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2017.04.05 Wednesday

N.T.ライト著上沼昌雄訳 『クリスチャンであるとは』 その49

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    ミーちゃんはーちゃんは、実に嬉しい。なぜかというと、先週末東京に行って、巣鴨の聖泉キリスト教会併設のティールームで実施された、N.T.ライト読書会に参加したとき、このブログの読者にお会いしたからである。このダラダラと書いている解説がどうもお役に立っているらしいのだ。煙となんとかは高いところに登るという通例があるが、もう、テンション上がってしまっている。ほらね、単純でしょ?

     

    そこで、今日もまた、あまり人気のないこのシリーズの連載を再開したい。今日からは『物語と努め』というところである。

     

     

    権威とは何か

    聖書に権威がある、というのは聖書を大切にするキリスト者が、ハリストス正教会も、カトリック教会も、聖公会も、プロテスタントの諸教会群も、福音派の諸教会群も、ほとんど多くのキリスト教会と呼ばれる集団が認めてきたことである。これを抜かすと、キリスト教ではなくなるに近いような、ある種のキリスト教信仰の中核ではあるが、その権威ということがどういうことか、どういう意味か、どういうことを信徒や教会との関わりで行っているのか、という議論は一旦さておいて、ことばとしての「権威がある」ということが、全く定義されずに、それぞれが思うところの”権威”に関する意味付けを付与しながら、「聖書には権威がある」といえば、一応、皆さん納得されて、それ以上そこには踏み込まない。

     

    その「権威のなんたるか」について全く明らかにしないままで、同じ言葉を使いながら、全く別のことを想定しながら話している事態に出会ったことがある。まさにバベルの塔状態、あるいはお題目として、あげてあるだけの、実質的にほんとうに意味があるのかどうだか、わからないようなスローガンに近い場合もあるのではないか、と思っている。

     

    聖書の権威について、本章の割と早い段階で、聖書の権威がどのようなものであるのかについて、触れている。権威に関する理解の共通理解の状態に関しては、ほとんど無視したまま、この権威という語は使われているように思う。そこで、ライトさんは聖書がどのようなものであるかと説明を始めるのである。それが、こちら。

     

    それゆえ聖書の「権威」は、いわばゴルフクラブの会員規則のような「権威」と全く異なる。たしかに規則の一覧を含んでいる(たとえば『出エジプト記』第20章の十戒)。しかし、全体として聖書は、こうすべきだ、こうすべきではないというリストから成り立っているのではない。聖書は物語である。アダムとエバが生き物たちの面倒を見るエデンの園に始まって、世界中を潤すいのちの水が流れ出る都、子羊たちの花嫁としての都に至る壮大な、並外れたナラティブなのである。(『クリスチャンであるとは』p.262)

     

    聖書を、ルールブックのように使う人がいないわけではない。典型的にはパリサイ派の律法学者、祭司長たちの聖書の使い方は、おそらくそのようなもので、「民の背中に荷物を載せるものの、それに指一本触れない」と、イエス様から怒られているのである。このような聖書の使い方をあるクリスチャンたちもよくやる。

     

     

    ただし、それは聖書の権威性を借りた上での、聖書の権威を背景にした人間の規則を正当化するやり方である。ただ、直接聖書の言葉も使うこともあるが、「聖書的でない」という用語で十把一からげにして処理しようとしてしまっているような気がするなぁ。

     

    要するに、聖書的とは、聖書そのものではないが、その人が理想だと思っている内容を聖書の用語を切り貼りしながら、構築したものから得られる理解にすぎないように、思う。それは、仕事先から、信徒の髪の毛の長さとか、スカート丈とか、聖書の読み方とか、日曜日の午後の使い方から、普段の日の過ごし方から、教会堂の掃除の仕方とか、流石に箸の上げ下ろしまでとは言わないが、かなり細かなところまで言われる。ああすべきだ、こうすべきだ、「キリスト者たるものかくあるべし」とある人が聖書的と考えたリストがそれぞれの個人ごと、教会ごと存在しているようだ。しかし、それは、ある人が理想的であると考えていることや、その教会ないしその教会群が理想であると思っていることを聖書的といっているだけ、という部分も、たくさん含んでいると思う。

     

     

    しかし、ここで、ライトさん、言っちゃってますね。「聖書は物語である」って。もう正々堂々と。それで、此処から先、読み進むのが難しいなぁ、と感じる人はいるだろう。「聞くに堪えないことばだ。聖書は真理の書であって、聖書は権威がある書だ」と仰りたい方も多いと思うなぁ。

     

