった瞬間、どうやっても抜け落ちてしまう肌触りや手触りがあるし、そもそも、空間も時代も違う社会の中で、極めて正確な語を翻訳語として当てられるか、という問題がある。そもそも、出世ラクダ(アラビア語にはラクダについての多様な語がある)や、出世魚みたいなもの(日本語には、魚の呼称が異様に発達している)は、語感として共有されない。されたとしても、聖書で語られてきた時代と環境でのイメージはどうしても伝わらない。それをつなぐものが、本来説教であった、ということが、ここでライトさんがおっしゃっていることであり、まさに、その通りだろうと思っている。

     

    そう思うからこそ、牧師さんの先週の業務報告や、中会とか大会の決議案件の報告と議論とか、テレビや映画の素人解説とか、私小説もどきの公同の教会的伝統としての検証が、全くされていないその教会だけで通じる聖人伝とか、献金が信徒生活にいかに大切かということに関するブラックメールまがいの説教とか、もう本当にご遠慮賜りたいのである。

     

    聖書に神の声を聞き、我々の存在が聖書で読まれる経験

    実に聖書を読む、特にレクティオ・ディヴィナ的方法論で読む時、確かに神に出会う感じがすることがある。ライトさん特有の言葉を使えば、神と我々を隔てる幕が一瞬薄くなり、神の世界が見える場所であり、天と地が噛み合う場所であるというのは、個人的に全くそのとおりだと思う。まさに、歩く神殿であるイエスを通して、神の世界にはいっていくように、移動可能な聖書を通して、神の世界を垣間見る経験であり、正教会風に言えば、テオシスの世界なのだと思う。そのあたりのことについて、ライトさんは次のように書く。

     

    聖書に神の声を聞くとは、明解で専門的な知識を得るようなものではない。むしろそれは愛に関わることである。既に示唆してきたように、愛とは、天と地の交差する場で生きるために必要な認識のあり方である。(中略)

    聖書の言葉から神の声を聞くとは、誤りのない見解を得る、ということではない。神の声を聞くことはむしろ、イエス自身の置かれた場に私たちを置くためなのである。(同書 p.267)

     

    ここで、ライトさんが「聖書の言葉から神の声を聞くとは、誤りのない見解を得る、ということではない」と書いていることは、非常に重要である。多くの場合、現代において読書するということは、「(最新の、であるがゆえに間違いがない、と考えられている)誤りのない見解」を体系的に得るために読むことが多くなっている。中学高校の教科書から、大学で使う専門書に至るまで、私小説や推理小説やマンガやギャグネタ本以外の、啓蒙時代に構築された文化背景のもとでの、かなりの読書体験は「誤りのない見解」を得るためのものになってしまっている。そのような読み方で読む限り、使徒たちや遅れてきたパウロが読んだであろうように、聖書は読めないのではないか、と思う。そして、聖書に我が身とその霊的状況を照らされて、聖書によって自分自身が読まれるという体験をしないのだろう。それを、ライトさん風に書くと「神の声を聞くことはむしろ、イエス自身の置かれた場に私たちを置くためなのである」ということになるのかもしれない。

     

    その意味で3Dのメヴィウスの輪のような関係が、聖書を読むということには起きているのかもしれない。表面だと思っていると、いつの間にか裏面になり、裏面だと思っているといつの間にか表面になっているという3次元的曲面で構成される立体である。

     

     

    メビウスの輪の3次元図


    3次元表現した”メビウスの輪”

     

     

    ある意味で、私達自身を「イエス自身が置かれた場所に置く」ということは、「その場とその状況にいるものとして、自分自身、考えてみる、あるいは、思いを巡らせてみる」ということでもあり、イエスを通して、その世界にはいっていき、そして、イエスの行動や、神のみ思いと我らの思いの違いを見て、反省が強いられる(これが、聖書により我々が読まれる)という体験であり、その結果として、自分自身の不甲斐なさ、罪の支配の中にあるということでもあり、そして、その捕囚状態からの開放を求めて、神の介入(神がその状態からの救出をして下さること、すなわち救いのこと)を求める、ということなのだろうなぁ、と思う。あるいは放蕩息子の息子が父のもとに戻るように、神のもとに戻っていく事に関する意味が出てくるという構造を聖書はもっているのだと思う。

     

    人間らしくなるための神のチャレンジ

    正教会系の伝統では、人間は完全に堕落しているのでもなく、かなり壊れているが、神とともに行き、神とともに生きていくことで、人間としての回復が地上で起きるという理解である。しかし、それは人間によって話されない、という理解のようである。

     

    ところで、プロテスタント系の教会の伝統では、人間は完全に堕落しているので、神からのこの堕落からの解放をもたらすイエスが必要であり、イエスを進行することで、一発逆転ホームラン型で、ヒーローになれる風の理解の方々もおられる。しかし、個人的には、一発逆転型ではないように思うのだ。それは自分自身を見ててもわかる。間違いはするし、ろくでもないことをやるし、一時的には、一発逆転満塁ホームランのような状態かもしれないが、この世界が呪われているために、常時ヒーローであり続け、間違いを全く侵さないようにはできていない。

    間違いを起こしながらも、神のもとに戻り、神に憐れみを乞いねがい、よろめきながら、神の前を歩いているような存在なのだと思う。正直、人間は神になれないのではないか、と思っている。間違いを起こす、不完全なものになることが、神の許容範囲の中で、悪からのチャレンジがあることを容認されているのであるように思う。ちょうどヨブ記で描かれているヨブが、最終的には悪から開放されたように、我々も開放されるのである。そのあたりのことに関して、ライトさんは次のように書いている。

     

     

    聖書は、私達が満足して停滞しない様に、絶えずチャレンジを与える。教会にそのような賜物を与えたのは、あらゆる世代の人が考え方において大人となり、より完全に人間らしくなる必要を示すためである。それはとりわけ、神が私達に示す聖書のことばによってなされる。(同書 p.269)

     

    おそらく、ここでの「教会にそのような賜物を与えたのは、あらゆる世代の人が考え方において大人となり、より完全に人間らしくなる必要を示すため」という部分で、「より完全に人間らしくなる」というのは、正教会的伝統で言うテオシスの概念にほぼ等しいのではないかと思う。もう少しいうと、「創世記で神と語り合っていた人間の状態へと、じわじわと回復される」ということなのだと思う。それが、聖書の言葉によって、聖書によって、我々の姿が照らされ、ちょうどメビウスの輪のように、表面では我々が聖書を読むことを通して、その裏側では我々が聖書に読まれ、そして、自らの実際の不甲斐ない姿を神の前に認め、素朴に神の関与を求め続けていく中で、神との関係を深めていく中で、「より完全に人間らしくなる」ということなのではないか、と思う。

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

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