<< 2017年3月のアクセス記録とご清覧感謝 | main | 『人生の後半戦とメンタルヘルス』 藤掛明著 を読んだ(2)(終わり) >>
2017.04.01 Saturday

『人生の後半戦とメンタルヘルス』 藤掛明著 を読んだ(1)

0

     

     

     


    Pocket
     

     

    音声ファイルダウンロード先

     

     

    この本は、大変面白いことをブログで書いておられる藤掛明さんヶ丘気になられた本であり、非常に印象深い記述があったので、その記述の中から個人的に感じるところがあったものを拾いつつ、それから考えたことを少し書き留めてみたい。

     

    そこ、ですかぁ?

    世俗の仕事の中では、技術教育をしていることもあるので、もっぱら技術とその応用、その技術の背景などについて話すことは多いが、このへんの本来伝えたいことが、どうもあまり学生さんの記憶に残らないことが多いようである。それよりもむしろ、本筋から外れて脱線したときのほうが、学生受けが良かったりする。その昔、講壇に登って、説教もどきのことをしていたこともあったが、そのときも、必死になって調べてお話したギリシア語やヘブライ語の解釈はさっぱり記憶に残ってないものの、その場の思いつきでお話したことについて、後から、あそこの話は良かった、と言われることがあり、「そっち?」と言いたくなることも多数経験した。そもそも、ミーちゃんはーちゃんの喋り方が、あまり適切ではなかったかも知れない、と言うことは素朴に認めたい。

     

    その場で思いついたこと、というのは、一種のライブ感があって、喋っている方が、楽しそうに喋っているからなのか、と思ったら、どうもそうでもないのかもしれないなぁ、と、藤掛さんがおかきになられた以下の記述から思い至った。

     

    あれだけ手をかけて盛り上げた心理テストの体験でも、グループワークでもなく、ほんの一言喋った「失敗しない人にならなくて良い」というセリフが、感銘を与えたのだという、意外な(そして少しがっかりな)結果でした。と同時に、それほど現代社会は、「失敗しない人であれ」と人に呪縛をかけているのだと思い知らされました。(『人生の後半戦とメンタルヘルス』 p.11)

     

     

    「失敗しない人」という理念型に縛られる現代日本人

    「失敗しない人」という一つの人間性の理想形が、現代の多くの日本人の一つのパターンを形成しているのではないか、と思う。要するに、小学校や中学校での留年などがなく、高校も3年で出て、18歳で大学と呼ばれるところに行苦、あるいは、企業でお勤めし、文化系であれば、22歳でみんなが知っている企業に就職し、理科系であれば、24歳で修士号を取り、みんなが知っている企業に就職し、それから後の人生40年位を、あまり転職することもなく、同じ時間帯の満員電車に揺られて毎朝、毎晩、自宅と企業のオフィスの間を通勤なのか、痛勤なのかは知らないが、移動するのがいわゆる『普通の人』であり、『失敗しない人』ということになるのだろう、と思う。要するに、磯野波平氏やフグ田マスオ氏のような日常を送るのが、失敗しない人ということなのだと思う。

     

    そして、その路線からハズレた人は、『失敗した人』とか『人生の敗北者』と呼ばれ、肩身の狭い思いをしながら生きることが強いられる面もある。常識人でないとか、非常識な人とか、場合によっては、非国民とか、あたかも人間でないような言われ方がすることがある。つまり、標準とされる生き方や道徳的基準があって、そこからの乖離がすこしでもあると、それが問題行動と言われる傾向があるように思われる。

     

    就職に失敗した人の残念さを描いたニート関連の動画

     

     

    就職しなくなった人の残念さを描いたニート関連動画

     