    おそらく、聖書が真理を扱う書であり、権威がある、ということは、おそらくライトさんは微塵も疑ってないようだし、もし、ライトさんに「あなたは聖書に権威があると考えているのか?」と聞こうものなら、速攻で「Whatelse?(それ以外の答えがある?)」って返されるだろう。[あなたこそ、聖書は、物語であり、真理の書であり、神の権威が示されていないとおかんがえだろうか?」と逆質問してきそうな気がする。先程「権威」が人によって意味が違いすぎ、同じ言葉を使いながら、バベルの塔状態が起きている可能性を指摘したが、「真理」も「物語」もよく定義して使わないと、結果的にバベルの塔状態になってしまう。その結果、お互いに何が何だか状態になるだろう。

     

    ここで、ライトさんは、聖書は、大きな神の想像とこの地への神の関与を語っている、というご理解のようである。

     

    神の愛とその物語

    ここに、神の愛の物語を、この地の始まり、すなわち、創造の御業が始まる前から、創造の御業が完成するまでを現代日本語による賛美の形式で書いた「神の物語」(岩渕まことさんのアルバム『天にも地にも』所収)という賛美歌がある。お友達の大頭さんがこの曲、作詞をしたので、ご紹介しておく。この賛美歌が非常に良いので。アルバム『天にも地にも』をお買い上げされるようにおすすめしておく(まぁステマだw)。

     

     

    神の物語 作詞 大頭 眞一 作曲・アレンジ・歌唱・演奏 岩渕まこと

     


    神の物語 英語版 

     

    話を元に戻すと、実は、神の「愛の物語」であり、そこに神の権威性があるということが現れるということをライトさんは以下のように書く。

     

    聖書は一言で言えば、少し異なりはするが、愛の物語(ラブ・ストーリー)である。聖書の権威とは、そこに加わるように招かれている愛の物語という権威である。(中略)場面が設定され、筋書きが十分に練られ、結末も用意され、よく見ればさらに先に向かって展開していく小説の権威のようなものである。その物語の中で、その目的地に向かいつつ、それを生き、そこに参加し、頭を働かせ、決断していく登場人物にになるようにと招かれている。(同書 pp.262-263)

     

    まぁ、人間世界に関するラブ・ストーリーは、英語で言うRomanticly Involvedの人たちのお話、以上終わりとなるのだが、ここで言う神の人間に対するラブ・ストーリーはあくまで、神の人間に対する愛が中心であって、人間の神に対する愛が中心でないことについては、注意すべきだろう。つまり、中心は、神の愛であって、人間の神に対する愛の話ではない。そこは間違えてはいけないように。

     

    ライトさんは、人間の神に対する愛の話をしたいのではない。多分。

     

    我々は、神の人間に対する愛に対して、祈りや賛美を通して僅かに応答できるに過ぎない。ちょうど、献金が神から与えられたものの中からしかお返しできないように。神は献金や、肥えた羊の全焼の生贄を求めておられるのではなくて、我々の悔いた心と神のもとに帰るという、その心の動きを求めておられるのである。そこを間違えて、献金額が多ければ、持っているもののすべてを捧げれば神が喜ばれるとかいうのは、あまりに人間的な物の見方のような気がする。まぁ、多分、ここでの、人間的なものの見方にみえてしまう、というのは、ミーちゃんはーちゃんの聖書の理解不足、誤解と誤読の結果なのだろう。

     

    そして、その目的地に向かいつつ、そこで美しいグランド・フィナーレ(終末)があり、そのグランド・フィナーレの舞台に上がるように招かれているし、そこに「おいでよ」と、神も、イエスも、聖霊も、そして、12使徒も、我々の先人のキリスト者(いわゆる『先輩』あるいは『聖人』)のみなさんも、招いておられるような気がする。 「ここでは みんな歓迎だよ(All are welcome)」といいつつ、我々を招いておられるように思う。

     

    All are welcome という賛美歌

     

    そして、ハリストス正教会やコプト正教会に行って思うのは、実に聖書は神の愛という関係性の中に招かれているという側面であり、それを儀式として、賛美(歌)を通して、式文による成文祈祷を通して、イコンを通して、精一杯、神の愛があることを、そして、神の愛に一生懸命、誠心誠意、応答しておられるのだなぁ、ということを思う。この辺に関しては、

     

     

     

     

    などをご覧いただきたい。まぁ、応答の仕方が、正教会系の教会と西側の教会、特にプロテスタント派と、この200年の間に登場したプロテスタント派のその応答の仕方とが、多少違うだけである。どちらが偉い解か、どちらかが間違っているというのではないと思うけど。神からすれば、その違いは、誤差の範囲だと思う。

     

