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2017.04.03 Monday

『人生の後半戦とメンタルヘルス』 藤掛明著 を読んだ(2)(終わり)

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    今日も、藤掛明さんの『人生の後半戦とメンタルヘルス』を呼んで、思ったことを書いてみたいと思う。前回は、現代の日本人を取り巻く課題について、失敗しないことに補修されていること、忙しさの問題があること、預言者が視野狭窄状態に陥ったユダヤ人の視野狭窄から脱出するガイダンスをしたように、霊的ガイダンスとか霊的同伴とかは、視野狭窄からの脱出のあたりのことと関係していること、忙しさの美学にハマっている現代日本人の問題なども取り上げた。

     

    旋回しながら降りていく儀式の大切さ

    もともと福音派にいたし、技術者として長く過ごしたということもあり、なんか呪文的というか呪術的そうな臭ひがする教会暦とか、毎年の繰り返しという儀式などと無縁の世界で、長らく信仰生活を送ってきた。その意味で、非常に単純化された世界観を持ってキリスト者生活を過ごしてきた。しかし、年齢が進むに連れ、多少は賢くなったのか、あるいは、単純化された世界観に、あるいはマクドナルドなどのハンバーガーを常食として食べるかのような、十年一日の如きの、相も変わらずの均質を前提とした生き方をしてきた。50を迎えるあたりから、そんな単調さ、単純さに飽きてきたのかもしれない。

     

    そんなことも感じている中、漂着するようにたどり着いたアングリカン・コミュニオンのチャペルで、教会暦と日々繰り返しの中で、深みにゆっくりと降りていくような経験をする中で、あぁ、こういうのいいなぁ、と思ったのである。

     

    こんな感じかな。https://spectator.org/blue-cross-exiting-mn-obmacare-exchange/ より

     

    そういう経験もあったからか、同書の中での次のような部分が心に響いた。

    状況が刻々と変わる中、じたばたとせざるえないことが多いと認めると、いつもじぶんの克己心や判断力にばかり頼るのではなく、自分を定点観測するような仕組みを持つことの大切さを感じます。人は忙しいときほど心の余裕がなく、状況に巻き込まれてしまうからです。
    その有力な方法の一つとして、個人的な儀式や習慣を作ることが上げられます。一日の時間管理にも、10年間の時間管理にも、儀式は大切なものとなります。儀式はいろいろな節目に、立ち止まり、自己点検する機会を与えてくれるからです。(『人生の後半戦とメンタルヘルス』 p.80−81)

    この部分を読みながら礼拝の意味、礼拝のたびに静まりの時間、そして神の前に悔い改める時間を毎週持つ意味を考えた。礼拝とは、説教を聞く時間でももちろんあるけれども、週一回(個人的には、水曜日の夜にもそこは聖餐式があるので、そちらにも参加しているので、実際には聖餐式間に派のミーちゃんはーちゃんとかは週2回)、神のみ前に出て、自分自身の罪深さをそこに集まる人々とともに思い起こし、神の民に相応しくないにもかかわらず、神の民であり、神の養子にしてもらったということ(これが福音)を覚えるのである。もちろん、毎朝の時間、毎度の食事のとき、また、休む前にも神の前に出るのではあるけれども、もう少し、長い時間、それもともに弱さを抱えた人が集まる中で、他人の弱さを感じながら、自分自身の弱さ、不甲斐なさ、そして、神を愛しつつも、神の命令を完全に守りえない自分自身の姿を見つめる機械は、個人だけの祈りにはないものがある。なぜ、そうなるかはよくわからないのだが。それは、神秘というものなのかもしれない。

     

    そして、今はレント(大斎)の期間中である。このレント(大斎)の期間の中で、自分自身を見つめ、神とともに歩むというものとしての歩みを振り返っている。そして、その下っていった先に、突如現れるのが、キリストの復活であり、それを記念するイースター(ハリーストス復活し、死をもて死を打ち破り、墓にあるものに、いのちを与え…と歌い、その後、ハリストース、復活。実に復活 と今年もハリストス正教会にイースターの前夜の深夜に行って、一緒に言いに行くつもり。)、ペンテコステと続き、そして、また待降節(アドベント)隣、エピファニーがあり、そして、レントの中に入っていく。ある種のリズムがあり、それがなんとも、心地よいのである。こんなものを迷信とか、儀式的とか、人間か作り出した制度と軽視していた自分の愚かしさを、今は恥じ入る限りである。仮に人間的な制度であるとしても、実によくできた制度なのである。

     