    本来、そういうものからは乖離しているはずの政治や芸能の世界などでも、いわゆる「小市民的」基準で、その世界の人の行動が云々されることがある。実に世の中を面白くするのではなく、つまらないものにしているような気がする。あえて、めちゃくちゃして良い世界を作っておいて、その世界の中でめちゃくちゃやる人がいるから、面白いのであって、それが小市民的な基準ですべてを支配したのでは、風刺やクリエーティブなものは生まれ得ないことに成る。変な人だからこそ、その時代の当たり前や、常識を疑えるのであって、そのために世間一般と隔絶した特殊な業界世界を作ることで、社会全体の安定を保ちつつ、時代の変化を生み出していくエネルギーをいわば外部化しておき、たそういう創造的な世界からちらっと取り込むことで社会を活性化していくことを、人類は社会運営の知恵としてもってきたように思う。とはいえ、今は、その特殊な世界も、小市民的な基準で判断されることになり、つまらない状態が生まれているのではないかなぁ、と思う。その意味で、あの人達は私達と違うんです、という安全柵を置くことで、自分たちの社会の安全を図ってきた部分があるのだと思う。

     

    典型的には、祝祭空間(お祭り)など、期間限定の無茶苦茶なことをしていい状況と空間をあえて設定するかたちで、社会制度の中に意図的に組み込み、その祝祭空間の中ではむちゃくちゃが許されるが、それ以外は許さないということをしてきたのだし、あるいは、あえて、芸能の世界で人の道に反する演劇を上演することで、世間の欲望のはけ口を用意し、その欲望のはけ口に走った結果がもたらす悲哀を感じる場を安全な形となるように設定して、社会の安寧を図っていたにも拘らず、その安全弁を崩してしまい、日々祝祭空間が日常生活の中に入り込むようなキケンな状況に社会を作り変えたのではないか、と思っている。毎日がディズニーランドや、毎日がUSJなら、それは疲れてしまうだろう。

     

    まぁ、この非日常空間と日常空間が接するところで、時々、ろくでもない混乱が起きるわけではあるけれども、それはそこ、ちゃんと接触するところにはお目付け役をつけておくことで、社会システムの安寧を図る知恵は昔からあったんですし。

     

    >

    祝祭空間化する岸和田(だんじり祭)

     

    祝祭空間としてだから許される演劇の世界の中での悲恋 曽根崎心中

     

    息子の友人にテーマパークマニアがいるらしく、そのテーマパークマニアの方は、USJでアルバイトをしている友人がいるらしいのだが、その友人からの話として、あのテーマパークに出てくる、ミニオンズさんたちは、ステージのハイテンションとステージから捌けた後のテンションの下がり方があまりに違うらしいとかいう話を拝聴したことがある。なお、ミニオンズさん達が普段からあんなハイテンションで行きていたら、人生50年どころか、人生30年になってしまいそうだなぁ、と思ったことはある。

     

    USJのミニオンズさんたち  https://www.youtube.com/watch?v=xd-0L-kyOto

     

     

    従順さという病いと失敗しない人であること

    このことは従順さという病がはびこっている社会では、社会システムからの逸脱がないことが正常であるとされる社会では、社会システムからの逸脱(つまり失敗することや、従順ではない)ことは正常でない、とする社会意識が存在することを裏面では意味することになる。つまり、現代社会にとって見れば、失敗する人は、現在の社会システムに従順ではないため、どのようなかたちかは別として、社会システムから一種の負の報酬(いわゆる罰とか排除)を得るし、負の報酬を得ている人は、社会システムに従順でないか、社会システムに反逆した人、ということになる。

     

    キリスト教的に言えば、キリスト教徒が重要な存在としているキリストは、社会システム、当時のユダヤ社会とその支配層の存立を脅かした人物である。ユダヤ社会の支配体制を承認していたローマ帝国とその社会システムへの反逆者であった。その意味で、キリストは社会システムに疑問を呈したことによる負の報酬として、世俗的な理解だけで言えば、十字架にかかることになったのである。

     

    また、旧約聖書の預言者と呼ばれる存在も、明確な反旗とまでは言わないものの、当時の王たちに対して批判的なことを申し述べ、社会システムに立ち向かっていった側面はあるので、エリヤのように荒野で自殺願望に苛まれた人や、バプテスマのヨハネのように、ダンスの報酬として首を着られた人たちもいたのである。

     