    聖書の権威に生きる 再訪
    さて、聖書の権威性とは何が何でも、無理やり人間を強制的に縛るようなルールではないこと、聖書の構造は、人間が登場し、そして、いま聖書となっている部分以降の場面として、我々も登場し、そのグランド・フィナーレ(終末)の様子が神によって定められており、そのグランド・フィナーレに向かって、我々が導かれ行き、その神が用意し給うたグランド・フィナーレに参加するように、グランド・フィナーレに登場するよう、神が我々に「みんなおいでよ」(All are welcome)と招いておられること、そして、神の関与の中に生きることであることをこれまでお示しした。

     

     では、聖書の権威に生きるとは、キリスト者の歩みの基本原則である聖書の権威に従って生きるとは、どういうことかをライトさんは次のように説明する。
    聖書の権威に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中に、共同体としても、個人としても、自分たちを浸すことである。それはまさに、クリスチャンの指導者と教師たち自身が、そのプロセスの一部になることであり、聖書を読む共同体の中だけではなく、共同体を通して、より広い世界の中で、世界のために神が働かれているプロセスの一部にならなければならない、ということである。(同書 p.264)

     

    ここで、ライトさんは、聖書の権威に従って生きるとは、「聖書の物語の語っている世界に生きること」だと言う。それは、聖書が我々に伝えようとする、神とともに生きることを神が望んでおられるという、その関係の中に、その世界の中に生きる、ということなのだと思う。その具体的な姿は、一つではない。様々な神に従う生き方のマニュアルがあるのである。ウェストミンスターでもいいし、使徒信条でもいいと思うし、ニカイア信条でもいいと思うし、アウグスブルグでもいいと思う。それらは人間が聖書を読んでも、どうにもこうにもわからないときの参考と基本的な線を与えるためのものだと、個人的には思っている。個人的には、「聖書が読めている、あるいは、聖書を読んで、聖書がわかっている」とは、ミーちゃんはーちゃんは、自分自身の姿を見ても、そのようには到底思えない。

     

    ここで、ライトさんは面白い表現を使っている。浸ける(soaking)という表現である。まさに湯船に浸かるように、神の物語の中にたっぷり引き込まれ、巻き込まれていく世界のことを表現しておられるのだろう。神のいぶき(聖神あるいは聖霊)に浸かること、ひたひたに伝って、それが我々の中から溢れ出るほどに、あるいは、たっぷり水を含んだスポンジのように、それを持つと水がポタポタ落ちるように、人を人とした神のいぶき(霊・精神・聖霊)に浸ることが、神が我々に求められていることなのだと思う。

     

    そして、それは取りも直さず、神のご計画(神のものがたり・神のグランド・オペラ)の大きな、そして重要な部分ではあるので、その神のプロセスに関わりつつ、我らが神の息吹を受け、またそれを神にお返しし、そして、それを他者に分け与えながら生きることを望んでおらえるのだろうなぁ、と思う。

     

    話は変わるが、最近、ある聖公会の司祭の方とスカイプでお話していたときに、聖書を読む、ということについて、その司祭の方が面白い表現をなさった。それは、「我々が聖書を読むと言うのは、ある面、聖書の権威で、聖書の表現で、我々が読まれるということなのではないか。そして、我々の生活が聖書の主張の観点から吟味され、否応なく振り返りの作業をさせられるということかもしれない(大意)」という趣旨のことであった。それは、そうなのだ郎なぁ、と思った。

     

    そう思っていると、いつも良くしてくださる大阪正教会の松島マリアさんが、あるFacebookの板で、
    ある人が、前のロシア総主教に「日本には聖人がいないから」と言ったら、 「あなたが聖人になりなさい」と答えられたそうです。
    少しずつでも神に近づいていく、そんなふうに歳を重ねられたら、と思いました。
    と、コメントしておられた。聖書で我が身が読まれる、聖書の権威に従って生きる、ということは、まさに、少しずつ、ぐるぐる螺旋を描くように、イエスが、十字架に向かって、旅をしながら降りていったように、そして、地の底に降りたように、時に降りていき、そして、イエスが、復活したように一気に神に引き上げられ、霊的な神の支配の中に取り込まれるということなのかもしれない。

     

    日々の生活はそのための準備であり、弱さを見つめ、自ら握りしめるものを捨て、そして、神の愛の中に降りていきながら、そして神に近づいていく(次第に聖人として生きるようになる)、ということでもあり、それは、一瞬にして、スーパーマンになることでも、ドラえもんのようになることでもなく、ウルトラマンになるでもなく、むしろ、神とともに素朴に、そして、忠実に神のよういされた、この世界に神に頼りながら、生きる、ということなのだと思う。

     

    特に、今、大斎、あるいは、レントの期間だから、降りていくことを思うのかもしれない。

     

    http://twistedsifter.com/2013/03/double-spiral-staircase-vatican-museums-giuseppe-momo/ より

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

     

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