    そして、キリストの障害のできごとに合わせて、登っていったり、下っていったりと、単調になりがちな生活にメリハリを与えてくれる、人生の時計、1年時計みたいな仕掛けになっているのである。今は、そのような周期が生み出すリズム感とそれがうみだすものを十分に享受している

     

    明け渡すことの大切さ

    明け渡すことの大切さに関しては、本ブログでも何回か記事にしたことがあるが、人間はつい、不安であるし、神ではないので、神や他者に向かって自らの手を開き、明け渡しができない存在であり、なんでも自分で抱え込んでしまおうとしてしまう。

     

    そのことについて、藤掛さんは、ある管理職のビジネスマンが後輩に教えたことの中に、他人に委ねることの重要性を伝えた、事例のご紹介があったあと、次のように書いておられる。

     

    それを実現するためには、自分ですべてをしようとするスタイルから開放されるということです。

     

    断る
    断るという作業は大変なエネルギーを使います。ここでは断るかどうかの判断に際して、幾つかの自己チェックを行うべきでしょう。
    仝栄をはらない。⊆分しかできないと思い上がらない。Mダ莉膂未望箸蕕靴討匹Δを考えるという点検です。(同書 pp.91-92)

    個人的には、未だにそうだが、この「断る」というのがなかなかできない、人から嫌われるのが嫌だからなのか、メサイア・コンプレックスの重篤な患者だからなのか、課題がギリギリできそうでチャレンジングな課題であればあるほど、技術者マインドに火がついて爆発的なエネルギーを生じるからかどうかは、しらないが、断らない。特におもしろそう、と思われるものは、非常に断りにくい。自分自身がやるとして、よほどできない、その時間が当座確保できない、どうやるかが皆目見当がつかない、対応方法が想像すらできない、他の人がやったほうが良いと思える状況以外は、「断る」というオプションは選択しない事が多い。とは言え、お金払って解決しそうなことであれば、お金払って、解決してもらって、として、適切な関係者や事業者さんをご紹介することにしている。特に企業とか、公的機関が関与する場合は、予算と責任を先方がお持ちのことが多いので、実験的にしてみるとか、研究ベースでしてみる以外の場合は、個人としてはお断りすることにしている。ただ、予算がないとか、急ぎでやっつけ仕事でいいから、どうしても、と言われたら、急ぎ働きでやっていることが多い。

     

    特に大頭先生が、子犬のような目をしてお願いされた日には、断れないことが多い。とはいえ、大頭先生はある程度はおわきまえ下さっておられ。頼まれて、基本形を作ったら、後はその基本計を修正し、行進する作業は、ご自分でしてくださるので、そのへんは安心している。ただ、人によっては、一回何かで仕事をしたら、あれも、これもと全部押し付けてくる人がおられる。そのタイプの人には、1回目は受けるけど、2回目以降は理由をつけて、お断りするようにしている。と言うのは、当方が善意で、親切心でご対応していても、断らない人だという印象をあたえることで、依頼を持ち込む人の奴隷状態になってしまうからである。この辺のスルーするということの重要性は、アメリカ人との関係で学んだ。ダメなものはダメ、ムリなものはムリと、明確な境界線を引くようにしている。(この辺は境界線シリーズが役に立つ)

     

    ところで、「断る」(そして適切な他者を紹介する)ということのメリットは、実は社会全体では大きいかも、と思う。なぜなら、断れば、自分ひとりで抱えこまなくて済むからである。安心して忘れることができる。これは、断ることのメリットとして考えておいてよい。手を離さないことで、自分自身がその頼まれたことにロックインされかねないからである。また、頼まれ仕事を有償の仕事としてなしておられる人や組織に渡すことで、頼まれた人には社会的認知と報酬がついて回り、地に平和をもたらす源泉の一部分となることができる。

     

    更に、自分が手放し、他者に託すことで、新たに託された他者の成長のよい機会にもなるのであるし、ノウハウが新たに託された人に継承され、蓄積していく。そして、自分がもし何かあっても、他者が対応できるというリスク分散ができるのである。そのような意味でも抱え込まないことは大事なのだと思う。

     

    手を放すということ、手を開くということを考えてみると、他者と握手するとき、ギュッと手を握ってはいないし、子供を抱きかかえるとき、ドラえもんの手のかたちで、子供を抱きかかえないだろう。そして、プレゼントや他人から何かを受け取るとき、我々は手を開くのである。

     

    断るというと、物騒な感じがするが、断ることは、他の可能性に向けて、自分の握りしめた拳を開いていくことであり、もう少し言えば、神に向かって手を開いていくことと関連していると思う。その意味で、断ることは、新たなものに可能性を開くという側面をもう少し考えたほうがいいかもしれない。