    システムにコソッと反逆するというのは、あまりコストを個人に追わせることはないかもしれないが、現在のシステムに公然と反旗を翻すということは、実は大変なコストを個人が追うことになりかねないのだ。預言者とはそういうコストを負わされた、世間的に見れば、ろくでもない目にあうことを、選んでいった、選ぶように神が選ばれた人なのかもしれない、と思うところはある。誰しもがなれるものでもない、とは思う。

     

    視野狭窄を防ぐには

    どうしても、人間は似た者同士が共存することをえらぶ傾向にはある。そのほうが楽だからである。説明はいらないし、相手の行動も読めるし、空気も読めたりする。しかし、そうなってしまうと必要以上に、自己規制がかかったり、自分と違うもの(いわゆる他者)の存在を心から喜ぶのではなくて、自分と違う、と判断して拒否したり、排除したりすることが始まるように思う。要するに、明確に意識していなくても、「世の中このようなものだ」とか「○○とは、かくあるべきだ」という一種のパターンの中でしか、ものを考えなくなるようである。煮詰まってしまうように思うのだ。

     

    個人的には、数年前に軽い抑うつ症状になったことがある。原因は、おそらく世俗の仕事の関連で、かなり大きな研究プロジェクトでの出来事が原因であったと思う。そのプロジェクトは本来、共同でやるプロジェクトであったはずなのだが、共同でやるはずお方が、そのプロジェクトを実質的にそれを担当する、と言っていたにも拘らず、本来実質的に担当するはずだった人が、いち早く、一抜けた状態になった。その結果、本来得意でない文屋までやらざるを得ない状態になり、梯子を外されてしまったことがあった。このときは、かなりの分量の仕事を一人で抱え込むことになり、もう閉塞状況に陥ったことがあった。まぁ、八方塞がりとはこういうことか、という感じであった。

     

    私達が広い視野を入れるにはどうすればよいのでしょうか。
    第一に「例外」を探すことです。私たちは問題の渦中にいると、いつもその問題が続いているかのように思ってしまいます。しかし、印象はそうであっても、24時間、365日、その問題が起き続けているわけではありません。探してみると問題が出現していない時があり、うまくいっている時があるのです。(同書 p.30)

     

    今、その閉塞状況の時を思い出してみれば、外に引っ張り出してくれた、別の組織におられるありがたい共同研究者がいた。ミーちゃんはーちゃんの様子が、かなりおかしい事に気づいてくださったのだろう。その方はキリスト者ではなかったが。

     

    その方のご専門の農業関係の仕事でミーちゃんはーちゃんによる技術的な支援がご必要ということで、結果的には閉塞状態から引っ張り出してくれたのである。これは、本当に助かった。小さな成功を幾つか実現していくのを見る中で、現実には閉塞していないことを実感する事ができた。その意味で、この小さな成功体験というのが、ここでいう「探してみると問題が出現していない時があり、うまくいっている時」だったのかもしれないなぁ、と今、じんわりと思う。

     

     

    どちらか一つという落とし穴

    どちらか一つというのは、問題の解決策ではないものの、問題を簡単化する、というよりは、問題を別の問題にすり替える、問題を歪んで認知させ、不適切な解に到達させる上では、非常に有効で効果的な方法である。と言うのは、3つの要素や、4つの要素など多様な要素を含む高次元の現実を、どちらか一つという一次元的問題、あるいは、一次元の線分上の両端の2つの点だけを考えるような問題として、組み直すことになるからである。2項からの選択の問題は、本来複雑な次元を持つ問題を、1次元の問題に縮約してくれるからである。それが有効ではなく、本来の姿と違うものとはいえ、縮約すれば、それだけで考えたという意識が残りやすくなる、という心の習慣を人間は直感的に知っているように思うのだ。

     

    次元縮約 https://www.slideshare.net/canard0328/ss-44288984 から

    人は困難を感じ、余裕が無いときほど、物事を白か黒か、大成功か大失敗かを考えはじめ、極端に一面的な物の見方に陥りがちです。しかし、心や魂の問題はそうではありません。一見相反するような事柄が同時に存在していることがあるからです。
    とくに信仰生活を考えるとき、こうした事柄を避けては通れません。というのも、信仰生活とは、神の主権と計画を信じながらも、人として努力し、責任を負う生き方であるからです。神の主権と人間の努力は一見相反する事柄ですが、どちらも大切なものです。(同書 p.44)