     

    教会関係者の逸脱行動をどう考えるか

    幸いにして、ミーちゃんはーちゃんのこれまでのキリスト者人生の中で、教会関係者のおこす非行の被害にあったこともないし、問題行動の重篤な被害者になったことはない。それは、幸せなことであると思うが、この業界をフラフラしていると、教会の関係者の問題行動はチラチラ見聞きする。昔は、この種の問題行動ネタは、噂話で聞くか、よほどひどい例を書籍などで知るかしかなく、もうちょっと最近では2chで探すのが大変便利で、参考になったのだが、最近は、ツィッターやFacebookというSNS型メディアやこの種の情報収集拡散拠点とも言うべきブログが幾つかあり、それらのメディアを見ているだけで、すぐにお知らせしてくれるようになった。

     

    以前にも紹介した、Smart Thinking for Crazy Timesという本の中には、「企業の危機管理として、どこかで発言したことは、拡散する可能性があると思って意思決定せよ、隠された言葉訪うものはない」ということが書かれていた。まぁ、拡散することを期待しつつ、かなり際どいネタを大統領選挙中、Twitterで拡散し続けた現某国大統領もおられるし、派手なパフォーマンスで、情報伝達するのがお好きな某国大統領もおられる。まぁ、情報の積極的利用というか、逆方向の利用であるとは思うが。

     

    話が余談に言ったので、また、もとに戻したいが、どうも色々見ていると、一生懸命やりすぎて、手段と目的の混乱が起きたり、原因と結果の混乱を起こしたり、目的達成至上主義になる人々が、教会内にもおられることは確かだ。

     

    そのあたりのことについて、藤掛先生は、次のようにおっしゃっておられる。

     

    驚く方もいるとは思いますが、熱心なキリスト教信仰を表明しながら、そして価値観として非常に健全なものを持ちながら、犯罪や非行を犯す人たちがいます。価値観や信仰心は問題がないのに、逸脱した行動に出てしまうのです。(中略)
    また、ある信仰者が犯罪を犯したとき、周囲が単純に二元論で割り切り、最初からあの人は偽クリスチャンで、本当のクリスチャンとは別物なのだという説明をすることがありますが、それも多くの場合違うように思います。不祥事を起こす信仰者はむしろ信仰に熱心で高い理想に邁進します。しかし、その理想の高さと熱心さが孤独な玉砕を生み、逸脱に結びついてしまうのです。(同書 p.97)

    言っていることや思いのところでは、問題がないけど、結果として逸脱した行動に出てしまう人、行き過ぎを起こす人を時々お見受けする。善意でハジメたら、結果も善きものが必ず生まれないのが、残念ながら、この世界なのである。このあたりのことを、今度福音主義新学会の西部部会で、山口希生さんという方が、「諸力としての罪:ユダヤ黙示思想の文脈の中のパウロから考える」というテーマでご発表になる模様である。なお、この山口希生さんという方は、このブログでは、現在途中止めになっている「新約聖書と神の民」の翻訳者でもいらっしゃる。実は、この世界には、「諸力としての罪」が働くから、善意で、全なることを着手し、実施し始めたとしても、悪に陥ることがある。非行まで至らないにせよ。世の中、「善意で始まったのだから、いいじゃないか」ですまないことが多いのである。

     

    伝道することも、たしかに善いことであるし、宣教することもキリスト者としては善いことである様に思える。しかし、諸力としての罪が働いている以上、結果として把握が生まれることがある。それが、上で述べられているような、熱心さ故の玉砕精神の発揮(日本はこれが多い)とか、後は野となれ山となれ戦略とか、逸脱行動とも取られかねないことになるのではないか、と思う。

     

    最近テレビで話題の「○○首相ガンバレ」と幼稚園児に叫ばせている映像が流れている幼稚園の経営者ご一族のことが話題になっているが、これとても、そもそも悪意で始めたことではないだろう。本来その行為が目的とした善意の面の善の主効果より、その行為のもたらす悪しき副作用が妙な形で出てしまい、負の副作用あるいは悪の副作用の効果のほうが大きくなり、それに対して歯止めが何処かで効かなくなったことがあの幼稚園問題が指し示している問題なのだと思う。

     

    本来、自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土を大切にしたい。

    (ここまではいい 善意で始まっているといえる)

     ↓

    自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土を丁寧に扱うようにしてもらいたい

    (ここまでも許せる)

     ↓

    自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土を丁寧に扱わない人は困る

    (これも確かにそうかもしれない)

     ↓

    自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土を丁寧に扱わない人は、この国や地域から出て行ってほしい

    (この辺で怪しくなる)

     ↓

    自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土から、関係者以外は立ち去ってほしい

    (かなり怪しい。まず、関係者とは何かをきちんと定義しないとまずい)

     ↓    

    自分の住んでいる地域や、自分が住んでいる国土から、外国人は出て行け

    (もうむちゃくちゃ)

     

     

    ということになっているのだろう。極めて構造を単純化した結果ではあるが。本人は大真面目に一生懸命やろうとしているから、どうしても、方向感覚を失ったり、自分自身を突き放してみることができなくなっているのだろう。

     

    個人として認知している教会関係者が起こした不祥事の例としては、ある外国人宣教師が、もう数十年前、ある地域で一生懸命学生向けの伝道活動に取り組み、一生懸命やろうとした結果を、送り出し教会や支援者にお示しするために、まだ未受洗の来会者の学生と信徒の写真を一生懸命撮り、その宣教師の送り出し教会に送ったという事例がある。これなんかは、典型的に、もっと伝道したい(→ そのための支援が必要)という善なる思いから始まった宣教師の逸脱行為なのかもしれない。

     

     

    背伸び・強行突破型の人の特徴

    強行突破型の人の近くにいる人は、迷惑を被ることが多い。強行突破型の人は、障壁や障害があっても、ランボーのように乗り越えていくので、傍で無関係に見ている文には、面白くて、かっこいいのであるが、その利害関係者や、関与者にされた瞬間、メチャクチャ大変なことが待っている。

     

    本来止まるべきところで止まらないので、まさに暴走機関車というノリで、疾風怒濤のごとく突進して、多くの人を跳ね飛ばすことになる。まさに、スピード2という映画で出てくるクルーズ船やリーサル・ウェポンという映画シリーズの刑事たちのようなものではないか、と思う。

     

    Speed2で観光地に強制揚陸するクルーズ船

     

    リーサル・ウェポン3の予告編


    リーサル・ウェポン2の予告編

     

     

    こういう人たちの周りには、爆発や瓦礫が上の映像のようにつきまとうのである。こういう強行突破型の人々の周りの人々が大変で、本人はいたってケロッとして、反省したとは言うものの、またぞろ、今度はもう一山当ててやるふうに同じことを繰り返す人がいらっしゃるようです。

     

    反省するけど同じことの繰り返し
    アメリカの法廷ドラマの名作Law and Orderやそのスピンオフ作品のLaw and Order SVUなどを見ていると、DV夫が繰り返し、DVをもうしないと誓いながら、些細な事でDVをに走るようなケースが紹介されているが、まさにそれと同じことがここで書かれていたので、あぁ、なるほど、と思った。この強行突破型の人の第1の特徴として、次のようにおかきである。

     

    第一に強行突破型の人は、「後悔するが悩まない」生き方を続けているということです。彼らはトラブルを起こしたり、大きな失敗を起こしたりして、にっちもさっちもいかなくなると、その場では虚勢を張ることがありますが、やがて冷静になります。そして我が身を振り帰りながら公開します。これまでのことをくやみ、もうしないと決意するのです。それは嘘や演技ではなく、本気でそう考えているのですが、しかし、悩んでいないのです。(同書 p.108)

     

    これは、薬物依存症や、ギャンブル依存症の人でも起きるようである。特にギャンブル依存症の人は、とにかく取り戻そう、一発逆転を狙ってまさに、ギャンブルに出てしまうのだ。そして、同じことの繰り返しが行われる。それが、第2の特徴だと藤掛先生は言う。

     

    私は「これからどうするのか」を(引用者註記 相談者に)よく質問します。すると、多くの強行突破型の人は、実に景気の良いことを語り始めます。現実離れしたバラ色の未来を聞かせてもらうこともままあります。彼らは、悩まないばかりか、今後については、大成功するのだと考えようとします。
    しかし、カウンセラーの経験から言うと、今後のことについて、景気の良い、バラ色の再出発を語りすぎると、その後が帰って危ないのです。バラ色の度合いが高ければ高いほど、とくに次の挫折がやってくるのです。(p.110)

     

     