     

    ここで、藤掛さんは「心や魂の問題はそうではありません。一見相反するような事柄が同時に存在している」と書いておられるが、それは、心や魂の問題は、あれか、これかという低次元の次元に縮約すると、非常にまずいもので、本来そこにある豊かさを失ってしまうので、まずいのではないか、とおっしゃっているようだ。

     

    とくに、個人的に非常に重要だし、多くの場合、誤解されているのは、最後の部分での記述である「神の主権と人間の努力は一見相反する事柄ですが、どちらも大切なもの」であるという側面の重要性を思う。これは、実は、人間が神と共に生きるという、実に複雑で、説明しづらいものをあまりに単純化して、もともと高次の複雑なものであり、本来丁寧に取り扱うべきものを、わかりやすいから、伝えやすいから、と実に乱暴に、あれか、これかの世界に落とし込んでしまってはならないように思う。とくに神が造られた人間とその創造主たる神との関係を、きわめて簡便化してしまって、本来わからないこと、わかりにくいことを、わかるはずのないことを、ある世界観のより低次元の世界に押し込め、わかったような気にさせているに過ぎないような気がするのである。

     

     

    同じことは、聖書無誤論とか、聖書無謬論や、創造論か、進化論の世界についても言えて、本来最も複雑なものを非常に単純化した低次元のそれも値が2つしかない1次元の世界に無理やり落とし込んでしまうことになるのだろう。このような、単純化(ある分野では次元縮約とも言うこと)が、聖書に関わる理解でも行われているということなのかもしれない。これは不幸なことだと思う。

     

    それと同様に、ミーちゃんはーちゃんのお友達の大頭さんという人は、ある雑誌の連載記事で、「決定論以外は、オープンだ」とか、本来は丁寧に扱うべき内容について、まさに「あれか、これか」の世界に落とし込むような無茶を書いていた。その内容を含む、連載をもとにした本が、今度ヨベルから出版されるけれども、この共著者十数名という、これまた無茶苦茶な共著本では、ミーちゃんはーちゃんは「決定論以外はオープンだ、という議論はちょっと乱暴じゃない?」とやんわり釘を差すんじゃなくて、「それ、乱暴者がすることですから。していいことと悪いことがあります」と、明確にお諌め申し上げている。なお、この本は、早ければ4月、おそらく5月の連休明けに出版される運びとなるように思う。楽しみにワクワク待っていてほしい。(ちょっと、ステマ)

     

    霊的視野狭窄とスピリチュアル・ガイダンス、預言者

    ところで、キリスト者でも、視野狭窄に陥ることがある。それは、信徒でもそうだし、牧師や司祭のようないわゆる聖職者でもこのような視野狭窄に陥るのである。なぜならば、信徒であっても、牧師であっても、司祭であってもスーパーマンではありえないからである。時々、ご自身をスーパーマンであるかのごとくおっしゃる牧師先生方がおられるやにお聞きしたことがあるが、そういう方は別として、普通の場合、人間としての弱さをお持ちの存在である。なお、ウルトラマンやスーパーマン牧師タイプの牧師先生は、知り合いにいないので、その存在をお噂ではお聞きしたことはあるが、現実にはお目にかかったことがない。

     

     

     

    相田みつを氏のだってにんげんだもの

     

    人間である以上、疲れてきたり、いろいろな行き詰まりで、視野狭窄に陥ることがある。その時の助けになるのが、スピリチュアル・ガイダンスとか、霊的同伴とか呼ばれるものなのだろうと思う。なお、ウルトラマンは、3分間という期限付きのウルトラマンであることは、案外大事ではないか、と思っている。そんなのべつ幕なしウルトラマンの役割をはたすことなど、できるはずがない。

     

    ウルトラマンのCM

     

    ところで、信仰者に霊的な視野狭窄が発生しているとき、預言者的な役割を担って、本来見るべきこと、つまり、神のもとに赦しがあること、神のもとに戻る必要が有ることを直接ではないにせよ、対話やコンサルティングの中で示すのが、スピリチュアル・ガイダンスであり、霊的同伴ではないか、と思うのだ。

     

    伝統教派では、このことが、告解とか、懺悔とか、痛悔機密とかの中で行われてきたのだろうけれども、それが、医療を含め、社会における各種支援制度の充実にともなって、次第に教会内でそれらが、その存在を薄くしていく中で、それに変わって出てきたのが、霊的同伴だったり、スピリチュアル・ガイダンスと言うかたちになって、現在名前を変えて、実質的には昔と同じようなことが行われているのではないか、と思う。

     

    旧約聖書における預言者は、当時のイスラエルの民が、周囲の社会環境とか、政治環境の中で、本来彼らが見るべき、あるいは戻るべきばしょである、神のみもとにいないことを指摘して、彼らの視野狭窄から開放するために用いられた神の器だと見ても良いかもしれない。イスラエル人はうなじの怖い民と呼ばれているので、言い出したら惹かなかったらしいので、その意味でも、預言者が必要であったのであろう。大体、岡目八目というように、当事者の方が、問題に振り回されるあまり、問題をきちんと理解したり、整理しづらくなっていることは案外多いのである。それを外部の視点から見て、本来見るべきものはどこなのか、ということを示したのが預言者であったのであろう。それは、ダビデに対する預言者ナタンがなした役割でもあったように思う。

     

     

    口実としての忙しさという魅力

    現代社会は、非常に忙しい社会になっている。それに貢献したのが情報技術ではある。計算機屋としては、それを目指して技術開発をしているわけではないが、副作用として、忙しい社会になってしまっている。と言うのは、もともと、計算機は人間がやっていた、面倒くさくて、鬱陶しい繰り返し作業をやるために開発されてきたものである。また、そのため、計算機は使われてきた。

     

    その昔、給与計算は大勢の事務屋さんがそろばん片手に鉛筆持ってやる仕事であった。そして、今のように振込で給与が支払われるのではなく、現金で手渡しされていた時代がある。しかし、それはかなり面倒くさい作業であったので、計算機が利用されるようになった。今、日本の製造業で最大の赤字を出したとされる東芝という会社があるが、3億円事件は、その東芝の府中工場のボーナスの支給日の現金が狙われたのが3億円事件であった。

     

    3億円事件の新聞報道 http://blog.goo.ne.jp/saiun4gou/e/1e3b4a52c0cc7fdade72250bbde2bcfd より

     

    そして、この3億円事件以来、企業では、運送途中には強盗に合わないため、安全性が高いものとして、そして、そもそも給与計算処理を計算機でしているのなら、それを銀行に渡すだけで処理が簡単ということで、給与及び賞与の銀行振込が一気に加速するようになったと聞いている。

     

    話が余談に行ってしまったが、計算機は効率化のためのツールであった。同じような無味乾燥な作業から人を解放はした。それは正しい。しかし、それと同時に、その無味乾燥だけどその作業をしなければいけない人たちのしごとを奪うことにもなった。そして、会社はその人達を解雇もできず、遊ばせておくこともできないので、別の仕事をさせるようになった。そして、その人達は別の仕事の世界の中にとらわれていくことになったのである。さらにいえば、企業の中で、機械化が進んだ結果、効率化、生産性向上という限りなき追求をすることになり、人びとを忙しさに駆り立てていった、という側面はある。その結果、人には次のようなことが起きるのだ。

    人は忙しさを嘆きながらも、どこか忙しい自分を求め、忙しい自分に支えられていることを今でも私に教えてくれます。(同書 p.71)

     

    それは何かを為すことで自己実現しようとする人間の姿でもあるし、それは、神が創世記の冒頭における人間への呪いの結果であるのかもしれない、とも思う。何かをしていないと落ち着かないという人間の姿は、まさしく、アダムにかけられた呪いの結果のあらわれではないか、とは思う。

     