    そして、こういう強行突破型の人々が描くバラ色の結果が実現しないと、このタイプの人には、人が寄り付かなくなる状態になると、悪態をつく、周囲に当たり散らす、全て他人が悪いのだと責任転嫁する、そして、挙句の果てに、宇宙人や妖怪のせいにまでし始める。そして、戸になく、自分の状態を改善するまで、他者を無理して突き動かそうとする。もう、あの手、この手、ここまでやるか、というほどごくわずかでも関係ありそうな人や、その人のご事情をご存じなくて、強行突破型の人の発言を受け止めてくれる人がいれば、その人に話し、そして、自分の状態に影響力を持つ人を突き動かし始めるのである。一番この強行突破型の人生を歩んでいる人にとってありがたいのは、事情を知らず、その人の発言を丸飲みして、善意で、「こうすべきだ、とかああすべきだ」とこの強行突破型の人の関係者を突き動かすために協力してくれそうな人で、社会的影響力が強い人である。全く無関係の社会的影響力の強い人(学校の先生とか組織のリーダーとか)を巻き込んで、自分の環境改善をさせる議論に関与させるのである。そこを入り口にして、また、関係者を突き動かそうとするので、強行突破型の人間関係を壊してしまうのだ。そして、壊しては、また新しいんん現関係を作り、そして、また、同じことをして、人間関係を壊してしまうのだ。

     

    子供ならば、実行力がしれているから問題はないが、問題は大人でこういうことをする人たちである。本人は、虚偽を語っているつもりはまったくないらしいのだが、他人受けが良い話をするうちに自分の視点からの話を一方的に繰り返しているうちに、実態とはかなり違う話を他者に伝えることになる。まぁ、こういう場合、同じことが繰り返されると、この強行突破型の人の周囲の人々も、気がついてくるので、話半分に聞くようになるが、問題は、このタイプの人が、関係者が変わると、またぞろ同じことを繰り返すのである。なんということか、と思う。

     

    強行突破型の人びとの再帰的強行突破行動

    強行突破型の人物は、基本的に、負の側面を考えないのではないかと思う。そして、何らかの不思議な方法で、その負の側面が、実に都合よく解決されるものと思いこんでいるのではないかと思う。正に暴走機関車の様相で、再度、自分の直面する環境に自殺的行為を完遂することを繰り返していくのである。

     

     

    藤掛さんは、脱線(逸脱行動)の説明をしたあと、次のように書いておられる。

    さて、脱線した後はどうでしょう。バラ色問題でもいいましたように、背伸び強行突破型の息切れをした人はそれでも立ち止まれません。状況が悪化するか、それでもなんとかしようとあがき、本人は逆転満塁ホームランを狙います。失地回復のための無謀な姿勢を強めるのです。(中略)少なくとも時間が解決する。自ら内省し軌道修正をする。そういうことは全く期待できません。(同書 p.121)

     

    正に、このタイプの人は、妄想の世界に行きていて、現実世界はあたかも自分にとっての理想状態であるべきである、と考え、自己を取り巻く環境に、自殺的な特攻を、これでもか、これでもか、と繰り返されることがある。特攻の目標になった人は、もうおかわいそうにと言うしかない。自殺的特攻で、特攻する人ご自身だけが被害に合われるのならまだましなのだが、このタイプの方は、たいてい目標となる人物がいて、その周囲に向けて、実に微妙な特攻攻撃というか自爆テロ型攻撃をなされるので、とばっちりにあってしまう人がいるのであり、周囲は、特攻攻撃によって生じた、悲惨な状況の後片付けを強いられるのである。実に、堪ったものではない。

     

    日本軍の自爆テロ型兵器 回天 http://www.vspg.net/museum-pg/yama-kaiten.html から

     

     

    日本軍の自爆テロ型兵装 桜花 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%9C%E8%8A%B1_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F) より

     

    確かに、回天とか桜花とかは、強行突破型の兵器であって、欧米の用兵、兵器開発思想にはないタイプの兵器ではある。

     

     

    こういう自爆テロ型で強行突破する人たちは、強行突破が目的かつ最終手段であるので、周囲が片付けに追われている中、本人はどこ吹く風でひょうひょうとしておられることが多いのである。実に困った存在なのである。

     

    不思議なもので、こういう人は独特の雰囲気を持っておられるので、何度かこのタイプの人からの自爆テロ攻撃を仕掛けられると、なんとなく雰囲気がわかるようになる。もうそうなったら、スルー力全開に設定し、「Lord have mercy, Christ have mercy, Lord have mercy」と祈りながら、適当な距離を取り、退避壕のようなところにたてこもりつつ、「主は我が櫓」と詩篇の箇所の通り、逃げ込むに限るのである。

     

     

     

    今回で、この本のご紹介。お付き合いいただき、ありがとうございました。

     

    この本はお勧めなので、是非お買い上げを。

     

     

     

     

     

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    コメント:大変素晴らしいです。おすすめです。

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    アンリ J.M.ヌーエン
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    (2002-10-07)
    コメント:訳が今一だけど、内容は素晴らしい。

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