    忙しさがもたらす3つの弊害

    忙しさがもたらしてくれる副作用というか、悪しき効果について、藤掛さんは次のように書いておられる。

     

    第1に、忙しさは、大局的なもの、本質的なものを見なくて済むようにしてくれます。(中略)
    第2に、忙しさは、他人に対して貪欲にしてくれます。(中略)
    第3に、忙しさは、理屈抜きの充実感や、自己効力感を味あわせてくれます。これは慌ただしく動き回り、目先の課題をこなすことで、有能な自分を味わえる強烈な魅力があります。
    この三つ目はとくにくせもので、おおおくのひとがこの「忙しさを誇る美学」に心酔しています。(同書 p.72)

     

    忙しくなると、どうしても、本質的なものよりも目先にある解決すべき課題にばかり目が生き、近視眼的になり、小手先の対応をして、さらに問題を複雑化させる傾向がある。こじらせてしまうのである。問題解決の技法の中で時々言及される、問題解決の第3種の過誤と呼ばれることがある。MitroffさんとFotheringhamさんという方々が、もう数十年前に、「正しい問題を解くべきときに間違った問題を解く過誤」を第3種の過誤とよんでいらっしゃるが、これは案外忙しいときに起きるように思うのだ。

     

    忙しいと、まとまって考える時間が失われ、大局観をもって問題を眺める余裕を見失ってしまう。その結果、正しい(あるいは本質的な)問題を解くべきときに間違った(小手先の、ごく表面的な)問題を解いて、問題を問いた気になって、資源を浪費してしまうことをやらかしてしまうのだ。第2次世界大戦中の日本陸軍参謀本部は、まさにこの状態であったように思う。

     

    なお、第3種の過誤は、キリスト教界を巡る第1種から第5種の過誤 (その1)のシリーズをご覧いただきたい。この定義は、ミーちゃんはーちゃんが、Smart Thinking for Crazy Timesで1997年頃に触れたのが最初であった。この「正しい問題を解くべきときに間違った問題を解く過誤」の英文の文章をある部屋の前に張り出しておいたら、結構面白がってくれた人がいたみたいである。

     

    第2のものは、なに、ミーちゃんはーちゃんは、通勤電車で時々経験している。忙しくなると、余裕を失い、他者への配慮する余裕を失い、貪欲になってしまう。とくに、予定の列車に乗り遅れそうなときは、あと5分後に確実に電車が来るとわかっていても、余裕を失っている。日々反省の毎日である。まぁ、にんげんだもの、と思いながら、神の前に反省していることが多い。

     

    そうであるが故に、毎週、Anglican Communionの式文を目にし、祈りながら、慰められている日々を過ごしている。ちょうどレントのシーズンでもあるので。

     

    とくに、ミーちゃんはーちゃん自身が

     Forgive our greed and rejection of your ways.
       We have sinned:
    であることを覚えている。

     

    いかで、全文を紹介しておく

      Lord of grace and truth,
      we confess our unworthiness
      to stand in your presence as your children.
    We have sinned:
     forgive and heal us.
                
      The Virgin Mary accepted your call
       to be the mother of Jesus.
       Forgive our disobedience to your will.
       We have sinned:
     forgive and heal us.
                
      Your Son our Saviour
      was born in poverty in a manger.
      Forgive our greed and rejection of your ways.
      We have sinned:
     forgive and heal us.
                
      The shepherds left their flocks
      to go to Bethlehem.
      Forgive our self-interest and lack of vision.
      We have sinned:
     forgive and heal us.
                
    The wise men followed the star
       to find Jesus the King.
       Forgive our reluctance to seek you.
       We have sinned:
    forgive and heal us.
     
               
    Lord God,
      we have sinned against you;
      we have done evil in your sight.
      We are sorry and repent.
      Have mercy on us according to your love.
      Wash away our wrongdoing and cleanse us from our sin.
      Renew a right spirit within us
      and restore us to the joy of your salvation,
      through Jesus Christ our Lord.        
      Amen.

    (細字は、司祭が読み、太字は全員で読む)           

     

    第3のものは、藤掛さんがおっしゃるように、「忙しくすることで有能感や全能感が味わえる」と言うのは、実は困った問題なのだ。日本語で言うとくせものであるし、英語で言うと、実にNastyな問題でもあるのだ。もともと、メサイア・コンプレックスを抱えがちな牧師や司祭にとって、この忙しくすることは、実に魅力的なことなのである。そして、本質的なことに何ら貢献していないにも拘らず、自らを有能で、全能感を持つ人物であり、他人を救えると誤解してしまいやすくなり、そして、挙句の果てに他人の手助けはいらない、とかいうところに言ってしまう。このことは、教育者でも時々起きることは目撃している。正直に言えば、自分にも同様なことが起きたから、わかるのではあるけれども。

     

    これが、いちばん現れているのが、いわゆる意識高い系のご職業の人たちである。このタイプの人は、広告代理店だったり、コンサルタント業界だったり、IT業界だったり、メディア業界周辺のいわゆる虚業系職種の皆さんに、案外多い気がする。中身のない、空虚なことばを紡ぎ出し、語りながら、何かやっているような気になっていることが多い。個人的には、農家の皆さんや製造業の皆さんのほうがよほど生産的であり、本質的であり、人のためになっているように思うことが、最近は多い。自戒を込めて。

     

    コンサル業界、広告代理店業界はもろ、「忙しさを誇る美学」系の人が多いように思う。結局内実がないまま、空虚なことばを紡ぎ出すことに追われ、内実のなさや仕事の空虚さをブツブツ言うものの、それを解消できないまま、ただただ忙しさだけに追われることになる方が時々おられるようである。残念なことであるが。内実をつけるのには、時間定期余裕と思考する余裕、あるいは本を読むなどして蓄積する余裕がいるのである。そんな時間を奪われたまま、結果を出すことだけを求められ、結果を出そうとする行為そのものに追われてしまうのである。

     

    それが、テレビで未だに時々話題に出て来る、20歳代の女性の自殺が労災と認定された某広告代理店の職場であったのであろう。正に、広告代理店の社員さん、メディア関係者の誇りは、「忙しいこと」「時間がないこと」である。実に残念だと思うが。そして、いわゆるブラック企業と呼ばれる会社では、この忙しいこと、時間がないことは、不効率、非生産的であることの代名詞ではなく、効率性、生産性の代名詞ととらえられているから、他人事ながら、おかしいなぁ、と思っている。

     

    本来、信徒のスピリチュアル・ディレクションをする存在として期待されているはずの牧師が、忙しいのであれば(実際に忙しいのは、お友達になってくださっておられる牧師先生が多いので、よく分かるが)、それは、どこか牧師先生が余裕を失っていることでもあるのではないだろうか。そのあたり、『キリスト教のリアル』で触れられている。牧師さんが忙しくすることは日本の教会にとって、とりわけ、信徒の霊的な豊かさをより豊かなものにしようとしていく上で、実に望ましからざる傾向ではないか、とミーちゃんはーちゃんには映るが、その現状は、どんなものなのだろうか、とも思う。

     

     

    次回へと続く

     

     

     

     

     

    評価:
    価格: ¥ 1,620
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:おすすめします。

    評価:
    Ian I. Mitroff
    Berrett-Koehler Pub
    ¥ 5,162
    (1998-01-15)
    コメント:ミーちゃんはーちゃんが、最初に第3種の過誤を読んだ本。この本から日本の問題解決における第3種の過誤が始まった。

    評価:
    価格: ¥ 842
    ショップ: 楽天ブックス
    コメント:お友達の編集長がやっているから紹介しているのではなくて、ここに出てくる牧師さんたちの実情があまりに大変なので、ご紹介したい。

    コメント
    コメントする








     
    Calendar
      12345
    6789101112
    13141516171819
    20212223242526
    2728293031  
    << August 2017 >>
    ブクログ
    G
    Selected Entries
    Categories
    Archives
    Recent Comment
    Links
    Profile
    Search this site.
    Others
    Mobile
    qrcode
    Powered by
    30days Album
    無料ブログ作成サービス JUGEM